
No.30ベストアンサー
- 回答日時:
#2,16,27です。
開けていただいているようで、ありがとうございます。
助かります。
否定神学における無。。。
実のところ、ふと思いつきの題名だったのですが、おそらくは、概念上・観念上の無というのは、此処に集約されるのではないだろうか? と思っています。
唯一絶対神を信じるにしても、信じないにしても、「否定神学」という概念については、一度は深淵を覗き込まなければならないと思います。
冒頭#2にて記述したように、あるいは、多くの方々が随所で語っておられるように、「無というものについては、語ることはできない」というのは、まさに「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(ヴィトゲンシュタイン、西洋哲学)の裏返しでもあるわけです。
一方、(東洋哲学としての)仏教の「無」が、過去の西洋にて誤解された「虚無」と異なる積極的な「無」であることは、「ブッダのことば」(スッタニパータ)の「この世とかの世とをともに捨てる」とか「この世をもかの世をも望まない」といった「積極的な否定の言葉」に代表されています。
これらの思索に共通する点は、人智の思索の範疇では収まりきらない「何か」を想定せざるをえないとき、「(少なくとも)論理的な思索の枠の外」に、その「何か」を置かざるを得ないということです。
論理的な思索に限定するなら、このことはゲーデルの「不完全性定理」とも関連することでしょう。
西洋哲学としての否定神学が、「神は「「語りつくされる神」ではない」という否定形でのみ語り得る」という概念であるため、まさに「神」=「無」としても何ら違和感はないでしょう。
そこに、消極的な「虚無」を見出すか、積極的な「無」を見出すかの違いにて、後者を選択したのが「否定神学」でしょうから、ある意味、仏教における「無」の概念に通じるものがあると言えるでしょう。
唯一異なるのは、積極性を生み出す根源としての方向性です。
(西洋思想としての)否定神学の方向性は、「初めに神ありき」です。すなわち、思索の範疇の「外」に既に神という概念を設置しています。「外」には「何も無い」のではなく、どのような形であれ、(汎神論という形であれ)神概念を常に想定しています。
そもそも唯一絶対神を信じる方々にとっては、「存在の外」にも「無」(信者にとっては虚無と同等)は存在しないと考えているかもしれません。言い換えるなら、「外」としていますが、実のところ、完全に思索内部(境界内部、神概念内部)からは脱却できていないとも言えます。否定神学が肯定神学と併記されている以上、「神」という視点は、実のところ、(中心的な)「私」(=コギト)の視点と同一であるというところから脱却できていない(超えることができていない)ということを意味しているのでしょう。
一方、(東洋思想としての)「ブッダのことば」(スッタニパータ)に代表される思索は、思索の範疇の「外」を想定していません。まさに「あるのでもなく、ないのでもない」(柄谷)という概念です。だからこそ、「この世」「かの世」という輪廻概念すら「捨て去る・望まない」という表現が可能になるのでしょう。逆説的に、固定観念としての「外」を想定していないがため、「外」として存在しうる様々な宗教に取り込まれてしまう運命にあったのかもしれません。しかしながら、一方で「いかなる外部とも連携しうる」という意味にも取れるように、「他者との関連性」が重要視され、「私」という概念は関連性から二次的に派生してきているようにも見えます。(個人的には、「関連性との同時生起」という考えをしています)
いずれにしても、否定神学に代表される積極的な「無」は「虚無」と異なり、圧倒的な存在感を伴っています。
そこには、概念や形や物質や言葉や論理といった「知的に扱いうる静的なもの」ではなく、動的な方向性があり、「知・情・意」で言うところの「意」とか「情動」とかが重ねあわされていると思われます。
ようやく、当初、想定していた項目を書き終えることができました。
ありがとうございました。
日中、「教えて!goo」のサイトを閲覧することすらできずに、「書き込みたい!」という思いのみが渦巻いている状況が、まさに積極的な方向性を有する「無」という概念に近いのかもしれません。
とりあえず生きていて、このような足跡を残すことができ、感謝しております。
(しばらく書き込みから離れて、無の境地を彷徨うかもしれません)
