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仮に誰かに「何故○○はいけないの?」(人を殺すこと、ものを盗むこと、売春すること、自殺することなど)を訊かれた時あなたは答えることができますか?自信をもって?

わたしには答えることはできません。
何故それがいけないことなのかが、それが「違法であること」以上の理由を持たないからです。
そして「違法行為」であること、「犯罪」(Crime)イコール「罪」(Sin)だとは思えないからです。

わたし自身未だに「それら」が「悪」であるという説得力のある回答に巡り合ったことがありません。

あなたは何故語れますか?その根拠はどこで身につけたものですか?

同様に「遵奉行為」イコール「善」とも思えません。

わたしに確信を持って言えることは僅かです

「悲しむ人を傷つけてはいけない(特に精神的に)」

「あらゆる差別は許されない」

「正しい戦争も、間違った平和も存在しない」

「多数派と力を持つものはほぼ間違えを犯す」

そんなところです。

これらの根拠は「人は人を傷つける権利はない」という考えから来ました。

ただ、「相手が権力を持ったテロリスト(ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東、或いはA、等を除く)」

質問者からの補足コメント

  • こんどは「お礼」の字数をなんとか合わせようと、コピー&ペイストを細々と繰り返していたら、一部文章が重複してしまいました。(「わたしは迂闊にも云々・・・」)

    こちらにしてもOKwebにしても、「投稿後の編集」ができないので閉口です。

    お礼にも書きましたが、ここのところ、本業(?)であるアートブログから離れ、フェイスブックからも離れ、okwebの方で遊んでいます。けれども遠からずまたお暇をすることになるでしょう。
    2008年にOKWebから海外のアート系SNSに「移住」したように。

    okwebでも「哲学」は怖いので、もっぱら「アンケート」に愚問を投じて皆様の失笑を買っておりますよ。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/10 04:33
  • あ、全然この回答とは無関係ですが、わたしが最後に頂いた回答へのお礼で、カントの言葉を引用しましたが、あれは当然ながら「イエール大学」ではなく「イエナ大学」です。カントはアイヴィー・リーグには行っていないはずですから(苦笑)

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/11 03:26
  • 間違えました
    >いかに両親を持つか ×
    いかに良心をもつか。

    あ、それから先日どこかでbragelloneさんの回答を読みました。
    哲学というより、生き方についての質問だったように思いますが、
    「あるがままでいいんじゃないですか。」というbragelloneさんのお答えに妙に納得しました。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/12 00:14

A 回答 (18件中11~18件)

小学生ぐらいなら


「いいこと」も「悪いこと」も
いつも食べてるものが自分の体を大きくしたり、
いつも使う言葉で考えるようになれたりするように
その理由には人との繋がりと経験があるのよ。
人間以外は理由も要らないけどね。

人間は「社会性のある動物」といってね、
その社会で生まれると必ず選んでしまうことなら
気まぐれや性格じゃなくて「本能」といっても間違いじゃないよ。

自分で立つことも出来ない赤ちゃんの時に
狼に育てられると狼の生活が当たり前で
狼の生活が上達していくよ。
人間でも二本足で歩けなくなったり、
服を着たいとも思わなくなるけど。

疑わないのは価値観といってね、
子供の頃沢山食べたもので成長してきて
それを嫌いというのは簡単でも、
実際にはお腹は自然に減るし難しいの。

でもね、いくら好きでも、もっと好きなものを見つけて
飽きることもある。
それも成長したっていうけどね。
と、説明する。


高校生ぐらいなら
価値観の多様化は共同体を不要なものとし、共同体が不在となると、一方通行の情報を供給するメディアを選ぶのも各人各様になり、自由度が増すことでますます話しが合わない、共有する言語がないに等しくなるので既成の常識を基盤にした憲法とか規則とかの価値観で判断することにしている。

いい大人なら「お大事に?」
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この回答へのお礼

こんにちは。

お礼が遅くなりました。(みなさんに「これがお礼か!」と言われそうですけれど)

>人間は「社会性のある動物」といってね、
その社会で生まれると必ず選んでしまうことなら
気まぐれや性格じゃなくて「本能」といっても間違いじゃないよ。

特定の社会、集団の中で生まれ育ったヒトは、その社会のもつ風俗、習慣、価値観を自然と身に着ける(取り入れる)(採用する)
というと、いかにも能動的、主体的選択のように聞こえてしまいますが、実際には、広義の「洗脳」ですよね。

>価値観の多様化は共同体を不要なものとし、共同体が不在となると、一方通行の情報を供給するメディアを選ぶのも各人各様になり、自由度が増すことでますます話しが合わない、共有する言語がないに等しくなるので既成の常識を基盤にした憲法とか規則とかの価値観で判断することにしている。

