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浄土系の教えは「南無阿弥陀仏」と唱えておれば 阿弥陀仏に救われ極楽浄土に連れていってくれるとの教えと認識しています。
これだと幸せは現世で求めないで 来世で幸せになりましょうと聞こえるのですが この認識は間違っているのでしょうか?

よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • baka-hage様
    お礼文で字数オーバーが発生しました 失礼しました

    勉強を疎かにし それで理屈ばかりの私の頭では 今はこのような『片意地』状態です
    折角 御親切な御指摘を頂いているのに その都度 自分自身解っていないのに拘らず 反発のようなこと書いてしまい 本当に申し訳けありません
    御親切に対し毎回非礼の繰り返しです 今の自分は この後もそうだと思いますので この辺で終わりにしたいです
    反省しています  少しでも成長ができるまで お時間を下さい
    感謝しています 本当にこのたびはお世話になり有難うございました。

         yamabiko0703

      補足日時:2015/09/03 13:46

A 回答 (7件)

どうも、再度回答いたします。



>> 浄土真宗派は 過去に悪人でも どんな方でも阿弥陀さんに手を合わして念仏しておれば救ってくださり『極楽浄土』に連れていってくれると説かれていると思います
>>それが 本当に信心している方は『極楽浄土』に チャランポランな方は輪廻の対象になるとの違いがあることだと解りました
 まず、「過去に悪人でも」とありますが、過去に悪を犯して未来は悪を犯さないでいられるならば、自分自身で悟りを開けばよいのです。悪を犯してきた私が、お念仏の教えに出会い「そんな悪を犯したお前でさえ救う」という仏の心に触れた時、悪を犯してなるものかという心が生まれます。しかし、私たちは生涯悪を犯し続けずにはおれません。先の正語の例でいえば、約束をしたにもかかわらず、どうしても約束を破らざるを得ない状況というものが生まれてきます。私たちはそうやって悪を犯し続けるのです。しかし、そんな私をも救ってやりたいというのが阿弥陀仏の本願です。浄土教では「悪を犯しつづける救われ難い私」という自己反省を「機の深信」と呼び、「そんな自分をも阿弥陀仏は救いたいと心をかけてくださっている」という慶びを「法の深信」と呼び、この二つの矛盾する考えが信心をより深いものにしていくといいます。このことを歌に詠まれたのが良寛禅師という御坊様で、禅師というくらいですから本来は座禅を組む曹洞宗の御坊様ですが、お念仏の教えにもよく帰依をされた方です。この良寛禅師の歌の中に

良寛の念仏歌 愚かなる身こそなかなかうれしけれ 弥陀の誓いにあふと思へば

とあり、良寛禅師は愚かな自分がかえってうれしいと歌に詠まれます。なぜかといえば、もし自分が「愚かさのない完璧な人間だ」なんて思っていたら、私は一人で立っているつもりだったじゃないか?自分は愚かであることに気が付くことができたからこそ、私はそんな愚かな私を支えてくださっている阿弥陀様の心に気付くことができたじゃないか、と読まれたわけです。つまり、愚かさを知ることはそこで止まってしまうことではありません。愚かさを知るからこそ、愚かさを支えてくれる阿弥陀仏のみならず多くの人の支えに気付くことができるのです。ですから、過去の悪人ではなく、生涯悪人なのです。
 また「ちゃらんぽらんな方は往生できない」というよりも、「往生したくない人は、往生しない」のです。本当に往生したい人は、往生の生き方をします。「念仏すれば、悪いことしても往生できるぜ」ってひとは往生がしたいののではなく、悪いことがしたいのです。そういう人は今生において往生はできません。けれども、こんな人も仏は見捨てません。その人が本当御意味で気づいてくれるまで阿弥陀仏は働きかけ続けてくださいます。

>> そのような考えを聞くと 仮に他宗派を深く信心している方が もしも私も『極楽浄土』に連れていってほしいと言っても それは対象外 行けませんよね。
 いやいや、行けますよ。例えば、親鸞聖人法然聖人の言葉から引きますと、法然聖人はその伝記『勅伝』の中で

達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。

親鸞聖人は『教行信証』信巻で

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

とあり、この智覚禅師は『興福寺奏状』という念仏弾圧の書状の中に

もし専念なき故に往生せずとならば、智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや。

智覚禅師は念仏もしていたけど他の自力の修業修して極楽往生を遂げられた人としています。このように、智覚禅師を念仏以外の自力の修業で往生した人と親鸞聖人法然聖人も認めています。
 ただ、自分で極楽やその他諸仏の浄土に行こうと思ってもこれは大変難しいことです。例えば、旅行に行くとしても、子供の時は子供の時で大変かもしれませんが、基本的には大人が連れってってくれます。しかし、大人になって旅行に行くときは自分で宿の手配をしたり、交通機関は何で行くのか、費用はどれくらいかかるのかといろいろ考えなければなりません。往生においても、阿弥陀仏の本願に基づいてお念仏を行ずれば、子供のころのように阿弥陀仏に手を引かれお浄土に参れます。しかし、ひとたび自らの力でお浄土に行こうと思えば、自分で向かっていくために修行法を選び、その修行を深く行事ていかねばなりません。それができる人は大変まれな方ということはあります。

