アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

最近、「保育園落ちた日本死ね!!!」http://anond.hatelabo.jp/20160215171759 というのが話題になりましたが、このような発想というか、感情的というか、怒りをまき散らすというか、こうした行動や発言をする人が出て来るのかを説明しているサイトあるいは心理学的解説がありましたら教えて下さい。
~~~ 下のような解釈があるのは知っています ~~~
「怒り」は、「わかってほしい」「助けてほしい」「愛してほしい」という心の叫び
「怒り」は感情の「蓋」だ、と言います。「怒る」という感情表現をしていますが、よくよく聞いてみると、本当に伝えたいことは「怒り」ではないことが多いからです。「私は怒っている」の後には理由があって、それは「自分の気持ちが理解されていない」、「助けて欲しかったのに助けてもらえなかった」、「愛されたかったのに愛されなかった」からで、そこには深い悲しみがあります。鍋の蓋が、中の圧力に耐えかねてカタカタと音をたてるように、悲しみや孤独感が抑え込めなくて吹きこぼれるときに「怒り」という大きな音をたてる、と私たちは考えます。 「怒り」が、「わかってほしい」「助けてほしい」「愛してほしい」という心の叫びだとしたら、それをぶつけられるのは、「あなたならそれがわかってくれるだろう」という期待をかけられているから、ということになります。(ぶつけられる側はそう感じられないので、効果的なコミュニケーションとは言い難いのですが。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
同じような状況になっても、感情的暴発や怒りの噴出にはならない多くの人がいます。
一部の人が、易怒やヘイトに走るのは、何が原因なのでしょうか。
不安が背景にあるとか、援助を期待しているとか、閉塞感やストレスの解放を企図しているとかの説明ではなくて、そうした行動をとる人は(一見すると同じような状況下にあったと思われる人々の総体から眺めると)人数的には少ないのに、一部の人は明らかにそうした行動をしばしばとります。
教育や人生経験に差があるのかもしれませんが、相当に論理構成がきっちり出来るし、知的にも平均以上という人でも、そうした行動をとる人がいます。 社会経済的な状況や人間的ネットワークの紐帯や構造には、そうした行動をとる人間と、そうでない人間とを分ける基本的なものはあると思えません。
生理的、内分泌、精神神経などに特徴的な傾向があるのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • NO.3のご回答にお礼で、補足を書きました。
    お礼文の文字数制限で半分くらいしか書けなかったので、2)と3)をこちらに書きます。

    2)教育、躾け、文化、規律、訓練、習慣、習熟、慣れがポイントだろうという意見は、了解可能なものとしてわかります。また、事態の推移に関する予見から損得や円滑志向あるいは自尊心との照合、または相手や周囲への気遣いなどから、セルフコントロールする理性の保持・維持の程度も関係しているという意見も、了解可能なものとしてわかります。酒を飲んだり、疲労が溜まっていたり、リラックスしていると、悪口、非難侮蔑の言辞が増加するのを、そうした症例として挙げるのもわかります。

      補足日時:2016/04/07 00:35
  • さらに、仲間なのだとの感覚を高める効果が、部外者・第三者・権威などを非難し攻撃し侮蔑する言辞を言い合うことで生じるので、それで快感や一体感が増加したり、ウッキョク感やキンチョウ感をホグスせるという経験が、非難、攻撃、貶める発言を促す(生徒間での先生評、サラリーマンの上司評、女同士の男評、男同士の女評、風刺作品が受け入れられるバックグラウンドetcにしばしば見られる)という意見も、了解可能なものとしてわかります。
    ただ、それらの意見は、《勉強したから勉強が出来るようになった、練習したから強くなった、気分が良くなる映画演劇小説アニメが広く受け入れられる、恐怖や失敗の経験が背景にあって萎縮や反応が生じる》というのと似ていると思います。 【こどもは成長すれば大人になる】では、こどもが成長するとはどういう現象が起きていることなのか、その現象が起きるメカニズムはどのようなものかに全く触れていません。

      補足日時:2016/04/07 00:38
  • 【手に持ったものを手放せば落ちる】のは何故なのか、どういうメカニズムなのか、落ちる速度や落とす力はどう決まってくるのかをなにも説明出来ていません。というよりも、そのメカニズムに迫ろう、つき詰めて調べようという気が感じられません。もう21世紀なのですから、行動などを表面的に観察した結果を統計処理して心理傾向を説明するというだけで終わらずに、【どうしてそうなるのか】を個人の中にある構造的特徴、生理反応を起こしたり起こさなかったりするメカニズムに突っ込んだ研究や見解を知りたいのです。

    3)親の顔がみたい、しつけがなってない、いつまでもこどものママの反応や発言・思考でいるのを許す社会になってしまったんだ、という感性的反応があるのもわかります。俺はあんな表現を無恥に世間に出すようなことはしないと差別蔑視する感性的反応が起きるのも当然だと思います。

      補足日時:2016/04/07 00:40
  • しかし、そうしたところで人間の感情や行動に関する理解を留めていては、色々の研究をしたりする意味がないし、21世紀の細分解明文化社会っぽくないでしょう。
    「良かった俺じゃなくて」とか、「実践の学として」とか言わないで、さらに深入りしてメカニズムや微細な差を調べる必要があると思ってます。 外因・外的影響に関しては色々な研究がたくさんあるようですが、そのような反応をする個人の内部生理神経物質・機能に関する研究が(私が知らないだけで)もっとあるはずだと思うので、そうしたものに関わりそうなのを教えて欲しいです。

      補足日時:2016/04/07 00:43
  • 回答をありがとうございます。
    今回の回答の主な内容は次のようですか?
    ①質問は回答者を考えてするとよい②ニューラルネットの例では正解にほぼ収束するまで中間の回数が1000回近くなるはずだが、漫談のような説明では感性に訴えて速やかに理解を得られる③漠然と効果が認められるのならば論理的ではなくても経験則で科学的である④経験的に既知のものと結論や結果が一致しているならば厳密な研究や検証論理の説明をあえてはしない・科学的に正しくないものは既に排除されていることが多い・経験的法則が世間に流布しているのはそれが科学的にも正しいものであるからとみなすのが妥当である⑤昔から言われていることが正しい場合は訂正されない・昔の道徳教育に異を唱えることは学がない⑥質問者の発想は物まねであり知性的でない・シツケが嫌いなのではないか・何か別の悩みを持ってないか・科学や論理にロマンを求める人はそうした傾向がある

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/10 22:18
  • ➆?<実際の先生達は、シツケに厳しいですよ。知性も論理も、科学も、これを蔑ろにできるほど凄いもんじゃないです。むしろ、正しかったと後天的に証明するだけにあるとおもいます。>?
    もし回答内容が上記のようならば、私の質問に対する回答にも、私に対するアドバイスにもなっていません。
    私の質問と補足の一部を再掲します。
    ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
    外因・外的影響に関しては色々な研究がたくさんあるようですが、そのような反応をする個人の内部生理神経物質・機能に関する研究が(私が知らないだけで)もっとあるはずだと思うので、そうしたものに関わりそうなのを教えて欲しいです
    【どうしてそうなるのか】を個人の中にある構造的特徴、生理反応を起こしたり起こさなかったりするメカニズムに突っ込んだ研究や見解、一部の人が、易怒やヘイトに走るのは、何が原因。生理的、内分泌、精神神経などに特徴的な傾向があるか。