実際に、人の価値観、人の視点って、そんなに多様でしょうか?TVは自由にチャンネルを選ぶことができる、インターネットでは世界中のサイトに一瞬にアクセス可能。でもOkwebでしたアンケートでも、ほとんどの人は仕事以外で海外のサイトにアクセスすることは極めて少ないし、ネット上でもアクセスするサイトって結構限定されているように思います。コミュニケーションの困難さは必ずしもバベルの塔的な言語間の疎外ではなく、情報過多による情報の不在というパラドクスの上にあるように思います。
その上で、多数の意見に順応しておくという態度、
>既成の常識を基盤にした憲法とか規則とかの価値観で判断すること
という、思考の停止状態が起こっているように思えるのです。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2016/04/11 05:11

おじさんです。


「わたしには答えることはできません」
→いいえ、あなたは答えていますよ。

「わたしに確信を持って言えることは僅かです」
→そこに書かれていることがすべての基本なのです。
法律も、そのような人々のささやかな道徳から作られているのです。
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この回答へのお礼

こんにちは。

お礼が遅くなりました。

>法律も、そのような人々のささやかな道徳から作られているのです。

そうあれかし、と思いますね。悪や正義を声高に叫ぶことのない、ささやかや人たちの道徳。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2016/04/11 04:53

すべてのことは、「嫌だから」ですむ。

また、「傷つけないで生きるなんてなんて無理」とも教えるね。例えば恋愛が成就すれば、その人を好きだった誰かが傷つく。知らずになることもあるし、そうしてしまった後の言動がヒトとして大事だからだ。
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この回答へのお礼

こんにちは。

お礼が遅くなりました。

>すべてのことは、「嫌だから」ですむ。

つまり「己の欲せざるところを人に為すな」ですか。
でも「嫌だから」だと、ちょっと説得力に欠けるような気もします。何故なら「それがいけないとされている根拠」として希薄に思えるのです、が、それは主観の問題ですね。

>そうしてしまった後の言動がヒトとして大事だからだ。

そうですね。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2016/04/11 04:50

仮に誰かに「何故○○はいけないの?」(人を殺すこと、ものを盗むこと、売春すること、自殺することなど)を訊かれた時あなたは答えることができますか?自信をもって?


   ↑
ハイ、出来ます。


わたしには答えることはできません。
何故それがいけないことなのかが、それが「違法であること」
以上の理由を持たないからです。
     ↑
それは、いけないこと、とはなにか、違法とは
何か、を考えていないからです。


そして「違法行為」であること、「犯罪」(Crime)イコール
「罪」(Sin)だとは思えないからです。
    ↑
違法な行為が総て犯罪ではありません。
違法とはなにか、犯罪とは何かをつきつめて
考えれば、おのずと答えは出てきます。


あなたは何故語れますか?その根拠はどこで
身につけたものですか?
   ↑
法哲学を基本に自分で考えたからです。
自分で考えて出した結論なので自信を
もって言えるわけです。


これらの根拠は「人は人を傷つける権利はない」
という考えから来ました。
   ↑
権利とは何か、ということを考えましたか?
傷つけるとはどういうことですか?

傷つける、という意義を明らかにし、
権利という概念を明らかにし、
双方の関係が因果の流れで、どうなるのか
を考察しないで、単純に、傷つける権利がない、という
結論を導出しているのではありませんか?
だから子供に問われても、答えられないのです。
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この回答へのお礼

こんにちは。

お礼が遅くなりました。

>あなたは何故語れますか?その根拠はどこで
身につけたものですか?
   ↑
法哲学を基本に自分で考えたからです。
自分で考えて出した結論なので自信を
もって言えるわけです。

「自分で考えて出した結論だから自信を持って言える」成程。でもそれは普遍性を持たない、個人的なご意見ですよね。
無論こんなことに「普遍性」や「一般化」を求めても仕方がないのですが。

>これらの根拠は「人は人を傷つける権利はない」
という考えから来ました。
   ↑
>権利とは何か、ということを考えましたか?
傷つけるとはどういうことですか?

