1.「表面に女王の肖像が刻印されたコインがあります(A)」と言いながら、コインの裏表を相手に見せ、相手もそれを確認する。
2.「今、上になって見えているのは裏面です(B)」と言いながら、掌に載ったコインの裏面を相手に見せる。
3.続いて、「このコインの下になっている面には女王が刻印されています(C)」と言う。

【質問1】
「このコインの下になっている面には女王が刻印されています(C)」は、仮説ですか?真ですか?
【質問2】
仮説だとした場合、仮説を前提に以降の論理を展開するのは誤りですか?または意味がありませんか?

質問者からの補足コメント

  • #1お礼欄からの続きです。

    これについては、「人智」という要素が鍵になります。まず、
    ・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いない(イ)⇒裏
    は、
    ・人智の及ぶ何かによって自らが生かされて いる(イイ)⇒裏
    と同義であることをご確認ください。
    この場合、
    「人智の及ぶ何か」が自らを生かしているのだとすれば、「人智の及ぶ」なのですから、それによって「生かされているかどうかわからない」というのは論理的に不整合になります。
    よって、
    ・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いない(イ)
    または、
    ・人智の及ぶ何かによって自らが生かされて いる(イイ)
    のでないとすれば、
    ・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いる(ア)
    のは明白な事実である。
    と言えると思うのですが、いかがでしょうか。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/26 23:29
  • 念のため追加です。
    ・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いるかどうかわからない。(ウ)
    という第3の選択肢は無い、ということです。

      補足日時:2016/01/26 23:48
  • お礼欄からの続きです。
    >コインだ人智の及ばない何かだなどと分析して、一体何が解るようになるのか、私には見当すら付かないのです

    これは、質問とどういう関係があるんですかね。
    全く関係ないことじゃないでしょうか?
    何のための質問なのか、理由がわからないと回答できないんですか?
    そういう感想を表明されるのは全くご自由ですが、せめて、論点をはぐらかさず質問に答えた上でお願いしたいものです。
    何か答えられない事情がおありなら、その旨おっしゃってください。
    今のままでは単なる言い掛かりと大差ないのではありませんか?

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/29 18:35
  • 念のための補足です。
    >まさにゴールポストが・・・。

    論点という意味であれば、最初から動いていませんよ。
    ただ、(あえて言いますが)お互いの表現力不足によって発生し続けた霧のせいで見えずらかっただけでしょう。
    時折は見えていたはずなのに、見えたと思ったら、突然試合放棄してしまったりなどもありましたよね。
    まあ、どちらがとは敢えて申しませんが。

    No.48の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/01 23:28
  • 最初のボタンが掛け違っている、と指摘して論点を提示しているのに、それは無視して、
    >見解の相違にすら達していないんだから

    とぼやいてるんで、次の箇所についてだけ触れておきましょう。

    16.
    ★ 人智の及ばない何かによって 自らが生かされている
    ☆ なる命題は ふつうの神論の問題に帰着します。神論だけが問題なのです。神が
    決まれば――自由に神の具体的な名を主観がえらべば――~~~。

    だから、
    >自由に神の具体的な名を主観が

    選んではいけない、と言っているのが分かりませんかねえ・・。
    そのために
    >人智の及ばない何かによって 自らが生かされている

    を真理として、しっかり認識しておく必要がある、ということ。
    >神論だけが問題

    なんて勝手に決めてくれてますが、今はそれ以前の前提についての話ですよ?
    先走らないで素直に頼みます。
    あとで、いくらでもややこしくなるんだから。

    No.43の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/02 00:33
  • #57お礼欄から

    >★ ~~~~~~~~~~~~~~
    たとえば、
    ・神は非知である
    のような命題は成立し得ない、ということ。
    ~~~~~~~~~~~~~~~
    ☆ ですから 神についての説明はすべて 補助線であると言ってるぢゃ
    ないですか。
    依り代・権現。仮りの説明表現です。

    神の存在自体が非知と言ってるわけではない、ということですか?

    >そうして 《人智の及ばない何か》について 上の一つ目の論点の結果と
    して 《未知や不可知》は除いて 《非知》であり非知に限るとはっきり
    させたほうがよいでしょう。

    ☆《人智の及ばない何か》について☆
    のように【対象を特定した】以上、分かるか分からないかどちらかしかないですよね?
    つまり、既知あるいは《未知か不可知》しかあり得ないのですから、《非知》すなわち、「分かるか分からないかが分からない」などと暢気なことを言っててはいけません。
    下へ続く

    No.57の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/05 23:30
  • 上からの続き

    >《〔部分的に既知でありしかもなお〕未知であるところの人智の及ばない
    何かによっては 人間は生かされなくなるときがやってくる》ゆえ。

    理由になっていませんよ?
    ☆人間は生かされなくなるときがやってくる☆
    これと論理とどんな因果関係がありますかねえ・・。

      補足日時:2016/02/05 23:31
  • お礼欄の訂正です。

    ×
    「神に関しては思考の対象である」は詭弁であり、言葉遊びにすらなっていないと思いますけどね。


    「神に関しては非知の対象である」は詭弁であり、言葉遊びにすらなっていないと思いますけどね。

    No.55の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/06 00:28
  • >☆ ぎゃくに言うならば 《無限・絶対》のところに《神》を持って来ても 
    同じではないか?

