まずはウィキの記述をごらんください。
-------------------------------------------
経典によれば、釈迦は縁起について、
私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
— 『南伝大蔵経』12巻、234頁
と述べた。またこの縁起の法は、
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7
-------------------------------------------
縁起は釈迦が悟ったもののひとつと思いますが、このウィキの記述にあるように、
・縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけである。
としか釈迦は言っていないのでしょうか。
つまり、その [ 縁起が真である根拠 ] などは、どこにも示されていませんか。
No.36ベストアンサー
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
「此が滅すれば彼が滅す」に関しては、若干読み方が難しいのだと思います。
これは、因果関係(縁起)の連鎖の途中の事だと思う必要があります。
原因が消えれば、結果が消えると読むと意味がわからなくなります。
前段「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。」は通常の縁起の相縁性を意味するので、これ自体は常に成り立っているわけです。
原因があるから結果がある、原因が無ければ、結果が無い。→当たり前の因果関係です。
後段「此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」は、この相縁性を、煩悩と苦に対応させたと解釈するわけです。
煩悩が生ずれば、苦が生じ、煩悩が滅すれば、すなわち、それより生まれる苦も滅する。という風に考えられると言う事です。
煩悩→苦→煩悩→苦と連鎖が続くわけですが、途中で煩悩が滅せれば、その連鎖は消えると言う事です。
最終的にこれは、輪廻と関連付けられて、煩悩の滅→解脱→苦である生を生じる必要は無い→輪廻が終わる。という事になるんだと思います。(ただ、この論理を完成させる為には、輪廻が解脱出来ない事により生じる事が理解される必要があります)
また、輪廻がどうして起こるのかを理解できないと、輪廻が絶たれる事が理解できません。
それを知る事が、正覚(悟り)と言う事なのでしょう。
そこに至る方法は、仏典でも解説されていますが、その境地自体は解説されていません。
ご回答ありがとうございます。
>煩悩が生ずれば、苦が生じ、煩悩が滅すれば、すなわち、それより生まれる苦も滅する。
:
「此があれば(結果として)彼があり、此がなければ(結果として)彼がない。此が生ずれば(連動して)彼が生じ、此が滅すれば(連動して)彼が滅す。」
のように解釈すれば良いのですね。
「連動して」という視点を見落としていたため、要らぬ疑問が生じたようです。
No.43
- 回答日時:
せっかくBAをもらったので こちらのスレッドにもかかげさせてもらいます。
ここでもやり取りのための共通のたたき台に成り得て 互いの議論を媒介すること
ができるのではないかと思うからです。
▲ (宮元啓一:ゴータマのさとり) ~~~~~~~~~~
§ 四諦
四聖諦(ししょうたい)・・・〔四つについて省略します〕。《諦(サッチャ)》
とは《真実》という意味です。
§ 苦諦
〔四諦の最初の〕苦聖諦・・・〔に四苦八苦がありその八番目の〕五陰盛苦(ごお
んじょうく)(また 五取蘊苦)は 執着の対象となる自分の身心を構成する五つ
の集まり〔色受想行識〕そのものが苦であるということ これにより簡潔に言えば
この世に 今 生きていること自体が苦だということです。
§ 渇愛・無明・生存欲
苦に満ちた輪廻的な生存をもたらす根源的な原因は渇愛だと指摘されます。そして
渇愛には三種あると説かれます。
《欲望の渇愛》(kaama-taNhaa)というのは 十二因縁に出て来る《愛》に相当す
るもので 執着の直接の原因と位置づけられます。
《生存の渇愛》(bhava-taNhaa)というのは 根本的な生存欲のことで 《無明》
《癡(ち 痴)》と同義です。
《虚無の渇愛》(vibhava-taNhaa)というのは みづからを空無にすること(自死)
へのやみがたい思いということです。フロイトの心理学で言えば タナトスに相当
します。
§ 《生存の渇愛》
最も重要な渇愛は 《生存の渇愛》です。ゴータマ・ブッダの頭の中では これを
《無明》と置き換えて 無明から苦に至る因果関係の鎖(その骨格となるのが十二
因縁)を順に考察しているわけです。
(宮元啓一:『仏教かく始まりき――パーリ仏典『大品』を読む』2005 pp.
