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幕末の遊学費用についての質問です。

今でも教育には多額の費用が掛かって、親の収入による教育の格差問題があります。
江戸期ならばなおさらの様に思われます。

例えば大村益次郎です。

彼は村医の長男で身分は百姓だと思いますが、ウィキペディアによりますと「天保13年(1842年)、防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。」とあります。

学ぶことはいいのですが、学費とか生活費とかは一体どこから捻出していたのでしょうか?

親が裕福ならばわかるのですが、とてもそのようには思われません。

さらに手形などの許可も必要だったと思いますが、どうやって藩から手に入れたのでしょうか?

大村益次郎が幼いときから神童と呼ばれて、学業が見込まれていたのなら将来を見越して誰かが援助するかもしれませんがそのような話も聞いたことがありません。

彼は武士ですらありません。

大村益次郎に限らないのですが、裕福でも神童でも無い人はどうやって遊学していたのでしょうか?

もしご存じの方がおられましたらお教えください。
よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

> 鋳銭司村は今でも失礼ながら特に田舎です。


> 今も江戸時代もあまり変わらない環境
そのとおりなのかもしれませんが、1軒あたり10石以上の規模なら相応の経営規模なのだと思います。貧困地域ではないと思います。
http://www.f-t-d.org/index.php?tn=index&in=91505 …
http://www.geocities.jp/hatm3jp/051.html

> 大村益次郎は地元を離れ18歳から26歳まで遊学していますが、いくら親が村医者とは言え、そうそういつも現金収入があったわけが無かったのではないか
村田良庵は豊後の咸宜園で広瀬淡窓の下で1年強学び、その後九州北部を2ヶ月強遊歴して戻っています。金銭面では楽ではないでしょうが、20歳21歳の若者ですから、そうした苦労を当人は特に苦労だとは思わなかったと想像します。
村田良庵から蔵六になった彼は23歳~26歳の間長崎で奥村に就いているときは苦学で代診のバイトで書籍代や後日の旅費、雑費を補ったそうです。

> おそらく普段は百姓をして生活していたと思います。
わかりません。親元にいるときには、多少はそうしたこともしていたでしょうが、一応使用人のいる村医者の息子ですから、さほど百姓っぽいことはしてなかったと想像します。19歳と22歳のときに三田尻の蘭医梅田幽斎に就いて学んでいます。この師が一層の勉学を推挙しているのだから、普段は百姓仕事をしている状態ではなくて、日夜勉学している学生だったろうと思います。25歳で適塾に入門が許されてからもガリ勉だったようです。

> 長州藩では藩士なら藩の通行手形が必要です。そして幕末でも通行手形は必要でした。通行手形が間に合わなかった吉田松陰や手形を持っていなかった高杉晋作は脱藩の罪になりました。
原則は往来手形が必要でしたし、修学や修行、お参り、商用、運搬、連絡その他、《医道執行ニ付九州表江罷越申候》のような形で正式に藩のしかるべき担当役人から手形をもらうことあるし、名主などの村役人、寺、あるいは関所を通過する前の宿屋で通行切手の発行を頼むこともできたようです。脱藩者が他の藩や江戸を遊学あるいは浪人などをしながら回れたという事実は大事です。勝小吉は14歳のときに家出して護摩の灰(旅人をねらう詐欺師)の助力で旅籠の手形を入手して関所を通過 http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/15sai.html 21歳のときに箱根の関所で手形無しで剣術修行と称して関所を通過 http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/21sai.html しています。長州藩は、一時期とても厳しい番所制限をします。 http://oouchibunka.jp/yamaguchicity_histry/bakum … しかし、その制限の前は、緩い管理状態だったのです。

