痔になりやすい生活習慣とは?

日本史のレポートで渋沢栄一についてまとめることになりました。

彼の功績は調べれば出てくるのですが、具体的に世の中に与えた影響がわかりません。

彼が功績あげる前後で、日本はどう違っていたのでしょうか。

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A 回答 (4件)

東京・日本橋近くの常盤橋公園をはじめ、丸の内界隈にいくつかの銅像となっているのが


渋沢栄一です。設立した企業は500、関係した公共・社会事業は600にも上ります。
 渋沢は、幕末の動乱期に農民から幕臣になった人です。株式会社の制度を作る事によって
所謂明治の元勲と肩をならべ、近代日本を築く指導者のひとりとなりました。
 大きな商売をするためには、一人の資本家が元手を出すよりも、たくさんの人が集まって
資金を出し合って経営する方が有利です。江戸時代には手工業が中心で、鉱山、貿易、鋳造
等は幕府、藩が直接支配していたのです。しかし開国後は、製鉄・造船・運輸等の大掛かり
な産業や大量生産が企てられるようになるとどうしても合同資本による大規模経営が必要と
なった来たのです。
 維新後、渋沢は新政府に呼ばれ、大蔵省租税正に就任します。合理主義精神を持つ渋沢は
経済機構の改革に次々と手腕を発揮し、洋式製糸工場建設、銀鉱制度の設立等に力を尽く
しました。渋沢は、1867年慶応3年、フランス万国博覧会があり、彼は幕府から派遣される
一行に加えられました。幕府はパリ万国博への参加、出品と同時に薩摩や長州に対抗して
軍備を増強するためにフランスのゼネラル・ソシエテ銀行から600万ドルの借金をもくろん
でいました。渋沢に交渉を任されたが、彼は借り入れが成立した場合、日本がどうなるか
不安でした。幕府は一時救われても、日本そのものは借金のために自らの首をしめて、結局
フランスの経済的従属国になるのでは、と。
 だが、幸か不幸か、渋沢たちがパリ滞在中に幕府は瓦解します。この間、渋沢はフランス
の銀行家の元に赴き、フランスの経済機構、銀行、取引所、公債、社債等についての知識を
深めていたのです。1880年に大蔵省を退職したのち渋沢は、第一国立銀行(日本銀行)を
設立、また東京株式取引所を創設します。1882年には、資本金600万円という巨大合本組織
『共同運輸会社』(日本郵船の前身)を作りました。近代国家の形成期にあって、株式会社
という組織づくりに情熱を傾けた一生でした。よろしくお願いします。
 参考:城山三郎 小説 『勇気堂々』 
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Wikipediaの内容をコピペしたら?よくまとまってますよ。

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功績の前後で、日本はどう違っていたかを


漠然と調べるのでは駄目です。

着目した功績に関して、
その前と後を比較することで影響が見えてきます。

渋沢栄一は、
東京証券取引所など多種多様な企業の設立・経営に関わり、
日本資本主義の父といわれた。
悪名をとどろかした理化学研究所の創設者でもあります。
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自分なりに仮説を立てて、それを証明するデータなり事実を探してみたら?


 もし「否定する」データや事実が出てきたら、別な仮説を立てるなり、逆に、何故その仮説が間違いなのかを考える。
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Q渋沢栄一ってどんな人物?

最近日本銀行本店の近くの公園で渋沢栄一の銅像をみかけました。学生時代に日本史で名前や概略等は何となく頭の片隅にありましたが、これも何かの機会と思い彼の生涯の偉業等を勉強してみたくなりました。そこで渋沢栄一についてお詳しい方に質問ですが、彼の伝記や小説等で何か良い本があれば教えていただけないでしょうか?よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんばんは。

渋沢栄一は日本を代表する実業家です。
生まれは江戸時代の末期、天保年間です。

大農家の長男として生まれた栄一は、少年時代から藍葉を仕入れる際に現実的な商業才覚を見せたと言われています。尊皇攘夷の思想を持っており、倒幕への計画を企てます。しかし、これは親族の説得により中止し、京都に向かい当時の一橋慶喜に仕える事となります。慶喜が将軍になるに伴い、幕臣となり、慶喜の弟と共に、パリで行われた万国博覧会をメインにヨーロッパ各国へ周ります。(もともと幼少期から読書を趣味とし、外史の書物を好んで読んでいたそうなので、この時に、更に外国に対する栄一の好奇心は増したと考えられます)

ヨーロッパから帰り、大政奉還に伴いヨーロッパで勉強した株式会社制度を日本でも実践しようと試みますが、大蔵省へと入省。国立銀行条例などの成立に寄与します。第一国立銀行の総監に就任した栄一は、多くの国立銀行設立に尽力。その他、様々な企業の設立にも力を尽くしました。(その数は何百にものぼると言われています)

簡単ですが渋沢栄一の功績です。
余談ですが、日本の紙幣の肖像候補に幾度もなっています。

渋沢栄一は著作は何冊も残していますが、古書店に行かない限り、今現在読めるのは少ないかもしれません。伝記では幸田露伴の『渋沢栄一伝』が面白いと思いましたが、現在では廃刊かもしれません。中公新書から出ている木村昌人氏の『渋沢栄一』は書店でも求められると思いますので、如何でしょうか?

