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信仰においては、拝むこと、あるいは唱えるということは日々における信仰の実践としてやはり必要不可欠なものなのでしょうか。
 

A 回答 (3件)

馬鹿に拝むこと、祈ることの意味を知ることは教えられても理解できない。


人として恥ずかしくないことを望むことだ。無理だろう。
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この回答へのお礼

わざわざ病院の中から回答してくれたんだね。
ありがと、礼を言うよ。

お礼日時:2015/12/25 23:18

教えの理解と実践のために、それを集約したものが拝むこと、唱えることだと思います。


その形式を採っていれば、信心の気持を具現化できるという考えでしょう。

ただ、問題なのは、信心の気持ちは「拝むこと、唱えること」でしか果たされないのか、です。

これについては、最終的に各個人レベルで「そう思うかどうか」になってしまいます。

「拝むこと、唱えること」が「絶対必要不可欠である」というのは一つの考え方に過ぎません。
そう思う人はその通りにすれば良いし、別の形もあると思う人はその通りにすれば良いのです。

「信仰」という意識においては差はないと思います。
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目的と手段による。



拝むことは 願い念ずることにより また唱える事は 行為と縁を結び 繋がりと守りを求める。
果たして結果がどうなるかは 神(仏?)のみぞ知る。
信仰であれば 本人の芯にきちんとその在り方があれば どのような形でも良いはずと思う。
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