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中山茂大著の“イスラムと世界を知る本“を、興味深く読んでいて、気になる個所に遭遇しました。
“ポルトガルがアフリカ大陸を迂回しインドへ辿り着いた”と“スペインが新大陸から香料諸島に到着した”という説明の後に、次が続きます。
<これ以降、ヨーロッパ世界の破竹の進撃が始まるわけだが、地中海にはオスマン帝国が、インドにはムガール帝国が、中国には清朝が、日本には徳川幕府が、ロシアにはロマノフ朝が、という具合に長期政権がそれぞれ誕生した。
世界が安穏としている間に戦争を続けていたのは欧州だけであった。>
お聞きしたいことは、以下です。
1.各地で(徳川幕府も含めて)長期政権が成立したことには、世界史的に何か要因があったのですか?
2.あるいは、たんに、各地で長期政権が重なったに過ぎないのですか?
教えて下さい。
         
      オスマン帝国(1299~1922)、 ムガール帝国(1526~1858)
      清朝(1644~1912)、 徳川幕府(1603~1867)
      ロマノフ朝(1613~1917))

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A 回答 (6件)

長期政権?は、多くの地域で、多くの時代に成立していて、17世紀~19世紀に特有のこととは思えません。


http://www.eonet.ne.jp/~libell/1yosikawa.html
むしろ、上記の世界史対照年表の範囲で見るならば、19世紀以降には各地で四分五裂で短期の消長が起きているようにさえ見えます。
それは19世紀、20世紀だと、現在の国家レベルの大きさの版図をもつところが争う状態になったのであって、もっと以前には、経済圏が狭かったり、広範な地域を統治する組織を持てるだけの発展段階にはなかったところが多かったのではないかと思います。5百年前、1千年前でも、広域に版図を持つ国(王権・王朝)はあり、そうした国は数百年間続いていたことも多いです。
なお、多くの王朝・王権は長期に存続していたとしても、旺盛な状態は前半にあり、その最盛期以降は長い期間衰退しながら続き、他に侵略、打倒されるまでは、結構権威だけのように続きます。 それって、企業や商店などでも似たようなものです。
なお、「ヨーロッパ世界の破竹の進撃」といっても、国家体制別に眺めれば、結構バラバラです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
引用して頂いて世界史対照年表を眺めると、各地で沢山の国が興亡しています。いつの時代にも、長期政権が並列して存続していますね。徳川幕府の時代にだけ、長期政権が著しく多かった、とは言えませんね。

お礼日時:2015/11/26 08:20

あれ? なんか文章に違和感があるなぁ....



最後の「世界が安穏としている間に戦争を続けていたのは欧州だけであった」のところ, 実際には「長期政権」と直接関係ないよねぇ.

あと突っ込んでおくと, 「そもそも『政権』とはなんぞや」ってところから問題になる. 特に「○○朝」で表されるものが東洋 (主に中国や日本) とヨーロッパでずれているので, その違いに気をつけないといけない. 例えば「徳川幕府」では 7代家継から 8代吉宗に将軍職が受け継がれてるけど, その間は 8親等離れているのでヨーロッパなら十分「別王朝」と数えられるレベル. 逆に, フランスではシャルル 4世からフィリップ 6世に王位が渡ったときにカペー朝からバロア朝に変わったとするんだけど, この 2人はともにフランス王フィリップ 3世の孫 (つまり 4親等) だから, 東洋の「王朝」の概念を使えば「同じ」ということになる (さらにいうとそのあとのブルボン朝もカペー朝の支流なので, その観点では「フランスは 987年から 1792年までカペー朝の支配下にあった」ともいえる).
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
1.欧州・・・について、著者は、(残念ながら)全世界に該当することではではない、と言いたいのかな、と私は思っています。
2.挙げられた5長期政権は、細かく検討すれば、別の評価になるのですね。

お礼日時:2015/12/01 19:36

オスマン帝国の600年の長期政権の前には、1000年に渡るビザンツ帝国の超長期政権がありましたし、清朝の前には260年に渡る明朝の長期政権がありました。

また、ムガル帝国は300年続いていますが、インド半島の大部分を支配していたのは100年くらいで、あとはインドの一部しか統治していなかったようです。
後はロシアと日本の長期政権ですが、17世紀頃から軍事技術が発展するとともに武器の高価格化が進み、一部の権力者しか武器を購入できなくなったということが理由としてあると思います。
金のない異民族や庶民による反乱はたやすく鎮圧されるようになったので、政権が長期化したのでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
1.超・長期政権があるものですね。また、長期政権と言っても、一部しか統治できなくなったのもあるのですね。
2.軍事技術の発展により、武器の高価格化が進み、
<金のない異民族や庶民による反乱はたやすく鎮圧されるようになった>
のですね。