      補足日時:2016/04/10 22:22
  • ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
    なお、大規模書店、公立図書館で専門図書と分類されているコーナーや新書コーナーにある図書の大部分は読者を専門研究者向けというよりは、そうしたことに関心がある一般人向けです。webの質問サイトはそうした一般人向け専門図書よりも概説で表面的なものが多く、専門研究者があたって有効に利用できる論文ダウンロードサイトは極く限られたものです。《①質問は回答者を考えてするとよい》と要約した部分は、全く実情を無視した意見とみえます。

      補足日時:2016/04/10 22:24
  • 《②ニューラルネットの例では正解にほぼ収束するまで中間の回数が1000回近くなるはずだが、漫談のような説明では感性に訴えて速やかに理解を得られる》と要約した部分は、これが元回答の要約なのか自信がないです。納得、理解した気分、記憶した内容等が、多くの場合、感性や感覚、感情の働いた結果であり、概念理解の正答近接、人間の認識能力の再現というニューラルネット開発改良のネライとは方向性が異なるのはわかります。ただ私の質問に絡めて考えるなら、ニューラルネットワークの評価関数・係数・重みが収束した(変化がほぼとまった)状態が、どう違うと(どのような関数を組み込んでおくと)、易怒する人と易怒には遠い人の違いが実現・再現出来るもかを調べた研究などを教えて欲しいとなります。

      補足日時:2016/04/10 22:25
  • また、ペリー幼児教育計画の社会的有用性(質の高い幼児教育を受けることは、子どもの人生を豊かにする極めて効果的な方法である)に疑問を抱くのではなく、《質の高い幼児教育》の介入実施をしてもなお、就学前にIQ90に到達しないものが33%、《質の高い幼児教育》の介入実施をしてない状態で、就学前にIQ90に到達するものが28%になる・《質の高い幼児教育》の介入実施の効果は28%⇒67%への増加であるとすると、プリスクールの以外に何かのものが影響していることになる。プリスクールで得た長続きする効果をもたらしたのは、《具体的にどのような変化が5歳児に起きたのか》 そこが私の知りたいことです。
    しつけ、ゆとり、感情、心理的安定、生活や今後への危惧の有無、既得の知識体系、過去の成功経験や感情経験を ないがしろにして構わないと言っているのではないのです。

      補足日時:2016/04/10 22:29
  • 補足はこの回が最終になります。(機能の上限に達した)
    残念ながら、私の欲しい回答は得られませんでした。 コミニケーションの難しさもわかりました。
    私としては、扁桃体基底核外側核のシナプス伝達に関わる物理量のクライテリアか、外側結合腕傍核との連携に関わる機能や細胞の大きさなどが、易怒やボーダラインのような場合に、そうではない人と異なる傾向があるかとか、何かの繰り返し経験で肥大化するあるいは萎縮減少するなどの研究がなされているのか、どんな方面を探すと、そうしたことに触れている(通常の図書館にもありそうな本)(webやPDF)があるのかを教えて欲しかったのです。
    しつけや教育、畏怖などの言葉も、何かの繰り返し経験で個体内部で変化する物理的に定着・塑性変化することに関する知見に関係する可能性があるから、それを取りあげているだけです。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/12 09:47

A 回答 (16件中1~10件)

№15を継ぎます。



脳科学については分からないとおことわりした上で。

怒りの続編は なぜ起きるのか?
当事者のあいだで 《怒り》を惹き起こした問題をめぐって一応の解決が成った〔と見なされ
たその〕あと なおも怒りの続編が あたかもストーカーのごとく執拗にしかも相手に対して
何らかのつぐないをなお要求したりそれにからめて脅しをしたりするまでに到るその動き こ
れについての心理は いかようになっているのか?

これに答えようとした試みです。:

1. まづ 《虚数》という概念をタトヘとして用いて話を運ぶかたちを採ります。それは一
般的に言って《想像力》の問題です。

2. それをひとつの鍵語として コミュニケーションを分析します。ということは 怒りと
それを惹き起こした事件について取り上げる前にすでに この言語交通としてのマジハリ一般
を取り上げ そこにおける問題点から 《怒りの続編としての脅し》が起きるのではないかと
分析します。

3. 人と人とのマジハリはまづ ひとの意志行為です。ここに焦点を当てて行きます。
たとえば《実数》であれば 意志のあり方は イエスかノーかあるいはその中間でまだ決めら
れないか この二つないし三つに分かれると思われます。ほかにはないでしょう。

4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?


 
5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手
から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり こ
れが 虚数の世界の吸引力であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶって
いる。

6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては《〔その人にとっ
ては不確かではあるが〕実数の世界( a )》とそして同じくいま《考えあぐねているその想像
の雲に乗ったどこか心の世界( b i )》とで構成される複素数( a + b i )としての実態であ
る。ということになるでしょうか? どうなのでしょうか?

7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もは
や実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?
 
8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。実数( a )
の部分は ゼロになってしまった。すべては 虚数部( bi )にあって想像をめぐらしつづけ
ているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが実際は その想像という
のは うたがいに満ちさらにはその猜疑心がひょっとすると敵対心にまで広がっているかも分
かりません。

8-1. ということは 現代韓国人の――特には日本人に対する――心的現象のことが思い
浮かびます。



9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成す
としたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると
見ます。

10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性の
さらに自乗として限りなくつづく過程である。 

11. 複素数の場合を考えずに単純に言って 《わたし》が 数として《一》であるならば 
わたしは その一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつ
つ( 1 + α )またそこから脱線をもしつつ( 1 - α )しかも 元の一に立ち戻って生きる。
( α の加減から目が覚めて われはわれに還り 1 に 1 を掛ける。これを繰り返して自己の連
乗積をつくる。すなわち  1^n = 1 )。

12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。



13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか・自分から何を思ったかおのれ
自身をめぐるあらぬ方面からあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。