    あれだけ説明しているのに(まじめに読んでるんかいな???)
    ☆《無限・絶対》は《非知》
    とは言えても
    ★《神は非知である》
    とは言えない。
    という見解が(正しいか否かはさておいても)伝わっていないというのは、極めて不思議な印象を受けますね。
    ま、気の済むようになさるほうがよいでしょう。

    No.65の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/06 23:34

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A 回答 (67件中1~10件)

42、44です。



http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/mathbook/MB15 …
田崎晴明 「数学---物理を学び楽しむために」
 第2章 論理、集合、数、関数
  2.1.論理と集合
    含意implication (p.23)

こちらに、#42で挙げた命題論理の真理関数について説明があります。

ハコブルさんが、従属変数からのアプローチとおっしゃってくれましたが、そういう見方もできるんだと気付かされました。本質的にはそう言えると思います。それは相関関係を念頭に置くという重要なことを意味しているからです。でも、従属変数であるということ自体が、何らかのコントロールされた条件や原因に付随して生じる可変的な結果という意味ですから、語弊を生むことになるでしょう。

目下の2つの論点は、1つは、因果関係と思われた命題間の関係の正しい把握と、もう1つは片方の命題における「ある」という語の真偽でしょう。

一般に言って、「ある」と「ない」は、突然発生してそこに問題を起こすのではなくて、別個の事実とのお陰様の支え合いっこで浮上しているだけですよね。ですが、その様子を示す〈論理〉は、ちゃんと体系的に「ある」し、無矛盾になるように使えるものを、使えばいいと思うのです。

以下に、【生にある】 と 【人智の及ばぬ何かがある】の各命題についてAとBの二通り、条件法の組み合わせを書き出します。生にあるのは、我自らでも、そこらへんに見える草花や虫でもいいと思います。真、偽、真、真 となっているでしょうか。

〈A〉
a.  1 - 1  生にあるなら 人智の及ばぬ何かがある  
b.  1 - 0  生にあるなら 人智の及ばぬ何かは無い
c.  0 - 1  死にあるなら 人智の及ばぬ何かがある 
d.  0 - 0  死にあるなら 人智の及ばぬ何かは無い

現実的にも、Abが偽となることは納得しやすいですね。
面白いのは、AcとAdが真なので、人智の及ばぬ何かがあろうとなかろうと真である、と成り立つ条件は、私が(蝉が鳩が)死んでいるならばということです。死んでいるときだけです。

〈B〉
a.  1 - 1  人智の及ばぬ何かがあるなら 生にある  
b.  1 - 0  人智の及ばぬ何かがあるなら 死にある
c.  0 - 1  人智の及ばぬ何かは無いなら 生にある
d.  0 - 0  人智の及ばぬ何かは無いなら 死にある 

おわかりのように条件を逆に置いただけです。
Bbが偽とは言えそうになく、Bdが真とは考えられません。
つまりBの順序では真偽真真と確かめられず、命題がP⇒Qとして成り立たっていないとわかります。
Aの順序でこそ命題の関係が成立するのでしょう。
やはり、人智の及ばない何かがあるということは原因や条件ではないという感覚をわたしは持ちますし、ハコブルさんもそうでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>でも、従属変数であるということ自体が、何らかのコントロールされた条件や原因に付随して生じる可変的な結果という意味ですから、語弊を生むことになるでしょう。

なるほど、わかりました。
「人智の及ばない何かによって 自らが生かされている」 は、たしかにそういう関係ですね。

>命題論理の真理関数

教えていただいた URL は、チラ見した限りでは面白そうな印象を受けます。
しかし、私の頭ではおそらく難しい内容でしょう。
ただ、「初心者がじっくりと読めば確実に理解できるように、丁寧にしっかりと説明することを心がけた」と著者が言っているので、何か新しいことを部分的にでも学べるかもしれず、楽しみに読ませていただきます。
#42でおっしゃった、
>「私が生かされているのなら 人智の及ばない何かがある」

の論証でもあるのだと思います。
前回は、
「人智の及ばない何かによって 自らが生かされている」 と同義と思い、
「私が生かされているのだから(人智の及ぶ○○によって生かされていると自ら証明できない以上) 人智の及ばない何かがある」と勝手に編集して同意の旨お伝えしたつもりでしたが、真理関数としては別物なんですね。

>人智の及ばない何かがあるということは原因や条件ではないという感覚をわたしは持ちますし、ハコブルさんもそうでしょう。

そうですね。
少なくとも、「人智の及ばない何か」についての定義が改めて必要になるとは思われません。
色々お手数おかけしましたが、おかげさまで神経細胞が半本ほど増えたような気もします。^^;

お礼日時:2016/02/03 00:57

まだ甘えるのですか。



《非知》ということばが それは非知なのか? 
それとも認識をするにあたって何になるのか?

