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教科書や問題集を見ていて、歴史でわからなくなった点がひとつありました。
原敬、加藤高明、犬養毅についてです。
まず、教科書には原敬が本格的な政党内閣を始めたとあり、
その後犬養毅の時代に五一五事件で政党政治が終焉した、とありました。
ですので私は、
原敬から犬養毅までが政党政治が行われた期間だと思っていました。
 
ですが、この間歴史の問題を解いて解説を見ていたところ
「政党内閣による政治は加藤高明の時代から始まり、
 犬養毅の時代で終わった」というようなことが書いてありました。 
  
先生に聞いてみたのですが、
原敬は政党政治を行ったというようなことを言われましたが、
むしろ余計こんがらがってしまいました。

政党内閣による政治と政党政治は違うのですか?
結局誰から誰までが政党政治なんでしょう?
(もしくは誰から誰までが政党内閣なんでしょう?)
中3でも理解できる範囲でどなたかご説明して頂ければ幸いです。
分かり辛い質問で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

いまの憲法と違って大日本帝国憲法では、どのように内閣をつくるか決まっていませんでした。

そのため多数党の代表ではなく、「ときの有力者に推薦され、天皇に承認された者」が、総理になることがよくありました。多数党から総理が出れば「政党内閣」、そうでない場合は「非政党内閣」です。

原敬内閣は「初の本格的政党内閣」とされていますが、その後政党内閣が連綿と続いたわけではありません。原敬内閣(19代)から加藤高明内閣(24代)までの間に、政党内閣と言えるのは高橋是清内閣(20代)だけです。21代の加藤友三郎は海軍大将、22代山本権兵衛は藩閥(薩摩閥)出身、23代清浦奎吾は貴族院議員(選挙によらず、天皇が選んだ)で、いずれも政党に属してはいません。
加藤高明内閣から犬養毅内閣までは、6代にわたって政党内閣が続いたので、政党政治が比較的定着した期間とみなされます(と言ってもわずか8年間ですが)。

要するに、「初の本格的政党内閣」が原敬内閣で、「その後政党政治が定着した時期の、最初の政党内閣」が、加藤高明内閣です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

とてもよくわかりました。
なかなか分からなかったのが分かってすっきりしました。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2015/12/11 22:29

軍部の圧力が強まり、軍事政権化していったということ?


いきなりではなく、じょじょに戦争をする国家へと変化していったのですから、その時をいつと判断するかは、意見が分かれるところでしょう。

歴史、特に近代史はいろいろと解釈が変わります。
とりあえずテスト向けに、教科書に書いてあることをいちおうの正解とみなし、別の解釈もあると頭の片隅にインプット。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
  
今までひとつの結論を出すことにこだわりすぎていました(笑)
いろいろな解釈があるということ、覚えておきたいと思います。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2015/12/11 22:07

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Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

Q●第一次大戦中の日本『大戦景気』になった理由について(中学レベルです)

僕は中学2年生の男子なんですが、今期末テストの勉強に追われています。
塾などには行っていないし、親も勉強はあまり詳しくないので、ここでちょっと質問させてください。

第一次世界大戦中の日本は、日本の商品が欧米諸国の品物にかわり、アジア、アフリカ地域に進出した。
ということですが、なぜ輸出が増えたのか?と聞かれたら何と答えればいいのでしょうか?

授業中に先生が言っていたのですが、メモを取っていなくて忘れてしまいました・・・。
その先生は「1度言ったことはもう言わない!」みたいなことをいつも言ってるんで、怖くて聞けません。

何となくは分かるのですが、テストの解答欄に書く用の文章にはできません。なので、詳しい方はぜひお願いします。

Aベストアンサー

No,1の方の回答でもう事足りていると思いますが、気が向いたら読んで下さい。

大戦景気とは三国協商vs三国同盟という形で起こった第一次世界大戦の折、戦争をしているヨーロッパ勢がアジアに目を向ける暇が無いのをいいことに日本がアジア・中国市場の独占を図ったこと、そして戦争による需要の増加という2つのことから生じたものです。

「なぜ輸出が増えたか?」と聞かれたら、「戦争している国は輸出用の商品を作っている暇は無く、むしろ戦争に必要な物資をひたすら輸入する側に回ることになるので供給は減り需要は増えることになる。そうして生まれた超需要に目を付けた日本が率先して輸出をしたので結果として輸出量が大幅に増加した。」みたいに答えればいいかなと思います。

なにやら怖い先生みたいですが勉強する意思のある生徒の質問に答えないというのは職務怠慢な感じがするので、友達と一緒に教頭や校長に報告し注意してもらうのもいいかもしれませんね。

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Q内閣と内閣官房と内閣府の関係って?