>>同じ仏教なのに違いが出てくるのは 私の単純思考力ではそれが理解ができないのです 仏教は御釈迦さんの教え 御一人の教えなのに それが多くの教えに分かれてしまう 不思議なのです
 これは、お釈迦様の対機説法にかかわってきます。お釈迦様というお方は誰にでも同じことを話し続けた方ではありません。相手の今置かれている状況や性格、育ってきた環境等(これを一口に「機根」もしくは「機」と呼びます)に配慮しながらお話をしていました。これをわかりやすく「応病与薬」などと説かれます。たとえば、病院に行って風邪を引いた人にとっては神の手を持つ脳神経医は必要ですか?風邪を引いた人には、内科の先生が必要です。しかし、脳に異常のある人には、内科の先生は必要ありません。これと同じように、お釈迦様はその人が持っている心の病に合わせて、その相手に今一番必要な教えを説かれたのです。
 そして、その後それぞれの機根に合わせて説かれた教えが、体系的にまとめられ宗派という形をとるようになります。しかし、これは決して対立的なものではなく、英訳すると仏教の宗派はsectではなくcollegeと訳されることがあり、いわば学派という意味合いです。ですから、八宗兼学とか大小兼学とかそれぞれの宗派を総合的に学ぶという考えは古くからあります。ですから、他宗の考え方を否定していくというのは大きな誤りです。ですから親鸞聖人も御消息文の中で

聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真 言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。

と説いて、他宗の自力の修行者たちを人々に仏教とはこれほど厳しいものであると教えてくださる仏たちであると考えておいでです。けっして、他宗派の本気で修行に打ち込む方々を否定していたのではありません。
 ですから、仏教に宗派が分かれているのはそれぞれの機根に合わせてお釈迦様が教えを説いたことに由来します。過去においてはどちらが正しいかみたいな時代もございましたが、本来そのようなものでなく、それぞれに真理へと向かうための方法論として考えられます。
 そのなかで、私のようなアホは念仏の教えがちょうどよいのです。

>>そんなことを考えていると 宗派の考えは 政治世界でよく言われる「党利党略」「独善的」の言葉と同じ印象を感じてしまいます 仏教としての画一的なところがないのですね。
 ですから、この考えはある意味間違いです。画一的になってしまっては意味がないのです。もちろん向かうべき方向性には一定の基準はありますが、その方法論は画一的であってはなりません。
 例えば、お釈迦様のお弟子の中でもサーリプッタ尊者は道端でお釈迦様に入門したばかりのお弟子にちょっと話を聞いただけで悟ります。また、 チューダ・パンタカ尊者はお釈迦様に「掃除せい」といわれ、掃除してると悟ります。けれども、サーリプッタ尊者に掃除をさせても悟れなかったでしょうし、チューダ・パンタカ尊者に入門したばかりのお弟子が同じ話をしても悟れなかったでしょう。仏教の特徴はこの画一的でないところです。しかし、その至った悟りを互いに否定しあうことはないわけです。

>>難しい宗派の教えよりも わかりやすく私の心には強く響きます
>>前回私は「八正道」のほうが具体的でわかりやすいと書きましたが 上記の意味と同じ意味で云ったものでした そして「八正道」は仏教での画一的な教えとして 誰もが話しやすい?
 ここで申し上げたいのは、引用が多かったり漢文で書いてあるからそう感じるのかもしれませんが、仏教各宗派案外難しいことは言っていません。浄土教に関して言えば一文字も字が読めないというような方々のなかにも、妙好人と呼ばれる念仏の教えを体得した方々がいらっしゃいます。そして、禅文化を広く海外に知らせた鈴木大拙氏も、妙好人は何年も禅の修行をした僧侶と同じ悟りに達していると称賛しています。ですから、私が説明した教学って本当は必要ないんですね。浄土教においてはそんなこと何にも知らなくてもお念仏によって自然に悟りへと導かれます。
 そんな私にとっては逆に八正道の方が人に説明するの難しいです。先の回答でも思いましたが、教科書的に説明するのは簡単なんですが、本当の意味が伝えられません。というか、私には行ずることのできない教えです。大変難しいです。
 最後にこんな話で締めくくります。あるとき白楽天という人が鳥窠禅師という人に「仏教って結局なんですか?」と尋ねます。すると、鳥窠禅師は「悪いことをやめて、善いうことをすることです」と答えます。すると白楽天は呆れ顔で「そんなの三歳の子供でも知ってますよ」とこたえます。すると鳥窠禅師は「その通り、三歳の子供でも知っているようなことを、齢八十をこえたわしが行ずることができない」と答えたそうです。
 仏教というのはどの宗派であっても知っていても、行ぜられなければ、何の意味もありません。どうぞ、ご自身にとっての仏教をどうぞ探してください。
 急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

この度も長文 ありがとうございます。

お釈迦さんの教えがたくさんの宗派に分かれているとの私の疑問ですが 表現として画一的と書きましたが それはひとつの考えにしてしまえと!言ったわけではありません せめてにも 大きく変わらない考え方で修めるべきではないのかなぁと思う次第です 基本的な教えの中にも180度も違う? と感じるところは避けるべきだと思うのです
>他宗の考え方を否定していくというのは大きな誤りです
>それぞれに真理へと向かうための方法論として考えられます。