ただの補助線として・シルシとして用いている。
と分かりそうなもの。

これから先は 甘やかしになるかどうかで やり取りを続けるかどうかを決めます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>まだ甘えるのですか。

笑ってしまいますが、それはこっちのセリフですよ。

補助線を使わなければならないということ自体にすでに矛盾があるのだ、ということぐらい、そろそろ気づいても良いと思いますが。
いや、これも 見解の相違 ということで申し上げているんですがね。

>これから先は 甘やかしになるかどうかで やり取りを続けるかどうかを決めます。

論理的な説明ができなくなって、都合が悪くなったら逃げる、という意味ですね。
ま、それはご自由に。
深追いはしない主義ですので。

あまり関係ないとは思うのですが、ふと、以前、何かの事件で、あるおばさんが、テレビ局の取材に答えていたことを思い出しました。
記者が何かの質問をしたときだったと思いますが、それまで滔滔と何かを語っていた、そのおばさんが急に大声でわめきだしたんですよ。
「私は神だよ?わかる?その神に向かって、何と言う失礼な口の聞き方をするんだ。わかったか?私は神だ、神なんだよ!!」
およそ、こういったセリフだったと思います。
まあ、特に意味はないのですが、スペースが余ったので。

お礼日時:2016/02/08 17:11

★ (№65補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆《無限・絶対》は《非知》
とは言えても
 ★《神は非知である》
とは言えない。
という見解が(正しいか否かはさておいても)伝わっていないというのは、
極めて不思議な印象を受けますね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そのご見解が《正しくない》と説明していることに気がつかない〔振り
をしている〕というのは きわめて不思議ですね。

むろん 気づいたゆえに ハグラカシに出ている。と分かって こうやって
言っているのですが。

すべて この繰り返しですね。
ゴールポストをあっちやこっちに移したり おまけにルールが違うのだと言
い出した。

同じピッチにいても 違うルールでプレーしているんだと言い出した。

まぁ 気が違っているとはっきり言ってやるほうが 慈悲深いでしょう。

あなたは 哲学に向いていない。
考えるチカラ ふつうに自然で人間的な判断のチカラに欠けている。もともと
あったものをそこまでゆがめてしまっている。

そのたどって来た道を振り返り どこで逸れたかの経緯を手繰り寄せ もとの
ご自分に立ち還るようにしなさい。

そのために考えるべき材料はすでに豊富に用意してやったから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

まあ、そうむきにならなくても。
論点は十分煮詰まっているので見解の相違とするのが妥当でしょう。

☆《無限・絶対》は 《非知》☆
これは一致していますよね。
おっしゃるところの《非知》は、「思考の対象とはなり得ないもの」「分かるか分からないかが分からないもの」という定義。
しかし、この命題における、以下が見解の相違ということになる。それだけの話。
A. ( br ) ☆《無限・絶対》のところに《神》を持って来ても同じ☆
B. ( ha ) ★《無限・絶対》のところに《神》は持って来られない★

「見解 B」 の根拠としては、何度も言ってますが、簡潔に言うと次のようなこと。
「《神》は《非知》」と口にした時点で、《神》を思考の対象としてすでに取り上げていることになる。つまり、「思考の対象とはなり得ないもの」ではなくなっているのだから、「《神》は《非知》」は論理矛盾である。
思考の対象となっているのであるから、(既知でない以上)「《神》は《不可知》」と言えば良いだけ。
または、いずれ存在が明らかになると認識したいのであれば、「《神》は《未知》」のように言えば良い。

#63では、
☆人間は 言わば天守閣の周りにあって 濠を測ったり中への通路を探ったり
して 多少はその城についての案内書を仮りに作成することがある。これが
補助線です。
その趣旨で 神は非知であると説明しているのです。☆
ともおっしゃている。
それに対して、私は、
★神について述べているのであることに何の変わりもないですよね?
つまり、補助線というのは、非知に関する限り詭弁と言わざるを得ない。★
と応じたわけで、これも見解の相違のひとつであろう、と述べた。

このように、明らかに見解の相違に至っているわけだから、
☆そのご見解が《正しくない》と説明していることに気がつかない☆
☆ハグラカシに出ている☆
などは、どちらの立場でも言えることになるわけです。
ですので、(お互いに)それを言わないために、見解の相違 という表現をするわけですから、そこらへんも少し理解されるほうが、今後のためにもよろしいでしょう。
ところで、
☆質問にしてみんなの前に提出☆
は中止ですか?
☆どうすればよいか分からないので しばらく保留☆
するなら、今回のような内容の投稿は慎むべきでしょうね。

お礼日時:2016/02/08 16:33

《見解の相違》であるなら 次の表現と命題について 《肯定している》と


いうことにはならない。のではないか?

★(№63お礼欄) ~~~~~~~~~
 《無限・絶対》は 《非知》なのです。

だから、それは肯定している
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ぎゃくに言うならば 《無限・絶対》のところに《神》を持って来ても 
同じではないか?

という物言いです。

でも どうすればよいか分からないので しばらく保留することにします。

わたしに構わず この質問は取り扱うようにしてください。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★(№63お礼欄) ~~~~~~~~~
 《無限・絶対》は 《非知》なのです。

だから、それは肯定している
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ぎゃくに言うならば 《無限・絶対》のところに《神》を持って来ても 
同じではないか?