お礼日時:2015/11/30 17:44

政権の安定は紛争・戦さの起こらない状態が続くことが要件です。

手槍一つで事を構えられた時代から火薬・火力の発達により、争いの規模や形態が変化してしまったことが大きな理由と考えられます。これまでのように少々のチカラでは反乱が起こせなくなってしまったのです。

武器も戦闘員も戦時の体験の中で磨かれ成長します。長期安定政権の中で争いが無かったことが、もともと軍事力で成立した政権のその軍事力を弱体化させてしまいました。結果せっかくの長期政権も滅ぼされてしまいましたよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
武器などの発展より
<少々のチカラでは反乱が起こせなくなってしまった>
ことが、政権の安定・長期化に寄与したのですね。

お礼日時:2015/11/27 11:46

オスマンとか清朝を長期政権と言う言い方にはお目にかかったことがないが、もしこれを長期政権と言うなら、4000年の昔から長期政権の連続で、この時代に限ったことではないですよ。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<オスマンとか清朝を長期政権と言う言い方にはお目にかかったことがない>
そうですね。ところで、二つの政権期間は600年以上と200年以上ですが、長期政権というのは、その期間のみでは判定できないのですか? 政権の、たとえば強力さが必要なのですか?

お礼日時:2015/11/27 11:37

おもしろい視点ですね。

銃の発達で軍事力が安定してきたと言うことがあると思います。チャンバラの時代なら一人の英雄が暴れたら100人ぐらい殺したなんて事もあったでしょうが、(三国志にそんな話が多い)銃の時代になるとそれが出来なくなった。
 陣地を作って銃を構えていれば滅多に負けることがなかったと言うこともあると思います
 またまだ航海技術が発達していなかったので、外国に大量の軍隊を送ることが出来なかった、と言う面も多いと思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
要因として
1.<銃の発達で軍事力が安定してきた。
ですね。一たび政権が成立すると、軍事面での崩壊が起きえなくなった、ということですね。
2.<航海技術が発達していなかった>
ですね。特に、欧州は混乱しているので、体制の面でも、航海技術の面でも、大軍隊を送ることが難しかったのですね。

お礼日時:2015/11/25 16:33

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Q徳川長期政権の秘訣

徳川幕府は長期政権です。
長期間続いた秘訣というのはあるのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

政治学において、長期政権になるためには
納得の原理と、強制の原理を巧みに組み合わせる
ことが必要です。

納得の原理てのは、例えば民主制です。
民主制は納得の原理で統治している割合が大きい
政治体制ですので、安定します。

強制の原理が強い統治は、北朝鮮や中国です。
国民の納得が小さいので不安定です。

徳川幕府が長期政権になれたのは、この納得の原理と
強制の原理とで説明ができます。

実証研究の結果、徳川幕府の各藩に対する処置は
非常に合理的で、誰もが納得する場合が多かったことが
明らかになっています。

改易にしろ、実証研究の結果、藩に統治能力が無い
場合がほとんどでした。
恣意的にやられたことはあまりありませんでした。

かつてはマルクし史観が流行り、実証もしないで
農民などの庶民は貧しかった、と言われていましたが
これも、実証の結果
農民も結構豊かな生活をしており、下級武士の
方が貧しかった、という有様であることが
明らかになっています。


強制の原理については、武力、経済力があります。
俗に旗本八万旗と言われるほどの軍事力を有し、
400万石の経済力がありました。
400万石というのは、全国の約1/6です。

参勤交代ですが、これにより諸藩の財力を奪った、と
かつては言われていましたが、これも実証研究の
結果、そんなことは無かったことが明らかになって
います。
徳川幕府は、諸藩が競って豪華になるのを心配し、
派手にやるな、という命令書まで出しています。

政治学において、長期政権になるためには
納得の原理と、強制の原理を巧みに組み合わせる
ことが必要です。

納得の原理てのは、例えば民主制です。
民主制は納得の原理で統治している割合が大きい
政治体制ですので、安定します。

強制の原理が強い統治は、北朝鮮や中国です。
国民の納得が小さいので不安定です。

徳川幕府が長期政権になれたのは、この納得の原理と
強制の原理とで説明ができます。

実証研究の結果、徳川幕府の各藩に対する処置は
非常に合理的で、誰もが納得する場合が多かったことが
明ら...続きを読む

Qもし前田利家があと10年健在だったら徳川の天下になっていたか?