> 当時は職業とか住む場所などは自由が無いというか厳しく管理されていたので、旅行に行くのもそうそう簡単ではないものとばかり思っていました。
そうだと思います。そもそも金銭事情や安全面もあるし、よほどのことがないと個人が勝手は出来ないです。伊勢参、お遍路でも、大山参りでも、費用を集団で積み立て団体旅行するのがやっとというヒトが多いと思います。職業選択も自由でなく、親の後を継ぐか、親の命令で修行や養子に出されるかが普通だと思います。 ただ、100人の人間がいると変わり者、変人、無頼もの、信仰や剣術、画業、舞踊、博徒、料理人に憧れてしまうものもいます。どうしても周囲の習慣になじめず放浪するものもいます。人間関係で排斥されたり、経済的に破綻したり、恋に溺れたり、いろいろあって、家をでる、村をでるということはあります。 そのとき藩や寺、名主などから正規の通行切手を得るのは無理です。 そうなれば裏の手をとるしかないです。 誰かに代書してもらった偽の通行切手、往来手形でも入手する方法もあったでしょうし、関所を迂回するとか、誰かのお供や手下のフリをして随行して関所を通り抜けるという手もあったでしょう。

> 「百姓や町人からの登用も多いです。」はないと思います。
例えばとくに会津藩とか薩摩藩など武士階級が強い藩で百姓や町人からの登用はむしろほとんど例がないのではないでしょうか。徳川藩関連もほぼ無いと思います。幕末当時何でもありの長州藩でさえ、百姓や町人は兵隊に登用される以外での登用はほとんど無かったと思います。
《斎藤 弥九郎》 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4 … 現在の富山県氷見市仏生寺の農民、組合頭の長男として生まれた。文化7年越中の高岡へ奉公に赴き、油屋や薬屋の丁稚となったが、思うようにならなかったので帰郷した。江戸へ出ることを望み、文化12年親から一分銀を渡され出立する。途中、旅人の荷担ぎをして駄賃を稼ぎ、野宿をしながら江戸にたどり着いた。……… 20代で神道無念流岡田道場撃剣館の師範代に昇進し、岡田の死後は、後継者岡田利貞を後見した。文政9年29歳で独立して江戸九段坂下俎橋近くに練兵館を創立。長州藩は神道無念流を高く評価して、藩士の多くを練兵館に送って学ばせた。塾頭を務めた桂小五郎のほか、高杉晋作、品川弥二郎、井上聞多、伊藤俊輔、太田市之進らがいる。また、三男の斎藤歓之助は大村藩に仕え、同藩士渡辺昇、柴江運八郎らを指南した。
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この回答へのお礼

大変詳しいご回答ありがとうございました。

特に「防長地下上申」の資料はなかなか興味深いものでした。
資料の鋳銭司村は江戸中期ではありますが、自分が想像していたよりも人口が多く、これなら医者の需要もそれなりにありそうで、一家が普段百姓をする必要もあまりなかったかもしれません。

手形の件もとても参考になりました。
親が医者で遊学のためならば手形の入手はそれほど難しくなかったかもしれません。

わたしの疑問はほぼ解消されました。
ありがとうございました。

お礼日時:2015/08/17 06:39

回答でリンク先をミスしました。


http://www.f-t-d.org/index.php?tn=index&in=91505 …
www.の後は、
「f-t-d.org/index.php?tn=index&in=915059&pan=9798」です。
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この回答へのお礼

わざわざありがとうございました。
このような資料を探していました。

お礼日時:2015/08/17 06:42

> ご存じの方がおられましたらお教えください。


具体的なことは知りませんが、想像できることを書きます。

> 学ぶことはいいのですが、学費とか生活費とかは一体どこから捻出していたのでしょうか?
幕末でも、明治・大正・昭和でも、子供の養育や教育などの費用は親が捻出するのが一般的です。親や親戚以外のパトロンが生活費などをみるのは稀です。大村益次郎(良庵)にしても父孝益は経済的には余力があり、医者を継ぐ予定の良庵がそのための勉学修行の費用はだしたでしょう。本人が代診で多少稼げるようになってもしばらくは親が生活費を送ったでしょう。

> 親が裕福ならばわかるのですが、とてもそのようには思われません。
どこからが裕福なのかわかりませんが、自宅から通学できない高校や大学に進学する息子がいれば、そして親が費用を出しているという人は、現在でも多いし、昔は多くの人はそうしたでしょう。 歩行圏内に適した塾や学校があるということは、ある程度以上の専門レベルを期待するのは無理です。 親以外の親戚や富裕な名主、商家が出す例はあっても、ケースとしては少ないでしょう。

