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存在したのでしょうか?
美少年だったそうですが武蔵に負けた後どうなったのですか?

A 回答 (6件)

こんにちは。


佐々木小次郎は実在していたと考えられています。
今は記録等しか残っていませんし、実際に見たわけではないので確証はないですが。
美少年は単なるイメージですね。
実際、宮本武蔵との決闘の際は60代であったと言われてますし、イケてるおじ様といった感じでしょうか(笑)
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"存在したのでしょうか?"


     ↑
実在した、という説が有力ですが
架空の人間だ、という説もあります。


”美少年だったそうですが武蔵に負けた後どうなったのですか?”
     ↑
美少年というのは、吉川英治の「宮本武蔵」に
おける佐々木小次郎です。
本当のところは判りません。

武蔵と戦った、という話にも諸説ありまして
生きた時代が違う、という説も有力です。
この説によると、当時の小次郎は70歳を超えて
いたはずで、武蔵と戦った、なんてのはあり得ない
ということです。

そもそも、武蔵にしたって、学術上確実なのは
そういう名の剣客がいた、というだけです。

また、戦ったとしても、武蔵に敗れて死んだとか
細川藩に殺されたとか、これまた諸説あります。
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佐々木小次郎は実在した可能性が非常に高い人物です。

(一番古い初期で岩流という名前で記されています)
巌流島で宮本武蔵と戦った史実がありますのでおそらく間違いなく存在していた人物です。現在の山口県にお墓も残っています。
物干し竿、燕返し(虎切と呼ばれる剣法の型であった可能性が高い)も実際に小次郎が使っていたものとされています。
ただ、小次郎は美青年では無かったと思われます。吉川英治さんの宮本武蔵に書かれていた小次郎が美青年であったため、そのイメージが後世に語り継がれてしまったようです。江戸時代に残っている書によると
宮本武蔵の方がかっこよく書かれていたとか。小次郎は髭がぼうぼうと生えている豪傑といった感じで書かれています。
実際に戦った時は18歳だとされていますが、説のひとつに実はかなりのおじいさんだったのではないかという説もあります。小次郎の師匠とされる人物に小次郎が会うためには、巌流島決闘時に小次郎の年齢が18歳だとすると師匠とされる人物の寿命とつじつまが合わず、つじつまを合わせるには小次郎自身が50歳以上になってしまう計算だとか。この説が違っていても武蔵より小次郎の方が高齢であったのは間違いないかと。

小次郎が負けたその後ですが、一応現在有力だとされている説は、武蔵と戦って敗れた後少し息があったそうですが、武蔵の弟子が集団でぼこぼこにし、その後絶命したと言われています。(武蔵の養子が記した碑文には一撃で小次郎をしとめたとあるそうですが)
巌流島の決闘は、小次郎と武蔵の弟子がどちらが強いか争った結果師匠同士の対決になったのがそもそもの要因とされています。その結果小次郎が負け、勝った側も負けた側も恨みをこめてお互いの弟子同士争ったそうです。武蔵もその後小次郎側の弟子に追われる身になりますが、沼田家という所に助けられて生き延びたそうですよ
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実際は、かなりの高齢だったという説も。


吉川英治の宮本武蔵でも、即死ではないような描写もあります。
生死に関係なく剣士としては、あれで終わってます。

吉川英治たち小説家が創作したイメージが大きいですが、元となる史料はほとんどないようです。
 ちなみに宮本武蔵を慕う「お通さん」は完全なフィクション。
有名になりすぎて、それ以後の武蔵モノで外せなくなったそうです。
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「いたらしい」とされている



が、美男子なんてトンでもない、いい年したおっさんだったと言うのが通説
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宮本武蔵が実在したんですから当然実在の人物です、



美男だったのかどうかはわかりませんし知りません、

武蔵に敗れた後という事は勿論その場で絶命です、即ち「死」です、

大昔は、剣術・武術(まとめて体術と呼ばれます)などで戦うという事は全て負け=死です、

柔術(今の柔道)ですら、命のやり取りです、

空手・拳法も勿論、水練(今の水泳)も水の中での命のやり取り、

何時の頃からか四角い枠の中でろくに組みあいもせずにポイントで勝敗が決まる物に成り下がってしまいました、

フェンシングもそうです、命のやり取りを行う物だったのです、
今は、ご存知のように電気信号を使ったポイント制です。
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