14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もは
やそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのご
とく 虚数なる想像の世界一色となる。

15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も
が できない。できなくなる。

15-1. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをの
み叫び続ける。

16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭を
つむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。
《ウリナラ・ファンタジー》。


 
17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロにな
り 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?
 
18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス《一》( i ^2 = -1 )となる。
( b は 実数の a と同じ《一》と仮定します)。

18-1.次のような解説を得たことがあります。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一度の《へそ曲がり(虚数 i への片向き)》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕
在化する。

  1 × i = i  : (へそ曲がりの)潜在化の過程
  i × i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程

 * 《 i 》とは imaginary number の i です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。交通渋滞。コミ
ュニケーション不全。
 
20. というふうに推し測った仮説です。

21. つまりは 言ってみれば《虚数人間; ホモ・イマ疑ナリウス》 という状態にすでに
なっていたなら 《怒りのあとの恣意的な限りなき反撃》は 起こしやすい。と考えた次第で
す。どうでしょう。
脳の中では いったいどうなっているのでしょう。どこがどうはたらいているのか。
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この回答へのお礼

No.15、No.16にコメントさせていただきます。
「脳科学の回答ではない」という前提はわかりました。私の質問は《"易怒:怒りやすいヒト"が出現する原因やメカニズム》に関するものです。《"怒る:怒り"とはどういう現象か・どういうときに怒るか》ではないです。
No.15の中に「21.つまりは 言ってみれば《虚数人間; ホモ・イマ疑ナリウス》 という状態にすでになっていたなら 《怒りのあとの恣意的な限りなき反撃》は 起こしやすい。と考えた次第です。どうでしょう。」という記述があります。虚数人間になっているか/なっていないかがポイントだというご意見でしょうか。
No.15には、虚数人間識別の記述が見当たりません。そのままでは、怒りを起こすのは虚数を抱えたヒトがある条件下で変化し怒りを出現させていると述べているように読み取れ、意味ある記述には読めません。
No.15に「自己防衛、仕返し、脅し、反撃」などの語があることから、怒り≒(原状復帰/回復/もとに復する & 自己防衛/仕返し/脅し/反撃)と考えられているらしいことはわかります。怒りは「もとの状態から離れたで生じる不満の感情/情動」と私は思ってます。回答者さんと似たようなイメージともいえます。
No.16に「7.いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう? 」という記述があります。私の知っている易怒するヒトは、比較的甘えんぼ、親密さを強く求める、優柔不断には見えず、行動には積極的という状態です。上位者・年長者・権威や権力にべったりには見えませんが、強い拒否的傾向はないです。世の中に不信と反感を抱き、他人を猜疑でみて、拒否的に発言し動くことが常なるひとなら、「いつも怒っている」「シニカル」「否定しかしない」という方向になってしまい、「易怒・怒りやすい・癇癪持ち・瞬間湯沸かし器・感情や情動にすぐ走る」とは違うタイプになると思えます。
神経生理、内分泌、遺伝子などの観点ではなく、社会心理学的見解でも、内観的考察や言語的論理的考察でも、「易怒」と「易怒しない」とに焦点をあてて質問していることを踏まえていただきたいです。

お礼日時:2016/04/21 20:19

回答№14を勝手に承け継ぐ投稿です。



《怒り》は その一瞬に起こり そのあと怒りとしてはもう消えて行くものだと
捉えます。

どうして起こるか? 基本的には 何かの刺激に対して自己防衛のごとくに言わ
ば条件反射する反応ではないかと。

そして 怒りと言っていますが 相手やその対象となった刺激に対して 中立的
であるとさえ捉えます。

善悪〔の判断〕の以前であり 敵対するつもりからもまだ自由であるのではない
かと。

感覚的にさらに言いかえると みづからへの元気づけのごとくに 半ばおのれの
意志を超えるかたちにおいても起きる反応であると。



問題は この怒りの起こったあとのことですよね。

これも 基本的に言って 怒りは一瞬にしておさまるのですから――その余震が
つづいたとしても―― そのあとの反応やウゴキは こんどはまさにさだまった
心づもりを持った意志をはたらかせての行為である。と考えられます。

早い話が 自己防衛の意志的なつづきとしての攻めである。相手のおこなった行
為は マチガヒであるといううったえをおこなう。刺激が止むまで・そして和解
が成立するまで おこなう。

さらになお 別様の・《怒り》のあとの《怒りがつづいていると見られるような》
続編があります。これは 単純に言って 《仕返し》です。
相手が あやまっているのになおも仕返しを繰り返すのは 《脅し》のたぐいに
なるかと考えます。



さて このように捉えた瞬間的な怒りについてそれと 脳細胞の神経組織などと
どのようにつながっているか?
それは やがて研究され明らかになるのではないでしょうか。

問題は そのあとの自己防衛――つまり 専守防衛ですね――については ふつ
うの所謂る《原状復帰》のことですから 問題ないとして 〔問題は〕《仕返し》
ないし《引き続く脅し》にあると考えられます。

どうなんでしょう。
これも 研究され知られて来るでしょうといういまの気持ちしか 表わすことは
出来ないのですが どうなんでしょう?


この投稿に少しでも意義があったとするなら それは 当座をつかさどる瞬間的
な怒りと そのあとにつづくウゴキとを区別することが出来るのではないかとい
うところです。

原状復帰がまがりなりにも出来たと見なされたあと それでも続く広い意味のス
トーカーのような反撃的脅し これは いかなる思惟と意志のあり方によって起
きるのか? 

これにつきまして哲学がどこまで迫れるかでしたら 別建てで次に投稿したいと
思います。

とうてい お望みの脳科学の問題ではないのですが。
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こんにちは、元高校生さん。



これは【怒り】についてのご質問ですよね?わたしも数年前に【怒り】に関する質問をしたことがあります。丸投げになってしまいますが、とりあえず貼っておきます。回答者様はみな真摯な方ばかりで大変役に立ちました。とても長いのですがお時間があればザクっと目を通してみてください。

これです。カテは哲学です。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8663798.html
