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「牛若丸は11歳の時に鞍馬寺へ預けられ、やがて僧になる事を拒否して鞍馬寺を出奔し、1174年、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下った。」ウェキペディア

義経は平氏の目もあり堂々と下って行くことは出来なかった、
また、15歳前後ということでこっそり抜けだして一人で奥州まで行けるわけがない。

「僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し」というイメージではなく、中央に不満を持っていた東国の武士団と共に計画的に東国へ下ったということですよね?

質問者からの補足コメント

  • 質問の意図としては義経が京を下ることを思いたち実行するのに、外部の人間が関わったのかどうかということです。
    ウィキペディアの記述では外部の人間が関わっていないという印象です。鞍馬寺での生活で偶然父義朝や兄頼朝のことを聞き、適当にお供を拾って自分の独断で東へ下った。
    もしくは主に外部の人間が義経を連れ出すことを計画して、それを実行したということです。

      補足日時:2016/01/03 01:05

A 回答 (3件)

鞍馬寺に東国の武士団ですか?


頼朝の元に行く際に、平泉の秀衡からお供を付けてもらったと思っていましたが。
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この回答へのお礼

秀衡の元から頼朝の所に行く時ではなくて、
鞍馬寺から秀衡の元に行く時のことです。

お礼日時:2015/12/29 12:07

そのようなことは確認しようがないと思います。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1 …

1)頼朝の元に行く際に、平泉の秀衡からお供を付けてもらったと思っていましたが。 秀衡の傘下にいたからです。 秀衡の奥州藤原氏も東国(?)の武士団ともいえます。 ……… そのように、chiha25さんは書いたのだと思います。 なお陸奥はたぶん東国ではないです。
2)奥州藤原氏に庇護先を求めて行動を開始したのであれば、その行動に先だって奥州藤原氏の存在や所在場所の概要を聞き知っていたか、行動後あまり日数が経たない時期に奥州藤原氏の存在や所在場所の概要を聞き知ったか、行き先のわからないママ誰かに先導されたかということしかないです。
3)奥州藤原氏にしてみれば、義朝の子を受け入れ利用する積極的理由に乏しいので、むしろ奥州勢力拡大の基本政策の一つとして、中央の朝廷勢力を積極利用しようとしていて、その具体的方策として、藤原基成、一条長成との交際重視、そして一条長成と常磐の関係、タマタマその関係で九郎受け容れを要請されて、ジャア良いよと気楽に受け入れたという物語さえ創作出来ます。そこまで話を作れば、後は秀衡の指示で配下の誰かが九郎義経を誘い出したというのは誰でも書けるストーリーです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1 …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E …

もう漫画原作の世界です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2015/12/29 19:12

さすがにお供はいたと思いますが、誰かが手引きしたならその後の後ろ盾として知られていると思います。

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2015/12/30 09:00

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