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こんばんわ!音楽のレポートの提出が出てしまい現在製作中なのですが、少し気になる部分があり質問させていただきました。

一つ聞きたいのですが、古典派時代にどうしてウィーンは音楽の中心的な都市になったんでしょうか。

いろいろ調べてはいるのですがイマイチ分からないのです。
私の憶測ですが“有名な音楽家、そして音楽の都と呼ばれるように、いろいろな音楽がウィーンに集まっていたから”ではないかと思うんです。
しかし、友達に聞いた所、少し違う気がすると言われました。

皆さんはどう思いますか?
意見を聞かせていただければと思います。

A 回答 (2件)

本当に平たく言います。



この時代、音楽は誰のものであったかということです。
バッハの音楽は教会の(主にです)。
ロマン派は民衆の(これも主にです)。
ではその中間は?

つまりハイドンやモーツァルトは音楽家としてどうして成り立ったか。
それはパトロンの存在です。
つまり、貴族が援助をしたからこそ職業音楽家というのが存在できるようになったわけです。

需要があるところに供給として有能な才能が集まる。
これは実に当たり前と言えば当たり前です。

それなら他の都市でもよいのではと思うかもしれません。
こういう場合は地理的な問題も考えます。
なぜウィーンだったか。
ウィーンが音楽の都となったのはハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンが現れて以降です。
それまでの音楽の中心地は……イタリアでしょう。
この時代の多くの作曲家がイタリアに学びに行ったことなどを考えても、あながち嘘ではないと思います。
ウィーンは距離的に近いので。

ざっとこの2点が今思い付くことです。
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オーストリア=ハンガリー帝国の首都はウィーン。

丁度古典派が花開く、そのときの皇帝は、音楽大好きの、ヨーゼフ2世。歴史の教科書ではあまり名君ではないですが、音楽史上では、宮廷で、サリエリやモーツアルト、以前はグルックなどを雇っていた重要な人物です。
当然、回りに置く家臣も音楽好きが選ばれる。そういう家臣がまた音楽家を雇う。
そういうわけで、古典派特にモーツアルトの時代はウイーンが音楽の都になりました。
ヨーゼフ2世の力強し。

蛇足:
ヨーゼフ2世のお母さんは、領土を拡大した女帝マリア・テレジア。マリア・テレジアの子供には、ヨーゼフ2世の他に、あのベルサイユ宮殿にお嫁に行ったマリーアントワネットもいます。ヨーゼフ2世とマリーアントワネットはじつのきょうだい。

しかし、1789年フランス革命がおこり、だんだんヨーロッパの皇帝や貴族の力は弱まって行きます。
1790年ヨーゼフ2世は亡くなります。1791年モーツアルトも亡くなります。まだベートーベンの時代は貴族が音楽を楽しんでいましたが、ヨーロッパの革命後は次第に市民(ブルジョアジー)が音楽を楽しむようになり、音楽家を援助するようになりました。

そんな音楽の都ウイーンの基礎を作ったのが、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝ハプスブルグ家皇帝のヨーゼフ2世です。
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