これは素晴らしい回答ですね(^-^)
BAをほぼ確定していたのが白紙になりました;^_^A
否定神学と言うのがあるのですね。ウィトゲンシュタインや仏教も引き合いに出してくださり、多様性に富んだご回答だったと思います。
繰り返し読んで、楽しみたいと思います^_^
人智の範疇を超えるものについての言葉の使い方。。うーむ。。深いですなぁ。積極的な無とか、圧倒的な存在感のある無とか、無について一元的な虚無を想像していた方にはインパクトのあるご回答だったことでしょう(^.^)
ありがとうございます。
No.34
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
哲学カテの質問をあれこれと見ているうちに
哲学から離れている質問や回答に疑問が出て
「哲学って何だろう?」って感じました。
自分の中で違いが知りたい気持ちから
伝えたくなったのかもしれません。
書いてると、頭の中って整理しやすいので。
回答や日記などで、書いてて気がつくこともよくあります。
何より自分だけで何か考えているより、他の人の発言で
自身の中に波紋が出て、その波紋を観てると
新しい発見ができるのが、いいと思えます。
自分の狭いところも分かりますしね。
何に囚われているのかも。
結果、カント哲学や東洋哲学ですね。
自分から発し、自身に帰結します。
回答しながら整理しているようで、お世話になっております。
また、楽しい回答ができたらと思います。
では、この辺で。
そうですね^^
私も回答やお礼の中で、自分の考えを整理すること、よくあります。
小さなコミュニティですが、私には十分に示唆を与えるものも有ります。
哲学などほんとは殆ど知らないのですが、このざっくばらんなカテゴリが調度良かったりもします。
他の人から得られる回答というのは貴重です。自分にはない視野が必ずと言っていいほど入っています。実生活では哲学の話などめったに出てきません。それをここで出来るのもまたいいことです。
ながらくお付き合いありがとうございました^^
またいずれかの機会において、お話できることを楽しみにしています。
No.32
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
哲学の問題って、考え方はいろいろある訳ですよね。
観点や切り口の違い、その上表現方法の選択の違いなどなど。
哲学書や思想を読んでも、読み手の読んだ印象で
「この人は間違っている」とした場合、相手の真意など
全く見えなくなります。
そうなると、もう受け取れなくなってしまう。
質問を立ち上げた人も、自分の欲しい答えを決めている人は
(意識的でも無意識でも)相手から受け取れなくなっている。
あほなさんは、そこが「まず受け取る」ので
回答が得やすいだけでなく、見識を広められるとこかなと思います。
哲学だけでなく、科学として「間違っている」は危険だと思うのです。
選択肢を減らす根源だからですね。
人との関係と同じですね(笑)
相手が間違っているから話しに入ると、相手との関係の選択肢が
狭まりますね。
あらゆる可能性を潰さない為に、つまり理解に及ぶものは
間違いとする排除を持たないのかなと思います。
後「自分は間違ってない」のは、同じく排除に働きます。
考えるってのは、排除から始めるのではなく
多くから選ぶことで、実証・検証で結果は自ずと出ると思えます。
最初の情報を狭めた時、本来見たいものが見えないかもしれない。
それを自分は気をつけたいなぁと思うのです。
見えていないのが、本当は一番怖いと思います。
なぜなら下手すると、自分の認識に一生上がらないからですね。
そういうことは、日常によくあることだと思います。
おそらくは、全てのことにおいてだと思えます。
31で伝えたかったのは、こんなことですね。
誹謗中傷は、最初からいらないって話しにもなりますけど(笑)
言葉にするしないは別として、それが哲学になるか意見に終わるか
それは外の問題でなく自身の内の問題であり、ある意味相手は
関係ない部分だと言えるのではないか。
哲学も科学も日常も、同じ部分かなという話しでした。
カントアイさんのご回答は、色々と共感する部分が多いです^^
安倍首相ではないですが、私の対話の扉は何時でもオープンです。
こんな形(ネット上)ですから、人それぞれの癖のようなものも強く出るようですね。意見を排除してしまうのは、敵対するからではないでしょうか?
