出産前後の痔にはご注意!

芸術とは、芸の術。
術の芸、とは手法。

その手法は、間接的。
直接、ではない。

物事に付いて“主張”を表現するのに、“直接”なのは人々の日々の会話や政治・経済・社会の分野での“活動”に必須、と云うか“で”なければならないと思いますが、“直接”では表現できない、あるいは表現したくない、そして“直接”でないほうが表現しやすい、また、別の方法で表現したくなる、あるいはそのほうが表現できる、と云った事柄・主張をするときに“術”が使われ、それを成している事柄に対してそれを“芸術”という、と『定義』してみました。

文句ありますか。

質問者からの補足コメント

  • 目下、他への回答が先で、こちらへのお礼がまだ、と云う後先逆転脳状態になってしまっています。
    申し訳ありません。
    それは、いただいた回答が思いもよらぬ事であって、それで頭が混乱しているからです。

    ほとんど読まないけど辞書は結構持っていて、今ここにある分厚い哲学辞典、厚さ九センチの哲学辞典でちょっとばかり学んで、そしてお礼をしようと思います。

    さて、それでは厚さ九センチの中に潜入です。
    たぶん、渦巻きにあってもみくちゃにされてしまうんでしょうけれど・・・

      補足日時:2016/03/11 07:37
  • 分厚い哲学辞典の“芸術”を見ました。
    一行が22文字で約70行の詳しい解説でした。
    しかし、読み手の脳不足がこの解説を難解なものにしています。

    でも、温かな湯に浸かれば体が温まるように、何となくの“感じ”は掴めました。
    あとは、この感じを自分の言葉で表現できるか、という事になります。

    科学と対立  創造活動  造形的  知的活動  世界観  普遍的  意識的 直観

    こんな言葉が使われていましたが“直接”と云う言葉はありませんでした。
    残念。

    私の心はまだ“間接的表現”に拘っています。

      補足日時:2016/03/11 18:21
  • 具体例がたくさんあって分かりやすかったです。
    芸術は感性の直接的表現なんですね。
    そう考えると、事柄によっては言葉にすることのほうが間接的となるのかもしれない、とも思いました。
    また、受け取る側のことにも触れてますが、辞典にもそのことが取り上げられていて興味深かったです。

    ありがとうございました。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/12 07:35

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A 回答 (7件)

こんにちは、わいわいえいとさん。






だれそれにとっては、
音楽やスポーツや絵画こそが
最も直接的な表現方法であり、
言葉や文字よりずっと多くを表現できる、
ということもありまして。

その場合は腹黒いとは思いません。

人間は【表現】しないと
人間として生きているとはいいません。
【その表現方法】を選んで何が悪い?
というより、たまたま【その表現方法】を
使ってくれて、あ・り・が・と・う!
と、だれそれが感銘を受けたら
【その表現方法】が芸術です。








人によって得意な表現方法があり、

相手が表現したことを、
感じたり理解したりする側にも
得手不得手があります。




国会議事堂のやりとりを芸術だと思う人
もいるかもしれなくて、
数式や化学式を芸術だと思う人もいて、
小学生のドッヂボールや大縄跳びや
鬼ごっこを芸術だと思う人もいて、
オカンが作った味噌汁を芸術だと思う人もいて、
このQ&Aで誰かが書いた回答
を芸術だと思う人もいます。




___________




わたしが、これは芸術ではない!
と思ったのは、娘が幼いころに
写真屋で着物やドレスをレンタルして
撮影した七五三の写真、かな。


それから親に習わされて踊っている
バレリーナたちの発表会とか、かな。


それから街道に植えられ
さんざん枝を切られた桜の木とか、かな。






今日は、ツクシやタンポポや沈丁花や
菜の花に会えました。
あれ最高の芸術だなあって思います。
なぜならわたしが感激したからです。笑。
 






追記。
ちなみにわたしは、スポーツとダンスを学び
エアロビクスのインストラクターや
サッカーのコーチ、
という【表現方法】が好きですが、


病気という【表現方法】
も中学生のときから30年近く消えず、
それはそれで大切な【表現方法】だから
大事にするようにとDr.から言われています。



 



