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古代の関東と関西を比較すると、歴史的遺産でいえば関西の方が圧倒しているように思います。
大和政権や古墳時代の歴史もある程度解明されていますし、日本史の授業でもわりと習います。

一方で、関東地方の古代史はほとんど分かっていないように思います。わずかに平将門で歴史教科書に出てくるくらいです。
また、古墳がいくつか残っているのでそれなりの勢力があったことは間違いがないと思うのですが、歴史に出てくるような勢力の記録がほとんどないのはなぜでしょうか?
西日本であれば、大和政権以外にも吉備国、出雲国、筑紫国といった国があったことは分かっており、その程度の勢力があってもおかしくないはずです。

自分が考えた理由は以下の通りですが、どれに近いと思われますか?
①人は住んでいたが、西日本に比べて文明が遅れており、狩猟採集生活から脱却できていなかった。
②富士山の噴火、たびたび発生する地震、風土病の蔓延などで人が暮らすには不適当な土地だった。
③土地が痩せていて農耕に不適当であり、人口密度が低くて勢力の形成に至らなかった。
④それなりに人は住んでいたが、小勢力がお互いに戦乱を繰り返していたため文明の蓄積が進まなかった。
⑤古墳時代までには大勢力が形成されたが、大和政権が征服にあたり徹底的に破却し、歴史上から抹殺した。

質問者からの補足コメント

  • 貴方の方が何を言っているのでしょうか。

    >吉備国と言ったって、中国に比較すれば、全然全く遅れている・・・理由あるか?
    → 適当なことを言っているだけになっています。

    >その程度の勢力があってもおかしくはない、と言っているが、なかった。それが理由です。
    → ・・・まったく理由になっていませんが。

    >神武東征の話にあるように、奈良以西は戦争・競争の時代でした。残るものは必然的に多くなります。
    → 戦争や競争があったから残るものが多いなんて、そんなこと聞いたことありませんけど。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/15 06:49
  • >律令制を自ら解体したつけが主に自由闊達な関東の文化の中で武士の自然発生をよび、その後はむしろずっと東の天下。これは800年変わっていません。

    すみません。関東のどこが自由闊達なのでしょうか。素朴な農耕文化そのものではないでしょうか。
    中国と近いこともあり、西日本の方がずっと国際的で商業や貿易が活発でした。西洋との接触も西日本の長崎で行っていましたからね。

    東の天下になったのはよくみても徳川の江戸開城以降(それも政治・軍事面であり、経済の中心にはなっていませんした)で、国際化や商業・貿易が西日本を追い抜いたのは戦後、それも高度経済成長以降からでしょう。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/16 06:22
  • 鎌倉幕府がそもそも、源氏という京都由来の一族が打ち立てた政権ですからね。頼朝も出身は尾張だったはずです。
    足利尊氏も関東に所縁はあるものの京都の綾部出身であったりします。
    小田原北条氏は確かに関東系ではありますが、西の豊臣秀吉に滅ぼされていますね。
    徳川幕府にしても、家康が西の尾張の地から関東に入って打ち立てた政権です。
    そして、関東で300年近く続いた徳川幕府も、最終的に薩摩・長州という西からの勢力に攻め滅ぼされました。結局、時代を変えるのはいつも西からなんですよ。
    中国との距離など誤差ですとおっしゃいますが、飛行機や新幹線がある現代ならともかく、徒歩や船、せいぜい馬しか移動手段がなかった数百年前においては、極めて遠距離だったでしょう。

    すみません。これで終わりにいたします。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/21 23:15

A 回答 (6件)

たしかに記録は少ないですが、そこまで未開だったわけではないでしょう(いや、未開が悪いとは思いませんが)。



まず、埼玉県の稲荷山古墳からは、雄略天皇の名前を記した剣が出ています。したがって5世紀後半までには関東も、ヤマト政権の勢力下にあったことはほぼ確実です。ヤマト政権のシンボルと言われる前方後円墳も、すでに4世紀からありますし、多分4世紀にはヤマト政権の傘下に入っていたのでしょう。
ヤマト政権の傘下に加わった地域では、文化交流が広く行われていたはずです。関東地方だけが文化面で、大きく遅れていたとは思えません。ちなみに水田稲作も、紀元前2世紀ごろには関東まですでに伝わっていたとされています。↓
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=24432

関東地方の古代記録としては、『常陸国風土記』が残っていますから、ここからある程度知ることができます。
ただやはり、『古事記』や『日本書紀』にあまり関東の記録がないことはたしかです。「蝦夷が反乱を起こしたから、討伐させた」とか、その手の記述ばかり目につきます。
これはおそらく、西日本各地の勢力が連合して、ヤマト政権を建てたからでしょう。ヤマト政権が「自分たちの歴史」を語るなら、当然西日本の豪族たちの伝承を主にとり上げます。関東の勢力は遅れて加わったので、ヤマト政権の歴史記録で彼らの伝承が、大きく扱われることはありませんでした。

