自我という概念は じっさいに現実においてそれとしてまとまった実態としては
あり得ない。ですよね?
あっても わがままだとか我執だとかの心理的に強固な気持ちだったり 或る種
の条件反射のごとく何かに反発して動き出す意志のような意志ではないようなハ
タラキだったりするのみであって けっきょくたとえば《個人にとって社会的に
自我が形成される》といったような意味合いの実態はない。はずだ。
超自我とエス(リビドー)とを取り持つというような自我は けっきょくワタシ
のことでありその理性ないし意志だと考えられます。
われはこう思うということはあっても わが自我はこう思うとは言わない。
自我は 死語もしくは幻想ではないでしょうか?
したがって 定義を問わない文学としては持って来いなのかも分かりません。
No.3
- 回答日時:
~~~~~~~~~~~~~~~
ソクラテス、国家の同意を得ずに逃亡すれば、自分達は最も加えてはならないものに禍害を加えることになるのか否かを問うも、クリトンは答えに窮する。ソクラテス、国法・国家を擬人化し、「ソクラテスは法律・国家組織全体の破壊を企図しているのではないか、一度下された法の決定が私人によって無効化・破棄されてもなお国家は存立し、転覆されずに済むのか」と問わせる。他方で弁論家風に「国家こそ自分達に不正を行い正当な判決を下さなかった」と反論も用意。クリトンは後者に賛同。
ソクラテス、国家の言い分として「ソクラテスと我々との合意はその程度のものだったのか、国家の下すいかなる判決にも服すると誓ったのではなかった」と問わせる。更に、「ソクラテスはいかなる苦情があって国家転覆を図るのか、我々の保護下で両親は結ばれ、おまえが生まれ、扶養・教育された中に不満があるのか」「おまえや祖先が我々の産み子・臣下として属することを否認できるのか」「おまえは我々と同等の権利を持っていると信じたり、我々がおまえに加えようとすることをおまえも我々に加え返す(報復する)権利があると思っているのか」「父親や主人(奴隷の場合)に対しても、同等の(報復)権利は無いのに、父母よりも祖先よりも尊ばれ、畏敬され、神聖で、神々・理性的人間たちによって最も尊重されているこの国家・国法・祖国に対しては、それがあるというのか」「人は祖国を敬い、父親に対するよりももっと素直に従い、また、なだめるべき」「祖国が命じるものは、殴打・投獄・戦場送致であれ、黙って忍従すべきであり、逃亡・退却や持ち場の放棄をせず、戦場においても法廷においても他のどこにおいても国家・祖国の命ずる通りに実行しなくてはならない、もしくは、真の法の要求に沿って考えを改めさせなくてはならない」「暴力を用いることは、父母に対しても罪悪だが、ましてや祖国に対してはなおさらではないか」等と語らせる。クリトン、同意する。
ソクラテス、続けて国法に語らせる、「我々は全てのアテナイ人に対し、一人前の市民となり、国家の実状や法律を観察した時に、意に適わないことがあれば、全財産を携えて好きな所に行けることを、宣言している、また実際、植民地や外国に移住・引越ししても、それを誰も妨げも禁止もしない」「したがって、アテナイに留まり続けている者は、我々の命令の一切を履行することを、その行為によって約束した者である」「したがって、我々に服従しない者は、1「生の賦与者たる我々に服従しない」、2「養育者たる我々に服従しない」、3「我々に何か間違った行いがあった時に、説得によってこれを改めさせない」という3つの不正を犯している」「我々は命令をただ提議するのみで、それを履行するか、非を悟らせるか、その二者択一はその者に委ねられているが、不正者はそのどちらも実行しない」
クリトン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA …
~~~~~~~~~~~~~~~
又坐禅は、戒定慧に干かるに非ず、而して此の三学を兼ねる。謂わく戒は、是れ防非止悪、坐禅は挙体無二と観ず、万事を抛下して、諸縁を休息して、仏法世法を管せず、道情世情双べ忘じて、是非無く善悪無し。何の防止か之れ有らんや。此は是、心地無相戒なり。定は是、観想無余なり。坐禅は身心を脱落し、迷悟を捨離し、不変不動、不為不昧、痴の如く兀の如く、山の如く海の如く、動静の二相、了然として生せず、定にして定相無し、無定相なるが故に大定と名づくなり。
坐禅用心記
http://antaiji.org/ja/classics/english-zazen-yoj …
~~~~~~~~~~~~~~
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。
第一 現成公案
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou01/
~~~~~~~~~~~~~~
④ 箱根の一寒村のお寺の坊さんが、どうして時の政府に反抗する革命運動に身を投じるようになったのか?なぜ、愚童師は僧侶を志したのか?仏教思想や仏教信仰とアナーキズムはどう結びつくのか?