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この回答へのお礼

回答をお寄せいただいたことにお礼申し上げます。
カテ:哲学の http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8663798.htmlを読ませていただきました。
私の質問とは関係のない内容でした。
読んだ感じだけでいうのは如何かとも思いますが、この教えていただいた非常に長いやりとりは、何かを調べる、究明する、絞るというようなものではなくて、関係者が掛け合いを楽しむ場というもののように感じました。
ついでに、書かせていただきますと、言葉は生き物です。変化します。関係者間で同じ言葉を使っていても微妙にあるいは随分と思い描いていることが違っていることが多いです。語源を遡ったり、他の言語の意味を探っても、現状当人が使っている言葉で描いている内容に重なるとは限らないです。「怒り」という日本語でも同じです。イメージを厳格に確定しようとすると、もともと言語化は困難なことですから、淋しさ・悲哀・口惜しさ・無念さ・蔑み・侮り・やるせなさ・もどかしさ・混乱・侮辱・嫌悪・驚き・恐怖・恨などと「怒り」の関係がわからないというのは当たり前のことと思います。それでも「怒り」という言葉を使用しているのはそれで十分にコミュニケーションがとれること、感情を表す言葉であって、喜怒哀楽とか、喜怒哀楽愛憎とか、その他感情の傾向を示す多様な言葉を考えるにしても、かなり共通的にわかり易いイメージなのでしょう。怒りだけでなく、恨み、哀しみ、喜びだって状況は同じです。そのヒトの育ち暮らしている文化圏で怒りと表現してだいたい共通した理解ができるなら、その言葉の示す感情があるということです。 色で言ったとき「灰」で通じるなら、灰色は存在するのです。灰色のイメージは十人十色、同じ人物でも、状況次第で何を灰と見るかは多様に変わるのですが、それでも灰のイメージはあるのです。灰色は存在しないということではないです。もっと広げれば、光線次第で色は変わって認知されます。それでも、色は存在しないとは言いません。「怒り」だけでなく、「感情」という言葉についても似たようなことが言えます。
私もぐるぐる変わる掛け合いをおもしろがることは多いのですが、それでは楽しかった時間と気晴らし以外の収穫は少ないです。しっかりと目的目標を定め、ステップアップ(知識・手法などに関して)に繋げる努力をすべきだと私は思ってます。

お礼日時:2016/04/19 10:18

お怒りを感じたようで、申し訳ありませんでした。



勘違いをしていたのは私のほうですから、どうかお納めください。


事情を説明しますと、

このサイトでは回答者にお勧めの一覧を表示するのをご存知だと思います。

ところがこれが、キーワード検索のマッチングで勧められてしまいます。

怒りという話を一度でもすると、これに関するものが連続して出まして。

この一覧から入ると、一般論の議論に見えてしまうんです。

(ジャンルから入ると、専門家が沢山待機しているように感じますよね)


私のほうでは、怒りについての悩む人の質問であると言う心理が働いていました。

悩み相談が連続してましたので。

今回、専門ジャンルのサイトと書いて頂いて、やっと気がつきました。


また、時事ネタではじまりましたので、そういうノリなのかと思いました。

質問する方は何時も真剣であると、自分を戒めていたつもりでしたが。

まったくこれは、反省するしかありません。


そうですね。

投稿者は、専門ジャンルを選んで、そこで専門的な議論が出来ると思いますものね。

期待感が違います。



私のほうも、何でそんなに難しくしたがるのか?

どうして、無理にそちらにもっていくのか?

とずっと不思議に思っていたんです。

(ジャンルが違っていることに気がついていなかったです。

 無理にもって行かなければ、話がはじまりませんものね。)

ずっと、丁寧に応対していただいた分、ほんとうに申し訳なかったです。




お怒りはごもっともですが、

ボタンの掛け違いであると思い、ご容赦ください。

・効率よく知識を得ようと、専門ジャンルに投稿した。

・しかし、時間のロスになった。誠実に対応したつもりが、要領を得ない。

そちらか見れば、私でも、そう感じます。


私のほうは、深い悩みを抱えている方に見えてしまい、頑張ったんですけど。

(自業自得ですが、ちょっと哀しいです。)

また、専門サイトを好んで選んで、要領の得ない議論をふっかけていると

いうのはしておりません。


お怒りであるのはごもっともです。

最後にお礼で書かれている内容は、

私がした失礼への仕返しであると受け止めて、お気持ちを察しました。


しかし、誤解した変な奴がいたとしても良いですので、

欲しい回答が得られなかったのでガッカリしたという言い方は、

他の方にはしないほうがいいでしょう。

「いまだ興味があり、今後ともよろしく」

と書いても損は無いと思いますよ。

お怒りを抑え切れなかったというのは、良く分かりましたが。

たしかに、何とも感じない人もいますし、切れてしまう人もいます。

不思議ですね。

是非このあたり、解明して、ご自身に役立てられることを祈っています。
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お礼有難うございます。



なるほど、趣味の範囲であったわけですね。

それならば納得しました。申し訳ありませんでした。

私もカチンと来ましたが、

お互いが別の過去の経験から、相手を決め付けたのだと思います。

反省ですね。


悩みがあるのか?と聞いたのは、そう聞くしかないからです。

もし、そうであった場合、悪いことをしたと思うでしょ。




では趣味の議論の延長として。

また、昨今のアプローチは、解析的な方法論ではなくなったと思えます。

勿論そうなんですが、そうでないという面白いパラドックスです。

仰るとおり進んではいるのですが、別の観点で捉えますと、

「人間が解析していない。」

わけですよね。

成果を見る側にとっては、

そういったものが進化して流行っているのかと思えます。


しかし、

人間が何をしているかと言う点で考えれば、全く流行ってないんですよ。

二次関数を良く知りたくて、方眼紙にプロットした事があったと思います。

段々と見えてきてワクワクしたものです。

がしかし、この作業を今やる人はいないでしょう。



やっている側にとっては、

ぼんやりと「自分が主役じゃない」と感じるわけです。

では?

機械が解析するとして、

その仕組みを考案するのは、その分野の専門家なのでしょうか?


実際そうなっていません。

システム開発やプログラミングスキルの高い人に依存するしかないんです。

将棋のプロに勝つ将棋のプログラムは、

将棋が強い人が作らなくてもいいのですから。

このアルゴリズムでさえ、解析的な方法をとっていません。

面倒な表現ですが、解析をするアルゴリズムを作るだけで、

強さの秘密について解析したわけじゃないということです。

残念ながらプログラミングスキルの高い人が、強さについて解明するよりも、

機械にデータを解析させて反復するほうが強いものが出来ます。

強さの真理があったとしても、人が知る必要が無いとなります。

ただただ、何かに近づいていくAIがあり、

どうして強いのかやはり分からないまま、強いAIができます。




万事こんな感じになってきまして、

人類が経験したことがない未曾有の時代に突入してきているんです。


考え方がとても違ってきています。

アイデアを用いて式を解くよりも、

細かくデータを入れて結果を計算し続ければ良いとなります。

仮説を検討している間に、ビジュアルに結果が出てしまいます。


アルゴリズムでさえ、

それを強化するくらいならマシンパワーをあげてしまえば良いと成ります。

もし、真理を求めているならば、回答は一つのはずですから、

一生懸命工夫をして真理に到達しつつあっても、

素人が作るようなださい、プログラムを凄いマシンで走らせただけで、

結果が出てしまい、追い抜かれてしまいます。

たとえば凄い天才がいて、そんなはずはないと頑張っても、

