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ある人の意見によると、
”人の命を奪ったのだから 自分の命を奪われてもまた当然。
人を殺すのであれば そう覚悟して当たるべきと思う。
しかし、最初から死刑になる覚悟なら 人を何人も殺してもいい詭弁は成り立たないと思います。
良し悪しで言えば 全くの悪 いいはずがないからです。”
だそうですが、論理学的にはこの理屈はどう説明したらいいでしょうか?

A 回答 (10件)

「論理学的」とありますが、論理学そのものからは善悪を導き出せないと思います。

人間の持つ倫理的な価値観というものが前提になるのではないでしょうか。

「人を殺すのであれば そう覚悟して当たるべきと思う。」というのも一つの考え方ですが、「人を殺す」ということが絶対悪であるとする人から見れば、殺人者と言えども殺してはいけないという考えも成り立つはずです。

とにかく人を殺したい、そのためなら自分が死刑になってもよいと考える人にとっては、「人を何人も殺してもいい」というのは詭弁でもなんでもなく、単なる倫理観の欠如でその人にとっては善悪の概念そのものがないのだと考えられます。

死刑制度は犯罪抑止効果と被害者側および社会全体の復讐心の慰撫という二つの側面があります。但し、実際の犯罪抑止効果というのは検証が難しく、それに疑問を唱える人々もいます。「復讐心の慰撫」というのもそれはそれで死刑制度を支える立派な理由でありえますが、当然反対する人もいます。人によって倫理的な価値観は同じではないからです。

私は個人的には死刑制度には断固反対です。冤罪によって処刑された場合取り返しがつかないからです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「復讐心の慰撫」というのもそれはそれで死刑制度を支える立派な理由でありえますが、当然反対する人もいます。
それなんですが、殺人でも死刑になるのは全体の1~2%に過ぎません。ですから、死刑制度がある現在でも 残りの98~99%は死刑を免れるわけですが、死刑制度があっても死刑にならないのと、死刑制度が廃止されて死刑にならないとでは 遺族感情の面でどう違ってくるのか私も分かりません。

お礼日時:2016/03/17 12:24

《同害報復》のことを言っているのではないか――というのは


解釈可能性のひとつとして有り得ると見ています。

というのは
▲ 何人殺しても・・・・〔という場合は〕全くの悪
☆ と言っているように読めるからです。

つまり 
▲ 他人の命(ひとりの命) 対 自分の命(ひとりの命)
☆ という場合の殺人なる悪は その時点では すでに悪では
あるが まだ《全くの悪》だとは 見なしていないように思わ
れるからなのです。

解釈の可能性に帰着する問題であり 書き手本人の主観に尋ね
なくては分からないもののように思われます。つまり こたえ
は分からない・・・。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/03/21 12:32

通りすがりのネコです。



人の命を奪ったのだから 自分の命を奪われてもまた当然。
この文は、
「人を少なくとも一人殺したならば、死刑になる」
の意味ですから、〈同害報復〉の記述ではないと考えるべきでしょう。

ここで使う算術は、
1×∞=2×∞=・・・=n×∞=・・・=∞×∞=∞
ですよ。
人の命はプライスレスだから、人を一人でも殺したら、プライスレスである自身の命で償わなければならない。しかし、だからと言って、AとBの生命の価値が同じと言っているわけではない。そもそも、AとBの生命の重さを比較することはできませんしね。

「目には目を」ではなく、人命・人権重視の思想に基づくものと考えるべきではないか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/03/19 17:24

もし情感にも論理がある(?)としたら 次のような見方ができる


かも分かりません。

▲ 人の命を奪ったのだから 自分の命を奪われてもまた当然。
☆ 《目には目を 歯には歯を》というひとつの論理ですね。

若干気に成るのは 目や歯をやられた場合とは違って命を奪われた
ときには その被害者本人が主体となってその《同害報復》を果た
すわけには行かない点です。

第三者が その《論理》の実行に当たる。

まぁ 細かいことは措いておいて世の中のいわゆる《みなさん》が
そういう取り決めとして認め合っているなら そのような報復の執
行をおこなう権力も みとめられているのでしょう。と見なして先
へすすみます。

▲ 人を殺すのであれば そう覚悟して当たるべきと思う。
☆ 予測しうる結果について自覚していなさい。と言っている。目
には目をの出発点のときから 同じ推論のもとにあります。


▲ ~~~~~~~~~~~~~~
しかし、最初から死刑になる覚悟なら 人を何人も殺してもいい詭弁
は成り立たないと思います。
良し悪しで言えば 全くの悪 いいはずがないからです。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ ん? 解きほぐしてよく読み解いて行かねばならないようです。

(あ) 《何人も殺す》という命の奪い取りは その人殺し本人が
《ひとり》であるからには 《同害》にはならないし 無理である。
と言おうとしているのだろうか?