ではでは。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

いただいた回答から、芸術って“感動”するかしないかで決められるんだ、と思いました。

他の質問者さん達への回答は意味深な表現が多く、なに言ってるんだろうといつも思ってますが、さすがにこれは私向きの分かりやすい回答でした。
よろしくおねがいいたします。

お礼日時:2016/03/10 17:17

ぶらじゅろんぬ流の定義です。

長くなっちゃった。


エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 
その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していた
ので 言ってみればまだ〔心の表わし方は〕まっすぐであった。
 
言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは
限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。

(前もって言えば このウソを虚構として用いるのが 芸術とい
う表現行為である)。

そういう意味でも 表現は自由なのだ。100%以上の自由度を
人間は持つ。

このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そうい
う振る舞いにそれぞれが――むやみやたらにではないが――自由
に及ぶこととなった。



ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。
人びとの社会における生活にとってその意志疎通の必要が現われ
たとも言い得る。
やがてその言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツハリという嵐
に遭い 難破することも生じ得るようになった。



こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえ
ば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。
――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。ウソ
は困るのだと。
――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。
あやまちに気づいたなら われに還る。ゆえ。

ひとは われがわれに還ったそのわれをあざむくことは出来ない。
言いかえると われが存在していなければ 他人がわれをあざむ
くことは出来ない。あざむかれたなら われが存在していたから
である。

そこには 生まれつきそなわった自由意志とそのウソをつく自由
度をふくむ自由がある。

したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容につい
ての答責性(説明責任)を帯びることになった。
みづからの自己表現には 責任を持てと。


 
このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経
験思考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダタ
ー(仏性)ともあるいはプネウマ(神の霊)とも言った。その自
由のみなもとを言ったのである。

このように哲学を超えたところ(場・チカラ)は 非思考として
《信仰》と呼ばれる。




この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に
非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえ
て言い表わすことが起こる。たとえば:

  神の霊の宿ると言われるわが身とわが心において そのゆが
  みの無い自由に従っているならば――つまりは へそを曲げ
  ウソをつくことはあるのではあるが これをあやまちとして
  気づくときそのみづみづしい自由に留まるならば―― ひと
  は ひとを殺すこともなければ むさぼることも裏切ること
  もなかろう。

といった観想・理論を得る。

この理論を どう思ったか 《殺すなかれ(不殺生戒)・むさぼ
るなかれ(?)・姦淫するなかれ(不邪淫戒)》といった戒律と
してまた道徳規範として 神の霊とその自由に代えて崇拝するや
からが現われる。

つまりそのときこれを神のおきて(法)としまたオシへとして説
き始めたのが《宗教》である。



一般に集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこし
らえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自
由を捌(さば)こうと言うのだ。

やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり 
それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということだ(欺か
れるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあや
まちを繰り広げるようになる。

宗教は 個人の信仰の自殺行為である。他宗を邪宗としてころそ
うとまでする。この排他性は治るものだろうか。



《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。
それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そし
て中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域
として分立しうると考えられるからである。

あるいは だれの思考や行為であるかにかかわらず 誰もがひと
しく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば こ
の世界をもっぱら扱う分野ができる。それは 自然科学という領
域である。



さて《芸術》は――初めからの《自己表出および自己表現》の筋
道にあって―― これら哲学か信仰か宗教かあるいはもろもろの
科学にかんする定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってリ
セットしたその上で まったく自由に表現の自由を追求する人間
の意志による表現行為である。

ゆえに手段は 言葉に限らない。
言葉に限らない場合は とうぜん感性の世界となる。

哲学に通じる人間の真実――あるいは 科学の問い求める経験的
な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいもの
だと言われる。

一般に 真・善・美が同じひとつのもの(非思考のナゾ)の三つ
の貌として捉えられる。
真(わが信仰と哲学・科学)と善(ゆがみ無き自由とその倫理現
実)とそして美(真や善が感性の世界と呼応すると見られたとき
のそのよさ)の三つは 互いに一致すると受け留められている。

芸術は その煮詰めたところにおいては:
▲ 科学と対立
☆ は しないと思われる。

表現手段としては ウソを想像の世界における虚構としてかたち
づくっている。なおかつその目指すところは 異なっていない。
同じ道をあるいている。

その志向性が どうでもよく滅茶苦茶である芸術は まさにどう
でもよいものであり ニセモノであると見られる。



《あと1560文字》でした。読んでくれてありがとう。
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この回答へのお礼

