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なぜ真田親子が流されたか場所が和歌山九度山なのか?理由を知りたいです。
流されていた九度山は大阪城から50キロ程度の場所
流された紀州は豊臣恩顧の浅野氏所領でもある
関ヶ原で奮闘した宇喜多氏はその後八丈島に流される、と比べると距離的には軽減された?
家康はワザと大阪城に行きやすい九度山にながした?

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A 回答 (3件)

関ヶ原戦後、信州・上田の真田家(昌幸)の処分に関し、徳川の重鎮・本多忠勝の娘を妻に持つ、東軍に付いた昌幸の長男、上州・沼田城の真田信幸が、父・昌幸等の助命を申し出でて、これが徳川に認められました。



その徳川の当初の処置は、真田昌幸・幸村(信繁)親子を助命するも、高野山に流刑、でした。

でも、もしかしたら、高野山参りの宿坊として、古く真田家が定めた、高野山の蓮華定院は真田家のゆかりの寺、ということを、徳川は調べて知っていた可能性があります。

ところが、流刑囚の上田真田一行が高野山に入ったら、女人禁制で、幸村の妻らが入山不能、に陥りました。そのため、同行した女性たちを、麓の集落に、しばらく留め置き・住まわせました。

その後、詳細は不明なるも、流刑囚・真田一行は、九度山(くどやま)村に落ち着くことになったようです。

状況から言って、これが勝手に行われたわけではなく、高野山・蓮華定院からの相談を受けて、徳川の承認を経たもの、ということは、当然、可能な推測です。九度山村(くどやまむら)の位置は、もちろん、高野山の山麓です。

九度山村を領する浅野家は、豊臣恩顧とはいえ、豊臣政権期の甲州21万5千石から、関ヶ原戦後、紀州和歌山37万6千石に、増量アップされたわけで、その直後に、流刑の真田を抱えた浅野家が、この「石高増量」の信頼を失うような、反徳川行為を行う、これはあり得ないでしょう。

結論は、女人禁制の高野山に入れなかったための、高野山のふもと、九度山村への、流刑囚・真田一行の定住、これですね。

「豊臣の大坂城」に近い⇒しかし、豊臣排除に、この段階、徳川には特段の思惑もなかったということ、それを、逆に証明した真田処置かな、と感じるのですが。
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この回答へのお礼

なるほど

お礼日時:2015/11/19 19:21

元は、高野山に行けーと命じられたのですが、一族郎党も多いし、高野山は雪も降って寒いし、土地も狭いし、と言う事で勝手に九度山に居を求めたのです、最初に九度山に居を命じられたわけではありません



今なら大阪城から直線で50kmとたいへん近い距離の場所ですが、当時は川を下って和歌山市内に出て大阪湾沿いに北上する、という道しか無かったので150km近く離れていました

今で言えば、チベットに飛ばされたのと同じ(^_^;

天目山での戦いでの貢献など真田家に一目を置いていたので、それほど遠くない場所で隠居しろと言う事だったのでしょう、義があればこちらについてくれるだろうという目的もあったみたい

宇喜多家の伝統は下剋上、いつ何時裏切るか判らないやつだったので、本当に遠い四国に飛ばして、安全なようにした、と
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この回答へのお礼

高野山に行く予定が九度山に行ったんですか。
宇喜多氏は前田家の助けもあり、八丈島だったはずです。ここまで遠いと何もできませんね。

お礼日時:2015/11/17 23:06

関ケ原の時、幸村の兄は東軍でした。

こっちの真田家は幕末まで無事に続いてます。この兄貴の説得があれば、あまり強い罰は与えにくかったでしょう。

講談などで、幸村たちが九度山を出て大阪城に入城するまでの駆け引きが語られていることから、距離的には近くても、しっかりと監視はされていたでしょう。

 家康が警戒していたのは、父の昌幸の方で、幸村はほとんどノーマークだったようです。年齢的に父の昌幸の大阪入城はないと考えていたでしょう。実際、大阪の陣の前に病死してますし。
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この回答へのお礼

なるほど 来年の大河ドラマはどの様に描くのか楽しみですね

お礼日時:2015/11/17 22:40

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Q真田父子の九度山蟄居について

徳川家では真田昌幸の戦術能力をかなりやっかいなものと考えていた形跡がありますが、それならばなぜ大阪城に近い紀州九度山へ蟄居を命じたのでしょうか?将来的に火種を抱える大阪周辺より徳川家膝元の関東や、更にその奥の東北へ蟄居させた方がより良いように思えます。
また、幸村が浅野家の監視をくぐって入城しても、その後に浅野家や村人が厳しく罰せられたという話を聞いたことがありません。
長男信之の「必死の嘆願による助命」と言う背景のわりには一連の処置が緩やかなのには不審をおぼえます。
こういった点についてご意見や興味深い資料をご覧になった方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えいただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします

Aベストアンサー

私は、徳川家康は真田昌幸・幸村に対して、かなりの恐怖感をもっていたと考えています。理由はいくつかあります。

(1)徳川直属軍を複数回破った大名は真田家しかいないこと
(2)真田昌幸は武田信玄の小姓時代から薫陶を受けた有望な武将と評価されており、武田信玄の戦略・戦術を熟知していること
(3)徳川家康は三方ケ原の合戦で武田信玄に完敗しており、その後、武田コンプレックスをもった時期があること

それでも真田父子に蟄居を命じたに留めたのは、九度山に流した段階で、この父子が兵を動員する術をなくしたとみなされたからだと思います。

この点では、関ヶ原の合戦での名目上の主将である毛利輝元は減封されましたが取り潰されておりませんし、上杉景勝も同様です。この段階では、真田家よりも大兵を組織できる毛利・上杉家の方が脅威になると思いますが、大名という地位を存続されたという点でこちらの方がむしろ穏やかといえる処置です。豊臣家と再度手を結ばれて困るのはむしろこれらの大名たちではないでしょうか。毛利家が助かったのは一族の吉川氏の働きであり、上杉家の場合には、かつて家康が上杉謙信と同盟関係にあった時期があることと名家好みという理由があるといわれています。

また、長男信之の嘆願がうまくいった理由の一つとして、信之の正室が徳川家四天王の一人である本多忠勝のとりなしがあったことだと思います(これは池波正太郎の小説に基づいているだけですが十分にありえる話だと思います)。

最後ですが、浅野家に対する処分がなかったのは、この程度の落ち度で罰していれば、徳川方についている旧豊臣系大名の離反を誘発することもあるからだと思います。度量を示すことも人心掌握の点で重要なのでしょう。実際、浅野家は大阪の陣では先鋒のような位置づけとして期待されていたのです。

私は、徳川家康は真田昌幸・幸村に対して、かなりの恐怖感をもっていたと考えています。理由はいくつかあります。

(1)徳川直属軍を複数回破った大名は真田家しかいないこと
(2)真田昌幸は武田信玄の小姓時代から薫陶を受けた有望な武将と評価されており、武田信玄の戦略・戦術を熟知していること
(3)徳川家康は三方ケ原の合戦で武田信玄に完敗しており、その後、武田コンプレックスをもった時期があること

それでも真田父子に蟄居を命じたに留めたのは、九度山に流した段階で、この父子が兵を動...続きを読む


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