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ゴッホの解説書を読んでいます。
解説者の山梨俊夫氏は、最初に次を振っています。
<もちろん当時の日本の実情と合ったものではなく、ゴッホの理想が仮借された日本であった。>
以下は、ゴッホの手紙だと思います。
<日本の芸術家たちがお互い同士実際によく作品を交換したことに、ぼくは前々から心を打たれてきた。これは彼らがお互いに愛し合い、支え合っていて、彼らの間にある種の調和が存在していたことの証しだ。>
教えて頂きたいことは次のとおりです。
ゴッホの仮借としても、当時の日本には、ゴッホに仮借させるような、どういうことがあったのですか?

A 回答 (6件)

No.3です。


ルイ・ゴンスの文の引用、翻訳のしかたがよくなかったかもしれません。
「新年には互いに贈り物をしあうのが普通であった」というのは、浮世絵の一種である「摺物」を、新年の挨拶として交換しあったということですね。この「摺物」は、お祝いの品であったり、記念品であったり、商品の宣伝であったりしたものです。今で言えば、年賀状や暑中見舞いの挨拶状とか、商店や企業が挨拶と宣伝を兼ねて配るカレンダーとかと同じ感覚のものだと思います。このような、いわば「習慣」のようなものについての情報を、ゴッホは、芸術家同士の融和、支え合いと受け取ってしまったようです。
ゴッホは日本に大変強い憧れを持っていました。浮世絵の模写などもありますよね。日本に対する想像が膨らみ、実際にはなかったような、ゴッホにとっての理想的な芸術家の生活形態が日本にあると思い込むようになったと思われます。手紙の文はこう続きます。「それはお互いに愛し合い助け合っていたしるしだ、彼等の間にはある種の融和があったに違いない。きっと情誼に厚い生活で、もちろん、陰謀もないだろう。われわれが、こうしたところを見習えば見習うほど一層よくなるはずだ。なんでも日本人たちはごく僅かの金しか稼がず、普通の職人のような生活をしたそうだ。」
この時代のヨーロッパにも、支え合いがなかったわけではありません。画家たちを支持し、援助する画商もいましたし、画家同士でも、たとえば、印象派の画家、カイユボットなどは、遺産を受け継いで裕福だったため、仲間の画家の作品を買い取って経済的な援助をしました。ゴッホが理想としたのは、そういうことよりももっと組織的で、芸術家同士が完全な兄弟愛のようなもので結びつけられた共同体のようなものだったようです。これは、ゴッホがもともとは聖職者をめざしたほど宗教心が篤かったこととも関係するのでしょう。日本の昔の文化人たちの交流が密であったとしても、そこまで高度なユートピア的共同体というわけではなかったということで、そのあたりのゴッホの思い込みを「仮借」と表現したのだと思います。
当時のヨーロッパでは浮世絵が人気で、ジャポニズムの興隆もありましたが、日本そのものに関する研究は始まったばかりでした。ルイ・ゴンスの「日本の美術」は、フランスで刊行された初めての日本美術の研究書です。ルイ・ゴンスは日本美術の収集家でしたが、日本に来たわけではありませんし、この書物も、日本の美術商、林忠正の助力でまとめられたものです。日本の絵師や文化人の交流や生活の実態についての情報は、まだほとんど知ることができなかったでしょう。ゴッホは、わずかな情報から想像を膨らませ、自らの理想像を重ね合わせていったのです。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
私の読解力が弱く、正しく読み取れなかったようです。
日本の(今でいえば、年賀状のような)軽い習慣を、
<ゴッホにとっての理想的な芸術家の生活形態が日本にある>
と思い込んでいたのですね。そして、
<聖職者をめざしたほど宗教心が篤かったこと>
も、拍車をかけたのですね。そして、いちずな
<ゴッホは、わずかな情報から想像を膨らませ、自らの理想像を重ね合わせていったのです。>
激情なゴッホらしく、それが絵画へほとばしっているのですね。