の部分ですね。
了解しました。
たしかに焦点になっていますね。

>わたしに構わず この質問は取り扱うようにしてください。

当然でしょう。
そのように言うこと自体が、そもそもおかしいのだ、ということに気づいてください。
裏を返すと、特に言わなければ、このわたしを中心に、すべての質問は取り扱われるべきだ、と言っているのと同じことなんですよ?

お礼日時:2016/02/06 22:03

№63のお礼欄を 質問にしてみんなの前に提出してもよいでしょうか?



どういう受け取り方になるのかです。
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この回答へのお礼

記述を正確に理解なさっているか確認するほうが後々のためと思います。
(私の記述として引用する箇所についてのみで結構ですから)差し支えなければ全文を示してみてください。
無理にとは言いませんが、質問してしまってから、そういう意味で言ったのではない、的な遣り取りを新スレでやるのは、質問者にとっても回答者にとっても迷惑になると思われるので。

お礼日時:2016/02/06 20:02

いつも例に出すのですが


無限は 二で割っても三で割っても その商は つねに元のままの無限です。

  ∞ ÷ 2 = ∞

ただしこの説明は 《無限》を認識し特定し得たわけではありません。

そんな無限なるものの本体は 人智がおよびません。

ただし 《未知》ではありません。つねに 《分かるか分からないかが分か
らない》のですから。

《不可知》でもありません。分からないと証明し得たわけではないからです。

《無限・絶対》は 《非知》なのです。認識のあり方・及び方からの分類と
してです。

人間は 言わば天守閣の周りにあって 濠を測ったり中への通路を探ったり
して 多少はその城についての案内書を仮りに作成することがある。これが
補助線です。

その趣旨で 神は非知であると説明しているのです。


そして 城や天守閣の本体 つまり神の正体について おれは分かったぞと
言ってそのオシへを説くのは シュウキョウです。

どうか 信仰としての神についての説明と シュウキョウにおける神をめぐ
るオシへとを混ぜこぜになさらないように願っておきたいと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ただしこの説明は 《無限》を認識し特定し得たわけではありません。
そんな無限なるものの本体は 人智がおよびません。

人の言ったこと、ちゃんと聞いてますかねえ?????
誰がそんなこと言いましたか???
「人智が及ばぬもの」について述べているのですから、「本体」や「正体」について云々できるはずがないのは当たり前のことなんじゃないですか?
「本体」や「正体」について言っているわけじゃないんだから、そこからいい加減離れてもらえませんかね。
わかりますよね?
で、
☆《神は非知である》☆
のように【言うこと自体】がですね、すでに、神を認識の対象としていることになりますよね?
これは論理矛盾でしょう?
と申し上げているんです。

>《無限・絶対》は 《非知》なのです。

だから、それは肯定している、と何度も言ってるじゃないですか。
《神は非知である》のように、対象を示しつつ非知と言ってしまうのは論理矛盾だと言っているわけ。
中高生ぐらいでもわかる理屈だと思いますがねえ。

>これが
補助線です。
その趣旨で 神は非知であると説明しているのです。

神について述べているのであることに何の変わりもないですよね?
つまり
☆補助線☆
というのは、非知に関する限り詭弁と言わざるを得ない。
これが私の見解。
そちらは論理的な見解だとおっしゃる。
このようにして目出度く 見解の相違 が成立しているわけだから、それでいいんじゃないですか?

お礼日時:2016/02/06 19:07

★(№60お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~


その正体について
☆認識し特定し得たわけではない☆
のはわかります。
しかし、
☆そのもの☆
について認識しようとし始めてしまった時点で、すでに《非知》とは呼べない。
これは言語論理だと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この《認識しようとし始めた》というのは それが オシへをつくってよ
く言えば それを倫理規範として人びとのあいだの秩序を築き安寧を守るため
に用いるという場合であり 
わるく言えば オシへによって人びとを感化しそうするだけではなくともかく
群れたがる人たちを寄せ集めこれを従えておのれの支配欲を満たすためとそし
て金儲けのために利用するという場合です。

どちらも《宗教》という社会現象のもんだいです。実際には よく言った場合
とわるく言った場合とが 混ざっていると言うべきでしょうか。

《言語論理》を用いるのは このシュウキョウです。




信仰は 非思考の庭〔なる動態〕なのですから。
そこに思考がからまるのは 神についての説明表現をさらに言葉によっても添
えようとするためでありその時のみです。

☆ 認識し特定し得たわけではない ☆
☆ は つねにどこまでも 有効です。



オシヘは要らないというのは イエスが旧約聖書のエレミヤ書31:31以降
に述べられた《あたらしい契約》を 十字架上に去って行ったときに成就した
と見る新約聖書のへブル書8章の記事において取り上げられ 確認されていま
す。

神は 人びとのあらゆる罪をもう覚えない。忘れる。とともに 神を知れと言
って人びとにおしへることは要らなくなる。というのが エレミヤの預言です。

イエスは この預言を実現させました。よって 《信仰のみ》です。
もともとアブラハムぢいさんにとっては 神は 信仰のみのことです。固有時
における神とわれとのカカハリとそこにおける――持ち得るならば――対話と
だけの問題です。


次に再開されるやり取りを俟たずに おこたえしました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ この《認識しようとし始めた》というのは それが オシへをつくってよ
く言えば それを倫理規範として人びとのあいだの秩序を築き安寧を守るため
に用いるという場合であり 

