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平安時代の貴族は衣装やお香などは金銭取引をして手に入れていたのでしょうか?
また、当時の人々の間にはお金というものが普及していたのでしょうか。

よろしくお願いします

A 回答 (3件)

638年頃、日本の朝廷は貨幣(富本銭)を造り、


流通させようと朝廷の賦役で貨幣を支給しましたが、
食料と交換する者(売り手)がいなかったため、不評を買いました。

それでも何とかしようと法整備もしましたが、
今まで使っていた物々交換の方法、
つまり、『米』や『塩』を超えることはできなかったのです。

平安時代の末期、【平 忠盛(たいらのただもり)】・【平 清盛(たいらのきよもり)】が、
日宋貿易により手にした宋銭を強制的に流通させましたが、
実際は博多あたりと機内くらいで、反平家の思惑もあって、全国には至らなかったのです。

しかし、鎌倉時代になって、それまで価格の基準となっていた『絹』の市場価格が下落して、
貨幣(宋銭)の流通が加速度的に進み、1226年に鎌倉幕府が、1230年に朝廷が、
『宋銭』を公式の流通貨幣として認められました。
 
金銭取引が全国的になるのは、このあたりからです。
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奈良時代には三河地方から九州地域までには広く貨幣が普及していました。

当時は政府が主要都市に市場を開設し、日常雑貨物・衣類、食料品、鉄製農具などの物品の公定料金を定めて商売をさせていました。また、平城京の建設、東大寺の建立事業の作業員には賃金を銅銭で支払っています。単純作業員の賃金が1日銅銭1銭で、これは米価換算で1000円相当です。
こうした時、大貴族は自分の屋敷の中に工房を抱えており、衣装や装飾品などを生産していたようです。それでしょうか、その余剰生産品を政府の運営する市場を通さずに販売することは違法であると云う通達が出されています。その違反品の中に米飯や惣菜もあったようですので、相手は銅銭で賃金を貰える出稼ぎの建設作業員だったのではないでしょうか。

その後、藤原氏が政治を主体的に行うようになって、政府が鉱山開発を行い、金属を得て、金属貨幣鋳造し、流通させると云う奈良時代の律令体制下の社会基盤が崩壊します。これが平安時代中期頃までの出来事です。ただ、大貴族はその全国の支配地で個人用の鉱山を開発し、その財貨で朝鮮半島や中国大陸との貿易を継続しています。日本宋貿易の交易品は米が主体ではありません。銅や銀の地金や水銀などが主力産品です。中国では銀を大量に含む日本産の銅地金から銀を抽出すると云う商売があったことも有名です。
平安時代、藤原政治の全盛期、世には貨幣は流通しませんが、日本の古銭は銅地金に鋳潰してインゴットとして使われていますし、自家製造できない高級衣料・生地や香料・医薬品、また、書物・工芸品などは輸入をしていました。

これは経済や物流からの古代史研究成果であって、純粋日本史学会から世界ではありませんので注意をしてください。
日本史学会の建前では貨幣経済は鎌倉時代後期から室町時代とします。
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下のようなレファンス事例を見つけました。


直接的な回答でなくて申し訳ありませんが、よろしければ参考になさってください。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrde …
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
助かりました!!

お礼日時:2015/12/14 20:18

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