2.ディスカッションでの感想&意見(分科会&全体会)―15:45~18:30
http://www.shj.or.jp/seclabo/utiyamagudo1.htm
~~~~~~~~~~~~~~~
それにしても、
道元の仏国土、浄土についての思想はどうなっていたのだろう
という疑問が出てきた。
No.4
- 回答日時:
~~~~~~~~~~~
ホッブズは人間の自然状態を、決定的な能力差の無い個人同士が互いに自然権を行使し合った結果としての万人の万人に対する闘争(ラテン語: bellum omnium contra omnes, 英語: the war of all against all)であるとし、この混乱状況を避け、共生・平和・正義のための自然法を達成するためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を国家(コモンウェルス)に対して全部譲渡(と言う社会契約を)するべきである。」と述べ、社会契約論を用いて従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を構築した。(ホッブズはこの国家(コモンウェルス)を指して「リヴァイアサン」と言っている[1]。口絵の上段に描かれている王冠を被った「リヴァイアサン」は政府に対して自らの自然権を譲渡した人々によって構成されている。)
リヴァイアサン (ホッブズ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B4 …
~~~~~~~~~
とりあえずこれも。
No.5
- 回答日時:
哲学的なものや宗教的なものの知識が0なので、あなたの質問文のリビドーだとか言葉の意味がよくわからなかったり
この回答が質問文に沿ってるのかも ちょっとわかりませんが。
自我って 深層意識・無意識のじぶん 何じゃないかとおもいます。
人間って高性能なロボットみたいなものですよね
見聞きしたことが積み重なって、ある日そのとき過去のそうした情報を照らしあわせて答えをだし行動する
わりと何通りものパターンをの中から瞬時に パッとでてると思うんですよ
なんというか、今おしえてgooでこうして書き込んでる私は ガンダムで
コクピットにもう一人、自分であって自分でないもの がいるような感覚無いですか?
それが 自我 何じゃないですかね
何かイライラしたとき一点を集中してたりするじゃないですか
ふと気づくと頭のなかで知らないおばさんが凄い怒ってる映像を思い浮かべながら
凄い怒ってる気持ちになってる瞬間があったんですよ
その映像は無意識にちかい状態で自分で思い描こうとしてだしたものじゃなく、勝手にでてたんですね
もしかしたら、それらはトキソプラズマだとか寄生虫なのかもしれないけど
・http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14 …
トキソプラズマが人の脳を操る仕組み
・そのほか、100兆匹の腸内細菌かもしれないですね
→http://kenkouiji.info/?p=969 腸は第二の脳・腸内細菌は感情も決める
http://www.alpacapacas.com/archives/1494
カタツムリの触覚をのっとり意のままに操る恐怖の寄生虫、ロイコクロリディウム。
http://gigazine.net/news/20110517_zombie_ant/
アリの頭部に寄生して発芽に有利な場所に移動させ死ぬ時間までも操作する恐怖のキノコ
・・こんなんもありますし。
余談で、特にオチもなにもないんですが
目をとじて、言葉や映像や なにか自然におもいうかんできませんか
寝る前にいつもやるんですけど、
まぶたを閉じて、まぶたの裏をみている 暗い感覚から
最初は なにか言葉を 朝日 猫だとか なんでもいいんですけど、
言葉をだすことで、映像がでてきますよね、あとは でてくるものを勝手にたのしむんですけど
(考え過ぎると まぶたの裏の暗さに戻ったりするのでその時は 体のどこかに力がはいってないか
肩から順に 体を一回り確認してると リラックスできて、映像がクリアになる)
夢で何かから落ちて目が覚める時 フッて体が落ちる感覚で目が覚めるじゃないですか
その映像の世界に入った時に、ちょっと似たような 精神の一層奥に入り込んだ フッて落ちる感覚があるんですよ
(眉間のあたり 首から上の頭部が フッてなります)
そこで朝日とかの映像に集中すると 今 目の前でみてるような感覚、眩しくて目をつぶってられなくなる時があります
なにも思い浮かばない(気付けない)、瞼の裏しかみえない のが表層的な自分で
フッと落ちて、映像に気付けた状態が、 自我に少し近いと 個人的におもいます。
ご回答を謝謝。
★ 自我って 深層意識・無意識のじぶん 何じゃないかとおもいます。
☆ ぢゃあ どうして分かるんですか?