論点が完全にずれています。
私が申し上げたのは、「神は非知である」などと言う場合に使われる《非知》の定義についてです。
補助線についておっしゃっているわけですが、この説明を伺ったあとでも、
★☆補助線を引いただけのこと☆
と反論されたわけですが、それは、反論として論理の体裁を為していません。★(#61お礼欄)
という認識に変わりはありません。
つまり、見解の相違 に落ち着くことになるようです。

>☆ 認識し特定し得たわけではない ☆
☆ は つねにどこまでも 有効です。

いえ、ですから、
☆《神は非知である》☆
のように【言うこと自体】がですね、すでに、神を認識の対象としていることになりますよね?
と申し上げているんです。
☆ 認識し特定し得たわけではない ☆
☆ は つねにどこまでも 有効

であるなら、
☆《神は非知である》☆
のように【言うこと自体】が論理不整合ですよね?
簡単なことだと思いますがねえ・・。
まあ、こうしたことも含めて 見解の相違 とおっしゃっているのでしょうから、それはそれでいいんじゃないでしょうか。

お礼日時:2016/02/06 17:32

《人智の及ばない何か》が 未知でないなら 非知であるしかありません。


と申し上げておくのがよいかと。


★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
《非知はある》とは言えますが、
《神は非知である》とは言えない。
《不可知》でいいんじゃありませんか?
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 不可知は あり得ません。
むしろ同じくそうおっしゃっているように思われます。

あとは わたしから申し出るたぶん初めての《見解の相違》です。それで
合意しましょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆《人智の及ばない何か》が 未知でないなら 非知であるしかありません。☆

根拠が極めて曖昧であり、「非知ありき」の論理になっていると思います。
私の考え方を再度お示しすると次のようになる。
《人智の及ばない何か》や《神》などのように、思考の対象としてすでに取り上げてしまっているのであるから、《非知》つまり、「知に非ずー分かるか分からないか分からない」などという無責任な取り扱いをしてはいけない。(こんな簡単な論理がなぜ通じないのか全くもって不思議ではあるのですが)
こうした根拠によって、
★《人智の及ばない何か》は 未知または不可知である★
と言えば必要十分条件を満たしており、これ以上でも以下でもない。
思考の対象としてすでに取り上げているわけではなく、
☆補助線を引いただけのこと☆
と反論されたわけですが、それは、反論として論理の体裁を為していません。
そんなことは無い、というのがそちらの主張なのでしょうから、ここに【見解の相違が端的に現れている】ということになるでしょうね。
ここまで煮詰まったのですから、判断は他に任せるしかありません。

お礼日時:2016/02/06 16:58

ひとこと:


★特定した時点で、すでに非知ではない★
☆ 《特定した》というのは 仮りの説明です。

補助線を引いただけのことです。

非知そのもの(本体・正解)を認識し特定し得たわけではないということ。

これが 大事です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>非知そのもの(本体・正解)を認識し特定し得たわけではないということ。
これが 大事です。

その正体について
☆認識し特定し得たわけではない☆
のはわかります。
しかし、
☆そのもの☆
について認識しようとし始めてしまった時点で、すでに《非知》とは呼べない。
これは言語論理だと思います。
ですから、
《非知はある》とは言えますが、
《神は非知である》とは言えない。
《不可知》でいいんじゃありませんか?
と申し上げているんですけどね。
★(不可知)でいい★
というのは婉曲表現でして、好ましくないのではないか、と思っています。
論理的に使えない、ということの他に、おっしゃるところの《非知》という概念は、言ってみれば「何でもあり」ですよね。
つまり、恣意的な人格神さえも想定可能としてしまっている、少なくとも、そう受け止められてしまう確率が極めて高い表現ではなかろうか、ということです。
このように、
☆補助線☆
を引くのだとしても、そうしたアプローチ自体も、2重の意味で好ましくないという気がしますね。
まあ、これ以上はおそらく見解の相違ということになるのかもしれません。

お礼日時:2016/02/06 00:43

《非知》と名づけたことを評価していると聞きましたので


細かいことは もうこのスレッドでは言わないこととします。


コインの裏表と肖像の刻印も 論理のすき間を埋めようとした
だけです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>《非知》と名づけたことを評価していると聞きましたので

ただし、適用条件が全く異なるわけですから、そこを十分にご理解いただかないと、むしろ逆効果になります。
その点は、十分お分かりの上でのコメントと受け止めておきましょう。
★特定した時点で、すでに非知ではない★
つまり、「神の存在自体が非知」といった表現はできない、ということさえ押さえていただけているなら、
★評価★
を取り下げるつもりはありません。

お礼日時:2016/02/06 00:21

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Q言葉の意味としての”障害者”、”邪魔物”

おはようございます。 
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Aベストアンサー

こんにちは。
面白い発想ですね。
私も小中学生の頃、同じようなことを考えたことがあったような気がします。

>>>障害物=邪魔物っておかしいでしょうか?

