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写真が登場して絵を描くことの意味が問われたように、
映画によって小説の意味が問われているのではないかと思います。

絵のほうは現代美術としてなんとか逃げ道を作りましたが、
小説はどうなのでしょう。

もはや「映画化不可能」な作品などないような気がします。
現代において、小説の意味はありますか?
小説にしかできないことはありますか。

質問者からの補足コメント

  • >小説は、ゲームやアニメや音楽にまで、映画化以外にもいくらでも変換できる芸術であって、
    と仰っていますが、だったら小説でなくてもよいのではないかということです。
    "いくらでも変換できる"なら、まさに"映画に取って代わられた"のではないですか。

    >小説そのものの価値は、文章の伝達よりも、書籍というメディアの大量複製による恒久的な価値を持つ。
    >映画は、ずっとメディア変換していかないと、いつか再生できなくなる。

    ”メディアの大量複製による恒久的な価値”を受容しているのは、映画も同じだと思います。
    映画もデジタルデータに変換できます。
    逆に言えば、"ずっとメディア変換"していけば、映画はいつまでも再生できるのではないですか?
    よって”メディアの大量複製による…”に小説の価値を求めるのは間違いだと思います。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/18 16:42
  • >映像にしてはならないと思う名場面
    を実は聞きたかったのですが、よかったら教えてもらえませんか。

    >でも聖書などはいまだに文字で読まれるものですし

    聖書は、文字にしてしまったからこそ生まれた弊害がもっとも多いものではないでしょうか。
    某カルト宗教など一字一句を追うあまり…

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/18 17:17

A 回答 (8件)

端的に、小説でしか表現できないことを紹介します。



『深い感情・心情』……小説はとにかく感情表現に秀でています。例えば無口無表情の主人公の感情を表現しようとすると、映像ではなかなか難しいですが、小説ならば『太郎は「いいえ」と短く否定した。だが、内心では肯定したかった。ただ、それでも太郎が否定したのは、太郎が一刻も早く帰宅して、愛する恋人に会いたかったからだ』と事細かに説明ができます。

『絶世の美女』……映像において『絶世の美女』は絶対に表現できません。なにせ外見の好みは人それぞれだからです。仮に超人気女優を『絶世の美女』役にしても、その女優の外見が嫌いな人は必ずいます。しかし小説で『絶世の美女』と表現すれば、読み手全員が好き勝手に『絶世の美女』をイメージしてくれます。

『嗅覚・味覚』……最初に紹介した『深い感情・心情』と少しかぶりますが、小説であれば『ワインの芳醇な香りが鼻孔を満たし、舌に得も言われぬ旨味が広がった』などと文章で嗅覚や味覚を表現できますが、映像でそれをしようとすると、クドいものになります。まあ、小説でもやり過ぎるとクドいですが。

『叙述トリック』……これはミステリー小説で使われるトリックの一つです。どんなものか一例を紹介すると、物語中に次のような登場人物がいるとします。『名前は姫塚。肌は白く、目はぱっちりしており、髪はつややかで綺麗である。また趣味はピアノと茶道である』……。……どうでしょう?たぶん、この説明文を読んだだけでは、『姫塚』という女性を想像したでしょう。ですが、私は一言も『姫塚』が女性であるとは説明していません。私がわざと誤認識するように表現したわけですね。そして『叙述トリック』とは、このような誤認識を利用して構築するトリックなのです。さすがにこれを映像で表現している作品は見たことありません。



とりあえず、今思いつける小説ならではの表現は、このくらいですが、意外とあるものですよ。
まあ、逆に映像でしか表現できないこと、あるいは演劇・オペラ・絵本・漫画・アニメ・ゲームでしか表現できないこと、などと媒体独自の表現方法はいろいろあります。

質問者さんの写真と絵に関しても、『写楽』『富嶽三十六景』は絵ですが絶対に写真では表現できませんし、宗教画も写真では限界があるでしょう(どうしても表現するならCG使うしかありませんね)。

古い表現方法でも、やり方しだいです。
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この回答へのお礼

非常によくわかりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2015/06/30 14:06

小説はニンゲン全てだと思います


比較にならない
映像化しても どうしても小説には劣るかもというか
モノや表現方法にもよるとしても
例えば 吐露部分を全部映像で表現は無理
語りにすると面倒過ぎるかも

勿論 文学の映画は大好きですけれど
余り好きでは無いものも 映像なら楽に観ることが出来たり
読んでイメージと 映像はどうしても別物かも
しかし良いものもあるかも
どんどん進化しているでしょうね
逆転しているのもあるかも・・

総理の文系排除にはがっかりしています
言葉文学で人類は発展して来ています
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
参考になりました。

お礼日時:2015/06/30 14:05

小説には言葉からのイメージの展開能力を鍛える面があると思います。


それに類する能力が求められる状況は人生でいくらでもあります。
つまり人間が言葉を使う生き物である限り
映画とは一線を画した大切な分野の一つであり続けるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/30 14:06

「アルジャーノンに花束を」は、まさしく映像化不可能な小説だと思います。


ドラマで映像化されてはいますが、小説とは全く別の作品になってます。
主人公の日記が、そのまま作品になる形をとっているので、映像化は出来ません。

読んでみてください。
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この回答へのお礼

その通りですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/30 14:06

1で回答した者です。



まず、聖書を引き合いに出したことをお詫びいたします。不適切でした。

>映像にしてはならないと思う名場面
>を実は聞きたかったのですが、よかったら教えてもらえませんか。

お恥ずかしながら私は読書の幅が狭く、思い入れのある作家さんの本ばかり読んでしまうので、質問者様の意図に添えるかは分かりません。
むしろ教えていただきたいくらいなのですが…。