いえいえ、大変読み応えがありました。
オツムの弱い私だから完全消化には時間がかかりそうですが。

表面的な印象は、並走させた白い船と黒い船を“乗り換え”しつつ進んでいるような感じです。
また、表現が巧みかそうでないかとは別に内容次第の“格”というものがあると見ている様に思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2016/03/12 06:09

音楽にしても、美術にしても、文学にしても、深い哲学性のあるものが


私は一流の芸術だと思います。

自己の哲学の表現としては、絵画、彫刻、音楽などは、最適の表現手法
といえるのではないでしょうか?
また、そうであるならば、直接的表現といっても差し支えないのでは?

「直接では表現したくない」というケースは、現在の特に日本で見られ
る「エセげーじつ」で、ブラジュさんの言う通り、腹黒いですね。
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この回答へのお礼

ご返事が遅くなりました。

深い哲学性のあるもの。
この事でしょう。辞典に「個性的なもののなかに普遍的なものを表現しえた作品・・・」とありました。

ニャンポコリンさんも
芸術は感性の直接的表現であるとの意見なんですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2016/03/11 17:53

物事の持つ価値として「真・善・美」が言われる。


肉体的自覚は、真の自己存立の基礎を把握していない。
そこで相補的に自己の必要としての環境を感じさせる。
その肉体としての自己(物)と宇宙としての自己(心)を
つなぐもの(相補性)としての認識の深まりを「真」と
し得る。

そこに発露する欲求の展開のうち、特に情報性の高い
先行感覚(光、音)に対して、五感の相関した経験の総
和に基づき生理的な感覚を励起させ“そこに行けば何
が起きるか”を直観させる事が空間の広がりを生むと
いうメカニズムにおいて、そこに“充足感を伴う経験
の総和”により生じる、好ましい視覚や聴覚パターン
への指向性が「美」となる。

認識の発達によって、環境への適応において遺伝的進
化を伴わない多様化=分業化を可能にしたが、その自己
の生命性の社会的拡張を自覚化(社会生命的自覚=愛に
よる助け合い=自律的社会行動による精神的充足)し得る
だけの認識の発達を怠り、お金や出世といった“馬車馬
の目の前のニンジン”=アメや、法規や「善悪」といっ
た外的権威=ムチを発達させたのだ。
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この回答へのお礼

ご返事が遅くなりました。
相変わらずのご意見で、さすがにこの私でも門前の小僧のように、心の残像となりました。

今の日本と云う国の世界に発信する“好ましい”と思われる姿勢に、価値ありとpsytexさんは評価されていないんでしょうか。
一面しか注目してないように思いますが。

また“芸術”という言葉はこの回答のどの辺に置いたらいいんでしょう。
分かりませんでした。

ありがとうございました。

お礼日時:2016/03/11 17:42

★ (№1お礼欄) “芸の術”は“腹黒い”心から発するのだ、という意見


だと受け止めましたが?
☆ いえいえ。《直接の自己表現》ではない場合の芸術については 《腹
黒い》と言いました。

そして《ちょくせつ》という言葉についてわたしも あいまいなままでし
た。

まづ 質問における《ちょくせつ》かどうかの問題を確認します。:
★★(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~
(あ) “直接”では表現できない、
(い) あるいは表現したくない、
そして
(う) “直接”でないほうが表現しやすい、
(え) また、別の方法で表現したくなる、
(お) あるいはそのほうが表現できる、

と云った事柄・主張をするとき・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ そこで 辞書でも確認します。:
▲ (goo 辞書:【直截】) ~~~~~~~~~~~~
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/145079/meaning/m0u/

(か) すぐに裁断を下すこと。また、そのさま。
(き) まわりくどくなく、ずばりと言うこと。また、そのさま。

▲ (同上:【直接】 ) ~~~~~~~~~~~

(く) 間に他のものをはさまないで接すること。
(け) 間に何も置かないで関係したり、働きかけたりすること。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (か)は別としてよいでしょう。

(き)については――わたしの心つもりとしては―― ズバリではなくた
とえ遠回しに表現したとしても その表現は 芸術であろうが生活日常の
発言であろうが基本として 《おのれ自身〔の気持ちや人柄や思想〕を表
わす》ものであると言おうとしたものです。

