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古代中国文明は黄河流域で栄えた、と聞いています。

しかし今や黄河流域は砂漠化が進み、河口付近では水が一滴も流れない地域もあるようです。 また黄河には、揚子江流域の南京や上海のように大きく発展した都市もありません。

一方、古代文明発祥には登場しない揚子江では、今では水量も豊富で、その流域では上に挙げた以外に、重慶や武漢など古くから発展をとげた都市も多く点在します。

あまりに黄河地域での水不足がひどいため、揚子江から延々と運河を築き、水を回そうという案が出ているとも聞いています。

一体なぜ、歴史上いつの時点で、黄河と揚子江がこんなに逆転してしまったのでしょうか?

また、なぜ揚子江流域で古代文明が発祥しなかったのでしょうか?

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A 回答 (5件)

私は地理学が専門ですので、その立場からひとこと言わせてもらいます。

歴史に関しては全くわかりませんので、全て地理的考察です。
まず、昔から「南船北馬」といわれるように北部では馬が南では船が主な交通手段として利用されてきたという事実があります。秦嶺と淮河を結ぶ線より南側では年間降水量が1,000mm以上と多く、黄河流域にあたる北側についてはそれ未満と少ないのです。これは中国の降水の多くは夏の南からの季節風によるものだからです。南嶺、武夷山脈、雲貴高原、秦嶺、太行山脈などの多くの自然障害に阻まれて、黄河の中・上流域にまでは季節風が届きません。更に内陸は海洋よりも暖まりやすく冷めやすい(比熱の差)ので冬は月平均-10度まで下がるのに対して夏は夏で月平均20度くらいまであがります。従って、降水が少ないのに蒸発量が多くなり、厳しい乾燥状態となります。
ご想像の通り、近年の断流現象の頻発はこの自然的要因に加えて、人為的要因が加わっています。三門峡ダムの建設、流域の沙漠化、農業開発による黄土高原の裸地化、中・下流域綿花栽培地への大規模灌漑などが要因として挙げられます。
長江流域の古代文明が存在したことは既に#1さんが触れられておいでですが、これも間違いのないことです。最近ではイネの作物化が最初に行われたのは長江流域であることが定説となっています。確かに高度な文明がかなり古くから存在していたのでしょう。
現在の長江流域については萍郷の石炭資源、大冶の鉄鉱石資源と結合した武漢、南郊に存在する鉄鉱山と四川炭田に近接する重慶の重工業が極めて注目すべき地位を築いていること、外洋船がかなりの内陸地域まで遡上できること、三峡ダムの建設により、近い将来に大量の電力供給が見込めること、流域に四川盆地、中下流平原など広大な平野が広がっていること、元来流域は稲作地域で人口支持力が潜在的に高いこと、雨量流水量が多く工業用水生活用水が十分であることなどが指摘できます。一方、黄河流域は降水量の関係で小麦・大豆を中心とした畑作地域で人口支持力が低いこと、水量が変化しやすく大型船舶の長距離運航が安定的に行えないこと、流域の平地が下流の華北平原に限られていること、河口が東南アジアやヨーロッパなどから遠く貿易に不利であることなどが考えられます。
以上のような諸要因の結果として、現在は長江流域が栄えているように感じられ、黄河流域は衰退しているように感じられるのではないでしょうか。大変長文となり、失礼しました。全て推論ですので誤りがあればどなたかご訂正ください。よろしく。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。 地政学上の観点から、また中国の産業政策の観点から詳しくご説明願って感謝致します。 長江流域の発展の理由が分ったような感じがします。 ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/15 11:04

 「長江流域で文明が発祥しなかった」とのことですが、殷(商)の前にあったと言われる夏は、長江流域に伝承が多いため、長江流域に存在したのではないか、という学者もいると聞いています(夏には文字が存在したか?高度なものだったか?という疑問点があり、文明と呼べたかは分かりませんが・・・)。


 また、「黄河と長江が逆転」とのことですが、逆転という表現が適切かどうかに疑問が残ります。
 五胡十六国と呼ばれる時代、北方民族の支配から逃れるため、多数の漢民族が、南方に逃れ、江南の人口が急増したといいます。そして、水稲耕作も盛んになったようです。
 他にも、長江は大山岳地帯を流れるため、交通利用が難しく、16世紀以前は、上流なら上流と、中流なら中流と、といった具合に、比較的狭い範囲での交通が行われていました。しかし、16以降長江中流域が、農業の発達などにより穀倉地帯になり、交通が発達したといいます。
 このように述べてきましたが、この問題、食糧輸送のこと、商業のことも絡んできて、なかなか難しい問題だと思われます。私が答えられるのはこの程度です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。 たしかに黄河と揚子江流域が逆転とは、言いすぎだったように思います。 多分、古代中国文明発祥の地は黄河流域、と世界史の時間に記憶させられたのに、実際、大都市として栄えているのは、揚子江流域ばっかり、との印象が強すぎるのかも知れません。