首相官邸や内閣府のHPを見る限り同じようなことをしているようなのですが、組織・人員の規模からいって役割に違いがあると思います。
単純に内閣(立案)、内閣官房(企画)、内閣府(実行)と考えていいのでしょうか?
それとも、上下関係のない並列的な関係なのでしょうか?

設置法の趣旨といった「建前」的な説明でかまいませんが、「役人の仕事を増やすため」などのミもフタもない回答は遠慮させていただきます。

Aベストアンサー

〉内閣官房というのは内閣府の中の機関の1つです。
#1さん、間違ったことをいわないで……。内閣官房の方が格上ですよ……(内閣府設置法3条3項参照)。

無理矢理会社にあてはめると、「内閣」は「取締役会」、「内閣官房」は「秘書室」、「内閣府」は「総務部」というところでしょうか。

内閣は、憲法にある通り、行政権を司る機関、行政府の最高機関です。
内閣官房は、(戦前、内閣官房長官は「内閣秘書官長」という名前だったように)内閣の庶務を行い、内閣の重要政策について企画・立案・総合調整を行います(内閣法12条2項)。
内閣府は、他の省庁が担当しない事項(統計とか勲章とか北方領土とか)を担当するほか、複数の省庁にまたがる事項について総合調整をします(内閣府設置法3・4条)。

内閣が方針を決めるときの調整は内閣官房、決まったことを遂行する過程の総合調整は内閣府、という感じでしょうか(←関係者が聞いたら怒られそうな要約かも知れない)。
実際には、参事官レベルでは、両者の役職を兼任している人も少なからずおられるようですが……。

Q共和国とは?日本は共和国?

共和国とは君主をおかず、大統領とかが国家元首となっている国家と聞きました。

このことから、アメリカは共和国と考えてよろしいのでしょうか?
あと、日本も共和国となるのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 日本は共和国ではありません。憲法には明記してありませんが、事実上天皇を君主とする立憲君主国(法治国家。絶対君主ではない)です。もし日本が共和国だとすれば、元首は総理大臣となりますが、総理大臣とは君主のいる政治のトップという意味ですから矛盾しますよね。
 共和国・君主国の例
 アメリカは共和国です。大統領がいますよね。お隣、韓国も同じ。しかし北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は名前は共和国ですが、事実上の君主国(立憲君主国とは呼べないようですが)。ロシア(旧ソ連)も共和国。ロシアは、アメリカと違い、共和国の中に共和国(タタールスタン共和国など)を抱えています。中国(中華人民共和国)は実質的は党が国を支配していますが、独裁ではないので共和国と呼べるでしょう。
 イギリス(グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国)は立憲君主制。女王エリザベス二世が君主でブレア首相が政治のトップ。オーストラリアはイギリス連邦の一員であるため元首はエリザベス女王(この場合、形式上オーストラリア女王)。オーストラリア総督が政治を代行します。サウジアラビアも王国。サウード家が政治を行う数少ない絶対王政の国。

 日本は共和国ではありません。憲法には明記してありませんが、事実上天皇を君主とする立憲君主国(法治国家。絶対君主ではない)です。もし日本が共和国だとすれば、元首は総理大臣となりますが、総理大臣とは君主のいる政治のトップという意味ですから矛盾しますよね。
 共和国・君主国の例
 アメリカは共和国です。大統領がいますよね。お隣、韓国も同じ。しかし北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は名前は共和国ですが、事実上の君主国(立憲君主国とは呼べないようですが)。ロシア(旧ソ連)も共和国。...続きを読む

Q塩酸 なぜ あたためる?(細胞分裂)

タマネギの根の先端。。
細胞分裂の観察にて、塩酸につける場面があります。

この塩酸を60度のお湯につけて温めるというのですが、
どうして、あたためる必要があるのでしょうか?