梶井基次郎の「檸檬」は、好きな作品です。
短編で非常に短いので、映像に起こせば五分足らずかもしれません。
同作家の「Kの昇天」なども映像化してほしくありません。
描かれている海辺が、地元の海辺を彷彿とさせるようなもので、読んだ当時に体を悪くしていたせいもあって、まるで自分の話のように感じました。

京極夏彦の「魍魎の匣」。
これは映画化され、アニメ化され、漫画化され……と、非常に持て囃された作品なのですが、私は小説を読んだのが初めてでした。
その後、映画、アニメ、漫画、すべて見てみました。雰囲気をよく掴んだものもありましたが、小説とは別物だと感じました。
もっとも私が胸を打たれたのは、ラスト一ページほどの「余韻」と「読後感」でした。
あと、分厚い本を一夏かけてじっくりと読み終えた後に来る「読了感」は凄まじいものでした。
(京極夏彦の作品は長く分厚いので、どの作品でもそんな感覚はわりとあるのですが)

個人的な感覚の話になりますが、
映画だとまず画面があって、作り手との隔たりを感じます。
作り手があの手この手でこちらを引きこもうとする意図を感じ取ってしまい、それが私は少し嫌です。
ショーをみている感覚に近いかもしれません。
小説だと、一人の作家さんとじっくり話しあったような感覚です。
素直に受け取れます。私はそれがとても好きで、だから小説を読みます。

これでなんらかの答えになっていればいいのですが…。
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伝える方法が違えば受け方もまた違うのでどちらが優れている


というのは比較しにくいと思いますね。
「絵画と写真」の違いと「小説と映画」の違いは全く
別次元のものでもあるように思いますし。

「映像化」という意味でアニメも含めた話ですと、
自分も「映像にするより文章で読んだ方が良かった」と
いう作品はありましたね。
何故かと自分の中で突き詰めていくと具体的な答えは
出ないんですが、「イメージが固定される」というのが
あるように思います。

物語作品というのは、文章だけで表現する「小説」、
静止画が付く「漫画」、動画と音(声)が付く
「映画(ドラマ、アニメも)」の3段階の表現方法が
あると思ってます。前者から後者にかけて「読む」意識から
「見る」意識に変わっていきますよね。それにつれて
受け側が必要とする想像力も少なく済むようになりますし、
また受け側が捉えるイメージの幅が狭くなります。

読む人によって様々な物語になる「小説」か、誰が見ても
同じ良さを受け取れる「映画」か。どちらも良さがあって
取って代われるものではないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

「読む」から「見る」ですか。
もう少し考えてみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2015/06/30 14:07

>小説にしかできないことはありますか。


小説は映画にできるが、映画を小説にするのに別に映画は不要。

小説は、ゲームやアニメや音楽にまで、映画化以外にもいくらでも変換できる芸術であって、映画に取って代わられる芸術じゃない。
映画化不可能な小説作品などなくても、文章を使わず脚本なくして商業化できる映画はない。
台本もそのまま戯曲として小説化されてるし。

小説そのものの価値は、文章の伝達よりも、書籍というメディアの大量複製による恒久的な価値を持つ。さらに電子書籍にも容易にデータ変換でき、さらに紙に再出力も簡単。
映画は、ずっとメディア変換していかないと、いつか再生できなくなる。ソフトとハード共に恒久的には再生できないメディアなのです。

小説より映画のほうが先に寿命が来ちゃってるし。
CGの進化で、映画の規模をかけて実写映像化する意味がなくなってきている。
この回答への補足あり
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まず、絵を勉強する者の端くれとして言わせていただけるなら、現代美術はただの逃げ道だけではないと思います。


それぞれの時代を反映して、その時々に生きた人たちの生の表現なので、缶詰も立派なモチーフになりうる時代にきたということだと思います。

話が逸れてすみません。
小説についてですが、私は映画にはかなわない魅力と表現が小説にあると思います。
どちらが勝っているということではなくて、あまりにも形態が違うが故に、それぞれの良さがあるのでは、と。

私は小説を読んでいて、これは映像にしてはならないと思う名場面にいくつも出会いました。
例えば、小説だと読み手によっては思い描く光景や空気がまったく違うものになったりします。
「絶世の美女」の一文でどんな女性像を思い描くかは人それぞれ違い、だからこそ面白いということがあると思います。
それを映像に起こしてしまうと、受け取る側は極端に想像力を制御されてしまいます。
それが映画の入りやすさ、分かりやすさ、良さでもありますが、それを無粋と感じることもあり得ます。

それに、単純に「静かに文字を追う時間が好き」という人(私もそうなのですが)もたくさんいるのではないでしょうか。

今は小説の映画化や映画の小説化…とエンターテインメントとして入り乱れているので、古くからある小説のほうに限界を感じるのも無理はないですよね。
でも聖書などはいまだに文字で読まれるものですし、小説の可能性が今後優秀な作家さんの手でもっと自由に広がれば楽しくなるのではないかな、なんてよく思います。
この回答への補足あり
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