76-78 )
§ 《根本的な生存欲》
ゴータマ・ブッダは 輪廻の根本的な原因は欲望ではなく その欲望の奥に そ
のさらなる原因としての根本的な生存欲があることを発見しました。これは お
およそ ショーペンハウアーがいうところの《盲目的な生への衝動》と同じだと
みてよいでしょう。
この根本的な生存欲は ほとんど自覚することが不可能なので《無明》とか《癡》
と呼ばれ また それゆえほとんど抑制不可能な衝動であるため《渇愛》と呼ば
れました。この根本的な生存欲が手づかずであるかぎり 欲望が消え去ることは
ないのです。
§ 渇愛と向き合う《智慧》
そして ゴータマ・ブッダは その根本的な生存欲は それをしっかりと知り
それと正面から向き合うことによって滅びると考えました。そして そうやって
しっかりと知ることを《智慧》と呼びました。智慧の発見は ゴータマ・ブッダ
の大きな功績です。
§ 智慧としての此縁性
それからゴータマ・ブッダは 《此縁性(しえんしょう)》という因果関係確定
法を発見しました。これは 《これがあればかれが成立し これが生ずればかれ
が生じ これがなければかれが成立せず これが滅すればかれが滅する》という
関係が確認されたならば 《これ》が原因で《かれ》が結果であることが確定で
きるとするものです。
§ 智慧としての縁起説
そして ゴータマ・ブッダは その此縁性という因果関係確定法を駆使して 根
本的な生存欲から苦である輪廻的な生存に至る因果関係の鎖を精緻に探索しまし
た。そうした因果関係の鎖のことを《縁起》と呼びます。
その因果関係の鎖は実際にはおびただしくあるのですが 成道の直後に ゴータ
マ・ブッダはそれらを十二支に要約して十二因縁(十二支縁起)とし それを順・
逆に繰り返し観じました(順観・逆観)。
§ 縁起の順観と逆観
すなわち 無明に縁って行が生じ 行に縁って識が生じ 識に縁って名色が生じ
名色に縁って六処(六入)が生じ 六処(六入)に縁って触(そく)が生じ 触
に縁って受が生じ 受に縁って愛が生じ 愛に縁って取が生じ 取に縁って有
(う)が生じ 有に縁って生が生じ 生に縁って老と死と愁いと悲しみと苦と憂
慮と悩みとが生ずる と見るのが順観で 無明が滅すれば云々と見るのが逆観で
す。
そして およそ生ずる性質のものは滅びる性質のものであるという真理を ゴー
タマ・ブッダは発見しました。
・・・
(宮元啓一:『インド人の考えたこと――インド哲学思想史講義』 2008
pp.74-76 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ はこぶるさんが 《個人にとっての魂のすくい》というとき 確かにこのよ
うな一見解も視野に入ると思われます。それをめぐって 議論をすすめれば話は
早いのではないでしょうか。
《個人》観の違いを超えて行けるのでは?
なおわたし自身の見解としては 《苦・無明・渇愛》は あくまで《地(ぢ)と
しての楽・明知・寂静》の上に描かれて行く《図》であるに過ぎないというもの
です。
生まれつきの身と心とから成る自然本性が 《地》だという理論(仮説)です。
No.42
- 回答日時:
> 法治は個人の魂の救いとは対極であると思われるので。
個人の魂の救済ですか。。。宗教が、個人の魂の救済などに走る時は、カルトにもオカルトにもアナーキズムなることは明らかだと思います。個人とは何か、という点にまずとどまってみませんか?
宗教にとっては、一員がいかなる存在であるかに始まって集団はいかなる存在であるかに終わり、集団はいかなる存在であるかに始まって一員はいかなる存在であるかに終わる。という按配に、個人とは解の無い方程式でしょうね。
個人ではないぞ、という観想がそもそも、仏教の世界にボーバクと広がっていませんか。「わたし」を見つめれば見つめるほど自律的存在ではないことがわかるというのが仏教の世界観ではないのでしょうか。
ところで、今わたしたちが容易に口にする個人の概念は、18世紀の西欧に生まれた概念です。個人とは発明されたものです。中世以前の労働生産形態に置かれて生活している人間は、もっと曖昧模糊とした社会的な自分を抱えていただろうと考えるべきで、これは新しさそのものである近代というくくりの思想や文化を学ぶときによくわかることなのです。ですから、これ(個人の概念)が噛み合わないような思想や哲学があることは念頭に置いた方がよいのです。
***
法治は権力を管理します。要は権力を管理するかどうかの志向性の問題であり、人間が生きている条件は平等だということをふまえて、人治国家たりえるか法治国家たりえるかは、その国の人々次第だと思います。しかしその逆は出来ません。法治国家にしたから人が平等になることもなければ、人治国家にしたからそうなることも、ないでしょう。
ハコブルさんが救いとおっしゃっていることは、仏教ではすなわち、出家なら出家なりの、在家なら在家なりの、夥しい数の戒と律にしたがわねば端から始まりません。それが社会に向けられた循環型の行動だということを、ハコブルさんは見落としているような印象を全体的に受けました。たぶん、別に仏教にご興味ないのではありませんか?