《無意識》なのに分かるんですか?
《深層意識》は 意識に上っているのですか いないのですか?
上っているなら それは意識であり 《わたしという意識》です。
上っていないなら それがあると どうして分かるのですか?
★ コクピットにもう一人、自分であって自分でないもの がいるような
感覚無いですか?
☆ ありません。
もしあるとしたなら 同じひとりの《わたし》がいまひとつ別のアイディ
アを得たというようなことまでです。
ワタシが 二人や三人もあった日にゃあ お天道さんが西から上がってく
らあ。
★ ~~~~~~~~~~~~
ふと気づくと頭のなかで知らないおばさんが凄い怒ってる映像を思い浮か
べながら 凄い怒ってる気持ちになってる瞬間があったんですよ
その映像は無意識にちかい状態で自分で思い描こうとしてだしたものじゃ
なく、勝手にでてたんですね
もしかしたら、それらはトキソプラズマだとか寄生虫なのかもしれないけ
ど
~~~~~~~~~~~~
☆ (あ) ワタシの過去の出来事をめぐって内に省みることがある。
(い) そのとき その過去の時点で自分が気づかなかったことが ふと
そのいま思いに浮かび上がって来る。
(う) もういっぺん考え直したまえと ワタシが――つまりあくまでワ
タシのワタシが―― 自省している。に過ぎない。
(え) 自分が意図してその反省をしたのでなければ いわゆるヒラメキ
である。というだけのこと。
――ですよ。
(お) そりゃあ 寄生虫やヰルスによって 幻覚を見させられることが
あるかも知れない。そして ただそれだけのこと。
★ 表層的な自分
☆ と奥なるワレと その奥の院なるワレと さらに《もっともわたくし
なるもの》の思いと・・・というふうに《わたし》のいろんな貌(かお)
が見え隠れすることもあります。よ。ただ それだけのこと。
つまり どこまで行っても 《わたし》なのです。
お化けが出たら それは わたしを超えていますので ヒラメキです。よ。
No.7
- 回答日時:
❶自我という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❷言葉という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❸社会という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❹資本という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❺他人という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❻角(かど)という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❼過去、未来という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
➑貧困や格差という概念は それとしてまとまった実態としては現実にはあり得ない
❶~➑は、それぞれ何を言いたいメッセージだと思いますか。
http://www.weblio.jp/content/%E6%A6%82%E5%BF%B5
【概念】
① ある事物の概括的で大まかな意味内容。
② 〘哲〙〔英 concept; ドイツ Begriff〕 事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象,またその言語表現(名辞)の意味内容。
②-㋐ 形式論理学では,個々の事物の抽象によって把握される一般的性質を指し,内包(意味内容)と外延(事物の集合)から構成される。
②-㋑ 経験論・心理学では,経験されたさまざまな観念内容を抽象化して概括する表象。
②-㋒ 合理論・観念論では,人間の経験から独立した概念(先天的概念・イデアなど)の存在を認め,これによって初めて個別的経験も成り立つとする。
概念
a 思考において把握される、物事の「何たるか」という部分。抽象的かつ普遍的に捉えられた、そのものが示す性質。対象を総括して概括した内容。 あるいは、物事についての大まかな知識や理解。
b 通俗的に大雑把に言ってしまえば、概念とは「どういう事か」「どういう物か」について捉えられる内容そのもののことである。例えば「ゼロの概念」は、(基本的に「対象がいくつあるか」を示すための「数える」行為において)、「無を数える」とはどういうことか、という、考え方に関する理解であるといえる。
