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【梵我一如という言葉を高校の倫理の授業で習いますか?】日本では国民がみな梵我一如という言葉の意味を高校で習って知っているんですか?

梵我一如の意味を高校の倫理の授業でどのように習うのか教えてください。

梵我一如ってどういう意味ですか?

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A 回答 (1件)

ウパニシャッド哲学(インド哲学)の、バラモン教(教典ヴェーダ)の中で学習すると思います。


梵(ブラフマン)と我(アートマン)が同一だと言う事を自覚する境地を「梵我一如」と言う言葉で表現します。(バラモン教の場合は、これにより輪廻から解脱できると考えます)
梵は、宇宙の根本原理を意味します、我は不変の自己(輪廻する自己そのもの)を意味します。
仏教(原始仏教)の場合は、正覚、正道により、一切の執着を捨て、悟りの境地に至る事により解脱出来るとしているのが、違いです。
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Qウシャニパッド哲学 ~梵我一如について~

ウシャニパッド哲学、梵我一如のことを学校の倫理の授業で習って、
テストに出すって言われたんですけど、いまいちうまく理解する事ができません。
わかりやすく教えていただければ、とてもありがたいのですが・・・。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>梵我一如がなぜ解脱を助けるのか? も教えてください。
補足質問がありますのでお答えを導くお手伝いをいたします。
(できるだけご自分で考えてくださいね)
あーっと、「解脱を助ける」のではなく「解脱する」のです。つまり「梵我一如」が判った時にはその人はすでに解脱しているのです。では一緒に考えましょう。

古代インド人が「輪廻」を苦痛だと考えていたことは判りますね。
問1.それはなぜでしょうか。
また、解脱というのは「輪廻」から逃れることというのも判りますね。輪廻から逃れた状態を解脱というのです。さて、
問2.梵我一如ということが判ると何がおこりますか。

yamanoyu2858さんの示してくださったURLもお読みください。
いかがですか?

梵我一如ということを理解したとき、アートマンであるあなたはブラフマンと一体化します。どんなにいろいろなものに生まれ変わったとしてもアートマンであるあなたはブラフマンなのです。あなたはもはやブラフマンであり変化しないもの、輪廻の罠から逃れ出たものになっています。つまり解脱したのです。

前の私の答えと重なりますが、これを納得する必要はありませんよ。古代インド人はこう考えていたということが判れば良いのです。ただ、この考え方は仏教の開祖ガウタマ=シッダールタも前提としていたことですから、仏教の基礎になる考え方です。で、日本にも仏教は伝わり現代まで繋がっていますから、そのつながりの中である種「普通」の「当たり前」の考え方とされていますが、冷静に考えれば奇妙な考え方です。余談の方が長くなってしまいましたが、納得ではなく理解をしていただきたいと思います。

>梵我一如がなぜ解脱を助けるのか? も教えてください。
補足質問がありますのでお答えを導くお手伝いをいたします。
(できるだけご自分で考えてくださいね)
あーっと、「解脱を助ける」のではなく「解脱する」のです。つまり「梵我一如」が判った時にはその人はすでに解脱しているのです。では一緒に考えましょう。

古代インド人が「輪廻」を苦痛だと考えていたことは判りますね。
問1.それはなぜでしょうか。
また、解脱というのは「輪廻」から逃れることというのも判りますね。輪廻から逃れた状態...続きを読む

Q梵我一如と仏教の悟り

ウパニシャッド哲学の梵我一如の悟りと仏教の悟りの
違いについて教えてください。ウパニシャッドの流れで
シャンカラという哲学者が不ニ一元論という仏教に似た
ことをいっていると聞いたことがあります。
詳しい方教えてください。
それではよろしくお願いします。

Aベストアンサー

仏教については、詳しくないのですがヒンズー教には詳しいので、答えます。
ただ、シャンカラの不二一元論と同時に二元論と条件付一元論について比較してお話した方がわかりやすいと思います。

二元論)あなたと私、自分と神、それぞれを別々に考えることを言います。

条件付一元論)あなたと私は、1つ。私と神は、1つ。
なのですがまだ、私というエゴが存在します。

不二一元論)私のみしか存在しない。神のみしか存在しない。というものです。

例えて言うと、
二元論は、ビンの中身とビンの外側の空気が違うものということで。 

条件付一元論は、ビンの中身は、空気だけだがエゴというフタがしてあり同じ空気だけど外の空気と分けられてる状態です。  

不二一元論は、ビンもフタも無い状態でただ、存在するという状態です。

以上ですが仏陀がインド全土に仏教を広めたのですがその後、シャンカラが現れヒンズーを復興し、仏教を排斥したのですがシャンカラの師ゴーウィンダパダの師ゴーダパダが大乗仏教の影響を受けてるマーンドゥキャ・ウパニシャッドを書いているのでシャンカラの思想が仏教に似てると言われています。   

仏教については、詳しくないのですがヒンズー教には詳しいので、答えます。
ただ、シャンカラの不二一元論と同時に二元論と条件付一元論について比較してお話した方がわかりやすいと思います。