関東地方の勢力で、記紀に比較的よく出てくるのは、「毛野氏」という有力豪族です。崇神天皇の子・豊城入彦(とよきいりひこ)の子孫とされていますが、これは史実ではなさそうです。「天皇の子孫」とされたのは、ヤマト政権が毛野氏を重視していた証拠でしょう。吉備や出雲などと並んでこの毛野も、古墳時代の大きな勢力の一つとされています。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E

記紀を見る限り、毛野氏の祖先には、蝦夷を討ったという話が多いです(景行天皇のときの御諸別、仁徳のときの田道、舒明のときの上毛野君形名)。ヤマト政権からみれば、東方の軍事の要という役割があったようですね。ちなみに、鹿島神宮(茨城県)と香取神宮(千葉県)にも、蝦夷に対する前線基地という面がありました。

古代関東や毛野氏については、多くの研究書が出ています。
私は主に『日本の古代(2)列島の地域文化』を参照しましたが、以下のような本も参考になりそうです。
上原真人ほか『列島の古代史(1)古代史の舞台』
http://www.honyaclub.com/shop/g/g12250137/
熊倉浩靖『古代東国の王者――上毛野氏の研究』
http://www.honyaclub.com/shop/g/g12439320/
志田諄一『「常陸国風土記」と説話の研究』
http://www.honyaclub.com/shop/g/g11358593/
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No5です



>すみません。関東のどこが自由闊達なのでしょうか。素朴な農耕文化そのものではないでしょうか。
それは表面的な見方でしょうね。律令制の表面だけを取り入れ、軍事、警察を放棄し、都が貴族ボンボン文化に甘んじてたとき、関東は、治安維持が出来ないため、素朴な農耕文化とは程遠い状況でした。開墾した土地を守るため、権威を利用したものの、武力で戦い、生産性を高め、やがて、貴族を滅ぼして、鎌倉幕府が、外国傀儡政権の藤原から、日本人に権力を取り返したのが、その成功の始まりです。以降、武士の政権は明治まで変わらず。武士の起こりはすべて東です。戦国もすべて、鎌倉のスキームが室町に受け継がれ(足利も関東)、その権威崩壊で起こった下克上を得て、勘違い秀吉が少しいたものの、後北条の小田原を中心とした、技術、まちづくりを得て、江戸、東京と今があります。

>中国と近いこともあり、西日本の方がずっと国際的で商業や貿易が活発でした。
中国に近い・・・ナンセンスです。大和朝廷が、九州を滅ぼしたとき、すでに海洋技術は近畿まで来ていた。西の優位性などない。
それから1000年たち、武士が起こり、日本中が船が駆け巡る時代になっての、中国との距離など誤差です。

>西洋との接触も西日本の長崎で行っていましたからね。
西の長崎は誤差ですよ。家康は開国主義だったので、鎖国は誤算でしたが、幕末までの200年に、西も東もない。時間がとまっていただけ。

>東の天下になったのはよくみても徳川の江戸開城以降(それも政治・軍事面であり、経済の中心にはなっていませんした)で、国際化や商業・貿易が西日本を追い抜いたのは戦後、それも高度経済成長以降からでしょう。

経済の中心なんて一言も言っていません。経済の中心とか、現代の考え持ち込んでも無意味ですよ。経済が全国レベルに広がるのは戦国以降でしょうし、それでも、国民全員が貨幣経済の配下にいない。支配階級の武士は、経済活動をしてないんですから。私の言う、自由闊達とは、独立、物事を切り開くタフさ、競争による工夫など、そういう要素のことです。現代に置き換えれば、ビジネスの強さのもとになった要素と言えるでしょうが、昔の経済やら貿易やら討議するつもりはさらさらありません。

とまあ、マジレスしましたが、離脱します。

知らないふりして質問しておいて、実は自分に確固たる答えをもち、それに合わない回答が出ると自分の解釈かぶせて、批判や重箱の隅をつつく意見をぶつけるのは、このサイトでは禁止されている、討議です。質問したら、満足しようとしまいと、聞き入れて、無駄なら無視すればよい。気に入ればベストアンサーを。そういう場所なので。なお、意図を深掘りするための補足ならいいですが、それ以外は禁止ですよ。いい悪いではなく。あしからず。
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うーん、たしかに事実ですよね。

①から④は事実ではなく、⑤がほぼ全ての理由だと思います。

これは歴史の必然として、勝ったものの都合で正史が書かれる。教科書の古代はその正史の記述を書き下しているだけなので、そうなってしまうのかと。
しかし、その正史、日本書紀の、古代の記述はそもそもかなり怪しい。守旧派の学者に守られた、嘘が混ざった偽りの真実です。