Aベストアンサー

植物組織は多数の細胞が結合した塊です。これを顕微鏡で観察するには、ミクロトームという刃物で薄い切片にして観察するか、または質問のように細胞を解離してばらばらにしないと観察できません。

この解離とは細胞壁がペクチンと呼ばれる接着剤で結合しているものをペクチンを塩酸で分解して細胞をばらします。その際には温度を加えた方が反応が早く進みます。しかし、あまり温度が高いと細胞自体が破壊されますから60℃程度が最良なわけです。

Q米騒動について教えてください。

米騒動を詳しくまとめたいのですがどのように書いたらいいのですか。字数はなるべく多くお願いします。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。米騒動とは、1918年に起きた米騒動でいいのでしょうか?とりあえず、やってみましょう。論述でないのなら、とりあえず流れを全体的に説明してみます。

 まず、米騒動が起きた根本的な原因は、第一次世界大戦中の1917年に起きた「ロシア革命」です。ロシア革命は労働者や兵士の反対から起こりました。何故革命が起きてしまったのかというと、ロシアの独裁的な帝政や長く続く大戦継続に反対しているものが多かったからです。「レーニン」率いる「ポリシェヴィキ党」が中心となって起こされたこの革命の結果、ソビエト政権が誕生し、ロシアは「ソビエト連邦」に改名、いわゆる「ソ連」へと変わりました。この「ソビエト連邦」は「世界ではじめての社会主義国家」として全世界を仰天させました。ロシア革命後、ソ連はそれまで敵であった、ドイツ・オーストリアと「ブレスト=リトフスク条約」という単独講和を結んで、大戦から離脱しました。
 さて、このロシア革命が起きたときの日本の首相は誰だったのかというと、それは「超然内閣」を組織した「寺内正毅」でした。寺内正毅はこの「ソ連」に対して非常に危機感を抱いていました。というのは、当時社会主義者というのは国家を転覆するテロリストのような認識があったのです。だから、日本もこれまで社会主義を徹底的に弾圧をしてきました。ところが、このような社会主義国家が誕生してしまったら日本にいる社会主義者の勢力も高まってしまうと恐れたのです。そこで、寺内はそのロシア革命を干渉するために列国(アメリカ・イギリス・フランスなどが中心)と共に1918年に「シベリア出兵」を行いました。日本や列国が兵を送ることで、革命を邪魔しようと考えたのです。ところが、そんなことを表向きにしたら当然レーニン率いるロシア国民が大激怒してしまいます。そのため、「チェコスロヴァキア」軍の救出ということを名目にシベリアに兵を送ったのです。
 さて、ここからが米騒動の大きな原因となります。日本では「シベリア出兵」を行った結果、米価が急増しました。なぜかというと、出兵した兵たちの食糧を目的に国が大量の米を買い上げようとしたからです。では、米を大量に買うと分かっている商人たちは何を考えるでしょうか?「政府は兵士のために大量に米を買おうとしている。ならばちょっとくらい値上げをしても買い上げてくれるだろう」と考えたはずです。そのため、商人たちが米の値段を上げて、米価が急増したのです。
 もちろん、その影響は普通の一般市民にも及びます。特に主婦のみなさんにとってはいい迷惑ですよね。「昨日まで3000円だったのに、今日になった途端6000円に上がってる!どないやねーん!」と思ったはずです。そこで、富山県の漁村の女性が起こした「越中女一揆」というのが起こりました。実は「米騒動」というのは、この「越中女一揆」がきっかけで運動が全国規模に広がったものことを言うのです。全国の都市民衆・貧農・被差別民が、商人たちを襲うようになりました。そして、寺内内閣はこの騒動を「軍隊」を使って鎮圧したのです。
 で・す・が、ここで「あれ?」と思いませんか?どうして寺内は軍隊を使って鎮圧をした。これはあまりにも理不尽だと思いませんでしょうか?そもそも何故、米騒動が起こったのかというとその原因は先ほども説明したとおり商人たちが利益を目先に米価を上げたから、もっと深い原因まで行けば、政府が大量に米を買い占めようとしたからではないでしょうか?つまり、米騒動の根本的な原因は「政府自身」にあったのにも関わらず、政府はそんなことを省みず暴力で無理矢理鎮圧したのです。超然主義ならでのやり方ですね。当然これには民衆は大激怒します。この結果、寺内内閣は民衆からの信用を一気に失い、寺内内閣は総辞職という形を取らざるえなくなったのです。