大きく違っていません 真理を追究するための方法論ですと言われますが・・
私の知識不足の頭は それに対しても 「そうかなぁ?」と思ってしまうのです
例えば 死後「浄土」に行くには 仏教一般的な教えでは 生きている間に「利他の心」を持ち 自分より周りの他人に心遣いをする生き方が出来れば 来世は浄土の世界に行ける 要するに「自分より他人に慈愛を」の生き方ができれば 浄土への約束ができるのですね
それが浄土系宗派では 私が理解している範囲内では 他人との関係でなく個人 本人のみですね 念仏を唱えていれば極楽浄土の約束ができるのですね 他人との関わりを大切にとは言っていません 個人内でクローズした教えと理解しています 基本的な教えは そうだと理解しています
この違いだと 生きている私たち、仏教について無知なレベルの私たちは どう実践すれば良いのか大きな悩みになります まだ仏教をよく理解していないものにとっては 云われている二つのこと「自分を磨け」または「自分より他人に愛を」は180度違った教えのように見えます 同じ方向性を向いているとは思えないのです

法然上人の時代は戦乱が続き庶民の人生は今とでは比較にならない苦しみがいっぱいの時世 生きるにも容易でない苦しみばかりで逃げ場のない時代 
せめて来世では幸せになりたいと思う庶民の気持ちは、法然上人の教え「念仏」で救われると聞くと 誰しもがそれを信じる 信じたいと思った その気持ちよく理解できます
ですから 浄土系が広まったその時代には法然上人、親鸞上人の教えは大きく必要だった それは庶民を救う大切な教えだったと思います
でも 今の時代には その教えは それで良いのか? それに対する私の気持ちは 上記で書いた疑問になります。

お礼日時:2015/09/03 11:32

またまたボーズです。

自分の説明力不足を感じています。

>>「浄土宗派と浄土真宗派」は『輪廻はしない』と云われている?
>>と言うことは「浄土宗と浄土真宗」は輪廻転生(釈迦も言っている)は肯定しているが 実際には輪廻はしないという教えなのでしょうか?

 まず輪廻についてですが、仏教においてはその前提として、私たちは生まれ変わり死に変わりし続けていると考えます。こんな話をすると日本人のなかには「また生まれ変われるなんて素敵」なんてプラスの意味でとる人があるようですが、仏教においては輪廻を「人間って的本的にあほだから同じ過ちを繰り返し続けて苦しみ続ける」というマイナスの意味でとらえます。例えば、『スッタニパータ』の最古層の一つと考えられる部分第四章「アッタカ・ヴァッカ」には

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。(以下『スッタニパータ』は中村訳『ブッダのことば』)

とあって、妄執を離れられないために輪廻からも離れることができないと説かれています。ですから、輪廻の原因は妄執であり、いわば煩悩です。この煩悩によって、私たちは輪廻し、またそれぞれの生によって苦しみを受けることになると考えるわけです。
 これは日本仏教特に浄土教においても、法然聖人は『登山状』の中で

その流浪三界のうち、いづれの界にをもむきてか、釈尊の出世にあはざりし。輪迴四生のあひた、いづれの生をうけてか、如来の説法をきかざりし。『華厳』開講のむしろにもまじはらす、『般若』演説の座にもつらならす、鷲峯説法のにはにものぞます、鶴林涅槃のみぎりにもいたらす、われ舎衛の三億の家にややとりけん、しらず地獄八熱のそこにやすみけん、はづへしはづへし、かなしむへしかなしむへし。

として、「輪廻して生まれ変わりしている間に私はいずれかの仏に会うことはなかったのだろうか?どうしてお釈迦様が数多くの経典を説かれているところに出会えなかったのか?お釈迦様が悟りを開かれたことを知らずにいたのか?地獄に落ちていたのか?何と愚かなことであろうか、何とも悲しいことである。」として、自身の輪廻観について語っていますし、親鸞聖人も弟子唯円師が書き記した言行録である『歎異抄』の中で

一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり

として、「この世に生きる者たちは、生まれ変わり死に変わりしている間に父母であったり兄弟であった者たちである」と、やはり輪廻を前提としてします。

 そして、この「輪廻ということをどうにか解決したい」というのが仏教の基本的な目的の一つです。これは仏教に限ったことではなく、仏教と同時期に生まれた宗教にとっての目標でもあります。ですから、お釈迦様は『スッタニパータ』第五章「パーラーヤナ・ヴァッカ」の中で

1123 師は答えた、
「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

とか

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」

とあって、お釈迦様は「輪廻しないようになりなさい」と説いています。つまり、ここでお釈迦様は輪廻からの解脱というものを説いているわけです。
 これについては、浄土教においても同じで親鸞聖人は『教行信証』信巻において

往相の一心を発起するが故に、生として当に生を受くべき无し、趣としてまた到るべき趣无し。已に六趣・四生因亡じ果滅す、故に即頓に三有の生死を断絶す。

とあって、極楽往生を輪廻からの解脱と考えています。ここで、問題となるのは

>>「浄土宗派と浄土真宗派」は『輪廻はしない』と云われている?