(い) つまり 目には目を歯には歯をそして命には命をという報
復を覚悟する殺人は まだ最初の《論理》が《生きて(?)》いる。
けれども 複数の人間の命を奪い取ることは 自分ひとりでその報
いを受けるすべがないからには 《全くの悪》である。と言う。

(え) この《二人以上の人殺し》なる《まったくの悪》は
▲ 良し悪しで言えば ・・・ いいはずがないから
▲ 人を何人も殺してもいい詭弁は成り立たないと思います。
☆ と言っている。か?

(お) しかもそのとき
▲ しかし、最初から死刑になる覚悟なら
☆ という条件づけで言っている。これは どういうことか?

(か) たとえば《死刑になる覚悟》で実際に死刑に合ったあと
ふたたび命をよみがえらせて その命をもなお報いていないほかの
殺された人たちの命の報いに差し出すことが出来るのなら 最初か
らの《論理 ないし 理論》は生きるのだが・・・。と言っている
んでしょうか?

(き) よく分かりませんでしたが たとえばいわゆる不倶戴天の
敵がひとりいて いわゆる《差し違える》という人殺しは ゆるさ
れるかといったような問題を途中まで考えたその形跡が残っている。
ということなのでしょうか?

(く) 娘が凌辱を受けたあと自死をえらんだ。というその親がそ
の加害者をころして 自分も裁きを受ける(つまり 死刑にしたが
う)という場合などが 思い浮かびます。


主題とその問題点が内に閉じ籠っていて 有効で有益な議論にはなっ
ていないように思います。わたしのコメントも 尻すぼまりです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/03/21 12:41

論理的に説明ということで、倫理は無視します。



まず、
>殺人は残虐であれば死刑も当然。
本当に当然であるか、どこから残虐と判断するかという問題があるけど、そこはスルーして、
・殺人は残虐であるので死刑も当然。
・殺人のうち、残虐な場合は死刑も当然。
どちらの意味で書いていますか?
論理的に、ならば、こういうところは敏感にならざるを得ません。
あと、傷害致死と過失致死を殺人としてカウントするのかしないのか。(刑法では、カウントしない。)
そういうのも問題となります。

本命箇所。
>”人の命を奪ったのだから....
>全くの悪 いいはずがないからです。”
この文章(全4行)ですが、前半2行と後半2行の記述は同一人物?別人?
質問消されてるので覚えていません。どっちだった?

同一人物とした場合。
全体の意味は
1人殺した結果自分も死刑、なら1対1でつじつまが合う。
多数殺した場合でも自分も死刑だけだからつじつまが合わない。
たとえば
4人殺したら、本人+両親+妻 を死刑で4対4になるからつじつまがあう。
つまり、連座制を復活しないと抑止力として機能しない。  なんだかなあ、とは思う。

別人とした場合。(以下の全部はこちらを仮定。)以下、前半を質問者、後半を回答者とします。
回答者の意図は、以下の2とおりのどちらともとれる。
・1人殺すのは許容する。でも、大勢(2名以上?)殺すのはダメ。
・殺人は絶対悪だから、たとえ自身の死を覚悟の上でもやってはダメ。

このように、複数の読み方ができます。本命とするのは、
・殺人は絶対悪だから.....です。 以下、本命のほう。
一般化すると、以下の意見の争いです。前提がかみ合わない。
・ルールでダメと決められたものは、無罰であってもやってはいけない

・ルールでダメと決められたものというのは努力目標であって禁止事項ではない。
 罰を受けるつもりがあるならダメなことでもやってよい。

これは、本来、各人の価値観の問題。回答者はそれをわかっていないで個人の価値観を主張していることになる。
※ソクラテスのように、「悪法も法なり」と割り切って自ら毒薬を飲む根性は無いし、
 「無罰であっても絶対にやらない」と言い切れる自信なし。
  ※※たとえば、自動車を運転するとき、周囲の速度に合わせています。
   スピード違反という意味じゃん。無罰ですらない。

更に、こういう意味にもとれます。
回答者:極限状態までは考えていない。だから、お気楽状態で、殺人は悪と言い切っている。
質問者:極限状態のことを主体にモノを言っている。
    すなわち、
    一般人の価値観として、自分の命>家族の命>他人の命>外国人の命>地球外知的生命体の命。
   人を殺す、とは、極限状態(=自分の命にかかわる状態)を意味するのであって、
   通常状態なら
    自分の命>大勢の他人の命
   であるので殺人はありえない。
現在の法律では、極限状態の時の殺人は罰せられません。
 (極限状態とは、具体的には正当防衛と緊急避難のこと。トロッコ問題も極限状態ですが、法的には不明。)
よって、以下の意味に解釈も可能。
正当防衛とか緊急避難のときも、殺人したと腹をくくれ。 (真っ当と思うが。。。)
殺人したらバレる(=完全犯罪は無理)ことを覚悟する必要がある。(ので、殺人は割に合わない。)

消された質問に目を通していれば、こういう意味(質問者は極限状態のことを考えている)ではなさそう、といえると思いますが....
今生きてる質問文だけで考えると、論理上、こういうことも考慮する、ということ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/03/19 17:23

