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私の住んでいる地方には 城跡が沢山あります。天守閣が再現されているところ、学校になっているところ、公民館になっているところ、神社や寺の境内になっているところ、公園になっているところ、畑になっているところ、住宅地になっているところ、と様々です。
それと、これも小規模の城と思われますが、楯とか館も沢山あります。
そこで質問ですが、どうして昔は城が沢山あったのでしょうか? そして、楯や館はどういう役割を果たしていたのでしょうか?

A 回答 (3件)

多くの人は大阪城や姫路城など天守閣のある城をイメージすると思いますが、これは近世城郭です。

天守閣が再建されている城ですね。
それ以前の中世城郭はそれこそ無数にあります。丁度北陸の城郭に関する資料が近くにあったので見てみると、石川県には500以上の城が記載されていました。この中には数十人程度の兵がいるだけの小さなものもあります。また、豪族の館も周囲に堀や土塁が築いてあり、城に分類されます。多くは長方形で一辺が100m前後の規模です。この時代、戦の際には山城に籠もり、平時は平地の館に住みます。
豪族もいろいろですが、兵を数百人程度動かせる程度でも館を築いていたりしますから、数は多いです。
あと、戦の際に拠点として小規模な城が築かれます。本城を守るためにその周囲に支城があり、攻城のためにも城が作られたりします。兵を置く際、簡単でも城があると非常に守りやすくなりますし、兵を休めるにも有用ですから。

城、攻めるのに必要な兵の数は守備側の数倍から10倍以上です。守る側に有利なので、戦の毎に小さな城が作られたりもしました。すぐに不要になって廃城になったものも多数あります。中世の城はこんなものですから、非常に多く作られました。
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この回答へのお礼

解決しました

回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/21 06:27

徳川が政権を取ってから城は一国一城と決めましたので、それまでの多くの城が廃棄されました。

でも石垣だけは残して、藩の出張所や神社にしたので今も残っているのでしょう。戦国時代は城は重要な戦略拠点ですのでたくさんあったのは間違いないです。
 小田原城を攻める時は50の支城を落としたと言いますのでどこの藩でもそれくらいの小さな城を持っていたのだろうと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/20 10:57

戦国時代のなごりでしょうかね!


戦国時代は領主のいる本城があって、それを守るように出城、館、楯などがあったのです。
本城へ繋がる道筋、見晴らしのいい場所に建てられました。
主に敵国に対しての防衛線で、連絡、物資供給の中継点の役割もします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>本城へ繋がる道筋、見晴らしのいい場所に建てられました。
山城なんかで、公園に整備されて 見晴らし台の造られているところもありますね。

お礼日時:2015/06/20 10:50

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