さて、ここまでが「米騒動」の起こった全体的な流れです。残った文字数でこれを要約してみるといいと思います。例えばこのように・・・

1917年に起こったロシア革命に対して、寺内正毅内閣はチェコスロヴァキア軍の救出を目的に1918年に列国と共にシベリア出兵を行った。するとシベリア出兵をあてこんだ米の投機的買占めが横行したため、米価が急騰し、市民の生活を圧迫した。これに反発した越中女一揆をきっかけに、全国に運動が広がり米騒動が起こったが、寺内内閣はこれを軍隊を用いて鎮圧した。

という風でしょうか?ちょっと論述っぽく書いてみました。でも、これを模範解答としないで、先ほどの説明を自分なりのまとめ方で書いてみてください。

こんにちは。米騒動とは、1918年に起きた米騒動でいいのでしょうか?とりあえず、やってみましょう。論述でないのなら、とりあえず流れを全体的に説明してみます。

 まず、米騒動が起きた根本的な原因は、第一次世界大戦中の1917年に起きた「ロシア革命」です。ロシア革命は労働者や兵士の反対から起こりました。何故革命が起きてしまったのかというと、ロシアの独裁的な帝政や長く続く大戦継続に反対しているものが多かったからです。「レーニン」率いる「ポリシェヴィキ党」が中心となって起こされた...続きを読む

Q現在の政党政治システムの在り様について。

問責決議、内閣不信任案、衆議院解散、ねじれ国会や国会の空転など、現在の日本政治はこれまでにないほど混沌たる有様であります。(マスコミはやたら政局争いを誇張報道しますが…)

もちろん、政治家や政党の中には身勝手な思惑、党利党略を抱いているものも少なくないとは思います。
しかし、多くの政治家が自分の使命、政治生命を懸けてでも通したい法案、樹立したいシステムのイメージを持っているはずです。

現在の政党政治下では政局争い、まずは法案を有利に通せる立場に行くことが優先となってしまって官民両方がもどかしい気持ちになっているように思えます。
もう政党政治自体が行き詰ってしまっている感がしてなりません。

そんなことも鑑みずにマスコミに踊らされて中身のない政治家批判をする人々は論外として、
みなさんは現在の政党政治をどう思われますか?
もっとスマートな代替案などありましたらご教授いただきたいです。

Aベストアンサー

 回答

個人的には、日本の政党が政党ではないことから、日本の政党政治を根本的に規格外だと認識している
そして、日本の政党政治の健全性については不健全だと思うが、そうなった原因は有権者にある、と認識している

個別に論理展開したい

ア:日本の政党は、『選挙互助会』に過ぎない

 しばしば、「選挙の顔」という言葉が指摘されるように、選挙目前になると大概が、”選挙の顔として党首”が指摘される
比例代表選出候補が政党を鞍替えする事例は、選挙目的の政党鞍替えとしか思えない事例も指摘できる
政党は、政策集団・もしくは政策調整・討議集団であるのが本義である。しかし、既存の政党には、その機能を十分に果たせているとは言い難いことは、審議拒否などの事例から指摘できるだろう
過去最高裁が指摘したように、政党届出候補に対する公職選挙法の優遇措置(政見放送・資金団体など)の法の下の平等の問題を筆頭に、政党助成金・政治資金規正法など政党が選挙のために存在する法律になっていることも、政党を選挙互助会にさせている要素と言えよう
 そして、日本の政党が政党たりえない決定的な要素は、党議拘束の存在にある
諸外国では、政党が議員の評決を統制するような党議拘束などは限られている。しかし、日本の政党では党議拘束が当たり前になっていて、議員個人の自由な政治意思が保証されていない。
政党が選挙互助会であることから党議拘束に逆らえない背景もあるが、議員個人が政治信念・理念を持ち合わせていないのが実情であろう