一生かかって、最後に同じ答えが出てしまうということです。



私たちが学校で習う知識の殆どは、数秒で検索できるようになり、

数式は無理にとかなくても、

コンピュータが計算するので、簡単にする必要が無いんですよ。

式を簡単にして人が理解するより、

式を計算してグラフ化して人に見せるほうが役に立ちます。



いまの支配階層にいる知的階層でさえ、これは予測していません。

いまだ現役のうちに、自分が優秀であるという根拠がなくされてしまっています。

そういう時代になってきたと感じる質問者さんのセンスは確かですが、

そういう時代になったということは、

生半可な知力は機械に交換されると言う事をさしています。


IT系を専門にしていなかった人は、どれだけ怖いか。

分からないものが多い中で、知らないジャンルで強弱が決まる。

政治も何もあったもんじゃないです。

駆け引きをして勝ったとしても、負かした相手がキーマンじゃないんですよ。

「実は私はやっていませんで、このソフトを持っているだけなんですよ。」


例えばハッカーの殆どが、

ツールを使っていまして、漫画のように自分でどうこうしていません。

数秒で数百通りの攻略法を見つけてしまいます。

数秒でほとんどのサーバーが落ちてしまうんです。

セキュリティの専門家は、

「いや、防げると思っているほうが素人でしょ。

 私らは、

 一通りの事をしないと、恥ずかしいという義務感だけでやっています。」

こんな中で、未だに人の知力が鍵を握ると思っている人が多い。


しかし、

そうじゃないと気がつき始めている過渡期でしょうね。



そのため、

「私たちが優秀なのは、相手を思いやる気遣いだ。」

というヒステリー(と私には思える)が蔓延しています。


こうした理由から、

相手にわかりやすいかどうか?で人間の価値が決められる風潮になっています。


私としては、それに負けて良いのか?

どうなっているのか知らないで、いいのか?

と常に思っています。

ですので、質問者さんと同じ感覚ですね。

趣味で色々とくだらないことをしています。



誤解したのは、そうした時代的風潮を情けないと思っていたからです。

理解を諦めて、人付き合いだけで自分の価値を見出そうとする人を肯定できません。

「人に任せてないで、自分でやってみなさい。せめて抵抗しなさい」

と思っています。


お礼に分かりやすく書いていただいて、良かったですよ。


専門分野の知識が欲しい場合は、学会に参加すると良いでしょう。

ただし、会員からの推薦が必要です。

会費は安いはずですよ。

私は面倒だと思いますね。

そこまでするくらいなら、自分で考えるほうが楽しいでしょう。

趣味なんですし。



ただ、論議をする場合は、あくまでも趣味の考察として、自分の考えを先に

述べることをお勧めします。

相手を同じ趣味に巻き込むことを、面倒にしてはいけませんよ。



以上、意外と楽しかったです。
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この回答へのお礼

お礼は申し上げられません。 
gooのルールはどうなっているのか調べていないのですが、ここを質問と質問に対する回答を書くものと、私は思っています。ここを「議論する場」とは私は思ってません。
また、Glory_777さんとのやりとりを楽しいとは感じませんでした。
文章が長いので一覧で読めず、回答をコピーして、改行を削除して、プリントしてからでないと、私には読みにくく、手間がかかりました。 その結果で、私が求めている情報や手がかりが得られたなら満足したかもしれませんが、Glory_777さんの回答はそうしたものではなかったです。
No.12の回答でも、Glory_777さんの勘違い、思い違い、あるいは思い込みであって、専門性とか、ツール開発検証上の論理整合性や積み上げとかと、ツールを利用するときの単なる信頼や依存に関して区別がついてないとしか、私には思えません。
専門の学会にもいろいろあるでしょうし、私が知っているのは1,2しかないし、ハイレベルとは世間的には言われないものなので強弁はしませんが、結構いい加減な会員は多いですし、独自見解をあくまで貫きたがるヒト、融和や仲間内の敬愛を重視したがるヒトなどいて、学会が世間とは異なる世界とは思いません。
いま、私は、Glory_777さんは専門性も低いし、知識は多くなく、探究心も旺盛ではないけれど、自分を高く見せたい気は人一倍強いヒトではないかとさえ勘ぐっています。
gooサイトを趣味や興味、暇つぶしで使うのは何ら問題ないと思うのですが、質問者の要望に対応する気もないまま、知識もなく情報も持ってないまま、アドバイスにもならない見当違いの議論をgoo質問サイトでふっかけるのは控えるべきだと思います。

お礼日時:2016/04/16 23:36

私も最後にしたいですが、



ソフトウェア上での問題であると思えるものを、

どうしてハードの問題にしたいのか不思議なんですよ。



誰かのパソコンを借りたとして、

漢字の変換をしたら恥ずかしい変換ばかりが出てきたとして、

パソコンの構造に違いがあるのじゃないか?

と言い出せば、ITスキルが低いといわれます。


誰でも、

持ち主がどんな使い方をしているか想像ができてしまい、

それほど格好の言い話だとおもいませんよ。

しかし、甚だしく疎い人は、

自分の主張が通ると思って強気になるかもしれません。

どのくらいそれが広く知られているか? 語られない恥ずかしい話なのか?

それすら知らなければです。

これは可笑しいと思って用心するべきではないでしょうか。


しかし、

「どうして、パソコンの構造を知りたいと思うのがいけないのですか?」

と勝負に出てしまえば、

そのやり取りだけで他人にはかなり面白いものになってしまいます。

身近の人がコンピューターに疎い人ばかりなら安心ですが、

そうじゃない場合も想定していたいものです。


確かにハードにエラーがあって、

恥ずかしい変換のときに確定ボタンがうっかり押される確率が高い場合も

あるかもしれません。


同じように、

イライラしやすいという程度の影響は与えるかもしれませんが、

ご質問にあるケースは、体裁や道徳的な問題を問うているわけでして、

これを理解して肉体が構成されるとは思えません。

原因を特定する場合は、

類似のケースから確率を元に絞り込んでいかないといけません。

肉体はもっと大雑把に共通しているものに影響しているはずですし、

限定されたケースを論じるときに持ち出せば、発散しますよ。



また応用可能な、

機能を為すための構造と言う概念はもっと機械的な仕掛けであり、

人の感じる概念まで作りこみはできませんよ。



そうですね。

私も、姉に恥ずかしいサイトのお気に入りを見られたことがあります。

パソコンに故障があることにしたかったんですが、

姉のIT知識と勝負する気にはなりませんでした。


また、

恥ずかしい雑誌が整理されて、大事にしまわれていたことがあります。

友人の持ち物と言う事にして、友人の悪戯だといったことがあります。



これらの性癖について、心理学と結びつけて説明しても良いと思いますが、

年頃の男の子だからしょうがない、とか言われてニヤニヤされるだけですよ。

「どうして、日常ある事を当たり前に受けいれて、

 そこに潜むメカニズムに興味を持たないんだ?」

と私が頑張っても、恥をかきつづけるだけでしょう。

早く話題を終わらせようとするのが妥当ですし、

過去を持ち出されたら素直に赤面して、萎縮すれば良いだけでしょう。


質問者さんの場合であっても、

平易な回答を嫌って、物事を壮大にしたくなるときって、どんなときかな?

誰もがこう考えて想像してしまいます。

自分に自信が無かったり、嘘をついたり、人に馬鹿にされそうなときでは?

むきになるべきじゃない場合もありますよ。



また、近いかどうか分かりませんが、

戦後に、偉人について脳を解剖して解明しようと言う試みがありましたが、

これには意味が無かったと結論がつけられており、

7つの習慣などに代表される書籍で、「習慣が大事だった。」されています。