言われたくないことを不意に言われた時に、自己防衛本能が作動して、つい、つっかかかってしまうこともあるのでしょう。私は誰か特定の人に執着しているわけではないですから、GOOには面白い意見もくだらない意見も、楽しい意見も辛い意見もそれは色いろあって、縁のあった回答はすべて味見するつもりでいます。
カントアイさんの仰るように、ある意味相手は関係ない部分というのが有ります。私自身の心構え一つで、毒にも薬にもなるわけですね。
ところで、私にも、誹謗中傷やめんどくさいやり取りというのは稀にあります。解読するのがめんどくさいのではなく、相手をするのがめんどくさいという場合が、あるのです。隠さず言えば。そういう場合、大概、意図せず切れてしまいます。例えば猪突さんの回答は、いろいろと調べなければお礼を書くことが出来ません。それは一つの楽しみであるわけですね。これは問題ないのです。問題なのは、捻くれられた時です。相手の(心の)不得手な部分をうっかり突いてしまうと、めんどくさいことになります。しかし、いちいち相手はしてられません。ご機嫌伺いなどする気もないので、去る者は追わずです。
>言葉にするしないは別として、それが哲学になるか意見に終わるか
それは外の問題でなく自身の内の問題であり、
そうですね。意見を聞いて消化できるかどうかということだと思います。消化できるできないは正直あるのですが、上のスーダラさんのように、些細な事から考えが始まって、大切なことに辿り着く人もいるのです。的外れのような意見でも、自分を大切なところへ導いいてくれることも有ります。ここでも自身のうちの問題と捉えることが出来るでしょう。
>哲学も科学も日常も、同じ部分かなという話しでした。
そうですね^^主体性というのもここにかかっていると思えます。
No.31
- 回答日時:
ちょっと横入りを。
>現実には微小な活動が存在し、完全な無では無く、何かが認識される様な状態になります。
先日、時間は変化って言うのを見ました。
どこだか忘れたのですが。
時間と共に、物質は常に変化します。
昨日と今日の変化は、場合には微小で観測は難しいですが。
だから「何も無い」ってのは、有りえませんよね。
無を文字で理解しようとすると、必ず自分の印象が
自分の中で作られたイメージが入ります。
それを払拭するなら文字より、相手が何を言いたいか
何を伝えたいとしているのかに、焦点を当てるのがいいかなと
最近思っています。
文字も言葉も、すべては抽象概念です。
思いを汲む手段の一つに過ぎない。
文字や言葉が先走りするより、相手の思いを汲む。
そして、まずは自分の思いを汲みたいと思います。
自分の出発点は、自分ですから。
言葉にも縛られたくは無い。
思い先行で、生きて行こうと思います。
伝える努力はしますけどね♪
できてるかより、できるようになる為に。
時間は変化であるという文言は随所で私も見かけています。時間とは何かという問いも興味深いものがあります。
人の言葉を汲み取るというのは、なかなか簡単ではないですよね。相手の言わんとするところ、真意を知るには謂わば人間通である必要もあるのかな?と思ったりもします。しかし、面と向かい合えば、それなりに本音が出てくるものです。面と向かい合うのが苦手な方も多いので、一概にそれが良いとも言えないのですが。
無についての先入観も払拭し難いものがあります。
おっしゃる様に、言葉になる前の思いも、大切にしたいものですね。
心構えの様なものについても述べてくださりありがとうございます(^-^)/
No.28
- 回答日時:
お前は難しく考えて、難しく考えれば考えれるほどに自分は賢くなれる、賢いと思う人間なんだなぁ。
理解できないと思うが低度のゲーテを読めはいいかもしれない。書いてあるぞ。お前らのようなタイプを。
コンプレックスがひどい。
記したじゃないか。簡単なことさえ出来ないと。
馬鹿は使ってみると使えないと。
能書きは多いが実ではさっぱりで、あれがない、これがないと言う。
結果はひねくれて、人つぶしに生涯を終える。
何が出来る出来ないは大した問題ではない。ゲーテなどと言う権威を頼って、自身の言葉を使わないのが問題だろう。
自分以外の誰かに使われて、そして使える使えないなどと論じるのは自分がしっかりしていないからである。
そして、ネット上の二、三回のやり取りで、人の何かが分かった気になるというのは、よほど自分の頭の中の妄想が豊かなのだろう。一体あなたは何を言いたくて来たのかな?言いたい事があるならはっきり言いなよ。その対象は俺じゃないでしょ。俺に見た何かの幻に言いたいことがあるんだろ?
俺はあなたの何も知らない。人格を否定される様な事を言われる覚えはない。自分の書いた文章を読み直したか?こんな文章で、恥ずかしくないのか?
