痔になりやすい生活習慣とは?

日本は日米和親条約結んで開国し、尊王攘夷運動が起こるなど猛烈な抵抗運動が起きました。
開港するとか、内地雑居いう偽善が当時から悪であると思われていたのだと思います。
欧米列強の植民地化の手順、手口と、大日本帝国でどこまで植民地化が進みやばかったのか知りたいです。
よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

私の調べた内容でお答えします。


1番目、西欧列強の行っていた植民地政策は愚民政策と言われるもので、例えばインドは
綿花の生産地であり、その材を加工した製品の消費地(つまりイギリスの製品の消費地)
であった。もちろん、反乱できる知識・教育なとは皆無の状態に置かれていた。
 しかし、日本は西欧列強のアジア侵略が華やかなりし18-19世紀には、江戸幕府の
封建制度の鎖国時代であったが、武士道精神(外夷に対から自藩を守る意識)は盛んで
あった。
西欧はやはり封建制度が発展した国々であり、西欧諸国は西アジア・アジア(トルコ帝国・
ムガール帝国)等諸国では、侵略に対して日本のような抵抗を受けなかった。しかも
清国はまだ眠れる獅子の状態であった。ライシャワー博士の言葉!
 19世紀中葉、侵略の手を日本に伸ばした西欧列強は、はじめてアジア諸国とは別の
精神構造を持つ日本の武士道にぶち当たる。これは、薩摩に対しては薩英戦争であり
長州に対しては、馬関戦争である。薩摩藩も長州藩も、実力では散々ながら戦う意思
を持っていた。(当時のアジア諸国には、戦う意思すらなかった)

2番目:戦後のマインドコントロールを受けているみなさんには、ウソに聞こえる
かもしれませんが、 大東亜戦争(そう変えさせられた名前:太平洋戦争)で
日本軍は 自衛のための戦争を 行った。しかも、アメリカから先に手を出すような
ワナに嵌められた。歴史的事実を踏まえると、中国にも特に共産党に嵌められた
戦争(日中戦争:通州事件等参照 前記アドレス内)しかも東京裁判(国際法違反
勝者の裁き 未だにアメリカの戦争犯罪については裁かれていない!!前記参照)
インドネシア・インド・フィリピン・ビルマ・台湾・朝鮮・中国等の国々に
行ったのは、大東亜共栄圏構想を実現のため、現地人をまず読み書きできる
教育を施し、正規軍隊として武器の使い方を指導し、植民地から彼ら自身の
独立国となれる補助をしていたのです。
 それまでの白人の愚民政策ではなく、19世紀末のアジア地図と現在のアジア
地図を見比べれば、自明のようにアジア解放戦争が大東亜戦争の実態なのです!
共栄圏とは、日本の侵略を意味するものではありません。共に栄える地域を
作ることが、日本の目標だったのです。前記アドレスのブログには、インドの
インパール作戦(日本軍人の方がたくさん死者を出しています)・・・
たくさんのブログのなかから探してみて下さい。満州国は日本の植民地では
有りませんでした。(黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』)
すいません。たくさん思うままにかいてしまったです。
よろしくお願いします。実際の歴史は、学校では教えてくれません。
なんせ、教科書は反日思想の人々が作ったウソツキ教科書だからです。
先生方も、左巻きの反日の日教組だからです。真実を見誤るなよ!!
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この回答へのお礼