ご回答ありがとうございます。
>宗教が、個人の魂の救済などに走る時は、カルトにもオカルトにもアナーキズムなることは明らかだと思います。
:
そうですかねえ。
個人は救いを求めて宗教を頼るのではないか、と思うのですが。
それに応えられないなら、あるいは応える振りをして利用するなら、それは個人の問題ではなく宗教自身の問題になるでしょう。
ある「我」にとって(純粋の)祈りは必須です。
その行為が団体に取り込まれたときに、何らかの誤謬が発生する確率が高くなるのではないでしょうか。
おそらく、それは、団体を維持するための規範であったり、脱落者を防ぐための恫喝であったりなとが混在してしまうからではないかという気がします。
>「わたし」を見つめれば見つめるほど自律的存在ではないことがわかるというのが仏教の世界観ではないのでしょうか。
:
おっしゃるとおりかもしれません。
そこが仏教に限らず、宗教の魅力の要素のひとつなのでしょう。
とはいえ、[ 自我としてのこの我 ] が消滅するわけでもないので、両者の折り合いをどのようにつけていくのか、という問題は残されますね。
>救いとおっしゃっていることは、仏教ではすなわち、出家なら出家なりの、在家なら在家なりの、夥しい数の戒と律にしたがわねば端から始まりません。それが社会に向けられた循環型の行動
:
しかし、辿り着く先は同じ場所ではないのでしょうか。
▼個人の魂の救い▼
と申し上げたのは、[ 自我としてのこの我 ] と [ 人類としての我 ] との狭間で、自己存在の 危うさに気づいてしまった個人の求めるもの、といった位置づけです。
方便やファッションとして求められる宗教とは一線を画した上での話です。
◎社会に向けられた循環型の行動◎
は、以前教えていただいた大乗仏教の考え方なのでしょうね。
漠然とした感想なのですが、「利他」を大前提にしている点がちょっと引っ掛かるところです。
No.40
- 回答日時:
追記です。
そのかわりに法治国家の基礎にはなりやすいですね。生きている条件が平等であることは、法の精神の基礎ですよね。
ご回答ありがとうございます。
なるほどです。
ただ、どうなんですかね。
法治のために使われるとしたら、やはり邪道なんじゃないでしょうか。
法治は個人の魂の救いとは対極であると思われるので。
No.39
- 回答日時:
修正があります。
《走らなければならないのはこの馬車道で走ればニンジンがあるのだ》
は、このように書き直します。
《走らなければならないのはこの馬車道で、走ればニンジンがあるのだ》
> 今、「死なう団事件」を読んでいるところです。
面白いものに関心がおありですね。
死なう團事件て、警察やマスコミが事件を大きく転換させたようなところがありませんか。
あの日蓮会の若者たちって自分らのために斗っているんでしょうかね。
身体も病弱だし、ひよわそうで、結局、仏教臭さがあんまりないです。
僧兵の歴史的役割からもわかりますが、仏教界って、わりと雑でごつい人間のいるところだと思います。
> 「真」の在り処が極めて多様になってしまい、
> ◎山頂は1つ◎
> とは、現実的にはなっていないように思われるわけです
まえにも書きましたが、「根本分裂」で上座部と大乗に分かれていますので、日本の状況をどうこう言っても仕方ないのです。仏教国というのは、オレンジ色の袈裟の国々と、日本しか、事実上無いわけで、日本が特別不思議な国だと思われます。
釈迦の示したものは、と仰るなら、上座部の国々を見るべきではありませんか? 釈迦の教え通り、《持たない》ところから始め、輪廻を解脱するまで生まれ変わることを現実的に捉えて、出家・在家で人が行動していますから。
> 根本的な方向性のようなものを示すことはできなかったのだろうか
