今回は三大欲求と云うテーマで、理性に於ける欲求と情感に於ける欲求に付いて質問をして、頂いた回答から一応私なりの答を出せたので、回答者の皆さんには感謝して居ります。
精神の働きとして理性と感情と意志のあることは一般の知識となって居る様なので、三つめの意志に付いても考えて見ていたら・・・
この三大欲求というテーマを"意志"にぶつけることは出来るんだろうかという疑問が生じ、端(はな)から躓いてしまいました。
意志とは力、或いはそうした意味でのエネルギーと思えるからです。欲求という感じではないですよね。
生命には生きる力があって、その事を生きようと云う意志(力)があると表現できますが、・・・ここまで考えてきたら、それならば生きようとする意志は、生きたいと云う事じゃないかと思ったのです。
生きたい。これは欲求ですよね。
そうすると意志には生きたいという欲求が有る、と言えることになります。
そこで質問です。
後二つ、何かしたいという欲求の何かとは何でしょうか。
後二つ、何かありませんか。
今の処、私は全く思いつくことが有りません。
お知恵拝借。宜しくお願いいたします。
No.15
- 回答日時:
お礼のコメント読みました!だいたいはそんな感じです。
説明なしでごめんなさい。
「手綱」は、「手綱にかかっている力」としたかったのですけれど、並べると不自然な感じだったので、「手綱」としました。
あと、方向を決めるのには「目標(目的地)」が必要です。
そこに行きたいから、そこに行こうとなって、そこに向きを合わせるわけだから、
目標が、どこにあるのか、どこから来るのか、が大事な気がします。
では!
No.14
- 回答日時:
改めまして。
私は、分かりました。
あなたは三大「欲求」としてこれを問いかけていますが、求める答えのそれは、欲求の本質からは遠く乖離してゆくばかりです。なので、分かりました。あなたが問いただしている事は、三大「願望」です。でも、これはあなたばかりの乖離ではない。他回答者の多くも、「願望」ばかりを語る事に終始している。
そして、私は、「人」を語る時の重要なテーマに至りました。人とは、生命という存在から乖離する事を余儀無くされ、「願望」を得るものなのだ、と言う事にです。それが人の宿命なのだと言う事に、です。
あなたの躓きに、近付けましたでしょうか。
私の受け止め方は“非常に近いと思う”です。
でももしかするとpg8さんは、「なんだかあ」と言うかも知れません。
それは私が説明下手だから。
Pg8 さんは願望と言う言葉を用いましたが、そうとも言いたくなるような、視点でばかりで「意志」を捉えていて、そして捉え続けようとしていたんです。
その事の間違いにやっと気付いたので辞書にあるような意味での「意志」に違和感を感じなくなったのです。
そうなんです。辞書に有るような用法に違和感を感じていたのです。
あることがきっかけで、今は“納得状態”でいます。
書きかけの捕捉欄の続きでその説明をするので、ご意見頂ければと思っています。
ありがとうございました。
No.13
- 回答日時:
どうも!通りすがりです!
馬車に例えられるなら、
「馬」 ……「感情」
「御者」……「理性」
「手綱」……「意思」
&
「馬車」……「自己」
と、なる気がします。
おまけ)
「お天気や道の凸凹など」 ……外的ストレス
「たまに馬車に入り込んでくるもの」……内在化していくストレス
それでは失敬!
どうしてこのように成ったのか、とぱぽろんさんの考えを推理してみました。
「馬」は制御しなければ勝手に好きな方へと行ってしまうから「感情」
「御者」は制御して方向を決めるから「理性」
「手綱」はそれを伝えるから「意志」
そして
「馬車」はそれらを全て含むから「自己」であると。
ありがとうございました。
No.12
- 回答日時:
補足について。
なんだかなぁ。
あなたがロマンチストだと言う事は、充分に分かりましたけれども、女を口説いているんじゃないのだから、空言を言って貰っても困るんです。
「意志」が、結果として動力であるのは間違いないですよ。だから、馬に例えたいのも分かるんですけど、馬力が繋がれた車輪を動かす動力になるように、「意志」が「理性」や「感情」を動かしている訳がないのでね。「理性」「感情」は、「意志」の干渉の程度によらず稼働し続けるものですよ。その稼働を停滞させる時だって、「意志」にお伺いなど立てない。また、「意志」が張り切ったからといって、それらの稼働が活発になる訳でもない。
あなたが、「ねむい」となった時に、「よし、寝よう」と思うのが、「意志」なのです。或いは、「寝まい」と思うのが、「意志」なのです。そして、「意志」は欲求を解消しない。「よし、寝よう」と思ってそうした所で、睡眠欲求をある程度に解消してくれるのは、時間ですからね。「寝まい」と思ってそう出来た所で、欲求が引っ込む訳でもないのです。あなたにも、身に覚えのある事でしょう。
あなたのテーマを、質問履歴に読み返しました。 人の精神質を、知、情、意、に分けたんですよね。
私の理解する所では、「知」とは、感覚作用です。あらゆる身体感覚を駆使して、人は外部情報を得るのですよ。でも、それを分けた三つの納得が、なんで、識、解、律、なのでしょうか?あなたらしくないのでは?あなただったらば、疑、識、解、でしょう?私が、あなたを誤解しているのかな?