こんな文章ならば、小難しく考えたとしても自分の言葉で語ってくれた人の言葉の方がずっと有難い。
出直さなくていいから、次からはもっと文章を練って、本当の自分の答えを書く努力をしてくれ。俺は確かに難しく考え過ぎるところがある。そんな事は自覚済みだが、あなたは考えなさ過ぎる。自分の言葉には、責任を持てよ。対話の前に、まずはそこからだろ?
No.27
- 回答日時:
#2,16です
少し余裕のできるのが、平日の前夜というのも悲しいものがありますが、幸いにして生きておりましたので、引き算の無について、少し。。。
#15の方が記述しておられたように、引きすぎてマイナスになるという概念にも近いのですが、ここで言うところの引き算とは、皆がすぐさま想像する「ゼロ」(無)という状態のみを想定します。
さて、快適な温度の状態から温度の引き算を行うとします(即ち、冷えてくる)このとき、温度がゼロになります。しかし「ゼロ」(無)といっても摂氏0度と華氏0度はズレています。通常は何がしかのバックグラウンド・背景の上にて「みかけのゼロ(無)」となっているので、バックグラウンド・背景がずれると、「無」ではないことが露呈します。
たとえば、良くドーナッツの穴の部分には「何も無い」と言われますが、地球上であれば「空気」があります。油で揚げられている途中では「油」があります。
あと、絶対零度というところであれば、真の「ゼロ」(無)か?といえば、零点振動という現象にて、量子力学的な揺らぎと呼ばれる状態になるようで、厳密には「無」にはなりえないとされています。
ここから先は、#16を経て#2での記述に繋がり、現象として「何がしか」の認識が可能な状態、かつ、「他者」と、一定概念について共有可能な「何か」として扱いうる「もの」が存在しているということになります。。。
勤労できることに感謝する日が終わる時間帯に少し仕事をしていたのもあり、否定神学的な「無」については、明日以降もまた生きていて、時間とタイミングがあえば、追加するかもしれません。。。
ありがとうございます(^-^)
0についてですね。
幾何学でも、概念としては完全な形で様々な形態を論じることができますが、現実にある鉄やプラスチックなどの材料を使って、完全な形態を造作することはできません。とても細かい傷や歪みが生じるからです。0も同じようなものかなと思いました。概念上では完全な0は存在していますが、おっしゃる様に、現実には微小な活動が存在し、完全な無では無く、何かが認識される様な状態になります。これは、この宇宙の根源的な性質に関わる現象だと思います。概念とは何か、物質とは何か、そう言った問が、これからも続くのでしょう。
No.26
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
>なにもないところに、何かを見出し、またつながりを築いて、関係を作り、組織という活動を成り立たせているのでしょう。
そうですね。
想定という手法でもあると思います。
>無の機能的側面についてもっと論じられても良いのかなと。
論じるのはいいと思います。
多種多様に有り過ぎるので、どちらかと言えば
誰か説明を出せば、一旦話しは終わるかもしれません。
人は「有る」と「無い」を持つ訳ですから、フィクションが作れますよね。
「有る」しか持ち得なければ、現在無いはずの分野です。
白を「有る」とし、黒を「無い」とすればフィクションは
グレーゾーンの選択だと言えるでしょう。
さも有るような推理小説だとか、仮説としての歴史検証とか。
多くのゲームだけでなく、様々なソフト面では
人間は「無い」を多用しているでしょう。
また別に、たとえば「嘘」
つく方は無いと知っている。
騙されたら「有る」と思い込む。
どちらも、人の中にしか存在しない物。
たとえば「恐怖」
無いものを怖がることや、無いものに不安を感じたり
あるいは無いものに喜びを感じる場合もある。
「きっといい未来が有る」と思えると明るくなったりしますよね。
おそらくは、経典に書かれているものに
そんな感じの話しは出ているのではないかと思います。
あほなさんが、この質問を上げてくれたので
ようやく無が私の中で何とかなりました。
それまでは、まったく分からなかったのですけどね。
一つ棚卸しができたようです。
何十年と何も分からず棚上げ問題でしたから。
いい体験をさせていただきました。
ありがとうございます(^-^)
無が、想定することにおいて大切な役割があるという考え方や、例示して下さった色々の例えは、私にとっても新しい無の側面でありました。