いろいろな説はありますが、例えば

・ 今だに、邪馬台国の場所がわからず、その勢力と大和朝廷や、天皇家へのつながりが見えない。(見えないようにしている)
・ 2~3世紀の大和朝廷の成立の過程があいまいで、通常どの国でも考えうる、土着勢力同士の権力争いが、具体的でない。(これも意識的に隠している)
・ 欠史十代をはじめ、天皇の在位期間を学術的に検討して、調査すると、2~3世紀以前の既述に、正当性が一切見られない。(架空の人物を作り、在位期間を捏造するから)
・ 神話と言われるなかに、正史にはない具体的な政争や戦争の記録と、合致するエピソードがつまっている。(神社保存の歴史書、正史以外の書物からわかる事実とも合わない)

など不思議がいっぱいです。さらに

・ 乙巳の変による大化の改新で悪者にされた、律令制に反対する蘇我氏(蘇我入鹿)というイメージは、今の研究では事実無根。彼はむしろ改革派だった。
・ 中大兄皇子は反主流派で、中臣鎌足は百済王・豊璋というのが、守旧派の学者以外では常識。つまり乙巳の変は、アウトサイダーによるテロ・クーデター。
・ その後、蘇我系天武と、中大兄皇子・天智との抗争はその名残で、抗争は奈良、平安初期まで続く。
・ 合理性ない白村江の戦いへの出兵は、全方位外交の方針を覆し、百済王が自国を取り返すための争い。なお、この間、日本書紀に中臣鎌足は一切出てこない。
・ 外国人鎌足をアドバイザーに、蘇我氏滅亡や古代史を抹殺し、「大化の改心で守旧派を征伐、律令国家を作った天皇家とそれを支援した藤原の開祖」というシナリオが日本書紀の骨格。
・ 抹殺しきれない歴史の貢献もあるため、正史には、1世紀から7世紀までの史実(上述4行の不思議)を神話に閉じ込め、都合よく万世一系天皇と藤原の正当性を担保した。
・ 奈良時代は一進一退も、奈良後期で勝ちをおさめた天智系と藤原。平安後期、自然発生した武士が、国を奪い返すまで、傀儡王家と外国人藤原にしゃぶりつくされた。

この辺が、悲しいかな古代の日本の歴史です。諸説あるので、詳細の意見はありましょうが、いずれにせよ、神話の世界から始まり、戦争もなく、万世一系で平和にやって来たのが、日本ですよ・・・など、世界のどこの国の歴史にもない、不自然な話であることは誰もが思うところ。古代は、いろいろあったけど、勝ち残った勢力が、7世紀から8世紀に日本を統一し、そのころから文字文化が広まったため、それ以前の歴史は、制服側の都合で抹殺された。

ですから、日本書紀のような綺麗な歴史は嘘で、3世紀は卑弥呼がいて、出雲系もいて、大和にも土着勢力がいて、出雲はとうぜん関東にも進出して、農耕も文化も伝えていたし、大勢力かどうかは別として、全国津々浦々、各地に強い勢力もあり、それらをゆるやかにつなげる統一っぽい動きも数限りなくあった。また、百済系、新羅系など、外人も入り乱れていたと思われます。

最後は、ヤマトの勢力が勝ったが、卑弥呼の勢力を九州から飲み込んで、西中心に政権が出来た。出雲は封印され、伊勢はヤマト近くで監視されたという感じです。

だからこそ、正史は、大和にいない神武の東遷で始まるのであり、出雲の国譲りがあるのであり、日本書紀の他の神話の多くは、様々な勢力の戦争や、人物、土着勢力、文化や改革への貢献を象徴しているわけです。そして、大和朝廷成立後も、いくども政権は交代し、権力をめぐって、普通の国に起こるさまざまな政変もあったわけです。それらをまとめるときに、西が中心になるのもしかたのないことだと思います。

しかし、一旦勢力が統一され、文書で残す文化が広まると、東西の差はいきなりなくなります。これは、メディアが広がり、真実に蓋ができなくなったからです。律令制成立後、平安中期までは藤原の勢の惰性で国をおさめますが、律令制を自ら解体したつけが主に自由闊達な関東の文化の中で武士の自然発生をよび、その後はむしろずっと東の天下。これは800年変わっていません。
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何をいいたいのか、本当に歴史を勉強する人なのか?