> さらに手形などの許可も必要だったと思いますが、どうやって藩から手に入れたのでしょうか?
幕末なら、ほとんど藩の通行手形は必要ではないです。 寺や名主など村役人が書いた手紙で十分です。
http://page5.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e16 …
商人なら雇い主が書いた身分証明の手紙が通行手形の代わりをしたかもしれないし、紹介状を持って塾生になりにいくならそれで通用するということもあったでしょう。 

> 大村益次郎が幼いときから神童と呼ばれて、学業が見込まれていたのなら将来を見越して誰かが援助するかもしれませんがそのような話も聞いたことがありません。
そうした話は知りませんが、優れた人材と思うとそれなりに支援したいという気持ちになってしまうことは、昔も今も、多くの人がもつ気分だと思います。 だから、努力家や才能のある人は、盛り立てられ、素早く良い環境をえられ、一層開花しやすくなるのだと思います。

> 彼は武士ですらありません。
身分制がかなりハッキリしている社会でも、集団制で方針を決めているのでなければ、個人の裁量はとても大きなものとされています。 法規や伝統はそれなりに尊重していても、ある個人がこうしたいと思ってしまえばその通りに実行されることはおおくあり、人材の登用や排除に関しても、個人の思いが強く影響します。 武士も階級や格式、家格は重要ですが、幕末を見れば、ばんばんと登用し権力行使の重要役職に就けています。 百姓や町人からの登用も多いです。 逆に考えると、本来なら高い格式の中から任用されるはずと期待していたのに、全く身分違い、畑違いのものが、塾頭になったり、軍の指揮官になっちゃうということも、藩政時代からあったのです。

> 大村益次郎に限らないのですが、裕福でも神童でも無い人はどうやって遊学していたのでしょうか?
道楽息子、馬鹿息子、芝居や舞踊、義太夫、音曲、書や絵画、工芸その他に夢中になってしまう息子が皆無ということはないです。 本人が止まらないなら、生活費の心配はしないで突き進んでしまうし、親が籍を抜いてしまうということもあったでしょう。
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この回答へのお礼

詳しいご回答ありがとうございました。

普通に考えるとやはり親が出していたというのが妥当かもしれません。

しかし大村益次郎の生地、当時の鋳銭司村はわたしの家から車で近いので良く通るというかよく
知っている場所なのですが、山口県全体が田舎なのに、その中でも鋳銭司村は今でも失礼ながら
特に田舎です。

まわりは田んぼばかりで人は少なく、おそらく今も江戸時代もあまり変わらない環境ではないかと
思います。

それを考えると大村益次郎は地元を離れ18歳から26歳まで遊学していますが、いくら親が村医者
とは言え、そうそういつも現金収入があったわけが無かったのではないか、というのが疑問の始
まりです。

おそらく普段は百姓をして生活していたと思います。

>幕末なら、ほとんど藩の通行手形は必要ではないです。 寺や名主など村役人が書いた手紙で十
分です。

長州藩では藩士なら藩の通行手形が必要です。

そして幕末でも通行手形は必要でした。
通行手形が間に合わなかった吉田松陰や手形を持っていなかった高杉晋作は脱藩の罪になりました。

もっとも大村益次郎は藩士では無いので、もとから藩の通行手形は必要なかったでしょう。

それにしても当時は割と好き勝手に日本中どこへでも行けたということでしょうか?
わたしの思い込みに過ぎないのかもしれませんが、当時は職業とか住む場所などは自由が無いと
いうか厳しく管理されていたので、旅行に行くのもそうそう簡単ではないものとばかり思っていました。

「百姓や町人からの登用も多いです。」はないと思います。
例えばとくに会津藩とか薩摩藩など武士階級が強い藩で百姓や町人からの登用はむしろほとんど例が
ないのではないでしょうか。

徳川藩関連もほぼ無いと思います。

幕末当時何でもありの長州藩でさえ、百姓や町人は兵隊に登用される以外での登用はほとんど無
かったと思います。それらも諸隊の兵隊で、もとは藩の組織でもありません。

長州藩においてその中で重要役職についた大村益次郎は例外中の例外に思われます。

結局最初の質問「遊学費用はどこからで出来たか」という件に関しては親が出した、そして二番
目の質問「どうやって手形を手に入れたか」という件に関しては当時誰でも簡単に手に入れるこ
とが出来た、ということになりそうですね。