カントアイさんにとっても良い事だったと聞いて、この質問を立てて良かったと思っております^_^
互いの学びになるのがQAの良いところですね。
No.25
- 回答日時:
>ミケランジェロは石を見て、既にそこに内包される彫られた形を見たと言います。
人類の認識の発展を見ていると面白いですね。昔ギリシャのペイディアスは、「自分は彫刻を創作している訳ではない。そこに既にあるものを彫り出しているだけだ」と言ったそうな。ミケランジェロも内包されたものと言っている。ところが、芸術家の世界認識ははっきり進化しており、今では、創作であることを否定する芸術家はいないでしょう。
要するに、芸術家の世界観は、実在と言う決定論的で静的無時間的な「存在」の世界観から、創作と言う個性的で非決定論的で動的有時間的な「変化」の世界観に進化して来たのです。
ところが、科学者の多くは未だに、物理学とは実在と言う客観的で決定論的で静的無時間的で普遍的な「存在」の世界観を論じる学問であと思い込んでいる。実は、物理学、創作と言いう、その事象を分析する人が埋め込まれた個性的な文化に強く依存した主観的で非決定論的で動的有時間的な「変化」や「分岐」で捉えられるの世界観の産物だと思っていないようです。
科学者の認識は芸術家の認識より数百年遅れているんですね。
私は、自分の人生を決定的に変えてしまった師に巡り会えたことに感謝できる幸運に感謝しております。
近世に活躍した絵師、葛飾北斎などは、瞬間を描いた達人だと言われますが、その時既に、変化するものの一瞬を描くという卓抜した視座は獲得されていたのでしょう。印象派のドガも、踊り子の描写において動くものの瞬間を切り取っています。ダ・ヴィンチも川の流れの描写をしようとそのスケッチに挑戦していました。ギリシャの昔にも、あのラオコーン像の彫られた時、人間の一瞬の表情、筋肉の躍動を形にする眼が既にあったのだと思われます。ヘラクレイトスの言う万物流転は、日本人の観じる諸行無常と同じではないのか?また、輪廻を説いたヒンズー教の宇宙観も、変化し続け生まれ変わるものです。哲学の深さで言えば、永遠不変、無始無終の神を説くキリスト教よりは精緻なものであるようです。
世界の東西をまたいで、このような流れ変化する世界観を持った人々というのは多く繁栄しているのであって、それが日本固有のものであるとは考えにくいですが、現代の世の先進諸国においては、その世界観の生き続けているのは日本だけなのかもしれません。老子を挙げられた回答者様も居られますが、中国人の世界観も気になるところです。きっと、表層はさておき、中国人の意識の深いところでは、そういった思想も息づいていると思います。
芸術と同じように、混然とした世界にメスを入れる前衛的な物理学というものがあるとするならば、それを発信する学者もまた、世界を認識するツールを作り続ける創作者なのでしょう。物理法則というものもまた、人間によって生み出されたものであるという認識です。
No.24
- 回答日時:
#13のお礼に関連して:
>存在者としての私よりも普遍的な私はあるのか?となると、それは無いのでは?と、あやふやですがそう思われます。私という存在の持つ普遍性を突き詰めると、やっとこさ無というものがどうやらその境界であるらしいことがわかるのではないか。そしてこの境界は、万人をして同じであり、万物をして同じであるわけです。存在を存在たらしめているものが無との境界であるなら、この無と言うものは、存在よりも普遍的なものであると考えられます。
だから、私は「普遍化」は退化であり。「個性」は進化であると常々言っているのです。あほなさんのこの意見も、普遍性を追い求めと、個性を失い、時空間での並進に対しても回転に対しても均質で対称となり、「個性」を特徴付ける非対称性と言う複雑系の持った高度な構造が失われてしまう。要するに、複雑系から単純系への退化です。
物理学会などで、皆さん
「方程式が複雑になってしまって、難しくなった」
としばしば言いますので、私は
「一寸待った! 方程式が複雑になったので、以前より現象が豊富になり、面白くなった、と何故言わぬ」
といつもコメントしています。
普遍化をすると単純になって、未熟な論理でも何かが解った気になれる。でも、単純化してしまうと、個性と言う、複雑系であるが故に最も面白い特性が削ぎ落されてしまう。ところが、複雑になったから、より豊富で、だから前より面白くなったと認識できず、それを、前よりも難しくなったと捉えてしまう未熟者の弱みが、普遍性を崇め奉る信仰を世間に蔓延させてしまうと考えたことはありませんか?
