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【経済】「経済を回す方法って、何も消費だけではないと思うんだけど」と言われてしまいました。

経済を回す方法って消費以外に何かありますか?

A 回答 (3件)

書店チェーンのリブロが、西武百貨店池袋本店に構える本店を6月で閉店するのだそうだ。

残念なニュースだ。

フロアマップの中にきちんとした書店を配置していない百貨店(モールでも同じことだが)は、長い目で見て、顧客に尊敬されない。まあ、書店を必要としないタイプの客だけを相手に商売が成り立たないわけでもない。それはそれでやって行けるものなのかもしれない。が、立ち回り先に本屋が無くても平気なタイプの客は、店舗に対して値段の安さ以外の要素を求めない買い手であるはずで、だとすると、顧客に対面して商品を直接販売する百貨店のような業態は、この先、店舗負担と人件費を要さないネット通販のチェーンに、早晩駆逐されなければならない。

本屋は、本を販売するだけの店ではない。それが入店しているモールなり百貨店なりに、単なる商品の売買とは別次元の付加価値をもたらす施設だ。
その意味で、書籍を売る売り場が無くなることは、その百貨店が「なじみの本屋を定期巡回する流れでフロアに流れてくる客」を失うことを意味している。

そこで起こることは「庇を貸して母屋を取られる」の逆パターンのなりゆきになるはずだ。
リブロ本店閉店の噂を語る人たちが決まって指摘していたのは、道を挟んですぐ向かい側にある、より蔵書数の多い大型書店(←ジュンク堂池袋本店)と商圏が重複していることだった。
ほとんど同じ場所に、同じような大型書店が2軒並んで店を構えているのは、資源の無駄だというわけだ。しかし、その考えは、いささか古いかもしれない。
昨今では、飲食店でもアパレルでも、同じ顧客をターゲットとする同業のライバル店舗が、同じ街の狭い地域に、あえて隣り合って立地している例が珍しくない。

なぜそんなことをするのかというと、同じ業種の店が集中することで、顧客の側には見比べるメリットが生じるからで、事実、限られた一角に同じタイプのファストファッションの店が軒を連ねている原宿や、都内のどこよりももんじゃ焼き屋が集中している月島では、その一極集中の様相が、客を奪い合う結果よりは、遠くから顧客を呼び寄せる効果を生み出している。

そういう意味で、リブロが閉店することは、もしかしたら、ジュンク堂にとっても良くない影響をもたらす可能性がある。これまで、休日や仕事帰りに、池袋で途中下車していた巡回客のうちの一部は、今後は、もう10分ほど余分に電車に乗って、別の街の書店街を歩くことを選ぶかもしれない。
つまり、書店の撤退は、リブロの例に限らず、「本が売れない」という、もう20年も前から続いている「出版不況」と呼ばれる現象のひとつだということだ。してみると、これは、水源が枯渇したから畑が消滅しましたという、退屈な必然に過ぎないのかもしれない。

本が売れないことには、たくさんの原因が考えられる。
ざっと思いつくところでは、娯楽の多様化:ラジオ、テレビ、もちろんインターネットなど、本を読む以外の娯楽が増えた。
情報ソースの多元化:活字以外の情報ソースが充実するにつれて、活字メディアの相対的な地位が低下した。
現代人の多忙化:きょうびのんびり本読んでるヒマなんてないぞ。
といったあたりが代表的な線だろうか。

結局のところ、書籍が売れないことは、書籍の中に活字という形で集積されるタイプの知識や情報に対して、わたくしども現代の日本人が、あまり大きな価値を置かなくなってきていることのあらわれなのだ。

つい2日ほど前、IT業界で活躍するビジネスマンの対談記事が話題になった。
対談そのものは、2年前(2013年)にネット上の動画サイトで公開されたものなのだそうだが、この中で、お二人は、日本で優れたプログラマが育たないことを嘆きつつ、学校教育の中でコンピュータサイエンスやプログラムを教えるべきである旨の持論を展開している。
で、これまでの、学校教育のカリキュラム、たとえば日本史については
「意味ないよ」
「歴史は苦手ですね」
「大河ドラマ見てればいいんですよ」
と言っている。
おそらく、日本史のような古色蒼然たる知識を授けることより、子供たちには、もっと実践的な知識を教えるべきだということなのだと思う。