お礼日時:2015/08/15 22:23

大村益次郎>いちおうは医者の家に産まれてますから、診察が出来ます。

旅先では医者のところに泊まって診察を手伝う代わりに、宿泊料タダ+若干の報酬。
バーター取引で、自分の専門分野を教える代わりに、新たな知識として蘭学などを教わったことも。
 蘭書の翻訳が出来ましたから、いざとなれはそれでかなりのお金を稼げました。

長州藩限定で、勉強熱心な藩でしたから、勉学のためと言えば、遊学のための手形発行はほぼ無条件。伊藤博文などの海外遊学時には、藩から予算が下りてます。それを使い込んで、大村益次郎に泣きついて出してもらったなんて話しが残ってるぐらいだから、大村さん、意外とお金持ってた?。
下関の豪商が、無名の人たちにかなり出資したという話もあります。それでお店を潰したと。。

 適塾など、今の医大などと比べれば、ほとんど無料に近いボランティア経営でした。大村は早々に教える側に回ってますから、授業料はそんなに払ってない。
 今の将棋や囲碁の師匠と内弟子の関係のように、お金を貰う弟子と無料で指導の2タイプに分かれていたでしょう。藩医クラスのお金持ちからごっそり授業料を貰って、それで優秀な内弟子を育てる。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

大村益次郎は適塾を出てから地元にもどり村医者をしていたので、それ以降はそれなりに収入はあったかと思います。その前の適塾時代は翻訳や講義などで多少収入かそれに代わるものがあったと思います。

そしてその後宇和島藩、蕃書調所、鳩居堂時代はおそらくお金に困る様なことは無かったでしょう。

さらに晩年は1500石ではなかったかと思います。
むしろかなりの高収入の部類でしょう。

確かに下関の白石庄一郎は倒幕活動を支援しましたが、遊学から年数が経った後の話です。

話は元に戻りますが、問題はそれ以前で、大村益次郎は全くの無名で家は裕福では無かったはずです。
そして特に地元長州においては、第二次長州征伐の前まで大村益次郎はまったくの無名でした。

吉田松陰や久坂玄瑞のように幼少期から藩内で名が知られていた訳ではまったくありません。

先週適塾に見学に行ったのですが、実際の塾生の数は1000人を超えていたらしいです。
さすがにそれだけの規模になると無料に近いボランティア経営は難しいのでは無いでしょうか?

もっとも大村益次郎は早々に塾頭になっていますので、大村に限って言えば授業料は払っていないか、少額だったのではないかと推察されます。

しかしそれにしても、金なし、援助なし、知名度なし、地位なしの状態で、大村益次郎が藩から許可を得て九州や大阪に遊学出来たのかわかりません。

旅費や生活費、謝礼など、普通に地元で生活することと比べるとかなり多く掛かったはずです。

親の手伝いは多少出来ても ”大村益次郎>いちおうは医者の家に産まれてますから、診察が出来ます。” はさすがに無いと思います。
もちろん適塾を出てから自身が診察をしていましたが。

お礼日時:2015/08/12 06:57

先生宅に住み込みで子守をするとか、家事手伝いをする



衣食住のうち、
衣は誰かのお古とかで済ませる
食は最低限の食事で我慢する
住は、居候

そうするとそんなに費用は掛からない

>手形などの許可も必要だったと思いますが、どうやって藩から手に入れたのでしょうか?
江戸時代も後半になると、各藩ともに武道よりも学問を重視するようになる
藩校を整備する藩も多い
藩校以外にも、私塾的なモノもあった

藩の方でも、藩の財政や農政などで活用できる有能な人材を育成する必要があり
藩内で優秀だとの評判があれば、藩に願い出て遊学・留学の許可を貰えるようになった
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この回答へのお礼

早々のご回答ありがとうございました。

>藩内で優秀だとの評判があれば、藩に願い出て遊学・留学の許可を貰えるようになった

そこが疑問の一つなのです。
大村益次郎は「藩内で優秀だとの評判」がまったく無いのです。

お礼日時:2015/08/12 07:01

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