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なぜ真田信繁は真田幸村って名乗ってるの?

武士は本名以外に外で使う名前の2つを持ってたの?

A 回答 (4件)

信繁が本名です。


幸村は江戸時代の人が脚色した名前です。

江戸時代は封建社会でしたから、民衆はお上が嫌いだったそうです。
お上=徳川家=徳川家康で、その徳川家康をあと一歩の所まで追い詰めた信繁は民衆の中では英雄と称えられたそうです。
(徳川家康本人も信繁を称えています。)

その英雄を後世に伝える為に、民衆は物語にもした訳ですが、その物語上で信繁という本名を表に出すのは危険だったそうです。
江戸時代はお上を批判しただけで死罪になる事もありましたから、徳川家康を追い詰めた信繁を公然と称える事が罪なのです。
ゆえに幸村という名前が付いた様です。
真田という名前だけでバレバレだとは思うのですが、そこは暗黙の了解があったのかもしれませんね。

他に石田三成や、家康が慕っていたとされる織田信長に謀反を起した明智光秀に関しても、我々が知っている歴史は、江戸時代に歪曲(事実より印象を悪くする)されたという説がある程です。

科学の進歩した現代においても、事件や事故で真相究明できてない事例も多々ありますから、もしかすると、我々の知っている歴史は全然異なる部分もあるかもしれませんね。
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まず信繁が史料上で実名とされています。


当時は本名で呼ぶことを避ける習慣がありました。面と向かって呼ばれる機会は朝廷や正式行事の時くらいしかありません。
では、普段はなんと呼ばれていたかといいますと、官名です。
真田信繁は従五位下左衛門佐に叙せられていたことから、この官名で呼ばれていたと思われます。

大坂城で活躍するまで真田信繁自身はほとんど無名だったので史料にはさまざまな名があります。
これは真田信繁が特定されるだけの存在ではなかったこともあります。
ちなみに、その中には「信仍、信賀、信次、幸重……」などと記憶されています。

で、もっとも知られている幸村が登場するのは、彼の没後50年近く経ってから刊行された軍記物が最初です。いわば創作に近いものなので、リアルタイムでは幸村の名は登場しません。
この軍記物が流行ったこともあって、真田幸村の名で広がったわけです。

わかりやすくいうと、ニックネームが幸村で、本名が信繁だと思えばいいと思います。
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この回答へのお礼

みなさん回答ありがとうございます

お礼日時:2016/01/23 10:29

徳川幕府の時代に真田信繁カッコイイなんて言ったら、どんなお咎めを受けるわかりません。


そこで真田幸村って架空の人物の話にしたのです。それも関ヶ原・大阪城なんて実際に会った事件はやばいので真田十勇士を作って、何か悪者と戦う今で言う悪と戦うヒーローものにしたのです。
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実際には、そんな風に名乗っていないのだ

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