お礼日時:2015/10/18 17:27

十分なお答えが出揃っていますが、背景へ目を向けるべく、補足的に回答します。


ゴッホは1888年、日本の面影を追ってアルルへ移住しますが、ゴッホの抱く日本のイメージは、前年に成功をおさめたピエール・ロティの「お菊さん」によるものであると言われています。
ご質問の、愛と支えと調和のゴッホの理想を仮借するにふさわしい日本の景色は実際には無いというほかありません。
ただ、浮世絵には合作がしばしばあること、版元の意志のもとで彫師や摺師と共同制作であること、お抱え絵師から蕎麦一杯分の儲けの絵師まで格差があること、武家方、町方のどちらにも日常的に需要があり、仕事にあぶれないことなど、ゴッホにとってはさほど理解しやすいとも言えません。
西欧では芸術は日常から切り離された確固とした世界なのに、日本では日用品が芸術と融け合い、芸術は日常のシーンで諸々の役割を果たしているわけですから、そして分化した高い技術に支えられた文化と経済の中で生きるエンターテイメントの職人の生きざまなど、どのように想像しても想像しきれるものではないでしょう。
日本の絵筆の素早さ、偶然性、簡潔さ、日本のまなざしがとらえる自然、精巧さ、繊細さは、ゴッホが真剣に憧れたものでした。日本の家屋の開放的な建築とか、明るい陽光といった形から入って、アルルの家に集う仲間を夢見てひまわりと椅子を描いたゴッホを思うと、狂気に至る道はとても悲しく思えます。

ちょうど100年後。

 Japonism---「ジャポニスム展」1988年
(パリ展1988年5月17日~8月15日グラン・パレ)
(東京展1988年9月23日~12月11日国立西洋美術館)

このカタログは手に入れておいてよい大部の一冊です。古本屋さんでお求めになるか、図書館でお借りになって、ぜひ、ここでは書ききれない西欧における日本の面影を確かめてください。
ジャポニスムの意義は、エコール(流派)でなく、1人1人の芸術家の心に化学反応を起こしたという、特異なところにあります。
上記の展覧会カタログは網羅的に論文と資料が充実しています。豪華な執筆陣の中には馬渕明子さんもおられ、ゴッホの解説を担当しています。
昔わたしは少なからずこの展覧会の影響を受けながら、1848年から第一次大戦のフランスを専門に紆余曲折の研究の道を歩み始めました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<仮借するにふさわしい日本の景色は実際には無い>
といことですね。というほかありません。
<ゴッホが真剣に憧れた>
<日本の絵筆の素早さ、偶然性、簡潔さ、日本のまなざしがとらえる自然、精巧>
から、誤解(仮借)が発生したのですね。

お礼日時:2015/10/21 19:21

#1です。



>一体、ゴッホは、日本について、何を誤解(日本にとって面映ゆい誤解)をしていたのか、が知りたかったのですが。

実際はどういうことだったのかは、わたしには分かりません。
ただ、質問文でお示しになった内容から、「誤解」というキーワードを絡めるなら、
「日本の芸術家たちがお互い同士実際によく作品を交換した」のは、「彼らがお互いに愛し合い、支え合っていて、彼らの間にある種の調和が存在していたことの証しだ」と考えたことがゴッホの「誤解」だったのではないだろうか、と推測した次第。
つまり、単に経済的に止む得ない事情によって交換していたのであり、愛とか調和とかに起因していたわけではない。
「ゴッホの理想を拝借した形の日本」であって、当時の「日本の実態」とは異なるものであった、のように解釈したわけです。
前後の文脈でそのように解釈するのが無理なようなら、スルーしていただければ幸いです。
何か言ってみたい良くない癖があるため、ご迷惑おかけします。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
hakobulu様のご回答を、正確に読み取ることができなく、申訳けありませんでした。
ゴッホの誤解(仮借)は、
<彼らがお互いに愛し合い、支え合っていて、彼らの間にある種の調和が存在していた>
と思ったことですね。
<「ゴッホの理想を拝借した形の日本」であって、当時の「日本の実態」とは異なるものであった>
ということだったのですね。理想を追及する(悪くいうと、思い込みの激しい)ゴッホらしい気持ちですね。

お礼日時:2015/10/18 12:25

1888年にゴッホはアルルに移住し、そこで画家たちが共同生活をし、画商も交えて、絵の代金を分配するというユートピアを考えました。

周知のように、そこへやってきたのはゴーギャンだけで、その共同生活は悲劇に終わります。「ゴッホの理想が仮借された」というのは、このユートピアを思い描くときに、日本の芸術家たちの生活の中に、自分の思い描く理想と同じものがあると思い込んだだけだったということです。

>日本の芸術家たちがお互い同士実際によく作品を交換したことに、ぼくは前々から心を打たれてきた。これは彼らがお互いに愛し合い、支え合っていて、彼らの間にある種の調和が存在していたことの証しだ。