揺れが生じたのはむしろ遂行方法に関してでしょう。緩和しないと苦行になっちゃう。しかし、もともと浄・不浄思想の下剋上のようなのがお釈迦様の教えですから、緩和して上澄みにあがってしまっては、非法であるに違いありません。根本的な方向性は、泥中の蓮根から水上の蓮華へ向かうものなのだから、そもそも山水に恵まれた清澄で繊細な日本人になんて、そのまま移殖できる思想ではないですよ。だから飢饉や大災害の苦痛に乗じて伝播するわけでしょう。何百年も縛られている身分差から誰でも平等に浮き上がれるなんてことは、日本人にとっては観念的なもので、たぶんリアルな救いのイメージを持ちづらいだろうと思います。
ご回答ありがとうございます。
>仏教国というのは、オレンジ色の袈裟の国々と、日本しか、事実上無いわけで、日本が特別不思議な国だと思われます。
:
日本の場合は、職業仏教という印象が強いですね。
よくも悪くもなのでしょうが。
>何百年も縛られている身分差から誰でも平等に浮き上がれるなんてことは、日本人にとっては観念的なもので、たぶんリアルな救いのイメージを持ちづらいだろうと思います。
:
これもまたよくも悪くもなのでしょうが、どうも日本人は要領が良いのかもしれませんね。
No.38
- 回答日時:
なるほど。
納得がゆきました。縁起をたどるにも因果をたどるにも、想像力がてんでばらばらの個人任せなので、苦からの解脱にだいぶ個体差があるらしいのが腑に落ちないのですね。
輪廻の10周回目の人と、輪廻の1周回目の人が。。。。あはは。
いやがおうなしに、何周回もしながら、智慧とか心の動揺とか戒めとか、早いの遅いの、どの順この順、いろいろあり、解脱するのも一筋縄ではないから、お釈迦さまは、システムと修行しか示さないのではないですか。個体差こそ、仏教の鍵だと思います。「我」が観ずるところ「我」の行う道行きに「我」が真を見出すまでだと思います。あるいは、山頂は1つなのに、至る道は無数という具合に。山頂については、死んでも死なないところだと言っております。お釈迦さまは、たしかにあまり多くは語っていませんが、馬にニンジンがいかに美味しいかを教える仕事より、走らなければならないのはこの馬車道で走ればニンジンがあるのだと教える仕事を選んだのでしょう。
ご回答ありがとうございます。
何も知らないのでうかつなことは言えませんが、
>この馬車道で走れば
:
ではなく、このように走れば と言っているようにも見えます。
ともかく一生懸命走ったあとのニンジンはうまいよ、と。
走ってどこに辿り着くのかまでは(結果的に)関知していない、という印象を受けます。
>個体差こそ、仏教の鍵だと思います。「我」が観ずるところ「我」の行う道行きに「我」が真を見出すまでだと思います。
:
今、「死なう団事件」を読んでいるところです。
江川桜堂を盟主とする「日蓮会」の話。昭和の初期、霞ヶ関で5人の切腹事件を起こし、その翌年、桜堂が病死すると5人の殉死者を出した。
既存の仏教、特に日蓮宗に反旗を翻した桜堂は、この会の総裁を釈迦、会長として日蓮聖人を据えていました。
一般的にはカルト教団と位置づけられているようですが、私は今のところ、どちらかというと好意的に読み進めているところ。
まあ、それはさておきですが、このように、「真」の在り処が極めて多様になってしまい、
◎山頂は1つ◎
とは、現実的にはなっていないように思われるわけです。
むろん、すべてを釈迦の責に帰すのは短絡的であることはわかっていますが、やはり、根本的な方向性のようなものを示すことはできなかったのだろうか、という思いが湧きます。
No.37
- 回答日時:
> お釈迦様の求めているような
> ◎想像力の働かせ方◎
> をしていないから、
> ◎凡庸で平俗で陳腐な世間の言葉◎
> しか見られない、とおっしゃってますか?