「権利」では曖昧ですね「傷つけてはいけない」「傷つける自由はない」と言い換えてみます。
傷つける=悲しませる。無論「傷つける」と云っても、失恋によってもわたしたちは「傷つけ」「傷つく」のですが、
そういうレベルのお話ではなく、そうですね「やむに止まれぬ」理由以外によって、とでもいうのかな。
逆に言えば、「悪事」と一括総称されるものに対して、逐一その意味(「違法性」の特質)を究明すべきだと思うのです。

>だから子供に問われても、答えられないのです。

うーん。何事においても白黒明快に答えられる人って苦手なんです(苦笑)

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2016/04/11 04:45

答えることは簡単に出来るでしょ


例えば人を殺すこと
逆の立場になって考えてみなさい

あなたの家族が殺されたら悲しいでしょ
あなたは自分が誰かに殺害されたら嫌でしょ
死ぬのは怖いでしょ
自分がされて嫌なことは人にするなってこと
自分の命や家族の命を奪われて嬉しい人なんていない
夢も希望もあっただろ
他人の命を奪う権利なんて誰にもない

もし答えることが出来ない人は人としての感情が欠落してるだけ

説得力もくそもないよ
自分がされて嫌なことはするな
あなたは自分が誰かに刺されても嫌ともなんとも思わないのか?
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この回答へのお礼

こんにちは。

お礼がおくれました。

>他人の命を奪う権利なんて誰にもない

勿論です。わたしが問題としているのは、「殺人」それ自体ではなく、何故彼は「殺さざるを得なかったか?」という問いかけです。
何故盗まざるを得なかったか?何故自死せざるを得なかったか?それらへの吟味、検証なしに、「悪だ!」「悪魔だ!」と叫ぶことへの強い違和感です。

仰ることは常識としてもっともなことで、反論の余地はありません。

けれども、文学や哲学は倦むことなく「殺すこと」或いは「悪」について考えてきて、これからも考証し続けるのではないでしょうか?

率直なご意見をありがとうございました。

お礼日時:2016/04/11 04:22

「誰かに「何故○○はいけないの?」を訊かれた時あなたは、自信をもって、答えることができますか?」



 はい。


「わたしには答えることはできません。」

 お気の毒です。


「「犯罪」(Crime)イコール「罪」(Sin)だとは思えないからです。」

「犯罪」とは?「罪」とは?
全く異質のものを、「イコール」と、認定することに、問題が有るのでは?


「「遵奉行為」イコール「善」とも思えません。」

どなたもそのような事を主張しないと思いますが。
「遵奉行為」=「必要悪」(少し極端ですが)位の認識が必要では?

少なくとも、「罪」や「善」は、全く違う概念でしょう。


「根拠は「人は人を傷つける権利はない」という考えから来ました。」

素晴らしい。
しかし、そのお考えを、「責任を持って、実行する」為には、
「相手が権力を持ったテロリスト等を除く。」と、「例外規定」を
用意する必要がありました。


「悲しむ人を傷つけてはいけない(特に精神的に)」「あらゆる差別は許されない」etc
これ等の「理念」を「責任を持って、実行する」為には、「例外規定」が必要では?

「お題目」を唱えて、世の中が,済めば、誰も悲しまないし、苦労をしない。


「人は人を傷つける権利はない」に、違反してしまいました。
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この回答へのお礼

こんにちは。

お礼が遅くなりました。

>「わたしには答えることはできません。」
>お気の毒です。

いえ、別に残念と思っているわけではありません。わたしの現実を申し上げました。

>「犯罪」とは?「罪」とは?
全く異質のものを、「イコール」と、認定することに、問題が有るのでは?

その通りです。
ところが、世間って結構それを「犯罪」を「罪」であると安直に同一視してしまうように思えます。
例えば「万引き」=「罪!」とかね。

>「遵奉行為」=「必要悪」(少し極端ですが)位の認識が必要では?

そうですね。みながそのような認識を持ってくれれば、「信号を守ること」イコール「善い事」というような息苦しさは軽減されると思うのです。

人を(あらゆる生物を)傷つけてはいけない、但し権力をもつテロリストたちを除く。
>「相手が権力を持ったテロリスト等を除く。」と、「例外規定」を用意する必要がありました。

ええ、そう言いました。

>「悲しむ人を傷つけてはいけない(特に精神的に)」「あらゆる差別は許されない」etc
これ等の「理念」を「責任を持って、実行する」為には、「例外規定」が必要では?

たとえばどのような「例外」でしょうか?

>「お題目」を唱えて、世の中が,済めば、誰も悲しまないし、苦労をしない。

それを「お題目」で終わらせないようにするのが、「政治」、ですよね。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2016/04/11 04:12

答えはそれでは人が都市生活する段階に至って


規範を作らないと社会を維持できないからです。
違法行為を悪としなくてどうやってこの人で溢れた社会を維持するんですか?
そして間違っている法律でも面倒でも手順を踏んでその法律規則を改正するのが
民主主義そのものであり、現在のところ多数の意見を持って社会を動かす
それ以上の制度は見つかっていません。
それは性善説に則って作られた少数の共産党エリートが社会を動かした
一世紀かけて世界中で試みられた社会制度実験とも言える社会主義の崩壊と破綻を見れば明らかです。
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この回答へのお礼