おかしいです。

その論理でいくと、世の中の言葉には違う意味に取れる言葉はたくさんありますから、事件です。

たとえば・・・
・読書 = 読み書き
・亡命 = 死ぬこと
・早世 = 早く世に出ること、早く出世すること
・父兄 = お父さんとお兄さん
・物色 = 物体の色


以上、ご参考になりましたら。

Q一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教の絶対的批判

1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も
成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく
神は 非知ゆえである〕。

2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるな
ら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としての
み扱った場合に限る。

3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つ
まり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる概念
の弄びである。宗教は 存在理由が無い。



4. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場
ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。

5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

  経験事象
    可知
      既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする)
      未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
    不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

  非経験の場
    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において
――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》
が成る。
ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものか
の自覚が起きる。

  【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心
  -------------------------
  【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス

7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:
マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよ
い。または 霊霊一如である。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

8. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神であ
る。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づけ
る無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。
――これが 一般絶対性である。



9. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関
係》をめぐっての説明となる。

10. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ご
との信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにも
かかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分から
ないからである。

11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由と
いう内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあ
ると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉
えられる。また それとして とうとばれる。つまり 信教・良心の自由。

12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカ
カハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまり
は 一般絶対性理論――からみちびかれる。

13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》
が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られるとき 特殊絶対性
として捉えられる。


14. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観とした
のは 宗教のオシヘである。オシヘは すでに思想である。

15. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい
(つまり 信じなさい)と説くなら いまの絶対性理論の外にある。オシヘは 
思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関
係もない。神論としてアウトである。

☆ ご見解をどうぞ。

1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も
成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく
神は 非知ゆえである〕。

2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるな
ら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としての
み扱った場合に限る。

3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つ
まり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる...続きを読む

Aベストアンサー

そうですね、全体的にもう少し用語の定義を与えてくださると読みやすいと思います。
自分は大学で哲学と数理論理学を専攻していますが、まずこの手の哲学は読み手へ強く訴え出る為の理解、その足がかりとなる用語の定義を丁寧に行います。
完全に理解したわけではないですが、なかなか興味深い内容に思えます。

Qgoo初心者です。一太郎を使っているんですが、分からない漢字をマウスで

goo初心者です。一太郎を使っているんですが、分からない漢字をマウスで書いて、その漢字の読み方や、その漢字の意味を知る機能があったと思うのですが、どこをどうすればいいのでしょうか。パソコンも初心者です。よろしくお教えくださいませ。

Aベストアンサー

一太郎ではなく、付嘱のATOKとの連動機能ですね。

タスクトレイ(画面右下)のATOKのアイコンを右クリック
⇒読みの分からない漢字を入力する
⇒手書きして探す

で出来ると思います。

Q歌舞伎町の女王とエリザベス女王との見分け方は?

歌舞伎町の女王とエリザベス女王との見分け方は?

Aベストアンサー

巻き舌で歌える方が歌舞伎町の女王。
カミラと聞いて嫌な顔するのがエリザベス女王。

Q英語上級者の方or 英英辞書使ってる方へ

英語上級者になると英英辞書が必須になると聞いた事があります。
理由は省略します。理由を心得ている方、または英語上級者の方へ質問ですが、
実際、英語上級者になると英英辞書で辞書を引くべきなのでしょうか?

また、英検2級程度の英語力の時点でも英英辞書の既知の定義を読むことにより、
英語力を向上出来るそうですが、実際、有効な手段ですか?

Aベストアンサー

英語を仕事にしている者ですが、英和翻訳でさえ、英英辞書は欠かせません。
英和辞書というのはそれなりにできているのですが、しっくりする訳語がないことや、
ニュアンスが違っていることがあります。そういうときは、英英辞典を読んで、
しっくりする訳語を「自分で決めた方」が効率的です。

また、英和辞典の日本語を表面だけ見ていたのでは、言葉の誤用は決してわかりません。
たとえば、助動詞のshouldですが、英和辞典では「...すべき」という訳が先頭にいるので、高校生とかは機械的に「...すべき」と訳しますが、実際にはニュアンスが違っていて、話し手の提案を表す柔らかい言葉です(使用マニュアルなんかでよく出てきます)。一方のhad betterは「~した方がよい」とかが英和辞典に載っていると思いますので日本人はよく使いがちですが、実際には「~した方が身のためだ」という脅迫の意味に近いので、相手の気分を害する言い回しになることがあります。

英和辞書に載っている訳語は特定の状況下での目安的な訳で、それを金科玉条や聖書のように守っていると、文脈を正しく理解する上で大きな障害になるので、できれば英英辞書を引く回数を増やすようにしてください。

英語を仕事にしている者ですが、英和翻訳でさえ、英英辞書は欠かせません。
英和辞書というのはそれなりにできているのですが、しっくりする訳語がないことや、
ニュアンスが違っていることがあります。そういうときは、英英辞典を読んで、
しっくりする訳語を「自分で決めた方」が効率的です。

また、英和辞典の日本語を表面だけ見ていたのでは、言葉の誤用は決してわかりません。
たとえば、助動詞のshouldですが、英和辞典では「...すべき」という訳が先頭にいるので、高校生とかは機械的に「...すべき」と訳...続きを読む

Q狂人とアナロジー

狂人においては、世界の再構成の仕方にどのような特徴があるでしょうか?