私は、このお二人の考え方に、「反知性主義」というレッテルを貼ろうとは思っていない。三木谷さんも夏野さんも、大変にアタマの良い人だ。それに、お二人とも、知性を軽んじる考え方を持っているわけではない。

ただ、何をもって「知性」とし、具体的にどんな情報を「教養」と考えるのかについて、自分たちなりの持論を展開しているということだ。
大げさに言えばだが、この対談の中で、このお二人のビジネスマンは
「有効な知性と無効な知性の区別について」お話をしている。そういう意味では、「新知性主義」と呼ぶことも可能だ。

彼らの言わんとするところを要約すれば、これまでの大学教育やブッキッシュな教養体系の中で「教養」「知性」とされてきた、「日本史」や「シェークスピア」や「憲法」のようなアカデミックな「知識」よりも、たとえば「プログラミング」や、「観光英語」や「簿記」や「工作機械の操作法」といったアクチュアルで、現実的で、実用的で、実践的で、実学に近い「情報」の教育により高いプライオリティを置くべきだということだ。

「激動の時代」と呼ばれることの多かった20世紀の日本も、21世紀の現代と較べてみれば、ずっと変化の少ないおだやかな時代だったと言える。
社会的な事件や政治的なあらそいごとはともかくとして、こと「情報」に限って言えば、その変化のスピードは、コンピュータという機械の登場以前と以後とではまるで違う。
だから、1人の人間が一人前の勤労者になるまでの間に身につけなければならない情報は、現代の方がはるかに多い。情報の陳腐化も早い。
それゆえ現代のビジネスパースンは、昭和のサラリーマンと比べて10倍速(オダジマ推定)で自分の中の知識を更新し続けなければならない。
こうした背景を考えれば、三木谷さんや夏野さんが、学校教育の中で「実学」を教えることの重要性を訴えるのも当然だ。

個人のアタマの中に蓄積された伝統的な教養が、死ぬまで有効だった時代は、既に過ぎ去っている。情報は刻々と更新されている。それに合わせて、知識はどんどん陳腐化し、教養もまた加速度的に無効化しつつある。そんなふうにあらゆるものがスクロールしている世界の中で暮らしている以上、紙に印刷した知識を積み上げることは、そもそも、ナンセンスなのかもしれない。

別の考え方もある。情報の陳腐化が急速であるからこそ、学校教育では、知識や情報それ自体ではなく、学問(ないしは体系化された情報)への取り組み方を教えるべきだという立場だ。
この立場からすると、「教養」とは、知識そのものではなくて、「知識との付き合い方」、「知識の扱い方」、あるいは、「自分がどの程度の知識を持っていてどんな知識を欠いているのかを正確に知る能力」を示唆する言葉ということになる。

物理学は私になにももたらさなかった。それ以前に、私は授業についていけなかった。教養というのは、元来そうしたものだ。物理学は私に
「一言半句わからない」
というかけがえのない経験を与えてくれた。そう考えれば、そういうふうに考えることもできる。日本史も同じだ。
わからない人にはわからないし、価値を知らない者には価値の無いものだ。
が、だからといって、省いて良いものではない。
「一部の人には不可欠でも大多数の人間には無価値なもの」を容赦無く削って行けば、コストはカットできるだろうし、効率も上がるだろう。生産性だってもしかしたら向上するかもしれない。

が、そうやって無駄な要素を省いて行くと、無駄なものにかかわる人間がいなくなる。
つまり、音楽を楽しんだり歴史散歩をしたり古美術を蒐集する人間が消えてしまう。
と、需要が半減して、世界はとんでもない不景気になる。
教養という無駄も、実は経済を回しているのだと思う。

そうさせないためにも、われわれは、せめて本を買って、世界を回さなければならない。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/2015 …
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この回答へのお礼

みなさん回答ありがとうございます

お礼日時:2015/12/07 20:36

たとえば、投資。


国内の人口が減っていても、海外に投資して儲かることがある。
トヨタが海外に設備投資するのも、個人が海外に投資するのも、海外の消費からの利益を期待している。
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需要と供給。

限られた土地で需要は限界があります。
それを海外に進出。
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