前田利家があと10年、1609年まで寿命があったら徳川家康は天下人になれたでしょうか?
利家がいても、やはり翌年の関ヶ原の戦いは起きたでしょうか?

Aベストアンサー

家康は天下を取れなかったのでは。
単純に両者の領国の規模を比較すれば断然家康の方が上です。

領国の規模は兵力に直結します。
利家の最大動員兵数を2万5千とすると家康は8万余りで勝負にならないように見えます。
でもそれは単独ならの話で、合戦になればそれぞれに味方が付きます。

利家は諸大名との姻戚関係が豊富で、利家派は毛利(一枚岩ではないが輝元の本音はアンチ家康)、宇喜多、上杉の大老、三成、浅野らの奉行、加藤清正らの一部武断派、と引けを取らぬものであること、利家に万の軍勢を指揮する器量と人望があること、北政所の信任が厚いこと、家康の本領が畿内から遠いこと、さらには傅役として秀頼を擁する「公儀」の正当性を有することから、いかに家康といえども兵力の少ない伏見城にいては大坂城の利家に合戦を仕掛けるのは難しいでしょう。

ただ、利家には野心がなく大博打もしないので、自分から合戦を仕掛けるとは思えない。
秀頼を擁しないという意味で、いざとなれば公儀になれないから、上杉征伐などの無茶振りもできない。
そのため両者にらみ合いの異常な緊張感が続く中、伏見にいては不利な家康が江戸に帰国する。
そのままにらみ合いが数年続いた後、利家が下手に出る外交を行い家康が形の上で帰順する…
そんな展開を想像します。

実際には緊張が最高に高まったところで利家が家康に会いに行くのですが、すでに余命幾ばくもなく、自分がいるうちに何とかしなければ、という使命感だったのではと思います。

利家健在中に合戦にならなければ、利家死去のとき秀頼は15歳前後に成長している。
それから「関ヶ原」になるかどうか…

家康は天下を取れなかったのでは。
単純に両者の領国の規模を比較すれば断然家康の方が上です。

領国の規模は兵力に直結します。
利家の最大動員兵数を2万5千とすると家康は8万余りで勝負にならないように見えます。
でもそれは単独ならの話で、合戦になればそれぞれに味方が付きます。

利家は諸大名との姻戚関係が豊富で、利家派は毛利(一枚岩ではないが輝元の本音はアンチ家康)、宇喜多、上杉の大老、三成、浅野らの奉行、加藤清正らの一部武断派、と引けを取らぬものであること、利家に万の軍勢を指...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Q徳川家はなぜ天皇家をつぶさなかったのか

徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

Aベストアンサー

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす...続きを読む

Q徳川家が250年続いた理由

徳川家は江戸幕府を開いて、実に250年間もの間、権力の頂点に君臨し続けました。その以上に驚くことは、250年もの間、内戦が起きず平和状態を保ったことです。

よく、徳川繁栄の理由は「徳川家に害為すものは、どんな小さなものでも処理してきた。」と言われていまが本当なのですか? 具体的に徳川家は何をしてきたのでしょうか? 黒船が来るまで、敵対勢力がいなかったからでは無いでしょうか?

Aベストアンサー

体制が継続したということなら、世界には他にももっと長く続いたところがあります。
ヴェネツィア共和国 1000年間も続いています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
他にも、スコットランド王国、デンマーク王国、トルコ帝国、ロシア帝国、李氏朝鮮、明国なども長いです。
 
日本の平安時代も江戸時代より長いし、奈良時代は同じ政権と考えればさらに少し長くなります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8C%BA%E5%88%86%E8%A1%A8
徳川幕府だけが長いのではないでしょう。
 