という問いなのですが、私には質問の意図が測りかねますが、もしも「浄土教では死んだらすべての人が往生するんだから、輪廻はしない」という意味でおっしゃっているのであればこれは間違いです。先の引用文でも「往相の一念発起するが故に」とあり、往相の一念を発起していない場合往生はできません。親鸞聖人は『一念多念文意』においても

信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり

とあって、信心ないひとは往生ができません。ですから、信心の無い方は、今まで通り輪廻します。
 しかも、この信心というのは決して一般的に言われる「信じる」ということではありません。親鸞聖人は信の対義語として「疑蓋」という言葉を当てていますが、「疑蓋」という語が何を意味するかを調べますと、天台大師の『法界次第初門』に五蓋の説明として。まず「蓋」について、

蓋とは、覆蓋をもって義となす。よく行者の清浄の前心を覆蓋して開発することを得ず。故に名づけて蓋と為す。

とし、「疑」とは、

痴の心をもって理を求め、猶予して決せず、これを名づけで義と為す。もし、定等の法を修道するに、無明暗鈍にして真偽をわかたず。猶予生ずるによって、心に決断なきは、みな疑というなり。世間の通疑と一にあらず。

とあって、疑蓋とは愚痴無明の心をもって仏道を行じていても、「ほんとにこれでいいのかな」と思いながら行じていく姿を言い、一般的な疑いという意味ではないとあります。つまり、浄土教において説かれる信心とは仏道を行ずる中で得られる実感のある確信ということになります。何もしないで信じるとか信じないと言っているのではないのです。細かく申せば、先ほどから回答にあげている自らの称える念仏が阿弥陀仏の声として聞こえるという、仏との出会いを浄土教では信と呼ぶわけです。浄土真宗では特に「聞即信」といわれます。
 この、信心を得ていない人とはどのような人かといえば「念仏すれば誰でも救われるんだから、何したっていいや」という理解をしている人です。だから、法然聖人も『禅勝房伝説の詞』のなかで

念仏の助業と思わずして身を貪求するは、三悪道の業となる。

念仏称えれば何をしたって救われるからと、お念仏を理由にして自分の欲望を追及する人は地獄・餓鬼・畜生の三悪道に落ちる行いになってしまいますと戒めておいでです。前々回の回答にあげた法然聖人の「たとえば父母の慈悲は・・・」で始まる御法語のところでお話ししたように、本当にお念仏の信を頂いている人は、もちろん今生においては自らの愚かさ故に悪を犯すこともあるでしょうが、「できれば悪を犯さないように」と生きるものです。しかし、それは自分の心から現れたものではなく、阿弥陀仏を中心とした多くの方々のお力であったと考えるわけです。ですから、他力というのも「他人任せ」という意味ではなく、「後からよく考えてみれば自分の内から出たものなんてなかった」と気づくことです。そういうお念仏を中心とした往生という生き方をするからこそ、極楽への往生がかなうというのです。

 上述のように、仏教の一つの目的は、生まれ変わり死に変わりする輪廻をやめて「ちゃんと死ぬ」ってことです。このちゃんと死ぬためには「ちゃんと生きない」といけません。ちゃんと生きられなかった人は、ちゃんと生きられるようになるまで輪廻を繰り返すわけです。この点については仏教全体に通底しています。
 しかし、現代社会において輪廻ということは大変受け入れがたいものです。私だっていまだに「えー」って思うことはたくさんあります。しかし、そういった私たち現代人の物差しでもって「これは、後からの付け足し」「これはきっと本物」なんて取捨選択するというのは、大変傲慢な態度に思えてなりません。確かにパーリ『増支部』「カーラマ経」の中には「経典にあるからと言って、簡単に信じちゃだめです」なんて話もありますが、まずは当時の人たちがどのような理解にたっていたのかを経典を素直に読み解くことで理解して、それを私たちがどのように受け取っていくかを考える方が良いのではないかと思います。

 短くしたいのですが、私いちいち引用しないと気が済まないタイプなので、分かりにくいかもしれませんが、「輪廻からの解脱」という点を主にまとめてみました。何となくわかっていただけましたか?どうぞご自身の理解を深めていってください。急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

再々度 無理なお願いに応えて頂きありがとうございます 感謝します
難しいですね  教えて頂いた核心部分については またじっくり勉強させて頂きます

私レベルでは論理的に書けません マンガ表現になりますがお許し下さい。
浄土真宗派は 過去に悪人でも どんな方でも阿弥陀さんに手を合わして念仏しておれば救ってくださり『極楽浄土』に連れていってくれると説かれていると思います
それが 本当に信心している方は『極楽浄土』に チャランポランな方は輪廻の対象になるとの違いがあることだと解りました
そのような考えを聞くと 仮に他宗派を深く信心している方が もしも私も『極楽浄土』に連れていってほしいと言っても それは対象外 行けませんよね 
信心している如来の『浄土』に行ける? 行けない? どうなるのか分かりませんが  同じレベルの信仰心を持っていても宗派の違いで その扱いは違うのですよね 同じ仏教なのに違いが出てくるのは 私の単純思考力ではそれが理解ができないのです 仏教は御釈迦さんの教え 御一人の教えなのに それが多くの教えに分かれてしまう 不思議なのです
そんなことを考えていると 宗派の考えは 政治世界でよく言われる「党利党略」「独善的」の言葉と同じ印象を感じてしまいます 仏教としての画一的なところがないのですね。


>仏教の一つの目的は、生まれ変わり死に変わりする輪廻をやめて「ちゃんと死ぬ」ってことです。このちゃんと死ぬためには「ちゃんと生きない」といけません。ちゃんと生きられなかった人は、ちゃんと生きられるようになるまで輪廻を繰り返すわけです。この点については仏教全体に通底しています。

私もこの表現考え方には強く魅かれます
難しい宗派の教えよりも わかりやすく私の心には強く響きます
前回私は「八正道」のほうが具体的でわかりやすいと書きましたが 上記の意味と同じ意味で云ったものでした そして「八正道」は仏教での画一的な教えとして 誰もが話しやすい?