その意味での《自己表現》ではない表現行為は 腹黒い。と思います。




(く)や(け)としての《直接》であるか・あるいはそうではないかの問
題は 微妙ですね。

まづ (く)は そこにおける位置関係だけを言っているとしたなら 問
題が別になります。それはまだ表現していない段階ですから。

(け)が 重要なようです。
つまり 《あいだに何か別のものごとや人を置いて関係するかたちで表現
する・つまり働きかける》場合 その時にも基本の自己表現は成り立つと
思われます。玉に瑕は まだるっこしくなるだけだと思われます。

一般に《虚構》として表現すること・つまり いまの主題である《芸術》
のことになると思いますが そこにあっては その意味での《間接的な自
己表現》に成っているものと考えます。

基本でなお自然でもあるとさえ見られます。その意味では わたしの《腹
黒い》という批判は 当たらない。



さて ここからが問題の問題です。

なぜなら いちばんの問題としては そのような虚構としての自己表現を
おこなう場合であっても じつは もともととしても:
★★ (あ) “直接”では表現できない
☆ わけではない。からです。

★★ (い) あるいは“直接”では表現したくない
☆ という場合はあるでしょうが だとしても《直接に表現したいし す
る》場合も 同時に・同等にありえます。

もし直接の自己表現を《可能なのだから避ける必要がないというのに不当
にも避けている》としたら 腹黒い。



★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
(う) “直接”でないほうが表現しやすい、
(え) また、別の方法で表現したくなる、
(お) あるいはそのほうが表現できる、
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これらの場合は どうか?

これは 好みでしょうね。そうしたいならば 自由にそうすればよいと考
えられます。

(お)は 微妙です。《“直接”でないほうが表現できる》というとき そ
こに《“直接”での》基本の自己表現ができないのでという意味をふくむの
なら マチガヒになると思います。自己表現をその時点で放棄していると
見なされるからです。

つまり 《虚構》というスベ(術)を用いるのは 《直接の実質》があっ
てそれをもおれはいちおう表現できるのだがという前提の上でのことだと
思われるからです。

まとめ:
あたかもオノレをおほやけにさらすかのごとくである基本の自己表出に根
差す《直接の自己表現》 この形式=内容を放棄するかのように虚構に走
る芸術一般については 人間の《腹黒い》心から出て来ている。のではな
いか。

音楽や絵画は あいだに別のものを置いているように見えますが そうで
はなく あくまで感性としての直接の自己表現であると考えます。
スポーツだって 言葉による表現でなくても やはり自己表現ですから。

《直接の実質》を避けるものは 腹黒い。
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この回答へのお礼

ご返事が遅くなりました。

使った“直接”と云う言葉が悪かったんでしょうか。
言葉の物言いには“直接的”な場合もあれば“間接的”な形もあると思いますが、質問では“間接的”表現をも含めて“言葉を使っての”と云う意味で使っているんだなぁと気づきました。

だから、言葉以外での表現は芸であり術である、と思ったんです。
芸術は感性の直接表現だ、と云うのは他の方も言ってますね。

補足欄に辞典を見た後の感想を付けてみたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2016/03/11 17:29

主張の表現について


間接的な表現が必要になるのは
強大な直接的な横暴の脅威に直面したとき
だと思います。

その際に職人的技能を発揮していれば一つの芸術かもしれません。

芸術とは「職人的な技術的能力による成果」
と言っていいかもしれないと思っています。

そして職人的とは「情報処理回路的に洗練され尽くした脳機能が生み出す」ということで
その表出として発揮できる技術的能力の分野が
多種多様に分化しているのが現実だ
みたいな言い方ができるのだろうと思います。
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この回答へのお礼

強大な直接的な横暴の脅威、と云う表現に視点の違いを感じました。
質問の動機にこのことは全く想定していないからです。

主張、という言葉が悪かったのでしょうか。
質問の趣旨を芸事、と範囲を狭めてみてもいいかも知れません。

お礼日時:2016/03/05 23:21

それは だいたい腹が黒いからです。



そういう芸も術も余計なものです。
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この回答へのお礼

世に価値ありと認められ、崇められている“芸術”に一石を投じるような意見ですが“芸の術”は“腹黒い”心から発するのだ、という意見だと受け止めましたが?

お礼日時:2016/03/05 14:31

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