そんなことを言うわけがないでしょう。
《[お陰様 寺] などでインターネット検索をかけてみられては
いかがでし ょうか。
凡庸で平俗で陳腐な世間の言葉がご覧になれるでしょう。
この震災から4度目の春を前に、和平なき中東と同じ空の下で
日本に過ごすアナタ、
経典まみれの象牙の塔の言葉より、なんぼかお役に立つかも
しれません。》
↓
《 経典まみれの象牙の塔の言葉より、
なんぼかお役に立つかもしれませんから、
凡庸で平俗で陳腐な世間の言葉ではあるけれども、
お陰様という考え方について、[お陰様 寺]などで
インターネット検索をかけてみられて、
お寺のホームページに書いてあることを読んでみては
いかがでしょうか。
この震災から4度目の春を前に、
和平なき中東と同じ空の下で
日本に過ごすアナタは、こう思いませんか----
-----諸関係への想像力、連動への想像力をもって、
広い世界の深い因果のつながりを思う心にとって、
我は彼であったかもしれず
彼は我であったかもしれないことは、
当たり前ではないのかと。
仏門は、高尚な言葉がない人々に、
お陰様、と生きることを、
教えていますよ。》
ご回答ありがとうございます。
>そんなことを言うわけがないでしょう。
:
ですよね。
どうもお手数をおかけしました。
ただ、そうしますと、
◎むしろ、お釈迦様は、そういう想像力の働かせ方を求めているというのが常識的な方向です。◎
というのは、
◎凡庸で平俗で陳腐な世間の言葉◎
しか生み出せないとしても、個々の自由な発想で想像力を働かせることを期待している。
という意味でおっしゃったことになると思います。
少し戻って整理させていただくと次のようになります。
(お釈迦様の意図としては)
◎「お陰様」について、際限のない規模で広がる諸関係への想像力のことと解する◎(#33)
のだとすれば、
▼想像力の働かせ方までお釈迦様は関知しない、ということなのでしょう。▼(#33お礼欄)
と申し上げたのはお釈迦様に対する皮肉だったわけですが、つまり、言いたかったのは、骨太の方針を示していないために勝手な想像力を野放しにしてしまい、それが、たとえば「お陰様」などといった、(お言葉を拝借すれば)
◎凡庸で平俗で陳腐な世間の言葉◎
で納得してしまう状況を作り出してしまうのではないか、ということです。
お気づきになっておられると思いますが、個人的には、「お陰様」には疑心をいただいているということです。
たとえば次のような表現が検索でヒットしたりします。
『誰にでも両親がいます。両親の出会いが私の存在する直接の縁ということになりますが、両親それぞれの両親をたどっていきますと、遠い遠い先祖まで、何万年、何十万年と途切れることなく脈々と続いてきた、無数の生命があることに気づかされます。』
http://www.myoshinji.or.jp/okagesama/
このような意味合いでの「お陰様」は、単に自分自身の現在を保証してくれるものとしての「無数の生命」に対する感謝にすぎないように思われるわけです。
ここに他者(彼)は存在しているでしょうか。
そうは受け止められないのです。
なぜかと言えば、上の文章は、自分に関連する「無数の生命」によって自分が生かされている以上のことは、何も語っていないからです。
まあ、しかし、これは、また別の論立てで話し合われるべき事柄なのかもしれません。
No.34
- 回答日時:
> 想像力の働かせ方までお釈迦様は関知しない、ということ
閲覧している方が全員びっくりすると思います。
むしろ、お釈迦様は、そういう想像力の働かせ方を求めているというのが常識的な方向です。
[お陰様 寺] などでインターネット検索をかけてみられてはいかがでしょうか。
凡庸で平俗で陳腐な世間の言葉がご覧になれるでしょう。
この震災から4度目の春を前に、和平なき中東と同じ空の下で日本に過ごすアナタ、
経典まみれの象牙の塔の言葉より、なんぼかお役に立つかもしれません。
ご回答ありがとうございます。
▼ 想像力の働かせ方までお釈迦様は関知しない▼
>閲覧している方が全員びっくりすると思います。
:
そうなんですか。^^;
>むしろ、お釈迦様は、そういう想像力の働かせ方を求めているというのが常識的な方向です。
[お陰様 寺] などでインターネット検索をかけてみられてはいかがでしょうか。
凡庸で平俗で陳腐な世間の言葉がご覧になれるでしょう。
:
すみません。
どうも文脈が読み取れないようです。
お釈迦様の求めているような
◎想像力の働かせ方◎
をしていないから、
◎凡庸で平俗で陳腐な世間の言葉◎
しか見られない、とおっしゃってますか?
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