このたびは貴重なアドバイスをたくさん頂き ありがとうございました
教えて頂いた事柄は ゆっくりですが 勉強させて頂きます 感謝しています
ありがとうございました。

お礼日時:2015/09/01 16:18

お返事遅くてすみません。

私も金儲け主義のクソボーズなので、いろいろ立て込んでおりました。

>>阿弥陀仏に手を合わし続けることで その方の心は悪業することも無くなり清い心に変わっていく そのような人間になれば現世で幸せを得たことになる
>>確かに 私もそうだと思います  ただ そのような考えは浄土系宗派だけでなく どの宗派でも教えていることではないのでしょうか? 間違っていたらごめんなさい
 いえいえ、間違ってはいませんよ。細かいことを言えばきりがないのですが、仏教初学ということですので細かい指摘はしないようにしますが、大まかなところはそうなんですよ。浄土教って仏教の中では異質のものと扱われることが多いのですが、海外論文でポール・ウィリアム氏の『MahāyānaBuddhism:TheDoctrinlFoundations』という著作の中では、最終章「Fath and Devotion」においては日本浄土教の特に親鸞聖人の思想を例とし説明し、仏教最古の経典である『スッタニパータ』の中でも最古層に属す五章「パーラーヤナ・ヴァッカ」との比較し共通点と独自性を論じ、その共通性も多分にあるとしています。「パーラヤナ・ヴァッカ」の中では自らの力では悟りに向かうことのできない自分を嘆くピンキヤ尊者がお釈迦様の導きをもって念仏(ここでは釈迦仏を念ずることで称名ではありません)することによって、その修行によって現れたお釈迦様(このお釈迦様は実在の人物が現れたのではなく瞑想体験の中にあらわれたお釈迦様です)の声を聴き悟りへと向かっていきます。日本浄土教も、自分自身が悟りを開けないと自覚したものが、念仏を称える中で自らの念仏が仏の声であると聞こえた時(『大阿弥陀経』の中では「阿弥陀仏の声を聴くもの」とあり、これも念仏による仏との出会いを表します)に悟りの世界へと導かれていきます。ある意味日本浄土教の思想もじつは仏教最古の経典に説かれている内容の構造から、じつはそれほど大きく逸脱してはいないんです。

>>また、そのような意味であれば 阿弥陀さんのその教えよりも お釈迦さんの「八正道」の方が具体的に書かれており 自分はどうすれば良いのかが強く自覚することができます 
 八正道が具体的ですかぁ?うーん、これに関しては何を論拠としていらっしゃいますか?わたくし比較的古い経典の形を体系的に残している、東南アジアのほうに伝わったパーリ聖典もいろいろ読ませていただいて、八正道に関してもどの経典のどのあたりにそんな記述があったなというくらいは何となくわかっている程度ですが、八正道はどのあたりに具体的な説明がありますか?私にはちょっと見当がつきません。インド哲学が専門の宮本啓一氏『ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ』の中において「(中略)その八支(八正道)の一つ一つが、本来正確には何を指していたのかは、やや判然としないところがある。したがって、後世のアビダルマ仏教で説かれる定義を参照しなければならない。(カッコ内私の注記)」としていて、私もこれに同意見です。私たちが知っている八正道の説明はもちろん経典を基礎としていますが、多くのものはその解説書であるアビダルマによったものです。では、「お釈迦さんの八正道」とはどのようなものなのでしょう?
 確かに経典の中にはこれが八正道の内のこれに当たるのだろうという具体的な例を目にすることがあります。例えば、「正語」を例に挙げますと、経典の中でお釈迦様はお食事会に誘われたとき、先約があってうかがえない時ははっきり「いけません」と断ります。しかし、いけるときは対外沈黙をもってお答えになられます。(複数の人からいっぺんに申し出られた場合はこの人にしますといいますが)ではなぜ、「オッケー」の時は沈黙なのか?もし、「伺います」と言ったにもかかわらず、何かはずせない急用ができていけなくなってしまった場合、「伺います」という言葉は嘘になってしままします。これが「正語」の姿です。どうでしょう、これってご自身が実践できますか?少なくとも私にはできません。
 また、この八正道は『パーリ律蔵』「大品」などをも読むと、四諦ではなく中道の説明として説かれています。この中道に関してですが、
修行者たち、出家した者が行ってはならない二つの極端がある。 その二つとは何か。一、さまざまな欲が起こった時に、欲の快楽に耽ることである。それは下劣で野卑で、愚かな行いであり、高尚でなく、自分のためにならない。二、自ら苦しめることである。これは苦しみであり、高尚でなく、自分のためにならない。如来は、この両極端に近づかず、中道によってダルマを説いた。
とあって、「出家した者」を対象としています。このように、中道というのは出家者向きの考え方ともいわれます。
 八聖道も実践論として四諦の中の道諦の内容として説かれたものと、出家者のある意味悟りの境地としての八聖道という意味がありますが、この相互関係などを考慮すると現代の解説書にある一般の人でもできる八正道なんてのがありますが、その内容がそのままお釈迦様の八正道とは私にはどうしても考えられません。

>>そして、仏教であるので お釈迦さんに手を合わす方が筋であると思うのですが?
 では、お釈迦様が自分以外ブッダを礼拝せよとおっしゃっていたらどうですか?例えば、過去七仏という考えが仏教の中にあります。『スッタニパータ』のなかにもお釈迦様を「第七の仙人(ブッダ)」(中村元氏訳『ブッダのことば』356)と呼び比較的古い段階からある考えです。また、『スッタニパータ』とほぼ同時期に成立したといわれる『ダンマパダ』第十四章ブッダ(中村元氏訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』)の中に