そんな情けない話には納得できないと思い、抵抗しようと考えた人が無数に

いると思います。私もそうでしたし。

そうした人が自分より先にいると考えると、良いと思います。


それぞれの学問の目的が何であり、何に適しており、どこが限界であり、

どこまでを取り扱う範囲であるのかを考えてみるといいでしょう。



また、

感情面での理解が乏しいことを、自分が論理的であるとか、知能指数が

高いなどによって支えようとする人もいるでしょう。

しかしそれは虚しい自己肯定の方法です。

やはりすべてにおいて優れていたいと嘆くほうが正直だと思います。

このあたりで何か傷ついたことがあるんじゃないですか?



そして、

知の世界は思っている以上にシンプルじゃないでしょうか。

「それがいったいなんの役に立つのか?」

こうした事だけが大事とされていると思いますよ。

用途を考えて、回り道をせず、手近なもので役立てるのが賢いはずです。



なので、

質問者さんは調査結果をいったい何の役に立てようとしているんですか?

それを話せばもっと別の役立つ情報が集まるかもしれませんよ。




また、ご自身が求める回答を得られていないと主張されていますが、

敢えて言われなかった他人からの見え方は良く見えたんじゃないでしょうか。


私が思うに、

専門知識や用語は、

他人を圧するためや自己防衛の道具に使うべきではないです。

「専門用語はなるべく使うな。」

そのジャンルでも師に諭されて、居住まいを正すものだと思います。


また、

それを発見したり考え出した人は、

最初は誰にも信用してもらえず、必死に訴えて回ったはずです。

命名に関して権利がありますが、命名したときは恥ずかしいだけだったでしょう。

ところが、そうした用語の権威だけを頼りにする人が生じます。

考え出した人から見れば、大変愚かしい物と見えるはずです。


また、

もし自分が発見した物と全く違うものに利用されてしまい、

その利用法が間違っているだけなのに、

説自体の評判落ちたらやり切れないでしょう。



そして、一般通念にある難しいと言うのには誤解があります。

学術論文や専門書には、表記のための文体があります。

普通の人には、馴染みが無くて難しく感じるだけです。

理解できると言う事は、それほど凄いことじゃありません。

ですから、勉強一般で活躍できても同様に扱われます。

漫画のタイトルを多数暗記して述べることが出来れば、

子供時代は、漫画博士とか言われるかもしれません。

しかし、実際に博士号はとれませんよね。

単なる、変わった漫画ファンですから。



過去に誰かが執筆した論文が教科書に載るようになりますが、

これらを暗記した子供が頭が良いわけじゃありません。

本気でそう思い込んでいると、笑われるでしょう。



宗教や哲学でも同様でしょう。

その中から必死に参考になるものを見つけようとして悩んでいる人もいます。

しかし、

これらが他の人にとって難しいと感じると閃いて、

これを弄んで他を圧して、自分を確立しようと頑張る人がいます。

これは大変見苦しいですよね。


少し前にある新興宗教がテロ活動をしました。

私たちはそうした誘惑に抵抗するため、苦しくても、人の言葉を借りて、

誰かを煙に巻くような逃げ方はすべきではないと思うのです。


言葉を覚えて言葉を使ったとしても、

そこにある発明を自分の悩みに役に立ててないんですから、

考え出した人も、がっかりするでしょう。



確かに、

質問者さんが望んでいる答えを返すつもりがありません。

また、

単に不名誉な濡れ衣を着せているだけかもしれません。


ですのでここは、

「ああ、きっと、他の人に言っているんだなあ。」

としてください。


探求されている内容は、どこかで分かるかもしれませんよ。


それとは別に、

何か傷ついたことがあったり、怒りを感じることがあったら、ご相談ください。

これは別バラだと思って、分けておくことでしょう。


本件経緯、

一般論で片付けられたと思わないで下さい。

日常の中で、ふと感じる不思議な感じ。

それを逃がしたくなくて、形にして表現してみたい。

既出の概念に一緒にされたくない。

そう思うことがとても大事ですし、是非表現されるべきです。


しかし、それは芸術に近い高尚さであって、科学に求めるべきではないでしょう。

いま質問者さんが拘っているその微妙な感じ方の違いが、感性と言います。

コミュニケーションで伝えられない感覚。

だから在り来たりの言葉にされると腹が立つんですよ。

そうしたものを感性と言って尊ぶものです。


あなたはそれを大事に思っていないため、自分が大切に感じるものが、

感性の素晴らしさだと気がついていないと思えます。


始めから、そうした感性を伝えたいんだと言えば伝わったでしょう。

つまり、感性と言う概念についても誤解されているようです。



哲学を論じるより芸術作品を作るべきと言う人を見かけます。

自分にあると思っている尊いものが、

何であるのか?ジャンルを識別できていないんでしょう。


ジャンルは必ず誰かの役に立つために作られてています。

その尊いと感じるものを、在り来たりにされたくなくて、

頑張って守ろうとすると、その人が選ぶジャンルが逆に成る場合が有ります。

しかし役立てようと思うと、

実は正反対のジャンルが正しいのかも知れません。


良く思うのですが、アスペルガーの方は非常に優れた感性を持っています。

ところが一般の人が鈍くてついていけません。

そのため、彼らは感性の面で自分が鈍いと思い込んでしまっているんです。

ところが知性派の人は感性も磨いていますので、理解してくれます。

これで自分はこちらなんだ?と誤解すればより救われません。


勿体無いです。


これらも考えてみてください。

以上、ご参考に成れば。
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この回答へのお礼

このサイトの機能上補足を追加出来ないので、お礼で書きます。
とても熱心に回答をくださっていることはわかります。ありがとうございます。
身体機能は低下し、金銭的余裕はないですが、強い悩みを持っているとは自分では思ってません。
私にとって法律や宗教、物理化学にも、文学や音楽、スポーツ、経済システムにもわからないことばかりたくさんあります。そのためか、タマタマ興味を抱くことがあれば、どういうことか、何が関係関与しているかのかを調べたりします。多くの場合、それを何かに使うつもりも予定もないです。持てる力を興味に使うことに満足を覚えるものです。調べた過程で得た専門用語を衒学的に使い周囲を煙に巻く趣味は持ってません。自分の実用に役立つことなど世の中にはほとんどないと言ってもかまわないくらい少ないです。30歳過ぎて何かを調べたり、熱心に始めるのは、その行為自体に惹かれているのであって、何かに役立てるためではないのが普通の人のやることだと思ってます。スポーツやゲームも芸術も料理や化粧法、健康法、アニメファン、アイドル追っかけでも、医学や天文学、イスラム史の学習でも、同じようなものです。 タマタマ興味を持った対象が一般的でないとしてもそれはそのヒトがオタッキーなだけで、オタッキーな面があるから悩みを持っているヒトだと推定するのは誤解になることが多いと思います。
  ~~~ ~~~
まだ文字数に余裕があったので、書き足します。
全く別のことです。
p53がん抑制タンパク質経路の破綻ががんの進展に重要な役割を果たすらしいのですが、p53の変性は環境にも左右されるらしいです。セロトニンの受容状態や扁桃体、海馬の肥大や縮小も、多くの原因が絡むらしいです。そしてどういうレベルからが問題になるのかが(私にはまるで)はっきりしませんが、怒の誘発度を急激に高めるようです。
PCやスマホが不調になったと感じる場合、操作者の認知や感覚の問題である場合も多いのですが、通信系の異常、温度、コンデンサ、電源、ソフトのバグや特異性、メモリ、その他諸々が関係していることもあります。もちろん、操作者の使い方の誤りというケースもあります。ソフトウエア、ハードウエア、通信関係などは、人間の使い方の問題とは別のことです。細かく調べることが大事だと思うヒトも少なくないでしょう。