これは、1888年の10月3日付のエミール・ベルナール宛の手紙の中の一文です。ゴッホがこのように考えるもとになったのは、ルイ・ゴンス(1846~1921)という人が著した「日本の美術」(1883)という書物中の、「日本の芸術家の習慣」について書かれた文です。画家(=浮世絵師)、詩人(=俳諧師)、茶人たちの集団の一員によって描かれ、または刷られた小さな紙片を摺物(すりもの)ということ、こういった集団のメンバーたちは、新年には互いに贈り物をしあうのが普通であったこと、それは版画の試し刷りのよい機会でもあったこと、そして、この摺物は、仲間内の定期的な会合の記念として残す意味もあったということなどに触れています。

摺物(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%BA%E7%89%A9

画像例はドイツ語版ウィキペディアの方が多く出ています。
https://de.wikipedia.org/wiki/Surimono

明らかにゴッホの誤解ですが、この日本の芸術家たちの共同体からの(思い込みによる)感銘は、ベルナール宛の手紙と同じ日の1888年10月3日に、ゴーギャンに宛てて書いた手紙の中にも書いてあります。さらに、同日付で弟のテオ宛の手紙もあり、ベルナールを通じて仲間を集める計画を進めていたことがわかります。

ベルナール宛書簡(最後の方)
http://vangoghletters.org/vg/letters/let696/lett …

ゴーギャン宛書簡(同じく最後の部分。注釈16をクリックすると、ルイ・ゴンスによる「摺物」に関する記述が表示されます。)
http://vangoghletters.org/vg/letters/let695/lett …
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
今でいう芸術家たちは、すなわち
<こういった集団のメンバーたちは、新年には互いに贈り物をしあうのが普通であったこと>
などが、ゴッホを感激させたのですね。その結果、ゴーギャンの共同生活になり、その後の悲劇に繋がるのですね。

お礼日時:2015/10/17 21:26

ゴッホはジャポニズムの央にいたわけで、ジャポニズムの源流は江戸期の浮世絵であることはご存じのはずです。


この浮世絵は、狩野派等官製の枠から大きく飛び出し、特に北斎や広重等そのオリジナリティー溢れるデッサン力の類い希な存在は、鎖国政策の中であっても、西欧との貿易を介して、ヨーロッパに深くもたらされて行きました。それらは新しいものへ飛躍を高らかにうたいあげた西欧印象派の画家達をいたく刺激した訳でありました。浮世絵を取り巻く江戸文化は、尾張文化との接点の中で、芭蕉に端を発して宣長、馬琴、北斎、一九、等当時の一流文化人同士の交流は極めて厚いものとなっていきました。そのような中で、作品への影響力と同時に、彼等の日常生活は現代のそれと同様に大変なものであったし、互いに懐具合の良い時は融通しあったと記されています。彼等の生活のバックヤードを識れば識るほど、その多くを理想として影響されたゴッホはゴーギャンとの共同生活に、そのようなことを追い求めたのでしょう。あまりの理想追求の結果破綻をきたしてしまいました。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<当時の一流文化人同士の交流は極めて厚いものとなっていきました。>
<互いに懐具合の良い時は融通しあった>
なのですね。今では考えられないような、すばらしい社会だったのですね。ゴッホが称賛するのも、もっともですね。

お礼日時:2015/10/17 19:28

美術に疎いのに回答してしまいすみません。


質問文に記されている内容だけから勝手に推測してみます。
違っている可能性が高いので適当に聞き流していただくほうが賢明かもしれません・・・と言い訳しつつ。

まず、この場合の「仮借」を、【2 借りること。】と仮定します。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/40653/m1u/% …
そして、「当時の日本の実情と合ったものではなく」は「彼らがお互いに愛し合い、支え合っていて、彼らの間にある種の調和が存在していたことの証しだ」という認識の否定を意味しているような気がします。
つまり、ゴッホが思い描いていた日本とは、あくまで「ゴッホの理想が借りられた(ゴッホの理想によって美化された)日本であった。」という意味。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
仮借とは、(私にでもわかる)易しい言葉でいえば、誤解ですよね。
一体、ゴッホは、日本について、何を誤解(日本にとって面映ゆい誤解)をしていたのか、が知りたかったのですが。

お礼日時:2015/10/17 19:21

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