私の職業意識としては大変に躊躇したいのですが、あなたの質問に添えるよう、改めて回答致します。
「意志」が欲求する事は、
抗うこと。おもねること。消失すること(解消すること)
です。
どれも、「意志」が達成出来ない事なので、「意志」が働き続ける作用になるでしょう。「欲求」とは、常に不全であるからこそ起動するものです。
躊躇させてしまって申し訳ありません。
でも、今回に限り引き続きの回答宜しくお願い致します。
と言うのも、まだ検証してみて欲しい事がこれから(今夜?)出す結論の中に有るからです。
頂いた回答では思い違いをされてるような所があるので説明します。
意志が理性や感情を直接動かしているとは思ってはいません。
理性や感情の働く姿を「稼働」と、的確な表現をされましたが、例えを馬車にしてしまったので、引っ張る意志と区別するためにその活動を静的稼働、と言って見たいと思います。
さて、結論を出す前だから先を越された感がありますが、今夜時間があれば出してみて、出来れば皆さんの審判を受けて見たいですね。
それにしても、御者の姿が見えません。何処に居るんでしょうか。
ありがとうございました。
No.11
- 回答日時:
#9です。
>ポイントは、生理的欲求や知的欲求や情的欲求に、“前置き”は不要だと思いますが、意志には生物としての、とか社会的人間としての、なんて前置きが必要になる、というところです。
:
なぜ意志だけ前置きが必要なのですかね。
【目標を定めてその達成のために行為を促す自発的な思考】(ウィキ)
【目的や計画を選択し、それを実現しようとする精神の働き】(大辞泉)
という定義があるわけですが、これを否定なさるなら分類の基準がバラバラになってしまうと思います。
「知情意」という言葉に則って検討していけば人間のすべてについて考察したことになる、というお考えで分類しながら質問なさっていたのだと思っていたのですが。
たとえば、「社会的人間としての」という前置きで、それはどのような意志か、を考えるのであれば、その前に、「社会的であろうとする意志」などという分類が必要でしょう。前置きじゃなくて、それ自体がすでに意志であり、欲求ととらえるのが今回の分類基準では?
このままだと、今までの分類基準は何だったのか?ということになりかねない。
因みに、わたしの分類では、これは「幸福欲」の一部(下位分類)として組み込むことができそうです。
考察ありがとうございます。
前置き、を付けたくなったのは、私が"意志"に付いてまだ辞書どうりの意味で使っていなかったから、と云うのも一因になっていたと、今は気づいています。そればかりではありませんが。
そして分類、についてもはっきりと意識しての事ではありませんでした。
でも、おかげさまでほぼ結論と云えるようなものが出たので、補足欄を使ってまとめてみたいと思います。
思考の為の言葉を良く知らないので、いつものように例えを使っての説明になりますが、うまくいくかどうか、ちょっと心配です。
ありがとうございました。
No.10
- 回答日時:
★ (№3補足コメント) 無意識的に生きようと云う生物としての"意志"の入り込む余地は全くなさそうですね。
☆ (あ) いえ。それは 動物と共有する大きく広く本能でしょうね。ですから まづは 前提となっています。
(い) 《 3.大道無門なる――自然法爾としての――意志》は すでにハカラヒ一般としての意志から自由になっていますので 《生存する本能的な意志》を前提にしているだけではなく 含みこんでいます。
(う) 《 2.他者への感化――あるいは影響力を行使する意志――》は 大きく広く《はからひ》としての意志です。
目的をかかげるという意味でハカラヒですし それは 理念をも立てているとすれば いわゆる《義》をも問い求めています。他人にも自分にも。
(え) その義という言葉を使っている(最後に結論としても用いている)のですが 《 3.大道無門なる意志》は 《義無きを以って義とする》ところの意志です。ハカラヒ無きを以って 自然とする境地です。
(お) あるいは 精確を期すべきですね。《ハカラヒから自由である》ということは 必要とあれば いつでもハカラヒなる意志をも発揮することもある。わけです。《ハカラヒが無い》というのとは違うでしょうね。
わざと読み取りにくい表現にて。
No.9
- 回答日時:
意志(いし、独: wollen、英: will)は、目標を定めてその達成のために行為を促す自発的な思考を意味する。
大辞泉では、
2 目的や計画を選択し、それを実現しようとする精神の働き。知識・感情に対立するものと考えられ、合わせて「知情意」という。「―を貫く」「―強固」
という語釈が該当するのだと思います。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/11054/m1u/% …
質問者さんによって決定された定義をおさらいし、列挙してみると次のようになります。
<生理的欲求(でしたっけ?)>
・睡眠欲
・食欲
・性欲 or 排泄欲(でしたっけ?)