お礼日時:2016/04/13 00:39

No.8ですが。



むしろ、どうしてそこまで拘るのか不思議です。

自分の衝動について考えてみたらどうでしょうか。


具体的に知りたいという部分を否定しているのではなく、

自分の考えを提示し、実験をしたうえで提唱しない限り、

まともに相手にされませんと言っているわけです。



不思議に思うとか、納得できない程度の話をすれば、

相手の方も、

あなたの感じ方を不思議に思うとか、

あなたの質問に納得できないと返してきますよ。


事情が分かってもらうことと、

対応してもら得ることは別ですよね。


知りたくても教えてもらえないストレスは、皆が感じるところでは?

専門的知識をもっと分かりやすく教えて欲しい。

これは他の方も同様では?


しかし、ゆっくりと自分の考えを出していけば、

それなりの専門家に質問できる準備が整うと思うんですよ。


いますぐ欲しいと焦り過ぎては、上手く行かないんじゃないでしょうか。


多くの回答の中から、特にシツケについて強く反応しているようです。

何かお悩みなんですか?


また、ご自身の論理性や知性を拠り所にして自分を支えなければ行けない

理由が他にあるんじゃないですか?



感性の欠如=知性の強さではありません。

共に高い次元にあるほうが良いですよ。


感性でのコミュニケーションで過去に障害があったんですか?


誰かに質問をされたとき、

単なる現象の説明だけでは相手の役に立たず、

相手の求めるものに近いモノを返そうとするのが普通ですよ。


本当に悩んでいる方は、本当に気にしていることを言えないものです。

ですが、普通の人が拘らないものに、執拗に反応すれば、

その背景にあるものが推し量れるものじゃないでしょうか?


知識欲だと主張するまえに、

どうしてそうした知識欲が生じたのかを、

ご自身の経験を交えて話さないといけませんよ。

その経験によりどう感じたのか?

どういう考えを持ったのか?

今何を望んでいるのか?


それらを秘密にされてしまえば禅問答になります。

(禅自体にはテーマがあるようですから、

 これは正しい例えじゃないですが)


納得のいかないところを主張するのではなく、

自分のした経験を話すこと。

その中で納得がいかなかったことを語ることです。


一般論で誤魔化そうとしても、誰もが気付きますから、

一般論で返されると言う事です。


まずはこのあたりを考えてから、

もっと高度な質問へとステップアップしたらいかがでしょうか。



より多くの質問をし、

より多くの会話をしないと分からないものもあります。

そうした謎の解明にに到達したいのならば、

自分のコミュニケーション力を先に磨かないといけませんよ。

感性が何故大事かと言うと、そうしたものの道具でもあるからです。


最初の一歩でこれでは、どんなに衝動が強くても、不自由でしょう。


知っていても、

教えたくないと相手に感じさせてはいけませんよね。



指導をうける姿勢というのも必要なんでは?

先生たちが厳しく指導していたのはこういうはなしでしたよ。


自分の衝動よりも、世に既にあるものを尊重することが出来ませんか?

それが嫌な人がどうして、既に世にあるものに尊重されるでしょうか?


いまの質問者さんの行動が合理的ではないんですよ。

それが故に、知性的ではないと思います。


以上、ご参考に成れば。
この回答への補足あり
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No7です


多分。。。No8さんへの 回答かと 思います

私は脳のお話しを描いたので。。。。意味不明でした。。。
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No.3のものです。



物事を解明し、

その論理を理解して利用しようとしている方は貴方だけではありません。

質問をする以上は、

同じ姿勢を持っている人を想定して、訴求するように内容を考えるべきです。


学会活動をしてみれば分かりますが、

勉強しようと思っても教科書もなければ、先生もいません。

専門書でさえ洋書で5年ほど遅れており、和書でも10年遅れています。

それを読んで知識として話せば、哀しそうに笑われますよ。


学会の論文誌でさえ、日本語の論文は3年以上遅れます。

英文論文誌であれば、半年から2年です。

海外の国際大会などで既に半年遅れています。


大学教授といわれる方は、何十年も前の現役の人であり、

学生のレベル達していない場合も多々あります。



大学院を卒業している方は無数におり、その方々は全てこれらの事を知っています。

こうした方々がどうやって探求するかと言うと、

「私の考えはこうである。証拠はこうである。

 他の事も説明できる。

 どうか私を試して欲しい。」

と自分でした発見をベースに論議をしようとします。


しかし、ご質問からは、

「人から聞いたらこうだった。自分はここが納得できない。

 もっと納得できる話をしてほしい。」

この様な印象を受けました。




こういう人が、まともに相手にされるでしょうか?

科学的なアプローチをしたいと思うのは分かりますが、

それらに従事している人に変な思い込みをお持ちじゃないですか?


人の学習について、ニューラルネットワークと言う仕組みが用いられていると

仮説があるのをご存知ですか?