Aベストアンサー

多分、色を失いモノトーンなものになるでしょう>ここでいう色、は単なる色彩という
意味に限定しません。 人間は世界を自分がいない風景として捉えます。
好きな人、欲しい車、フルい付きたくなるような魅力的な異性、顔を見るだけで平静では
いられない嫌な人。 暖かい。寒い。明るい。くらい。 風景の全ては自分の喜怒哀楽と
感覚によって「自分にとっての感じ」に置換されています。 意味化、或いは記号化と
言ってもいいかも。

恐らく、狂人と呼ばれる重度の精神疾患を患うものは、これらが「無意味化」して
いったのではないでしょうか。 それをモノトーン、と表現したのです。

人間は全て、自分の内面を投影した「世界という自己投影像」を見ているわけだから
思考停止、もしくは病的な執着心による思考狭窄が慢性化した場合には、そういう
ぼやけたモノトーン、つまり殆ど見えているものに意味が与えられていない・・・
言わばノイズ画像に近いものを見ているのではないでしょうか。

その中で強い執着の対象となっているものだけがリアルに焦点が合うとしたら。
想像するだけでも恐ろしい風景です。 例えば、ストーカーにはテレビのノイズ画面
みたいな遠近感もない風景の中で、付回している女の子だけしか見えない・・・
世界で二人きりになったら、を地で行く。

再構築というよりも、情報の価値の平均化による意味消失のプロセスと言った方が
イメージ的には近いように思うのです。

私見恐縮。ではでは。

多分、色を失いモノトーンなものになるでしょう>ここでいう色、は単なる色彩という
意味に限定しません。 人間は世界を自分がいない風景として捉えます。
好きな人、欲しい車、フルい付きたくなるような魅力的な異性、顔を見るだけで平静では
いられない嫌な人。 暖かい。寒い。明るい。くらい。 風景の全ては自分の喜怒哀楽と
感覚によって「自分にとっての感じ」に置換されています。 意味化、或いは記号化と
言ってもいいかも。

恐らく、狂人と呼ばれる重度の精神疾患を患うものは、これらが「無意味化」...続きを読む

Q臆病者(ヘタレ)に対して一番ピッタリな四字熟語なんて

臆病者(ヘタレ)に対して一番ピッタリな四字熟語なんて
分かりますか?

Aベストアンサー

何点か挙げてみますね

・羊頭狗肉(ようとうくにく) = 見せかけと実質とが一致していないこと
・風声鶴?(ふうせいかくれい) = ちょっとした事にもおじけづくこと
・八方美人 = 誰からも悪く思われない様、要領よく人と付き合うこと
・薄志弱行(はくしじゃっこう) = 意志が弱く、物事を判断する力に欠けること
・小心翼翼(しょうしんよくよく) = 気が小さくてビクビクしていること
・因循姑息(いんじゅんこそく) = 決断力に欠け、グズグズすること

以上6つのうち、一番近いのは「小心翼翼」でしょう。参考になったでしょうか?

Q宇宙連続体仮説

 
「宇宙は完全連続体であり、宇宙の如何なる部分も分割可能である」

これは現代物理学が究極的に直面し解決しなければならないテーマとなろう。
そしてこの仮定が肯定的に解決されたとき、今までの量子論および量子力学はその基礎を完全に失い根底から崩壊することになる。もちろんビッグバン宇宙論の類も根底から崩壊することになる。
果たして宇宙連続体仮説はどのように解決されるのであろーか。
 

Aベストアンサー

こんにちは。
宇宙を思考し、明日を想う程宇宙は狭く無く
宇宙を思考せば、思考するヒトは宇宙の広さに
埋没してゼロに近くなるはずだとM理論は言って
居た様な気もします。
ヒトがそのままで、宇宙を思考する事がいかに
尊大な事なのかを思い知らされる思いです。
人の道様の宇宙観が、人の道様の存在と≒で
無いとしますと、宇宙は素粒子の中のニューロンの
様な存在か!もっと微小なモノに置くべきか?
是非ぼんくら頭に一撃を!賜れたら幸甚に思います。

Q刑法の『者』の読み方

大学の刑法の授業で、例えば「人を殺したる者は…、」という条文の『者』は、人ではなく行為を意味するものだから、「もの」ではなく「しゃ」と読む、と学者は言っていたのですが、
ほんとうにその読み方でいいのですか?
常識はずれで不自然な読み方だと思うのですが。

Aベストアンサー

法律上は規定なし。
法学上(講学上)通説や多数説、有力説か如何かは知らないが、社会科学に絶対的正解など存在しないので其の学者の支持する説はそうであると言う事です。

Q哲学における“霊”の仮説

(1) “霊”は既成の自然法則に適っていないから、その実在について論理・仮説立てはできないと言えますか。

(2) また、“霊”は定義が定まらないので、その実在について論考するに値しないと言えますか。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 (1):“霊”は既成の自然法則に適っていないから、その実在について論理・仮説立てはできないと言えますか。

 ☆ 《既成の自然法則に適っていない》ので それは単純に《この経験世界を超えたもの》となります。つまりは それは《有るか無いかが分からない》のですから そのように《非経験の場ないしハタラキ》として《想定する》ことになります。