c 概念は「意味」を伴って把握され、意味は概念として示される。意味と概念は似通うが必ずしも同一ではない。概念は言葉(名辞)によって表現されるが、必ずしもあらゆる概念が名辞を伴うとは限らない。また、概念が必ず本質的・中立的なものであるとも限らない。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
自我 じが ego self:心理学的,倫理的意味では経験的な個体性についての意識をいう。精神分析では現実との間に接触を保ち,イドと超自我とを仲介する意識的なパーソナリティの側面のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91
《自我形成における遊びと生活活動》《自我形成過程の様態》というような場合、《自我の未発達》というような場合、ミードのような理論を構築する場合、自我という概念を使わないというのは困難でしょう。
http://homepage3.nifty.com/kiraboshi2/Abraxas/Me …
「自我は 死語もしくは幻想ではないでしょうか?」
自我形成に関わる順調な発達ができてないことが現在なお大きく問題にされるから、心理支援やカウンセリングのようなことが流行っているとは思いませんか。
ご回答を謝謝。
▲ (G.H.ミードの社会心理学) ~~~~~
【社会的自我】(social self)
(あ) 社会化された自我をさす。
(い) ミードは、自我とは自覚されたときから社会の場にいることが本来の状況であり、
(う) 孤立した自我はそうではないとしている。
(え) 欲求の主体としての自我は、社会化されることによって、社会規範を良心、ある
いは理想として内面化(me)し、その監視の下に個人的自我(個性)を社会的に方向付け
て行動する。
(お) この社会的規範に対応する自我が、社会的自我であり、「I」と「me」のせめぎ
あいの結果、社会へと放出される自我である。
(か) なお、この社会的自我は、自分以外の他者の態度・役割・行動などを想像・認識
できて初めて発生するものである。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (き) (か)は当たり前である。
(く) (え)(お)の《社会的規範》というのは 一方ではすでにわれわれ人間の身と
心とから成る自然本性にあって――そこに神の霊(アートマン)や慈悲の霊(ブッダター)
をやどすと言われるごとく――そなわっている精神ないし知性〔がみなもとと成って得ら
れた倫理的な人間性のこと〕である。
(け) 他方では 共同体にあって人びとが互いにナラハシとして・オキテとして・また
法律として取り決め合ったものである。
(こ) 言いかえると 《社会的な――人びととマジハリを持つ――わたし》は 規範だ
とか道徳だとかによって形成されるものではない。
(さ) それら倫理規範や法律を内面化するといったかたちで《社会人としてわれ》が出
来上がって来るものだという規定は きわめて一面的である。
(し) むしろ世の中の決まりや常識や風潮のおかしな側面について気づきこれらをうた
がいそのうたがわしい部分に対して逆らっておのれの心に答えを問い求める思索を繰り返
しつつ やがておのれの内面をかたちづくって行くといういとなみ。これが 人間形成の
基礎であり基本である。
(す) ひとは《われを社会化する》のではなく《社会を人間化する》のである。
(せ) 《自我》などは どこにも出て来ない。要らない。
No.8
- 回答日時:
「自我」と言う言葉が、質問者と回答者の間で、一人歩きしている側面があるようですから、「自我」の範囲を限定された方が良いと思います。
人間の心的機能(個人の内部及び外部に対する身体的反応以外の機能)の総称→「精神」
「精神」が統一して機能する主体と思われるもの→「自我」
質問としては、「精神」も「自我」も、現象としては、「私」または「我」であり、あえて、それを分離して考える必要は無いと言う事ですよね?(もしくは、「精神」・「自我」と分ける必要性が無い)
実際問題、このような誤用と言えるような混乱は生じています。
社会的な「自我」の成長と言っても、社会的な「精神」の成長と言っても、意味は同じと言えます。
ただ、社会的な「私」の成長や、社会的な「我」の成長と言うのは、語法としては違和感が生じます。
これは、言語の文法的限界がある為ですから、概念を説明するのには、非常に難しい事は確かです。
哲学論文などでは、きちんと用語の定義を行えば、一般的な語法で無くても説明可能だとは思いますが、一般人にとっては、読み間違いを起こす可能性は高いです。(実際問題原書の用語としては、Ichなど、日本語としては、一人称の用語を使っているわけですから、日本語の限界と言えなくもないですね)