この類の話は、今月の中央公論などでも指摘される部分もあるので、参考になるかもしれない



イ:日本の政党政治は、政党が基調単位にならない

 政党は政策集団であるべきだが、既存の二大政党は政策近似性を持ちながらも、政局・私怨で離合集散を繰り替している。自民党・民主党とも同根でありえるし、政策的差異が大きくないことは、政策合意などを見れば明らかだろう。
政党政治は、政党が政策基調単位として議会として議論されるべき様態である。しかし、超党派議員団が安易に結成される事例が多いように、近似した政策集団同士による議論は常に平行線か空論に終わる傾向がある
これは、政党内部において政策的振れ幅が広いことに問題があるが、その振れ幅を顧慮せずに議員が政党入りすることなどによって、政党政治という政党間闘争(論争)が不全化することに問題があろう

 政党が政策集団として、創造された政策・立法を実現させるための議会上の努力が必要である
しかし、行政国家化した現代国家においては、専門的な行政に関する議会討議は、専門性を負えない議員には困難であり、行政側(官僚)による主体的な発議に依拠することになる。政党政治は、行政側に偏重した政策・立法を、より主権在民の視座で権力牽制するべきであるが、議院内閣制度である日本国の政体から、政権与党は行政寄りになる。政権与党を牽制するべき野党も十分な政治情報と分析力がないために有益な政策・立法提言が出来なくなっている。
これは日本の政党政治そのものによる問題ではなく、制度問題とも言えるが、初歩的かつ一般的な政党政治モデルの形状になっていないことは厳然としているものと言えるし、その自覚を持てないことへの批判でもある

 
ウ:有権者が既存(所与)の政党政治・政党に対する疑念を持てない

 最高裁判例や様々な政党論を通じて、日本の政党・政党政治が機能不全であることは指摘されている
しかし、多くの有権者が全く疑問を持たず、所与のものを漫然として受容していることに一番の問題がある
選挙制度にしろ、政党の選挙互助会の体質にしろ、有権者の権利を損じているシステムであることは論説出来る
まずは、有権者が現憲法下であるべき有権者・議員の肖像を描き、それを思慮し、再検討した上で、既存の政治システムを再設計するべきだろう
そして、もっとも改変するべき要素は、有意な機能を持ち得ない政党であろう




エ:代案に関して

 代案としては、

(1)政党ありきの選挙システムを是正することによって、政党と政党政治を健全化させること
(2)ウで指摘した有権者の意識改革

を支柱として

公職選挙法(区画法改正)・政党助成法・政治資金規正法の改正(仔細は補足請求で論説)
党議拘束の撤廃(憲法改正を視野にした)・国会法改正(会派単位による国会運営の見直し)
与党議員と行政職の分離 官僚・内閣法制局立法の審議形態の見直し・委員会の細部化と専門化に対応する立法レベルの有識者会議の設置など
厳然とした議院内閣制度を一般法のレベルで見直し、
行政・立法の距離感を広げ、国会議員は現代の国家戦略局レベルの戦略部分に関して主体的な役割を担う



破壊的な代案としては

国会運営を細分化された会派で統制し、国対委員会などの政党主導の国会運営システムを廃止することによって
政党本位ではなく、議員本位の国会システムを形成する

 回答

個人的には、日本の政党が政党ではないことから、日本の政党政治を根本的に規格外だと認識している
そして、日本の政党政治の健全性については不健全だと思うが、そうなった原因は有権者にある、と認識している

個別に論理展開したい

ア:日本の政党は、『選挙互助会』に過ぎない

 しばしば、「選挙の顔」という言葉が指摘されるように、選挙目前になると大概が、”選挙の顔として党首”が指摘される
比例代表選出候補が政党を鞍替えする事例は、選挙目的の政党鞍替えとしか思えない事例も指摘できる
政...続きを読む


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