ありがとうございます。反日教育はまじでひどいですね。確かに反乱をできる教育は全く受けておりません。いざというときにその力は必要だと思います。

お礼日時:2015/07/21 15:46

善悪や偽善などの観点を外して眺めるなら、自由な商取引、取引や人権などの確保、保護を求めていくということが基本であったろうと思います。

武力で侵入占拠し隷属させるなどの政策は、19世紀の資本主義成立段階の植民地政策ではとられていないでしょう。
http://www.y-history.net/appendix/wh0901-054_0.h …
基本は対等で自由な合意に基づく継続的商取引関係の形成が進められています。
相手国(列強ではない側)が欲しいモノがなければ、交易は成立しません。政権や支配層が貴重品として欲しがるものを購入し、代償を支払うという程度で取引量が拡大しない状態なら植民地化に進みません。贅沢品であれ、武器類であれ、美術工芸品、工業製品、繊維製品、嗜好品や化学物質、エネルギー資源であれ、穀類などであれ、大量に外国から購入したがり、代償として支払いにだすものの生産等が国内に乏しいと、「経済的地位関係」が急速に変化し、輸出してくる国(列強)の主張や権益を大幅に許容せざるをえなくなります。それが政治的にも影響し、法的体系面でも影響している状態が植民地です。
日本が韓国・朝鮮や中国にしていたのもそうした手口によるものです。
また蝦夷地の扱いも、こうした手口です。http://www.y-history.net/appendix/wh0901-054_0.h …
また英国やフランスが日本にやっていた【自由で公平な商取引の保証要求】も、手口としては同じです。
異国とは法制度が異なるのでそのままでは裁判権の扱いがやっかいです。従って、当事国間で関税については税率を合意し、一方的に一国が変更しないこと、居留地を定め借用しその範囲を超えて一般人が旅行しないこと、居留地内では借用国の司法権が行使されることが【合意】されます。あとは、自由な商取引です。二国間で経済力、国力、文明度が異なると、劣ってる地域では特定の商品などの輸入が増え、特定の商品の輸出も増えます。この急激な市場の変化が、それまでの国内の市場状況を一変させ、一部の富裕層と大量の貧困層(市場を奪われた層)を生み出すとともに、この経済状態に見合った法制度、政治体制ができて、植民地化へ進む可能性が高くなります。交易を制限し、外国人の居留を認めず排斥すればなんとかなるかが問題です。 北朝鮮をみても想像できるように、国内を引き締め他国との関係をコントロール下に置けば、植民地化はしないけれど、世界情勢からみると経済的には貧困のままで困窮するという事態になることがわかります。尊皇攘夷と鎖国継続では、朝鮮王朝がたどった道を歩むことになったかもしれません。
幕藩体制を崩壊させ、版籍奉還を強行し、中央集権体制を構築し、積極的に列強と対等の経済力、文明力、文化度を上げるため、学制実施・欧米文化・法制度整備、技術の導入、軍制強化、産業への傾斜投資などを積極的に行いました。音楽もそうした教育の成果で一変しました。
そうした国内挙げての政策転換で、列強に対する国力増強に成功し、アジア進出、清からの賠償金の活用で一層の国力強化に成功し、やがてアジア侵略となっていくのです。 列島内をみても、国内の産業構造が一変し、社会体制は変わり、下層に転落する大勢の人々、成功し大財を作るひとができたんです。いわゆる大農と小作の体制も明治以降にできてくるんです。
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"欧米列強の植民地化の手順、手口"


    ↑
第一段階として、キリスト教の神父を送り込んで
住民を宣撫しておきます。

それから商人を送り込み、経済を支配します。
そうやってから軍隊を送り込み、住民の土地を
取り上げ、住民を奴隷化し、資源などを強奪
します。

支配の技術として間接統治という手法をとりました。
現地人に現地人を支配させる、という手法です。

しかも、支配する現地人は少数民族、少数宗派に
して、多数派の憎悪が彼らに向かうようにしました。

だから、今でも、その後遺症で、アフリカ、中東が
年中内戦をやっているわけです。


”大日本帝国でどこまで植民地化が進み
 やばかったのか知りたいです。”
    ↑
日本はキリスト教に汚染されませんでした。
しかも、当時は戦闘のプロである武士が支配して
いましたので、そういう西洋の意図には敏感
でした。