複雑なものを持ち堪えるには、勇気と忍耐が要ります。それを、複雑になったので難しくなってしまったと嘆くのは、その勇気と忍耐が自分にはないと表白しているのだと考えたことはありませんか?
いつもおもしろいですね^^猪突さんに教えてもらったことは、私の人生に活路を与えてくれたようなもので、個性化を求めることの肯定感というか、そういうものを得られたと思っています。前回は敢えて、猪突さんの主張と反対の方向に行ってみました。存在の根っこに無があるのでは?そしてその内容物は何も分かっていない、と。
普遍性を崇め奉る信仰ですかwさすがにそこまでは考えたことはないです。すいません。意識低い系です。
受け売りですが、喩えを一つ。
その彫刻がブロンズで出来ているから美しいのではない。余すところ無く削ぎ落とされているので、美しいのである。
無と言うのは、削る前の石のようなものではないでしょうか。ミケランジェロは石を見て、既にそこに内包される彫られた形を見たと言います。私は、無も同様かと思います。無から何を掘り出すかはその芸術家(人)の腕(生き方)次第です。この広大で細やかな世界、そこに何を見るのかは学者の眼次第、ということではないでしょうか。
>複雑なものを持ち堪えるには、勇気と忍耐が要ります。それを、複雑になったので難しくなってしまったと嘆くのは、その勇気と忍耐が自分にはないと表白しているのだと考えたことはありませんか?<
人々というのは、意外にも厳しいものです。シンプル(つまり理解しやすく)で、且つ耳目を捉える一線を画したもの(飛躍のあるもの)を求めます。絵一つとっても、面白いだけじゃだめなのです。面白く、且つ、誰もの心を捉える普遍性を要求してくるものです。
アーティストは、自らの個性を強く求めます。その点で、猪突さんはアーティストと同じだと思います。しかし、一生にいくつ名作を残せるのか、一つも残せないのかはさておき、個性と普遍性の葛藤を回避できたアーティストなど居るのでしょうか?私は知りません。
私のパンパカパーンな頭では、猪突さんの提示する物理の論文は読むことは出来ませんが、尊敬できる師と、自らの生きる道を得た猪突さんは恵まれていると思います。(勿論、それが猪突さんの全てとは思っていません。)
しかし、師無くして、しかも自由に歩む人こそが、本当の個性ある人のようにも思えます。勇気とは自己に克つこと、忍耐とは待ちて飽きないこと、この2つは苦行ではなく、楽しいことです。
これからも新しい視点を切り開くような名答をお待ちしております^^
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とても哲学的なお答えをいただけて嬉しいです。よく読みたいので、お礼の方少し遅れます。ご了承ください。
ふむ。こちらも。お礼をするには少し勉強が要りそうです。阿頼耶識ということは、唯識関連と思いますが、残念ながら私は唯識はほぼノータッチです。少し調べてからお返事します。
よろしくお願いします。
ご回答くださった皆様。お礼文、順序前後することご容赦くださいませ。
でもあれですよね、無が普遍的なマクロのものであるとばかり考えている私ですが、無が固有のミクロなものであると考える事もできる気がします。1秒先の未来など、無と関連してるんじゃないかなどと思いました。えー加減な頭なので、良いお礼が書けなかったかもしれません。
むむむ、、、これは解釈に時間がかかりそうです。私も時間に対して無が関与してるのかなと思う事があります。
また後日、お返事書かせてください。
すみません、訂正です。キリスト教の神は、無始無終ではありませんでしたね。始まりであり終わりであるというものでした。
hiakの、馬鹿だけどまともだ発言が削除された。ここにメモっといて置こう。監視、運営にとっては誹謗中傷、名誉棄損だが、一連のやりとりにおいては意味のある発言だったからな。他の閲覧者に配慮しておきます。
質問、しばらく開けておきます^_^
もしまた気が向いたら、気軽にいらっしゃってください(^-^)/