195、196 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。

とあって、ここでは個人個人の名前はあらわされませんが、「もろもろのブッダ」とあって自分以外のブッダそして弟子たちを供養することをお釈迦様自身が勧めています。
 しかし、「そのブッダに阿弥陀仏は含まれないのではないか?」という反論があるでしょうが、もちろん歴史上のお釈迦様自身が阿弥陀仏自体を説いたとは私も考えてはおりません。しかし、阿弥陀仏がお釈迦様の仏陀の定義から外れるとも考えていません。このブッダの定義に関しては文字数の関係上割愛させていただきますが、『シリーズ大乗仏教5仏と浄土ー大乗仏典Ⅱー』に収録されている新田智通氏「大乗の仏の淵源」を参照してください。

>>そんなことで考えていると 浄土系の教えは「現世」よりも「死後の世界」に大きくウエイトを置いた教えだと 自分勝手に思い込んでしまい その辺のところが物足りなく やりきれない気持ちになります。
 では、お釈迦様は「現世」ウェイトを置いていたのでしょうか?先ほどからあげている仏教最古の経典『スッタニパータ』を見ても、「この世とかの世ともに捨て去る」という定型句が何度も現れます。お釈迦様の教えにおいては「現世」も「死後の世界」も双方捨て去るべきものであって、決して現世にウエイトを置いた教えではありません。もちろん死後の世界にウエイトを置いた教えではありませんが、現世もウエイトを置いてしまっては、それは結局執着でしかありません。仏教ではいわば現世にウェイトを置いた教えを断見と呼び、死後の世界にウエイトを置いた教えを常見を呼び、お釈迦様は双方を否定するのです。
 では、浄土教は常見ではないかという方がよくありますが、これは大きな誤解です。法然聖人はその御法語の中で

生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし。

とあって、「生死ともにわずらいなし」というのが浄土教の人間のいきつく境地です。お釈迦様は『スッタニパータ』の中で遍歴の行者サビヤが「どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか?」という質問に対して、

516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは(自己を制した人)である。

ととかれ、これは法然聖人の言葉に重なるものであると私は考えます。仏教の言いたいことの一つを大変簡単な言い方をしますと、「ちゃんと生きて、ちゃんと死ぬ」ってことです。この点において、浄土教においても決して現世と死後どちらかによることはないんですよ。あくまで生死不二であり、双方への執着をともに捨て去るところに行きつくわけです。

 質問者さんの文章を読んでいますと、どうも「現代人の理解しやすい仏教」を求めている傾向にあるように思います。もちろん入門としてはそれでよいかもしれませんが、そういった考えは自分の理解できないところは切り捨てる傾向にあります。例えば、「お釈迦様は輪廻や死語を説かなかった」という人たちは、お釈迦様が死後や輪廻について語っているところを後世の付け足しとしてしまします。けれども、『スッタニパータ』の最古層部分にも輪廻思想を前提とした解脱が説かれています。結局、「お釈迦様は輪廻や死語を説かなかった」という人たちは「現代人の理解しやすい仏教」を求めているのであって、仏教と真摯に向き合うつもりはないではないかと思ってしまいます。質問者がそうならないことを願います。

急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦を。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

ありがとうございます
仏教に対する貴重なご指導 本当に有り難く感謝しています
興味持って読ませて頂いていますが 何分にも私レベルではスイスイと理解が進みません 時間をかけてじっくりと勉強させて頂きます 悪しからず ごめんなさい。

仏教も原始仏教時代からすると 多くの考え方が幅広くあろうかと思うのですが 今自分がやりたいことは その中から『私が信ずることが一番深くできる教えはどれ?』を模索している そんな進度状態です そんなところなので 失礼な疑問も書いてしまい ごめんなさい 
ただ 私にとっては その失礼な質問により ご住職様にいろんなことを教えて頂き幸い とても勉強になります。

最後の説明のところですが またまたわからなくなりました
>結局、「お釈迦様は輪廻や死語を説かなかった」という人たちは「現代人の理解しやすい仏教」を求めているのであって、仏教と真摯に向き合うつもりはないではないかと思ってしまいます。質問者がそうならないことを願います。

上記のご指導文のところと「浄土宗派」「浄土真宗派」の云われている教えとを並べてみました
「浄土宗派と浄土真宗派」は『輪廻はしない』と云われている?
と言うことは「浄土宗と浄土真宗」は輪廻転生(釈迦も言っている)は肯定しているが 実際には輪廻はしないという教えなのでしょうか?

お忙しくされていらしゃられるのでご無理は申しません もしお時間が許される時で結構ですので・・ ホント簡単でいいですので。

お礼日時:2015/08/31 12:16

どうも、俗に真宗のボーズと呼ばれるものです。



>>浄土系の教えは「南無阿弥陀仏」と唱えておれば 阿弥陀仏に救われ極楽浄土に連れていってくれるとの教えと認識しています。
 これはあながち間違いではありません。確かに、浄土教においては往生を目指します。