植民地は儲けるためにやるものです。
だから、儲けと費用を計算し、黒字にならなければ
植民地にはしません。
貿易をやります。

自由な貿易をやる方が安上がりで、儲かるからです。

日本は比較的武力に優れていましたので、欧米も
植民地化しなかったのです。
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欧州と米は


若干違う

アメリカは 自国の都合のため
日本の 欧州の植民地化は 国益に反するとして
日本を支援していた

英仏は明治初期まで 日本の植民地化 をもくろみ
生麦事件のとき自国民保護のため 江戸神戸に
置いた英海兵隊仏陸軍基地を 明治10年ころまで
ひきあげなかった。

ロシアは 対馬の租借などの
あげく
満蒙朝鮮の権益独占から 日本の併合をもくろみ
日露戦争で 解決せざるを得なかった

ソビエト社会主義共和国連邦日本ソビエト社会主義共和国
とか できたりして(^-^)/
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当時の欧米の国際基準では欧米の国々を文明国それ以外を未開地国とよんで欧米以外の国にはなにしてもよいという考え方でした。

しかし、欧米人といはいえ背後に軍事力がないとさすがに無茶はできませんので、どのようにしたかというと・・・
国家ももたない部族の土地・・・第一発見者が自分の土地と主張した。
国家はあるが小規模で統一されていない国家・・・・それか土着の国家間同士に武器を提供させ、争わせて疲弊させる。その上である程度の軍事力で戦争を行い、租借地をえる。
これはインドや東南アジアになりますね。
統一的な国家はあるが、派閥争いが激しい国家・・・・派閥同士を争わせ、もしくは貿易により国家から資金を流出させ、疲弊させたところで軍事力で戦争を行い、租借地をえる。・・・これは中国や日本に該当しますね。
というようなやり方です。
租借地を得ることで、欧米の軍事拠点を得ることにより植民地政策をしやすくすることができたのです。
では日本ではどうだったかというと、このやり方を中国で見たため、日本では外国と戦争を行ったが(下関戦争や薩英戦争)、金銭で解決(日本は商人に資金力があり、金銀埋蔵量が多く、国家として資金力があった。)し、租借地は絶対提供しなかった。
また、当時の日本は基礎工業力、学力は他の東洋諸国と比べて格段に高く、そのため、欧米の技術力を素早く吸収できた。その結果短期間で欧米列強に仲間入り(日英同盟を結ぶ)ことができた。
日本では権力はもたないものの権威があった天皇家の力も大きいとおもいます。当時藩で力があったのは薩摩、長州、会津ぐらいなもので、長州は反幕府、薩摩は中立、会津は佐幕でした。その後同盟した薩長は軍事力では幕府+会津に劣っていましたが、天皇家を推戴することで中立であった各藩は薩長側につき、幕府軍は自ら衰退していったことで、派閥同士の戦いが短期間で収束しました。もし、会津以外の強力な軍を持つ藩が幕府側についたら派閥争いが長期化し外国の触手が伸びていたかもしれませんね。
そもそも、幕府や各藩は赤字経営でしたが、それは江戸時代の階級制度で商いは卑しきこととして認識されており、江戸時代の税は農民からとるいわゆる固定資産税のみの収入で、商人からは税(所得税)を取りませんでした。そのため武士は赤字でも商人は黒字経営で国家全体として莫大な資金を保有していました。そのためたしかに貿易により資金は為替の知識が低く初期段階では流出しましたが、すぐさまそれは改正され資金流出もなくなりました。(この辺は基礎学力があったおかげです)
戊申戦争が長引き派閥争いが長期化したらもしかすると武器輸入による資金流出がはじまり、外国の触手がのびていたかもしれませんが、結果として日本には租借地もなかったのですから、植民地化といわれてもそれはまったくなかったとの回答になりますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。江戸幕府と薩長による内乱の裏で外国は分断離間は図っていたのでしょうか?お雇外国人はそうした工作活動はしていたのですか?

お礼日時:2015/07/18 21:29

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