哲学用語の場合は、日本語にした場合の読み間違い(別の意味で解釈される事)を避ける為に、わざと特殊な用語を造語する場合も多いです。
ご回答を謝謝。
★ 社会的な「自我」の成長と言っても、社会的な「精神」の成長と言っても、
意味は同じと言えます。
☆ おっしゃるとおりに思います。
たとえば小説作品として 或る青年の《自我形成の軌跡》が主題となっている
と言った場合 これは《わが精神の遍歴》という意味です。
自我の形成というのは 必ずしもワタシの個性を問うてはいないはずです。
《よき社会人としてのわたし》といった一般的な人格ないし人間性のことを問
うているはずです。――しかもその意味合いが 出ない。出て来ないように思
われます。
★ ただ、社会的な「私」の成長や、社会的な「我」の成長と言うのは、語法
としては違和感が生じます。
☆ ううーん。びみょうですね。
つまり 《社会におけるわたしの確立》と言えます。前項のごとく《精神の巡
礼にも似た我が人生の旅路》とか《われの履歴》とは言えます。
《自我の履歴》と言ったら 何のことか分からなくなります。
《自我の確立》と言えても その意味は 《わたし・われ・精神・心》の問題
を基礎としてそういう表現を得て来ている。のではないか。
《わたしがわたしである》と言えても 《自我が自我である》と言うのは お
かしい。意味が定まらない。
★ (実際問題原書の用語としては、Ichなど、日本語としては、一人称の用語
を使っているわけですから、日本語の限界と言えなくもないですね)
☆ たぶん いいえだと思います。《わたしなるもの》を言っているはずです。
それをわざわざカッコウをつけて《自我》とあらわしているだけだと思います。
精神分析になると また別ですが。《わたし》を 分断してしまっています。
No.9
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
日本語としては、目的語に一人称の主格をもってきてしまうと、違和感を生じてしまいます。
文法的に誤っているとは言い切る事は出来ませんが、日本人があまり哲学的な「私」や「我」に慣れていないと言うのもあると思います。
確かに、哲学者がカッコをつけて造語している面もありますが、混用される可能性が減ると言う効用もあるので、ある面では有用だとは言えると思います。(それが、日本哲学の閉鎖的な面を生んでいるのは確かかもしれません)
逆に言えば、日本語を外国語に訳した場合もかなりの齟齬は生じていると思います。
日本語自体が、基本的にあまり説明的で無く、お互いに認識が共通化している事を前提としているので、論理的な表現に向いていなかったり、冗長性が高いのも確かでしょう。
外国からの、学問の輸入では、日本語化では、かなりの造語を行ってきたのも、問題と言えば、問題ですね。
実際問題、ニーチェなども、英語訳と日本語訳で読むと、かなり印象が違ってしまいます。
どちらが、ドイツ語に近いかと言えば、印象は日本語のような気もしますが、明らかに英語訳の方が読みやすいです。(ただ、そこで書かれている意味がドイツ語に合っているかと言うと微妙とは言えます)
用語に関しては、日本語訳の方が独自ですから、一般人では読みにくいのは確かです。
深く考えると、英語の「I」、ドイツ語の「Ich」、日本語の「私」は、代名詞の機能としては一緒だが、その印象は異なるような気もします。(民族的な「私」の概念に違いがあるような気がします)
これは、質問とは無関係でしたね。
ううーん。りゅぱん344さん 今回は いづれの主題や論点にも 具体的な
事例が欲しい・・・といった感じをつよくします。よ。
★ 深く考えると、英語の「I」、ドイツ語の「Ich」、日本語の「私」は、代
名詞の機能としては一緒だが、その印象は異なるような気もします。(民族的
な「私」の概念に違いがあるような気がします)
☆ 主題が 広く大きいように思われます。
そしてその反面で 単純なひとつの共通項もあります。
エゴー(ギリシャ・ラテン)だって 《われが》という主格のままの代名詞で
すから。しかも イッヒもアイも イーヨもヨもジュもその他その他もみな同
じ語です。互いに互いに対して訛っているだけです。
ガ格やハ格の格活用の違いはありますが 日本語でもやはり人称代名詞である
ことに変わりありません。
ただし 《自我が考える》とか《わが自我は きょう映画を見に行く》とかは
言いません。
つまり 《われ・わたし;おのれ》と《自我》とは明らかに性質が違っており
別の種類の概念を日本語ではつくってしまった。のではないか?