こんにちは。

お礼がおそくなりました。

仰る通り、人が集まり集合体が出来れば、そこには当然「秩序」と「規範」が必要になります。
それは誰もが、迷惑や被害を被りたくないという、ごく当たり前の感情として、大多数が嫌がることを「禁じ」るということですね。
でも一方で、ある社会や国、或いは大小さまざまな集合体が「禁じたこと」イコール「悪」でしょうか?
それは人が暮らしやすくなるために取られた「措置」であって、それが「悪」なるが故、ではないのではないか、と思うのです。

『実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。』(チャーチル)

で、あれば、「民主主義」の在り方について、もう少し批判的であってもいいように思います。

少なくとも、わたしは「多数は往々にして、少数より間違いを犯し易い」と思っています。
何故なら多数は正しさの根拠を「数」に求めがちだからです。
フーコーの言うように、『マイノリティーとは「考える者」である、なぜなら彼らは何故自分がマイノリティーであるかを常に自問しているからだ』

ご指摘のように、少数のエリートとは誰が決めるのか?その通りです。多くの革命家は革命なった翌日から保守派に変貌するものだということは、歴史の示すとおりです。けれどもそれは「社会主義」「共産主義」そのものの欠陥ではなく、「人間なるが故」の「宿命」のようなものに思えます。

・・・民主主義というものが、少数派を封殺する大衆主義に傾いた時、それは正にチャーチルの指摘通り、
「最悪の政治形態のひとつ」に成り得るのだと思います。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2016/04/11 03:52

主観と客観を認識できる知能を獲得した年齢であれば、自信を持って答えられますね。


だから三歳児では無理だし、自分たちの世界だけに生きる不良少年に説くのは無理。認識力の成長を待つ必要がある。

お書きの事例の罪は、相対性の利害の価値観であって、善悪二元論じゃないことに起因します。
それらは「悪」ではないのです。「害」だから禁じられている。
罪との関係性によって、必要な人と必要ない人、困る人と困らない人がいる。喜ぶ人と困る人が同時発生し、富む人と病む人が発生する。
悪は潰せば滅びるが、害は撲滅できるものではなく、低減し均すしか予防はありません。

>あなたは何故語れますか?その根拠はどこで身につけたものですか?
私の中で大切な価値観に「矜持」があります。プライドであり自負。
矜持という価値観は、すべての価値観に等しい一線がありません。それぞれが背負うプライド。
成功者には成功者の矜持があり、貧者には貧者の矜持がある。泥棒にだって悪の矜持すら存在する。

ところが正義には、ほとんど矜持がない。正義自体がプライドの理由そのものなので、汚される自負がない。
だから、正義はあまり正当性を語れないのです。自分が信じる信仰みたいなものだから、正義の優位性は他者への否定でしか語れない。
だから他者を否定しないために、私は正義を信じないし、自分の正義も疑うので、悪の矜持を大切にします。
悪くてごめんねスマンスマンという周囲への配慮だから。
でも悪なので他者を傷つけてしまうこともある。だからできるだけ傷つけないように意識して生きています。これも相対性の関係。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんにちは。

お返事が遅れてすみません。
最後に頂いた、わたしの友人からの回答への「お礼」及び「補足」欄にも書きましたが、
わたしは所謂「アカデミックな意味での」哲学的な素養がありません・・・(名ばかりながら「哲学科」を・・・形ばかりながら卒業したものとして、エラそうに言えた筋合いのものではないのですが(苦笑))

ですから、わからないながら、理解が及ばないながら、いただいた回答への感じるところを率直に述べます。
お気に障るところがありましたら、お詫びします。

>自分たちの世界だけに生きる不良少年に説くのは無理

多分わたしはその口です。(苦笑)

ご指摘の、「悪」と「害」との相違がわかりません。ただ思うことは、「被害」と「加害」があり、
「加害者」イコール「悪」と決めつけてよいのか?そうではなかろう、と思います。何故ならあくまで私的な心象ですが、「悪」にはもっと詩的な、文学的な匂いがあるように思うのです。
オスカー・ワイルドの言葉「戦争が悪いものだという認識であるうちは戦争はなくならない。戦争は「愚かしい」(醜い)ものだと知った時に戦争は無くなるだろう」というのも、審美主義的な「悪」観ならではと思います。
であるから、わたしは、「悪」と「呼ばれている」もの事、或いは人に、少なからぬシンパシーを抱きます。

「正義」よりもむしろ「悪」を好む。悪の矜持、仰られている内容はわかりませんが、悪への共感には共鳴します。また「正義」なるものへの反発も。

>悪なので他者を傷つけてしまうこともある。

「正義」はもっと傷つけると思います。自分が「正義」であるという認識ほど平気で他者を傷つけるものだと思っています。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/04/11 03:24

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