<知的欲求>
・知識欲
・理解欲
・構想欲
<情的欲求>
・求めたい
・与えたい
・認められたい
今回は<意志的欲求>ですが、
【目標を定めてその達成のために行為を促す自発的な思考】
【目的や計画を選択し、それを実現しようとする精神の働き】
のように定義して良いのでしょう。
「それを実現しようとする精神の働き」は「それを実現したいとする精神の働き」とも解釈されそうで紛らわしい要素もありますね。
まして、<意志的欲求>ときた日にゃ・・・そこに留意が必要かもしれません。<知的欲求>との重複を避けるために。
それとも<意志としての欲求>とすべきなのか。
いずれにせよ、
『人は、どんな目標・目的・計画を実現しようと考える生き物なのか』という切り口で考えて良いのでしょう。
まず思い浮かぶのは、「自己の可能性を最大限に生かして何者かになろう」とする意志。「自己実現欲」でしょうか。
精神的と言えるかはわかりませんが、「生命欲」という根源的欲求も意志に含めて良いかも。生理的欲求と捉えるよりは本質に近いような気がします。
上記した今までの欲求の中にも含まれていませんから、その点でもセーフでしょう。
意識がない状態でも生命欲は存在するようには思いますが、これは生命欲というよりは生理的慣性とでも分類したいところです。つまり、化学的な作用として捉える、ということ。
最後のひとつは「幸福欲」ということでどうですかね。
単に望むのではなく、人は幸福を意志している(目的として実現しようとしている)ような気がするのです。
これは自分のことだけではありません。人類が幸福になるように意志しているのではないか、ということ。そんなこと考えてない、という人も、無意識的には考えているはず。
幸福な他人を見ると基本的に嬉しくなるはずですし、辛そうな人を見るとこちらも辛くなる。
日曜日が嬉しいのは、自分が休みなのも無論ありますが、みんなが休みでハッピーという無意識的認識があるからのように思います。
どうも余談が長くなりそうなので、
・生命欲
・自己実現欲
・幸福欲
ということで。
因みに上記辞書3番目の語釈もご参考まで抜粋しておきます。
3 哲学で、個人あるいは集団の行動を意識的に決定する能力。広義には、欲望も含まれる。
だそうです。
知、情、意、なんてひと括りにした言葉も辞書に載っていますが、今は“意”だけ別物のように考え始めています。
ちょっと考えておいてくれませんか。
ポイントは、生理的欲求や知的欲求や情的欲求に、“前置き”は不要だと思いますが、意志には生物としての、とか社会的人間としての、なんて前置きが必要になる、というところです。
宜しくお願い致します。
ありがとうございました。
No.8
- 回答日時:
お礼について。
補足について。率直に申し上げますと。あなたが何に躓いているのかが、分からない。だから、切り出し所に悩むのです。
まずですね。生と死は、循環です。分ける事に意味が無い。分ける便利さはありますけどね、その便利さが機能の一端ですよ。その機能は連続するものだから、ひとつ所にはとどまらない。しかし、対象の本質を見る時には、機能の便利さ加減ばかりを語るのではなく、不便がなす効果も等しく評価しないとね。
何か、引っかかりましたでしょうか。どうにも、あなたに近づけなくて。ご質問がありましたら、助かります。
取り敢えず簡単なご返事です。
噛み合わない原因が分かりました。
“意志”を辞書にあるような意味では使っていなかったんです。
辞書にあるような意味で“意志”と言う言葉を使っていれば、社会性に関わる意志も理解できていたと思います。
詳しくは今夜、時間があれば、捕捉欄を使ってご説明してみようと、思います。
ありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
お礼について。
特には、NO.5についてのお礼について。どうか、ご自身が何を語っているかの自覚に急いで頂きたい。
あなたの疑問は「お漏らし方」なので、その事自体については邪気が無く、大変に好感を感じるのですけれど、終始一貫 「お漏らし方」では、困り果てます。
人の、「社会動物として」の欲求の目的とは、個体の、個体としての存在を全体に担保させ。全体の、全体としての存在意義を個体の生存に帰属させる事ですよ。
であれば、「意志」とは抗う事なのだから、個体を全から解放しようとする事であるし、全が淘汰しようとする個体にこそ、全の存在を担保させるものなのです。
そしてくれぐれも、これは哲学の話しでは無い事をわきまえて下さい。
どのような状態であれば、生命は存在可能で、どのような機能を持てば、維持するに足るのか、だけの話しです。
生物としての理性・感情
社会的動物としての理性・感情
人間としての理性・感情
このように、前提を決めずにただ漠然と理性とは、とか感情とは、とか意志とは、なんて考えてもさしたる意味は現れない、と云うことなんですね。
やっぱり脳の網の目が粗いとだめですね。
※ 急いでウィキを開いて見ての感想です。
もう少し、教えを頂きたいと思っています。
ありがとうございました。
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無意識的に生きようと云う生物としての"意志"の入り込む余地は全くなさそうですね。
"存在"的なものが現れていますね。
意志とは抗う動力!