二元論)あなたと私、自分と神、それぞれを別々に考えることを言います。

条件付一元論)あなたと私は、1つ。私と神は、1つ。
なのですがまだ、私というエゴが存在します。

不二一元論)私のみしか存在しない。神のみしか存在しない。というものです。

例えて言うと、
二元論は、ビンの中身とビンの外...続きを読む

Q梵我一如と一念三千の違いは

梵我一如も一念三千も、個人の内に宇宙を含み個人は宇宙と一体であると説いていると思いますが、違いがよく分かりません。

ある仏教系宗教団体の人から勧誘を受けたときに、その人は仏教以外の宗教の教えは外の道ゲドウと言って、仏教の教えは内の道ナイドウと言う。ナイドウに比べたらゲドウは低級な教えと言っていました。この人に梵我一如と一念三千の違いを尋ねましたが、梵我一如は知らないと言っていました。

梵我一如と一念三千の違いを教えてください。
よろしくお願いします

Aベストアンサー

梵我一如はよく、「宇宙と個人が一体であるという思想」という具合に説明されます。けれども、この説明を読んで、「よくわかった」と腑に落ちる人はあまりいないでしょう(わかった気になって済ませられる方は別として)。やはり、この思想のもとになっている極めてインド的な考え方を感覚的に理解しておかないといけませんし、そのことが結果的には「一念三千」との違いも浮き彫りにするのではないか、と思います。

まず基本として、インド人の思考様式では、普遍を重視して特殊や個物の意義を非常に軽視する、ということを踏まえておかないといけません。抽象的なものを実体的で具体的なものとして理解する、と言ってもいいでしょう。

例えば、「樹木」と「杉」は、普通ならば「類」と「個」という別個の概念に属するものです。西洋哲学ならば大きな問題になるこの両者の関係も、インド人の論理形式では、「樹木」は「杉」の本質であるとされて、この意味で両者は同一関係にある、とすら表現されてしまいます。インド的思考においては、個物の本質というのはそれが担っている普遍の本質である、とされて、いわば論理の階層を飛び越えるようにして、個物や特殊を普遍に属するひとつの例と考えるのです。

こういう考えに規定されたサンスクリット語では、ある属性と、属性を保持するものの区別があいまいになります。例えば、バラモンという階層の人々は、サンスクリット語ではbrahman、つまりブラフマンと呼ばれます。ブラフマンとはもともと「梵我一如」の「梵」で、いわば宇宙の統一原理です。本来は宇宙の統一原理をいう言葉であったブラフマンが、やがてそれと交感するための呪術をも指す言葉になり、さらにそれを操る特定の階層の人達の名称となったのです。

こんな例は沢山あって、「覚者」を意味するbuddhaがお釈迦さまを意味するようになったり、「勝者」を意味するjinaという言葉がジャイナ教の開祖を表す言葉に転化したように、ある性質を意味する一般名詞が横滑りして具体的な固有名詞にもなる、というのがインド的思考のひとつの典型なのです。

「梵我一如」も、このようなインド的感覚のうえに自然に生まれたもの、という風に理解しておかないと、言葉だけの理屈を言葉でなぞるだけになってしまいます。

梵我一如は、上に書いたような感覚が世界と個人との間に適用された時に、必然的に生まれた思想だと言えるでしょう。現象世界の種種雑多な相の根底に「梵」という最高原理があり、すべての存在や現象はそこに由来しているはずなのですから、当然、杉が樹木の本質であるように、自我という「個」もまた、究極的にはブラフマンであるはずなのです。迷いのせいで普段その一体性ははっきりとは自覚できませんが、その合一を体得することがウパニシャッドに説かれる聖なる目標なのです。「チャンドーギャ・ウパニシャッド」に挙げられている例によると、その合一は、例えば塩が水に溶けた時に、味を残しながら水に一体となるような状態に喩えられたりしています。

こういう感覚と比べてみると、「一念三千」との違いもなんとなく感じられるのではないでしょうか。誤解を恐れずにあえて書くと、違いのひとつは、現実世界の強度にあるといっていいでしょう。三千とは、現前世界の多様性一切を表現しているわけで、そもそも、「一念三千」とは、理であれ事であれ、縁起をベースにした現実肯定の思想である「諸法実相」が下敷きになっています。そこには、この現象世界の多様性に軸足をおいたうえで、その中に存在する「私」がこの世界とどのように関わるのか、という問題意識があります。

あまり単純に比べてもいけませんが、一方のサンスクリット語で「三千」や「諸法」、「万象」といった多様な現象世界のもろもろは、イダム・ヴィシュヴァム、「この全て」という単数表現で表されます。ここにもやはり、我々日本人には理解しがたい、背景の抽象性の強度ゆえに現象世界が閑却されがちなインド的思考が表れていることがうかがえますし、それは仏教思想との異同を語るうえで、実はかなり重要なことではないかと思います。

質問者氏は、恐らく本門の一念三千をご承知なのだと思います。この回答では、久遠実成の釈迦とブラフマンの違いには触れていませんから、肩透かしのように思われるかも知れませんが、まずは思想の背景にある違いを知ったほうがいい、というぐらいの意味にご理解下さい。

尚、関係が薄いかもしれませんが、以前梵我一如について回答していますので、よろしければご参照ください:
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1106940 「梵我一如と仏教の悟り」

梵我一如はよく、「宇宙と個人が一体であるという思想」という具合に説明されます。けれども、この説明を読んで、「よくわかった」と腑に落ちる人はあまりいないでしょう(わかった気になって済ませられる方は別として)。やはり、この思想のもとになっている極めてインド的な考え方を感覚的に理解しておかないといけませんし、そのことが結果的には「一念三千」との違いも浮き彫りにするのではないか、と思います。

まず基本として、インド人の思考様式では、普遍を重視して特殊や個物の意義を非常に軽視する...続きを読む


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