 (2):また、“霊”は定義が定まらないので、その実在について論考するに値しないと言えますか。

 ☆ いいえ。上に想定したところから その限りで きちんと定義しておけます。
 想定上 《非経験・絶対・無限》の領域を言うわけです。つまり《神》であり――それを《無い神》と言ってもよく―― それは《人間の能力にとって分かるか分からないかが分からないもの》です。




 次は たましい・こころと並べて 定義したものです。

 A たましい:
  (1) 身体組織としての感性 
  (2) こころ 
  (3) 霊

 B こころ:
  (1) 感覚を意識し 認識すること。また 認識した内容。 

  (2) いっさいの認識をもとにして 自己および他者あるいは世界に相い対するとき人間存在に生じるはたらき。
      これは 好悪の感情や喜怒哀楽の気持ちであったり こころ差し(志)であったり あるいは要するに 《わたし》という意識そのものであったりする。

  (3) さらには たましいが霊としても捉えられる場合と同じこころがある。
      これは 肉(つまりこの場合 精神および身体を言う)をあたかも超えて伸び広がるかに思われるところがある。→《信じる》

 C 信じる(信仰):
   非経験〔についての〕思考のこと。経験思考に非ざること。
   または 表象しえぬものをわざわざ思うこと。ただしその表象し得ぬものをも 言葉などその代理によって表象すると主張することがある。
   あるいは 絶対とわれとの関係。→《絶対》

 D 絶対:
   そういう想定である。経験的な相対世界を超えたところと規定し想定する。思考を超えている。
 《考える》を超えるこころのはたらきは 《信じる》と呼ばれる。
 それは 有神論と無神論とに分かれる。どちらも 互いに同等である。信仰であり その形態が 有神と無神とで分かれるのみ。つまり《神がある》と言うのも《神がない》と言うのも ともに《信じる》の領域を捉えて言おうとしている。なぜなら 《絶対者》は表象しえぬゆえ。

 E 肉:
  (1)身体 
  (2)身体および精神 すなわち 経験的な存在の全体

 F 精神:
   こころのこと。特にこころの(2)のはたらきとして 基本的に 記憶・知解・意志の三つの行為能力を言う。
  ( a ) 記憶行為:
    精神の秩序。感性内容を意識し記憶する。意識内容を知解行為が加工したものをも記憶する。
    その組織・その過程。
    先験的に 存在じたい もしくは その自然本性じたいの秩序を司ると思われる。

  ( b ) 知解行為:
    記憶組織という宝庫から ものごとを捉えて認識し さらにあらたな整合性をもった認識内容につくる。

  ( c ) 意志(愛):
    大きく広く 直接的にせよ間接的にせよ 記憶および知解を行為するときに すでにそれらを促すように発動していると思われる。
    知解行為の結果から取捨選択しその内容を みづからの意志(おもむくところ)として判断し決定する。実行にも及ぶ。 

 G 三一性( trinity ):
   これら記憶・知解および意志の三能力行為は 経験的・時間的な行為を成し 他者のそれらと 社会的な関係をむすぶ。
   このとき 時間的な隔たりを持って 三行為はけっきょくのところ 一体性を有すると考えられる。
   社会形態(一般に国家)にあっては順番に 司法・立法および行政という役割にそれぞれ相当する。

 H 三位一体( Trinity ):
   これは 《絶対》という表象しえぬものを 人間のことばという代理物で 仮りに表象し仮りに表現しようとしたもの。
   ・記憶能力が 父なる神。光のたとえとして 光源。
   ・そこから生まれる知解行為が 子なる神。光の発耀。
   ・それら両者から発出するかのような意志行為が 聖霊なる神。光の持つ明・暖。

   絶対の領域では とうぜんながら 三つのものは 一体である。
   三つのそれぞれの個は全体と 全体は各個と 各個は各個と それぞれ等しい。無限の半分も無限であり 三分の一もやはり無限である。

 I 霊:
   《絶対》ないし《絶対者》のこと。

 J 《イエスはキリストである》:
   霊なる神が 肉(精神および身体)になった。という物語。

 K 人間:
   このキリスト・イエスつまり 《かみでありひとである存在》に似る存在者である。
   それは 霊なる神を分有するというかたちだとされる。
   《絶対》によってあたかも指先でのように触れられている。あたかもこころの明けまた伸びとして窓が開かれている。これを《分有する》という。

 L 《人間は神の似像(にすがた)である》:
   三位一体なる神のはなはだ不類似にしていくらかは類似する三一性をそなえた人間をいう。
   この人間は 神にかたどって造られたと表現された。
   一定の社会形態(国家)も 三権の分立かつ協業というかたちで一種の三一性を有し 似姿の様相を呈している。
   
 M 生命: 
   これは 以上のすべてを言うものか?

 こんにちは。

 (1):“霊”は既成の自然法則に適っていないから、その実在について論理・仮説立てはできないと言えますか。

 ☆ 《既成の自然法則に適っていない》ので それは単純に《この経験世界を超えたもの》となります。つまりは それは《有るか無いかが分からない》のですから そのように《非経験の場ないしハタラキ》として《想定する》ことになります。

 (2):また、“霊”は定義が定まらないので、その実在について論考するに値しないと言えますか。

 ☆ いいえ。上に想定したところから...続きを読む


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