ああ、
まだ、よく分からない・・・
人間は社会を造って生きるものだ、という考えを元にして物事を考えた事の無かったことを知りました。
だから質問には、人間を動物として見た場合は、と言った思いが無意識的にあったんだろうと思います。
人間は社会を造る。これは意志の働きに依るものだ。と云う事ですね。
感想などを補足欄に書いて見たので、思う処があったら聞かせてください。
結論が出ました。
いつものように例えを使っての説明になります。
以前にもここで使った事があったかと思いますが。人の心の働きである"理性・感情・意志"の三つは馬車に例えられると思うのです。
理性と感情は車輪で、意志は馬に当たると。
そして理性は判断、感情は反応、意志は力、という作業をするとします。
そうすると理性と感情は、車輪に右、左と云った違いが有るように、判断と反応という違いは有るけれど、車輪と云う"役目"は同じなんだと思えます。
でも意志は進む力だから、作業は力の行使であって、理性と感情とは"役目"が違いますね。
役目が違うと気づいたら、意志に対しても理性や感情と"同等な"三つの欲求を探そうとしていた事が、辞書に有る定義を要求の一つに挙げることに違和感を感じたり、前置きを付けたくなったりしていたんだ、と分かったんです。・・・今夜また(寝なきゃいけない)
日にちが空いてしまって気の抜けた感が有りますが、取り戻して整理説明してみます。
一つ前の補足の続きです。
"同等な"とは「生物としての意志」(回答№5のkoxさんの表現を借りました)と云った意味合いです。
意志と云う言葉をこの意味でしか捉えていなかったんです。
でも、辞書に依れば・・・と云われてみて考えているうちに、人間の意志の中に社会性は欠かせない事なのかも知れないと思えるようになって、"意志"に対する考え・視点、が変わったんです。
そうしたらこれは縦型と云えるかも、と思いつきました。(縦型社会・横型社会なんて言葉は知って居ました)
生物としての意志から社会的意志へという流れは縦型と云えるなぁと思ったんです。
そしたら必然、次の段階は"精神性"になりますね。
それに対して、理性や感情の"要素"は横型と云えるのではないでしょうか。
次へ続けます。
理性や感情の要素が横型として意志を縦型とすると理性と感情で平面を作り、意志が加わって立体となる。嗚呼、存在。。
存在は立体。立体は3。3は安定。安定=存在。五徳(三本足の)は多少足の長さが違っていても安定する処からの連想です。
と、まあ、ちょっと脇にそれてしましましたが。
本題に戻って、考えをまとめると「生物として・人間として・神仏として(ちょっと語弊があるかも、或いは誤解されるかも)」となって、結論が出ました。
1.生物として生きようと云う力。
2.人間的社会を造ろうと云う力。
3.精神的な向上心と云う力。
なんか、もう一工夫必要かなとは思いますが今はこう結論しました。
次の補足欄へ。
最後です。
今回は大収穫でした。
こうした結論を出せたのも皆さんが寄せてくれた回答があったから、です。
回答者様の多くは表現の違いこそあれ、意見は一致していたと思います。
そして特にpg8さんとhakobuluさんには大感謝です。
私の意識を掘り起こして下さって本当にありがとうございました。
当たり前の視点ではお二方が私にとってのベストアンサーとなります。
でも視点を変えて見れば一つ選べます。
選んだのは、答えを導く要素を示したkoxさんの回答№5です。
1.生物としての意志
2.社会的動物としての意志
3.動物とは違う人間としての意志
その視点は・・・『一回こっきりの潔さ』。
皆様、本当にありがとうございました。