通りすがりのネコです。

はじめまして。

主張が曖昧で論理(学)の対象にならない。
これが正解です。

論理学の対象となるように
☆人の命を奪ったのだから 自分の命を奪われてもまた当然。
◇∀x,∃y(xはyでない、かつ、xはyを殺すならば、xは死刑になる)
とし、さらに
☆人を殺すのであれば そう覚悟して当たるべきと思う
◇「あなたがあなた以外の誰かを殺す」ならば、「あなたは死刑になる」
と解釈するのならば、
 x=あなた
を代入しただけなので、論理的な間違いはない。
この推論は論理的に正しい。


 1 最初から死刑になる覚悟なら 人を何人も殺しても「いい」
 2 良し悪しで言えば 全くの悪 「いい」はずがない
このときの、1と2では「いい」の意味が異なっている。
1の「いい」の意味は、おそらく、「論理的な推論として正しい」の意味でしょう。
 ――推論としては間違っている。これは、「P⇒Q」ならば「QならばP」、という推論の過ちを犯している。「逆は必ずしも真ならず」――
あるいは、1を話す話者の主体的な態度、覚悟の表明。
しかし、2の「いい」は倫理・道徳的な意味での「いい」、「善である」の意味。
1と2では「いい」の意味が違うので、そもそも、話にならない。

こういう曖昧な言葉、概念による推論の過ちとして以下のものを紹介します。

1 あなた方(ヒト)は地の塩である。 (イエスの言葉だから「絶対の真理」。疑いの余地がない)
2 塩は水に溶ける。
結論:あなたがた(ヒト)は水に溶ける

これは三段論法だから、形式的には間違っていない。だが、ヒトは水に溶けない。結論は明らかに偽です。
1と2の「塩」の意味が違っているから、このようなことが起きるんです。
 ――古い論理学の言葉では「曖昧媒概念の禁止」の原則に反している――

そして、質問者さんの質問は、実は、論理・ロジックに関わる問題ではなく、修辞・レトリック、そして、意味(論)に関わるものだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/03/19 17:22

人の命を奪ったのだから 自分の命を奪われてもまた当然。


   ↑
こういう理屈が成立するかの検証は、何か
極端な事例を当てはめれば良いです。
他の回答にもあるように、じゃあ死刑執行をした
人間は殺されてもよいのか、とかですね。
他にも、正当防衛で殺した場合も含むのかなど。

こういう理屈が成立するためには、やはり何かしらの
制限をつける必要があると思います。



人を殺すのであれば そう覚悟して当たるべきと思う。
しかし、最初から死刑になる覚悟なら 人を何人も殺してもいい
     ↑
己が死刑になる覚悟があるなら、人を殺して
いい、という理屈が成立するかの問題だと
思います。

死刑になる覚悟云々は被害者には関係の無い
話でしょう。
そんなモノを理由に、殺していい、なんて
理屈は成立しないと思います。


論理学的にはこの理屈はどう説明したらいいでしょうか?
   ↑
論理学となるとまた話は違ってきますが
理論的に、ということでしょうか。

理論というのは、まず所与があります。
疑いもなく正しい、という出発点があります。

この所与と因果の流れで結論を導出することを
理論といいます。


例。
殺人は悪いことなのか、という命題があったとします。
それを理論的に検証するには、次のようなことを
考える必要があります。

第一に、殺人とはどういうことか、その意義、定義を明らかに
する。

第二に、悪い、ということはどういうことか、その意義、定義を
明らかにする。

第三に、第一と第二が因果の流れにあることを論証する。


これを理論といいます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/03/19 17:22

「人の命を奪ったのだから 自分の命を奪われてもまた当然」


であるならば、死刑執行人も死刑になるべきだ。
そうして、執行した人は次々死刑になり、人類は絶滅する。
戦争においては人をより多く殺した方が英雄であるように、
どんなに残虐に殺したのであれ、それによってより多くの
人を生かす事になるならば、それは「残虐であるなら死刑」
という単純な話ではなくなる。
「何をもって残虐とするか?」「何をもってより多くの人を
生かしたと判断するか?」そこには思想や価値観による
相対的な判断(多様な善悪の基準)があり得る。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/03/19 17:21

人の命を奪うなら、自分の命を奪われても当然


は、
自分の命を奪われてもいいなら、何人ころしてもいい

論理学詳しくないですが、この場合「後件肯定」
つまり、
 もし P ならば、Q である。
 Q である。
 したがって P である。
この形式は論理的に妥当では無いとい取決めです
仮に前提が真であっても結論を導く推論の構造が正しくない為になりたちません
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そういう回答をお待ちしておりました。先のお二方は 論理学的ではなくて、一般常識とか倫理の側面から考えられたので...

お礼日時:2016/03/17 18:31

詭弁が成り立つ成り立たないのではなく、その様な一般常識が通じない異常者だから犯罪を起こします。



しかし、自殺の為に殺人を犯す人も結構いるのも事実です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/03/17 12:19

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