非常に古い論理ですが、人間がもつ学習と同じ挙動を示します。

どうも確からしいと思われています。


これらは工学分野の専門知識に成りますから、心理学では解明できない内容です。

しかし、

このジャンルを選んで卒業した学生は多数おり、

それほど稀有な知識ではありませんよ。


4つの素子でモデル化されたニューラルネットワークに、

1+1=2を教え込むのに、1000回以上の学習が必要になります。

(以降は厳密さを抜かして、アバウトに話します。)


これらを収束回数とし、

如何にして効率を上げるかを研究している人が過去におります。


そういう方には、どうして1万回と言う数字を私が挙げたのかわかるでしょう。

また、これを再学習させる(1+1=3とか)のに、やはり1000回以上の

学習が必要になります。


人の脳には、140億以上の脳細胞があり、これらがネットワークを作っている

と言われています。

この仕組みでは、素子の数は精度(鮮明さ)に影響し、

学習回数はほぼ同じに収束されているはずですから、

(メイズ(惑ってしまう)に入ることがなければ)

やはり2000回ほどの学習が必要なのです。


と言う事は、

2000回の再学習で、人は大筋で変われるはずなのですよ。


(私が音痴を治した時もこれを使いました。

 ただし一回の学習に1時間かかるので、2000時間。

 だいたいその通りでしたよ。)



そのため才能論を大変嫌っています。

非科学的だからです。


しかし、シツケに関しては合理的な手法であり、科学的なのですよ。

また、2000回を達するためには拒絶反応があると上手く行きません。

嫌なことは、3ヶ月に1回もすると、自分を褒めたくなります。

好きなことで気軽に出来るものは、10日で700回ほど実施してしまうでしょう。


音痴であったとき、

私は自分に才能が無いと思っていました。

しかし、人生で歌唱した時間を思い出すと、3回ほどであり、15分です。


友人と、曲のフレーズを覚える競争をしたとき、

10日で700回以上を聞いていました。


40年で3回と言う人は、2000回達成するために、2万7千年ほどかかります。



次に、科学的なアプローチが出来る人が、

どうして芸術分野を苦手と考えるのでしょうか?


感性の世界でも優れている場合が多いですよ。


人に話すときに、

感性的な方が伝わりやすい場合は、素直に威力があるとするべきです。


私の知っているある大学の先生が、

学会発表で特別講演をしたときに、

(ニューラルネットワークの非線形学習が、線形学習に及ばないということを、

 数学的に証明したいのですが)

話している内容は、漫談のようでした。

私が思うに、彼のほうが漫談のプロよりも上手であったと思います。

人を笑わせながら、難しい論理を理解させてしまった。

論理は理解をするための道具でありますが、

伝える道具としては、向いておりません。

論理的に解釈したいという人がいても、

本当に厳密に伝える場合は、数式の証明、数式にかなり近い環境、実験、

測定誤差、日常での適合度合いなどをレポートしないといけません。

相当面倒ですよ。


科学的と言うのは、論理的であると言うのではなく、

実証的であるのが殆どです。

なので、経験則が本質です。

また、人の経験にそぐわないものは売れませんから、

そうした日常の経験を例えにし、

どうの様に対応するとどのような結果になるかで説明するのが普通です。


難しいことを言って説明する学者なんていませんよ。

漫画の読みすぎです。

まだ、勉強中の学生か何かじゃないですかね。




さて、

さきほど説明した大学の先生の真似をして、学習時間2万7千年を表現するとしたら?

「嫌いなものは一生治らない。」

と説明するでしょう。

更にいうならば、「来世でも無理だろう。」


また、

「どうしてもやりたくない」と意地をはる人がいたとして、

「この人を説得するののに、一生で足りないかもしれない。」

そう思えるときがあります。


ある人の、ある望みがあり、ある練習方法がありました。

なんとかして2000回と思いました。

しかし、一回の練習時間も想定すると、

概算で15万年くらい掛かりそうだと分かったことが有ります。

その人の望みは、高く、それを考えていくと・・・

ピンと来ました。

「56億7千万年後くらいに、何とかなるかも?」

と言った事が有ります。




さて、長くなりそうなので切りますが、

過去の人が盲目的に言ってきたことがあったとして、

漠然と効果があったと想えたとして、

どうしてそれが科学的に証明できていないと思うのですか?


結論が全く変わらない場合は、

誰も喜びませんから、敢えて言わない場合もあります。

研究を発表する人だって、職業でやっているんですよ。

売れないとおもったら出しません。


世の中の人が思い込んでいた物と逆の結論を導き、

それにより人類が多き進歩する。

そんなネタを求めます。

特許では、進歩性と言います。



今も尚、昔に言われたことを大人がいっていたとして、

それが益にならなかったら、それを否定する知性派の人が必ずいますよ。

正しいので、訂正されていないと考えるほうが、

世の中を肯定していると思えます。

ちょっと、大人を侮りすぎていませんか?



うつ病が流行るだろうと予告されたのが40年前です。

そのとき、これを言っても仕方ないので、沢山の抗うつ剤の開発が行われました。

富を得た人がいると言う事です。


また、幼児教育が与える影響を50年追跡したものがあります。

アメリカ:ペリー計画 参考URL

http://www.blog.crn.or.jp/lab/01/55.html



質問者さんのいいたことは分かりますが、

ご自身が調べた内容についても、

「結果はこの通りになるんだろう」と、受けいれたほうが良いですよ。

非科学的なものはとっくに排除されているはずです。

学の無いおっさんと、学のあるおっさんが、いたとします。

両者が言い争い、結局同じ結論になったとします。

その場合、学のあるおっさんは、学者さんだったとします。

さきに発表されたものを、盗作することはしません。

ですので、

学があろうと無かろうと、

昔から言われていたことが正しい場合は、訂正しないだけで終わります。


今の世の中で、昔の道徳教育に異を唱える人は、

学がないとしか思えません。

大変恥ずかしいことですよ。



まずはそういう可能性を考えるアタリから自分の思考の習慣を治しましょう。

質問者さんの発想は物真似であり、知性ではないと思えます。



私は始めて学会発表をしたとき、

こうしたことを指導の先生にたしなめられました。

殴られるかと思いました。

つまりシツケですね。


少し意地悪でしたが、

ご自身はシツケが嫌なんじゃないでしょうか?

最初にそう思えたので、敢えてシツケと書いてみました。

反応があったので、何がしかの別のお悩みをお持ちと推察します。


経験則ですが、科学や論理にロマンを求める人は、

そうした傾向があると思います。


ですが実際の先生達は、シツケに厳しいですよ。

知性も論理も、科学も、これを蔑ろにできるほど凄いもんじゃないです。

むしろ、正しかったと後天的に証明するだけにあるとおもいます。




以上、参考に成れば。
この回答への補足あり
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動機は子どもの頃の引火原因を探求したかった事が切っ掛けなの?



怒りとどう関係あるのかな。。。それとも感情という抽象的な概念は捉えにくいから

自分が捉え易い具体性を持たせたいって 事だったんだろうか。。。

感情のコントロールは又違う脳の部位だと思うけれどね。。。

シナプスとかの研究とかだと 生物化学的なんじゃないかって 思うけれど。。。

物理的な側面よりも。。。?
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