>>これだと幸せは現世で求めないで 来世で幸せになりましょうと聞こえるのですが この認識は間違っているのでしょうか?
 しかし、この認識は少し違うように思います。「現世で幸せ」という言葉をどのような意味で使っているのかは測りかねますが、私の思うところを書きます。
 まず、浄土教にしろ仏教全般において「幸せになる」というのは、簡単に言えば悟りを開くことです。しかし、私たちはなかなか今生において自らの愚かさ故に悟りを開くことは難しいので、極楽浄土という阿弥陀仏が作った学校に入学して、阿弥陀仏や観音菩薩、勢至菩薩、その他多くの諸仏諸菩薩の御指導を頂いて悟りへと導いていただくというのが浄土教におけるとりあえずの目標となります。ですから、そういう意味で「現世での幸せ」は求めようとしても得ることができないわけです。
 しかし、これを「死んでから救われる」という人がありますが、死んでから救われるのって結構難しいんです。
 例えば、こんなお話があります。ある大金持ちの男が自分がそろそろ命が終わることを知ります。この男は金のためならどんな汚いことでもするという男で、巨万の富を得ることに成功しました。けれども、その時「死んで金は持って行けるものでなかった」と気づきます。ここまではよかったのですが、やはり今までそういう生き方をしてきた人ですからここからの発想がよくありません。「金を死んでもっていけないなら、他のものなら持って行けるものがあるんじゃないか?」いろいろ考えてこの男は「名誉だけなら持って行けるかもしれない」と考えます。そこでいろいろ考えまして、息子を枕元に呼びまして
「息子よ、私は大変汚い生き方をしてきてしまった。けれども、金は死んでもっていけるものではなかった。どうか、私と同じ間違いを人々にしてほしくはないから、金儲けばかりしていた私でさえも死んで金は持って行けなかったということを、人々に教えるために私の右手を棺桶の中から出しておいてくれ。何も持っていないとみんなの教えてくれ。」
と伝えますと、こういう人の息子さんというのは案外真面目だったりすることがあります。お父さんの言葉を聞いて「親父やっと気が付いてくれたのか、よかった、よかった」と涙を流して喜んでいるのを見ながら、この男は「しめしめ」と思いながら息を引き取ります。そして葬式当日には言われた通り棺桶から右手を出して何も持っていないことを人々に示しました。すると、そこに参列した人たちはそれを見て「親父さんは最後に気付かれて、私たちを教え諭してくださった。」「あの方は最後に善人になったんやな。」「ありがたいことや」とその男をほめたたえた。ということには決してなりませんでした。棺桶から出た右手を見た人々は「あの人は死んでも金をほしがってる」と思ったそうです。
 このように、死んでからいい人になろうというのは大変難しいことです。金に執着する生き方をした人は、金に執着した死に方が待っているのです。仏教ではこれを「生死不二」といいます。生は死であり、死は生であり、生き方は死に方で、死に方は生き方です。つまり、浄土教においても死して往生を得ようと思えば、生きて往生の生き方をしなければなりません。

 では往生の生き方とは、その中心になるのが「南無阿弥陀仏」を称えることです。浄土教においても「唱える」という書き方をすることがありますが、特に浄土真宗では「称える」のみを使って唱えると書くことはありません。それはなぜかというと親鸞聖人は『教行信証』の中で
「称」の字、軽重を知るなり
といい、また『一念多念文意』の中では
「称」とは御なをとなうるとなり、また称ははかりというこころなり
として、漢字の成り立ちから考えれば「称」という字は「秤」と同じ起源をもっていて、お念仏を称えることは軽重を知ることであるとしています。この「軽重」とは、軽いは私たち、重いというのは阿弥陀仏の事で、平易にいい方をすれば「お念仏を称えるは、阿弥陀仏と私たちの関係性を知っていくこと」としています。
 では、阿弥陀仏と私たちの関係とはどのような関係かといえば、一つには『無量寿経』というお経の中には「唯除五逆誹謗正法」とあります。これは、五逆罪といって仏教徒が絶対犯してはいけない罪を犯したものと、仏教を誹謗中傷したひとは救いの対象から外しますとあって、簡単な言い方をすれば「悪いことした人は救えません」とあります。しかし、『観無量寿経』下品下生には「どのような悪いことした人でも救います」と書いてあります。大変な矛盾がここにあるわけですが、これを浄土教では抑止門、摂取門と説いてまいりました。これについては昔の方はこんな和歌を詠んでおります。
父は照る 母は涙の雨となり 同じ恵みで育つ撫子
これは、撫子の花に子供の成長を譬えた和歌です。今となっては父親と母親の役割が反対なんてお宅も多いのかもしれませんが、この和歌の中では、父親は子供を遠くから太陽のように見守っている、しかしその子が何か間違いをおかせば太陽が大地を干からびさせてしまうように、その子を拳骨の一つ叱りの一つもくれてやらねばならないことがございます。しかし、拳骨や叱りという乾いた大地だけでは、撫子の花は美しく咲くことはできません。拳骨を一発くらってもいいから、叱りを自身に受けてもいいから、我が子をかばってやりたいという、雨が大地を潤すような母の愛がなければ、撫子の花は美しく咲くことはできません。父親と母親、太陽と雨、全く違っているように見えますが、「同じ恵みに育つ撫子」です。つまり、『無量寿経』に説かれる「悪いことした人は救えません」という抑止門は「悪を犯してはならぬぞ」というお叱りの親心を表し、『観無量寿経』に説かれる「どのような悪を犯しても救う」という摂取門は「どのような悪を犯そうとも見捨てぬものがここにいる」という慈しみの親心を表します。つまり、抑止門と摂取門の二つをもって私たちを仏へと育てようとしてくださっちるのが阿弥陀仏の心です。
 そして、その心を頂くということを法然聖人はその御法語の中で
たとえば、父母の慈悲は、よき子をも、あしき子をもはぐくめども、よき子をばよろこび、あしき子をばなげくがごとし。佛は一切衆生をあわれみて、よきをもあしきをもわたし給えども、善人を見てはよろこび、悪人を見てはかなしみ給える也。よき地によき種をまかんがごとし。
と説いて、親とはまじめな子でもいたずらっ子でもしっかりした人になってほしいと御育てくださいますが、自分の子が良いことをしているの見ればうれしさに涙を流し、悪いことをしているところも見れば悲しみの涙を流します。同じように阿弥陀仏も善人悪人分け隔てなく救いますが、悪人を見れば悲しみ、善人を見ればよろこばれます。だからこそ、阿弥陀仏の心を頂いたならば、善い人になりたいと生きていかねばなりませんとしています。
 これが、私たちと阿弥陀仏の関係です。また、親鸞聖人は先にあげた『一念多念文意』の続きに
名号を称すること、一声十声きくひと、疑うこころ一念もなければ、報土に生ると申すこころなり
として、「自分の称えた念仏を聞く」と説いておられます。つまり、自分の称える南無阿弥陀仏の中に、阿弥陀仏の抑止摂取の両門の心を聞いていくことが、念仏を「称える」ということの意味です。そうやって、お念仏を称え、お念仏を仏の声と聴く中で中で親鸞聖人は悪を犯さずにはいられない自分が、阿弥陀仏の御育ての心を頂いて変わっていく姿を、
超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかわらねど こころは浄土にあそぶなり
と和讃に記しておられます。このような、お念仏を称えながら、私たちと阿弥陀仏との関係性を実感し、悪を犯さずにはおれない私たちが、仏へと導かれていく人生を送るのが浄土教における「現世における幸せ」ということになります。