何かおかしい。

吉備国と言ったって、中国に比較すれば、全然全く遅れている・・・理由あるか?
その程度の勢力があってもおかしくはない、と言っているが、なかった。それが理由です。
競争があるところに文明は発展します。
神武東征の話にあるように、奈良以西は戦争・競争の時代でした。
残るものは必然的に多くなります。
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①から⑤まで、全部理由に入りますが、順番が違いますし、ほかの要件もあります。



関東以北というのは、もともと
②富士山の噴火、たびたび発生する地震、風土病の蔓延などで人が暮らすには不適当な土地だった。
噴火による火山灰の堆積から、
③土地が痩せていて農耕に不適当であり、人口密度が低くて勢力の形成に至らなかった。
そのため、
①人は住んでいたが、西日本に比べて文明が遅れており、狩猟採集生活から脱却できていなかった。
また、3世紀4世紀ぐらいまでには、稲作もつたわり大和朝廷の傘下に組み入れられていたと思われるが、そもそも土地が痩せているうえに、利根川などの関西にくらべて川幅や湿地などの大きな流域は、稲作をするには大規模な土木工事が必要で、少ない人口では開発が進まず、また関西よりは寒い地域なのでそもそもが熱帯地方原産の稲作はあまり振るわなかった。
そのため、農業が大人口を養えるほど発達せず、
④それなりに人は住んでいたが、小勢力がお互いに戦乱を繰り返していたため文明の蓄積が進まなかった。
特に東北地方には稲作は普及するに至らず、そのため縄文式の生活文化を持つ蝦夷(縄文人?)の勢力が優勢であり、大和朝廷が稲作を持って進出しようとしてもなかなか果たせなかった。

しかし、時間はかかったものの
⑤古墳時代までには大勢力が形成されたが、大和政権が征服にあたり徹底的に破却し、歴史上から抹殺した。

関東平野というのは、利根川・荒川・多摩川という日本国内では比較的大きな川が3本走った三角州を中心とした土地であり、この流域が武蔵野である。

武蔵野は江戸時代、徳川が幕府を置くまで草深い湿地でしかなく開発はほとんどされていなかった。その理由は、そもそも川を制御して流域を田圃にするのが困難であったからである。特に荒川は「荒」とついているように、台風シーズンには常に決壊して流域に被害をもたらした。荒川を完全に制御したのは実に戦後のことであって、4世紀の時代ではまったく制御が困難な土地であった。

つまり、昨年2015年の鬼怒川決壊(鬼怒川も読んで字のごとくもともと暴れ川)のようなことが毎年起こるため、当時の土木レベルでは農業を営むのがはなはだ困難であったといえる。

また、関東は関西地方にくらべて、東京あたりまでは気温は同じぐらいだが、埼玉以北になると年間の気温が低くなってくる。そのため、もともとが熱帯性の稲作が伝播するのに時間がかかったのも大きな人口が養えなかった理由のひとつであろう。

とはいっても、稲作到来以前はモースで有名な大森貝塚とか埼玉の土器・成田の埴輪文化など、それなりの人口と文化があったらしいことはまちがいなく、三内丸山の事例を参考にすれば、それなりに豊かに生活を営んでいたことはまちがいない。

しかし、それはいわゆる縄文式であり、稲作と仏教を中心とした大和朝廷とは対立したであろうし、稲作で養える圧倒的な大人口に比べると、小さな村の程度でしかなかったであろう。

かれらの文化のうち、稲作や仏教などを受け入れて大和朝廷の文化を取り入れたものは史実に残り、頑なに縄文式の文化を守ろうとしたものたちは夷として討伐され、記録に残らなかったと思われる。
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1~4いずれも有りだと思いますよ。


私は予算が乏しく発掘調査が侭ならなかったと歴史は御上の事柄なので
日々の生活に追われている庶民は関心が薄かったのが要因かと(独断と
偏見からの推察です)

大日本帝国時代は、そんな金が有るなら鉄砲の弾を作れでしたから・・・
それでも、古事記を基本に細々と行って居たようですが。

東京オリンピックの頃から経済的に拡大したので、予算が多少付く様に
なりましたが、チームを編成して研究調査を行い狙いを定めて発掘なんて
数える程度でしょう。
今でも、建設工事をしたら、何やら出てきてので慌てて発掘し始める図式
で、経済大国だと自負している割には文化程度は低いのが現状です。

関東地方に至っては更に、お寒い状況です。
相沢忠洋氏が昭和21年に石器を見つけてから、岩宿遺跡として国の指定を
受けたのが昭和54年です。
新幹線は要らないから、こちらに金を廻せと思うのは私だけでしょうか?

縄文時代は狩猟採取だったので貧しく厳しい生活だったと、教わりましたが、
青森の三内丸山遺跡が発掘されて、教科書が書き換えられましたね、
故岡本太郎氏が大阪万博の標語「進歩と調和」にイチャモンを付けて
いたのを思い出しました。
「進歩なんかしていないよ、縄文時代の人の方が感性豊かだよ、だから
現代人は退化してる」なんて言ってましたが、その通りだったのですね。
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