大人になっても苦手な食べ物、ありますか?

秀吉の朝鮮侵攻で多くの朝鮮人が連れてこられたと聞きました。
一体全部で何人くらいの方が連れて来られたのでしょうか?
あるテレビ番組で「千人単位で連れ帰った」と聞いたので、ちょっとびっくりしました。
陶工などは厚遇されたようですが、その他の人はどのような扱いを受け、どのような人生を送ったのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

こんばんわ。

窯業関係者です。
朝鮮陶工を連れてきたのは秀吉というより、
諸藩の武将達です。(加藤清正など)

おもに九州~西日本ですが、
鍋島藩で、150人くらい、全体で1000人程度
ではなかったか?と言うのが一般的な説です。

「1000人単位で連れて帰った」
と言うのは初耳ですね。

陶芸は色々な専門職があり、
(当時、朝鮮ではどの程度仕事が細分化されていた  か?は存じませんが)
粘土を調達する人、ロクロを回す人、絵付けの人、
等々、各藩100人前後だった、というのが、
妥当な所ではないでしょうか?

その他の戦争捕虜が何人くらいいたのか?
は、他の方にお任せいたします。

確か加藤清正に付き従って帰化した朝鮮の武人が
いたと思いますが、記憶が定かではありませんので、
これにて。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

ありがとうございます。
調べてみましたら、「1604年松雲大師が秀吉軍によって捕虜となっていた1390名を朝鮮に連れ帰ることに成功した」という事実が見つかりました。
また秀吉の朱印状が残っていて、「朝鮮捕虜の女性を差し出せ」という内容があるそうです。
「秀吉軍による、朝鮮の人々を対象とした”奴隷狩り”は、秀吉から末端の兵卒にいたるまで、まさに国ぐるみのものであった」ともあります。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/ …

お礼日時:2004/07/09 00:31

質問の答えになっているか自信がありませんが、初カキコします。

当方、大学で日本史を専攻していて、このちょっと先の時代で卒業論文を書こう・・・としてます。

連れてこられた人は二万~三万いたと習いましたが、真相は今となってはわかりません。捕虜として連れてこられた朝鮮人の中に、陶工・印刷工・朱子学者などがいて、それらが新しい文化を伝えました。

彼らの子孫はやがて、家康期になると朝鮮に帰ることになります。これは、家康が朝鮮と交流を復活させたくて、そのために朝鮮側の理解・納得を得るために返した使節団です。日本史用語では、「回答兼刷還使」と言っていて、三回行っています。人数は・・・ちょっと調べないと・・・f(^_^; 

でも、このときに全員が返されたわけではありません。
日本に土着してしまった人も多くいます。


かなり簡単にではありますが、知ってることだから書いてみました。この近いテーマでは、本・論文もでてますよ。

興味があったら、どうぞ!
    • good
    • 6
この回答へのお礼

ありがとうございます。
拉致被害者の立場にたてば、いきなり日本から武士がやってきて村を焼き、人を殺し、無理やり異国の地に連れ去られたわけですから、どういう思いで一生を送ったのか興味がありました。
卒論がんばってください。

お礼日時:2004/07/12 00:00

再登場です。


URL見ました。文学的な視点ではなく陶芸的な
視点から、少々意見します。

当時、日本に連れてこられた
朝鮮陶工達の初期の作品(材料は朝鮮から持ち込み)
は民芸風の素朴なものでした。

(以前の李氏朝鮮の白磁器よりもずっと素朴でした。
 初期作品を全部見たわけじゃないですけど。)

その後、景徳鎮(中国ブランド)を模倣したような
作風になり、さらに後に絢爛豪華な「有田焼き」
が完成し、景徳鎮を凌ぐ人気になります。

よって、朝鮮陶工は最初から高度な技術を
持って日本に来たわけではなく、
日本で育った、と言うのが私の解釈です。

おそらく、朝鮮では庶民の雑器を作っていた、
下層階級の陶工だったのでは?と思います。
(歴史家の意見は知りませんけど)

追伸:
参考URLにあなたと同じような疑問を持った方
がおります。

参考URL:http://members.jcom.home.ne.jp/goloh/pkpre.htm
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
参考URLは大いに参考になりました。
やはり数万人規模で連行されたようです。
また、多くがポルトガル商人などにより東南アジアやインド方面に売り飛ばされたという新事実を知りました。
陶芸に関しては、朝鮮人の陶芸技術と日本人の美意識がみごとに結びついたわけですね。
また日本人もすぐに陶芸技術を学びとったのだと思います。
不幸な歴史ですが、芸術の発展に寄与していると考えるとほっとする話です。

お礼日時:2004/07/10 03:18

司馬遼太郎の『故郷忘れじ候』をご一読されるのをお勧めします。


<その他の人はどのような扱いを受け、どのような人生を送ったのでしょうか?
の点も分ると思いますよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2004/07/09 00:28

こんにちは。

学生時代、ちょっと朝鮮の歴史をかじったことのある者です。
> 秀吉は焼き物が好きだったので、そんなことをしたんでしょうか。
焼き物が好きだったという単純な理由ではありません。(もちろんそれもあったかもしれませんが)
伝統的に、朝鮮では職人や技術者は差別の対象でした。朝鮮人にとっては、労働をせず、本をたくさん読んで、1日中議論にふけるというのが理想の暮らしであり人間像で、技術をもって物を作るというのは「下等の人間」のすることだったんですね。
だから、秀吉軍が朝鮮に攻めて言った時「なんでこんな素晴らしい技術を持った人たちが差別され、虐げられているんだろう」と考えた武士たちによって、多くの朝鮮人技術者・職人が日本に連れて来られたのです。差別されないどころか、尊敬も優遇もされることから、多くの人たちは喜んで日本にやって来たと聞いています。
秀吉軍による朝鮮人陶工たちの日本への移住を、第2次対戦中の「強制連行」と同列に話す人がいますが、チャンチャラおかしな話で(もっとも、そういった人たちは第2次対戦中の「強制連行」でさえ誤解していることのが常ですが)、彼らの主張を信じてはいけませんよ。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2004/07/09 00:27

>陶工などは厚遇されたようですが、その他の人はどのような扱いを受け、どのような人生を送ったのでしょうか?



焼き物に使う粘土を山から採掘する労働力になったり、馬具職人になったり、銅鉱で働かされたりした。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。
秀吉は焼き物が好きだったので、そんなことをしたんでしょうか。
それとも労働力が足りなかったからでしょうか。

お礼日時:2004/07/08 00:45

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


おすすめ情報