 無駄な話も多かったかもしれませんが、制限の文字数の中で私の思うところを書かせていただきました。急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

大変な長文を書いて頂きありがとうございます 大変な労力を頂き感謝しています。
私は仏教に最近から少し関心を持つようになった初心者です
だから 仏教については ど素人ですので 無茶苦茶ことを言うと思いますが お許しをください
お言葉を返すような意見なって申し訳けありません

阿弥陀仏に手を合わし続けることで その方の心は悪業することも無くなり清い心に変わっていく そのような人間になれば現世で幸せを得たことになる
確かに 私もそうだと思います  ただ そのような考えは浄土系宗派だけでなく どの宗派でも教えていることではないのでしょうか? 間違っていたらごめんなさい
また、そのような意味であれば 阿弥陀さんのその教えよりも お釈迦さんの「八正道」の方が具体的に書かれており 自分はどうすれば良いのかが強く自覚することができます そして、仏教であるので お釈迦さんに手を合わす方が筋であると思うのですが?

そんなことで考えていると 浄土系の教えは「現世」よりも「死後の世界」に大きくウエイトを置いた教えだと 自分勝手に思い込んでしまい その辺のところが物足りなく やりきれない気持ちになります。

知識浅薄なところからの意見で申し訳けありません お許しください。

お礼日時:2015/08/27 16:51

そういう話は聞きますねえ。

現世があまりに悲惨だから、来世に幸せになろうと

私が「来世なんてあるんですかね」と言うと 

「来世があると思わなければ生きていけない人もいるんです、そういう人から来世を取り上げないでください」と

「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる と言うのは苦しむ民の希望を来世に見せた 親鸞上人の智慧の業だと思いますが

お坊さんがどう思ってるのかは知りませんが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
知恵も金も 何も持っていない底辺の人間はどうすることもできないので、「諦め心」を教えているように見えて仕方がありません
その「諦め心」をしっかり持つことで「幸福感」を感じる?  何か間違っているように思えて仕方がありません。

お釈迦さんの教えは もっと前向きなのですよね。

お礼日時:2015/08/26 13:33

民衆救済を目的とするのが須らく仏教の教えであることから、来世のみが幸せであれば良い等ということは有り得ません。


その考え方として、浄土系宗派は、来世の幸せは約束されているのだから、何も余計な心配などしないで、死など恐れずに朗らかに生きて行きなさい、というものです。
それによって物質的な充足が得られるか否かは人それぞれだとしても、今世における精神的安堵を与える目的を有していると言えます。
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この回答へのお礼

再度回答して頂きありがとうございます。
『教え』についてわかりやすく説明して頂き理解ができました
ただ その教えについて なんとなく個人的には納得ができないですね(笑)
まだ誰もが知らない来世の世界での「幸せ」が約束できているから まぁ現世の幸せには あまり執着しなくてもいいじゃん・・ こんな理屈は はい そうですかと なかなか受け入れられる気持ちになれませんね(笑)
やっぱり現世でも幸福を求める教えがあればと思います。

お礼日時:2015/08/26 13:20

凡そ正鵠を得ています。


「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも、死後、浄土で仏になることができると説く「自力念仏」の浄土宗と違い、浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、必ず極楽浄土に行くことが約束される「他力念仏」なのです。
両者に共通しているのは「約束手形」であると言いつつ、実は「空手形」であるということです。

http://www.e-butsuji.jp/butsuji6-1.html
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます
できれば教えて頂きたいことは 浄土系宗派の教えは現世での救い(幸福/精神的または物質的)も追求する教えなのでしょうか?
それとも来世での救いのみを教えているのでしょうか? その辺のところが知りたいのです。

お礼日時:2015/08/26 10:57

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