長くなりまして申し訳ありません。
ご参考になりましたら幸いです。

こんばんは。

渋沢栄一は日本を代表する実業家です。
生まれは江戸時代の末期、天保年間です。

大農家の長男として生まれた栄一は、少年時代から藍葉を仕入れる際に現実的な商業才覚を見せたと言われています。尊皇攘夷の思想を持っており、倒幕への計画を企てます。しかし、これは親族の説得により中止し、京都に向かい当時の一橋慶喜に仕える事となります。慶喜が将軍になるに伴い、幕臣となり、慶喜の弟と共に、パリで行われた万国博覧会をメインにヨーロッパ各国へ周ります。(もともと幼少期から読書...続きを読む

Q渋沢栄一は、どういうような会社をつくったか?

そのままです。
500個ほど設立した、と教師はいっていたのですが、
その500ほどの会社は何?(名称)今は、どんなところに流れている?
分かりましたらお願いします
内容が、全然分からない場合も教えてもらえると嬉しいです。

Aベストアンサー

現在、戦前に「渋沢財閥」だった会社は全くバラバラです。
戦時中である1943年に中核銀行である第一銀行が三井銀行と合併して帝国銀行となった上、戦後の財閥解体で完全にバラバラになってしまったのです。
中には数年前に倒産した渋沢系の商事会社もありましたが。

Q野口英世と北里柴三郎の研究について

野口英世と北里柴三郎が、微生物研究の分野で「出来なかった・やらなかった」ことについての課題が出ていますが、それが何なのか、調べても見つかりません。
「何なのか」、だけでいいので、ご存知の方は教えて戴けるとありがたいです。お願い致します。

流石に時代背景とかは自分で調べますんで・・・。

Aベストアンサー

ウイルスの研究でしょう。

顕微鏡では、ウイルスは「観ることができない」はずです。

それと、野口英世は、医学的な成果(後世に残る物)は、なかったとおもいます。
黄熱病の病原体は、ウイルスでこれを研究して観るためには、電子顕微鏡が必要だったはずです。
細菌は、顕微鏡でみることができましたが・・・。

Q渋沢栄一について

幕末に渋沢栄一が能力を認められ取り上げられたと言う事ですが商人でなく大百姓の渋沢にどう言う能力があったという事なんですか?

Aベストアンサー

 渋沢栄一は、『日本が生んだ最高の経済人』『日本資本主義の父』。これ以上はない賛辞をおくられ、第一国立銀行総監役ほか、91年の生涯に関係した営利事業は500社を超えると言われた人ですね。
 おしゃる通り、生家は代々農業、養蚕の傍ら、利益の多い藍玉(藍の葉を発酵させ、干し固めた染料)の製造・販売も手掛ける武蔵国血洗島(現・埼玉県深谷市)の富農です。一三才の時のペリー来航で尊王攘夷熱にとりつかれ、二三歳の時(1863年)上州高崎城乗っ取りを計画するも挫折し村にいずらくなり、京に出て徳川慶喜に仕官。1867年、幕臣としてフランスに留学します。ここで栄一は生涯のバック・ボーンとなる資本主義の真髄を獲得します。それは、3つあり、まず第一が人々が金を出し合って利益を上げる『株式会社組織』。第二に官尊民卑の風潮のない、武士と商人が平等に付き合う社会。そして、第三に、国王も物の売り込みをする『商』の地位の高さ。(これは、ベルギー国王レオポルド1世から直々に鉄の売り込みをうけての実感だったといいます)帰国してからは留学で得た知識を元に日本最初の株式会社『商法会所』を静岡に設立。しかし、同年大蔵大臣の大隈重信から徳川家の財政を支えた理財術、半紙一枚まで狂いが無いと言われた留学費用決裁書、それに実業家としての手腕を見込まれ『大蔵省租税正(今でいう大蔵省主税局長)』のポストで迎えられます。
 その後の昇進も目覚しく、租税制度の改革、貨幣銀行制度の改革など多くの実績を残し、明治5年(1872年)大蔵少輔事務取扱(事務次官)のポストまで登りつめますが、井上馨と共に辞表を提出。
 三十三歳の時(1873年)日本最初の銀行『第一国立銀行』を創設し、以後、日本鉄道(国鉄)、東京海上、東京ガス、王子製紙など500社を超える企業の創設に係わりました。

 最後ですが、渋沢財閥は『財無き財閥』と言われ、終戦時、財閥解体が行われた時、三井十一家30億円、三菱岩崎五家33億円に対し渋沢一族には1000万円に過ぎなかったといいます。

 渋沢栄一は、『日本が生んだ最高の経済人』『日本資本主義の父』。これ以上はない賛辞をおくられ、第一国立銀行総監役ほか、91年の生涯に関係した営利事業は500社を超えると言われた人ですね。
 おしゃる通り、生家は代々農業、養蚕の傍ら、利益の多い藍玉(藍の葉を発酵させ、干し固めた染料)の製造・販売も手掛ける武蔵国血洗島(現・埼玉県深谷市)の富農です。一三才の時のペリー来航で尊王攘夷熱にとりつかれ、二三歳の時(1863年)上州高崎城乗っ取りを計画するも挫折し村にいずらくなり、京に出て徳川...続きを読む


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