けっこうウケた。人気がある。のでしょうが。
★ 日本人があまり哲学的な「私」や「我」に慣れていないと言うのもあると
思います。
☆ わたしは 今からでも変えられると思います。《われ》などは古語の感覚
で 《自我》に取って代わるチカラを持っているようにさえ思えます。あとは
《自己》と言えばよいのではないか。ワレに通じています。
○ 翻訳論
☆ は わたし自身としての経験には乏しいのですが おもしろい話題であり
果ては比較文明論にとどくものと思います。
そういった議論は もっとこの場で披露していただかないと困ります。
東と西の問題は まだまだ哲学カテをにぎわしてもよいでしょう。
あとは やっぱり精神分析の《自我》は 人格全体としての《われ》が縮こま
ってしまいますし 《エス》を《無意識なる独立した脳細胞の部位》だと説か
れてしまうと困ります。
検証のすべがないのをいいことにして そういう独断説が出されているように
思うからです。
《超自我》も ただ単に《わたしが エスのリビドーを抑える》と言うに過ぎ
ません。しかもこのムイシキの《それ・あれ》だって いかに低俗であっても
れっきとした我が欲動です。
愚痴っぽくなりましたね。
No.10
- 回答日時:
こんばんは、ぶらじゅろ~ぬさん。
本能とか自我とか超自我とか、それらを全部ひっくるめて【オレ】【自分】といいます。オレはこう感じオレはこう考えこう思うからこのようにしゃべりこのように聴きこのように生きている、ということでよろしいと思います。このやふなことは質問するまでもなく、すべての人がさうしているはづで、またそのやうにしかできないのだと思ひます。さうして【そのやうにしかできない】人間同士が話し合っているうちに【そのやうにもできるのだ】とたまたま感じたときに渋滞が収まり潤滑にものごとが進むことが稀にあるというだけです。もともと全員【オレ】なのであり違いがあるのが当たり前すぎる当たり前だからです。質問内容とわたしの話の向きがズレていたらすみません。
ぷらぽてぃさんとは気が向いたときに文通しています。内容は秘密ですが、彼はぶらじゅろ~ぬさんはいい人だと言っていました。♀としましては女性から【いい人だね】【優しいね】などと言われた男性は凹むべきだと思ひます。ロシア語の新垢のことも伝えておきましたので、たすてん先生にもよろしくどうぞ。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
★ 本能とか自我とか超自我とか、それらを全部ひっくるめて【オレ】
【自分】といいます。
☆ つい今朝に気づいたことですが 《観察主義》というよくない志向
性(くせ)があるようです。
《超自我》が エスの本能を抑制するとか それら両者のあいだを《自
我》が取り持つとかいうとき そのような分析を 《おのれ》がおこな
っているのではなく オノレはただ単にそういう観察をやっただけとい
うふうに捉えている。場合がある。らしいのです。
そういう問題に気づきました。ルパン三世ぢゃなかった りゅぱん34
4さんて方におそわりました。
★ いい人だ
☆ というのは 文脈があって出て来るフレーズです。ので それを知
らないから 何とも答えらんない。
あと 老婆心から:
x はづ
○ はず(筈:矢の尻の部分で溝が掘られ 弦に引っかけるところ)
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
似たような質問が見つかりました
- 哲学 《ア・プリオリ――先験的? 超自然・超経験的?――》とは つくづくややこしい。 3 2022/06/10 21:21
- 哲学 カルトに憤りを込めて:一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対批判 4 2022/09/06 14:38
- 哲学 一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対批判 7 2023/03/13 04:59
- 哲学 カルト宗教の批判は 成り立ちませんか? 129 2022/10/26 05:12
- 哲学 一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対批判 1 2023/04/18 13:41
- 哲学 感性は 理性よりもえらい。 6 2022/04/03 10:15
- 哲学 神論です:一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対批判 2 2022/06/09 08:58
- 哲学 神は 普遍神である――この一文で世界は変わる 18 2023/01/20 07:03
- 哲学 人間と社会とについての用語をあたらしく作りました。 1 2023/01/30 05:17
- 哲学 ウソの問題 理論編:《虚数人間》の成り立ちについて 2 2022/05/23 22:25
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
おすすめ情報