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どうして協調外交から積極外交に変わったのかがわかりません。

質問者からの補足コメント

  • 田中義一内閣の積極外交のことです。
    中国と日本の関係に何があったからかがわかりません。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/10 06:00

A 回答 (2件)

当時の中国は複数の勢力にわかれていました。


主に北方軍閥の張作霖、国民党の蒋介石、あとは共産党。

少し前に国民党と共産党は国共合作として協力していました。
そして、蒋介石による北伐が開始され、北方の勢力との戦いが始まっていました。

日本と中国との関わりですが、まずワシントン会議のときに英米などと協調して中国に関わることになっていました。
協調外交はその流れです。
その上で、日本は張作霖を支援、欧米は国民党に近づきつつも共産党を嫌がっていたため張作霖も認めつつ中国諸勢力とは微妙な距離感、ソ連は共産党を支援しつつも国民党にも注目しているといったところ。

日本は他の列強が一つに絞れていないときに張作霖のみ支援し、うまく英米から文句をいわれないように対応していました。
同時に国民党との関係も極端に悪化させず、内戦にはあまり介入しないように気を配っていました。

一方で張作霖は欧米との関係を構築しつつあり、日本との関係が少し疎遠に。
国民党は欧米の目を気にして共産党と手を切ってしまいます。

また、中国の各地で日本人が襲撃されたり、欧米の権益が脅かされる事件が頻発していました。
国民党の北伐により既存の権益が失われることも恐れられていました。
欧米からは日本に中国の治安維持を期待する国もありましたが、日本は中国に遠慮して介入を控えていました。

このような状況で憲政会の第一次若槻内閣から政友会の田中義一内閣に政権交代します。

この時期の日本の対中国政策にも様々な考え方がありました。

1.極端な積極外交で、英米など無視して武力で一方的に満州を奪う考え。
2.積極外交として、国民党と武力衝突してでも日本の権益を広げようとするが、英米とのある程度の協調は維持。
3.協調外交で、英米とも協調、武力には訴えず国民党とも争わない。それでいて中国での権益は広げたい。

というような感じです。
若槻内閣の協調外交といわれる幣原外交は3。
田中内閣の積極外交のなかでも、外務大臣を兼ねた田中首相は2、外務政務次官の森は1に近いでしょうね。
後に満州事変を起こした関東軍はばりばりの1でしょう。

田中内閣は張作霖が国民党に負けるのを見て、積極外交として日本の権益があった山東半島に出兵して国民党と戦います。
ここで英米から牽制(日本が既存の権益を守るだけならいいが、新たな権益は取るなと)が入ったのと、国民党が山東半島に手を出さないという手打ちがあったので、田中首相は戦いをやめました。

しかし、日本側では二つの問題がありました。
国民党と戦って損傷があったのに権益が増えていないことと、敗者の張作霖を今後も利用するか捨てるかです。

このような中で張作霖爆殺事件が起こり、その処理に失敗して田中内閣は総辞職しました。
で、政権交代で民政党の浜口雄幸内閣となり、幣原外相の協調外交が復活します。
欧米は国民党を支援するようになり、日本は張作霖のような間接的に介入するための手段を失います。
続く民政党の第二次若槻内閣のときも協調外交でしたが、関東軍などが勝手に満州事変を始めてしまいました。
山東出兵のときと異なり、新規の権益の確保となり、英米の理解も得られませんでした。

以上、書き散らしてしまいましたが、
・中国内の諸勢力の力関係や対立・協力関係、
・欧米と中国諸勢力との関係、
・日本に複数あった中国への考えと政権交代のタイミング、
・日本の軍部のそれぞれの動き(日本国内の軍と中国にいた日本軍とでも考えが違う)
なんかが複雑に絡み合っていたので単純な説明ができず理解が難しい時期ですね。

協調外交・積極外交といっても字面ではなく、実態を見たほうがいいでしょうね。
田中義一は積極外交でも英米と協調を放棄まではしていないので。
中国に積極的に介入したかどうか、武力を手段としたかどうかなんかで判断することになるのでしょう。
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田中義一内閣の積極外交のことでしょうか?



内閣が替わって外交の担当者がかわったからという答えでいいのかな。
若槻内閣で協調外交を進めていた幣原喜重郎外務大臣から田中内閣で積極外交を進めた森恪外務政次官になりました。
この回答への補足あり
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