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
鎌倉時代に北条家、平安時代に藤原家が、事実上政権運営し、トップは形式化したように、江戸時代中期には老中などが政権運営の中心になり、徳川将軍の親政ではなくなります。幼くして将軍になったり、病弱だったり、政治には関心がない人もいますから。
http://chie.yakudachidata.com/cpdata/cpi/irekisi/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%80%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4/
http://biofantasy.fc2web.com/kikaku/shougun.html
こうした体制は、共和国的な面があります。 
さらに江戸時代は、一つの中央集権国家というよりは、幕藩体制と云われるように封建連合国家で、いわば小国分立の状態です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html
http://homepage1.nifty.com/saga-t/kappa/daimyou/daimyou-main.html
全国が10国に分かれている程度なら、1つの藩が勢力を蓄えて大望を懐いたり、幕政にクレームを出すこともあるでしょう。 しかし、藩は、ほとんどが狭く、経済力も小さなものに分けられています。その上、政略結婚による連合を阻止する禁制や城郭改修の自由なども奪っています。 他の回答者が指摘されているように、幕府は藩に参勤交代や大工事の負担も命じます。 各地方勢力は、地域内で生きるのが精一杯になります。 表向きでは幕閣が幕政を取り仕切っていますので、不満は、徳川家に向うではなくて、老中などの幕閣に向かってしまいます。
現代では、国家とは離れた位置にある行政府が政治をし、政党政治や議会制政治がされるので、不満は国家体制に向かうよりも、政権や政権政党や政党、議員や官僚などに向かっていきます。 江戸時代も少し似ていて、不満があったとしても、不満を向ける攻撃対象が拡散するような状態でもあったのです。 現将軍を倒す、徳川家を滅ぼす、徳川幕府を倒す、朝廷や天皇家を倒すというようなことは、発想面からも、考えにくいことだったと思います。 隣接した藩相互で利害対立はあっても武力攻撃すれば、取り潰しの憂き目に遭うことは必至なので、武力衝突ではなく幕閣の裁定に訴えるようになってしまいます。
現代世界で、領土拡大欲求から隣国に攻め入る、食糧危機を乗り越えるために隣国に攻め入るというようなことはおきにくいです。それをしたら、国際制裁とか第三国やアメリカなどが介入して目的を果たせないどころか、やられてしまうことがわかるからです。 江戸時代も似ていて、藩は他国を攻撃できない状態です。 
江戸時代でも、天草の乱、飢饉などで暴動、世直し一揆、打ち壊し、大塩平八郎の乱などは起きるのですが、一藩の力で静圧できそうもない危険があれば、近隣各藩や幕閣派遣の兵が鎮圧します。

天皇家、朝廷・摂政関白、将軍、幕府の老中
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.81.AE.E6.91.82.E9.96.A2
は形式化します。
 
一血統の縦の流れで家系を長期間維持することは現実には難しいので、徳川も天皇家もバトンタッチはします。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F#.E5.BE.B3.E5.B7.9D.E5.AE.97.E5.AE.B6
 
日本がアジアの東端で西側にしか隣国がないこと、隣国との間に海があることなど、大陸と近い九州北部には防衛体制を7世紀から固めていて、実戦歴も4回あり、開戦しても労多く損失も多く、実益が期待できる可能性と考え合わせざるを得ないことなども、日本が他国と戦闘状態にならなかった理由だと思われます。
19世紀以降ならば、火力、艦船、兵站など軍事力が著しく発達しますから、九州北部の防衛線だけでなんとかなる状態ではなくなりました。(現実に、日本各地に異国の艦船が来て騒ぎになります)明治にならなくても、徳川代の続きでも、対外戦争は始まったでしょう。(薩英戦争はおきました)
 
日本が他国と比較的長期に戦闘にならなかったのは、地理的環境(隣国関係、航海や貿易の広がりがまだ極東まで及んでいない)と軍事力の発達過程が中途半端だったという時代の問題でしょう。 
国内で内戦が激しくならなかったのは、明確で不動の元首が存在しない政治機構であったこと、幕藩体制で小藩分立させ、地域での勢力連合結成を妨げたる施策をとったことが基本で、各藩の経済力を削がせる施策がさらに効果を高めたためだと思います。

体制が継続したということなら、世界には他にももっと長く続いたところがあります。
ヴェネツィア共和国 1000年間も続いています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
他にも、スコットランド王国、デンマーク王国、トルコ帝国、ロシア帝国、李氏朝鮮、明国なども長いです。
 
日本の平安時代も江戸時代より長いし、奈良時代は同じ政権と考えればさらに少し長くなります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8...続きを読む


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