お礼日時:2004/07/15 15:28

チグリス・ユーフラテス河のメソポタミア文明


ナイル河のエジプト文明、など、
ユーラシアの古代文明は、
「乾燥した地域に河が流れている」
場所で、「麦作」に適した場所だと言えます。
そこに都市文明が生まれました。

中国で言えば、これは黄河流域です。

やがて、揚子江流域でも
効率の良い農法(稲作)が発明され、
中国南部でも都市が誕生しました。

今日でも、北部の中国人はこんな事を言います。
「南の人は、米が主食だが、
 犬でも猫でもハクビシンでも蛇でも
 何でも食べる。」
まるで、「飢えた野蛮人」のイメージです。

文明の担い手が
「麦作」の民族から「稲作」の民族へ、
とシフトした時代が「黄河」と「揚子江」
の逆転と言えるのではないでしょうか?

シフトした最大の原因(きっかけ)は契丹などの
北方からの遊牧民族の侵略、だと思いますが、
他にも色々と考えられるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

> 文明の担い手が「麦作」の民族から「稲作」の民族へ ・・・
> シフトした最大の原因(きっかけ)は契丹などの北方からの遊牧民族の侵略 ・・・

なるほど、可能性のある考察と感じられます。 ご教授ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/15 11:10

>揚子江から延々と運河を築き、水を回そうという案


「南水北調」のことですね。
http://www.spf.org/sjcff-j/nansui/

黄河の水ですが、1970年ごろから海まで届かない現象が起きるようになり、72年4月には断流日数は19日間、断流最長距離は、278kmも記録されてます。
私もいろいろ考えてみましたが、河川は上流の森林がなくなると急激に痩せますから、中下流域での穀物生産により森林が減少し、大量の水が汲み上げられたのも原因ではないでしょうか。
それに世界的規模で広がる温暖化による水不足。
かなり複雑な要因もありますし、ダム建設もそれに依って湖が出来、湖水より蒸発しますし・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。 黄河の、いわゆる断流に関する報道を見るたびに、そこには揚子江周辺のように発展を遂げた大都市もなく、何となく黄河流域全体が没落しているような印象を受けました。 黄河の砂漠化現象は、エネルギー確保のために森林の伐採が古代より大規模に行なわれたのが大きな原因であるとは私も思うのですが、では、揚子江流域では森林の伐採が行なわれなかったのか、と不思議に感じる時も正直あります。 なぜ黄河だけが? という感じですね。

お礼日時:2004/07/14 10:46

まずは、何を基準に「没落」「発展」というのか今ひとつ分かりません。



>古代中国文明は黄河流域で栄えた、と聞いています。

はい、紀元前4000年ごろ起こった黄河文明と呼ばれるものがそうですね。

>しかし今や黄河流域は砂漠化が進み、河口付近では水が一滴も流れない地域もあるようです。 

そうです、そんな話も聞きます。黄砂と呼ばれるものの被害もどんどん大きくなっていますからね。しかし、それがどんな原因でそうなったのかはよく分かりません。今世界各地で起こっている砂漠化現象の一つでしょうか。。

>また黄河には、揚子江流域の南京や上海のように大きく発展した都市もありません。

そうですか?
もちろん南京、上海に比べれば劣るかもしれませんが、大きな都市はいくつかあります。

私の考えですが、黄河流域の都市は主に歴史の舞台として名を残し、揚子江流域では工業都市として知られているため、どうも「発展」しているイメージがあるのかと思います。

また、水不足と、流域の発展とはあまり関係ないと思います。
今後は大きく影響を及ぼすかもしれませんが。。

>一体なぜ、歴史上いつの時点で、黄河と揚子江がこんなに逆転してしまったのでしょうか?

なので、「逆転」と言うわけではなく、新興の工業都市として知名度が上がったのかと思います。

>揚子江から延々と運河を築き、水を回そうという案が出ているとも聞いています。

隋の時代に、揚子江と黄河を結ぶ大運河が建設されたんですが、今も生きているのでしょうか。。?

>なぜ揚子江流域で古代文明が発祥しなかったのでしょうか?

古代文明は生まれていますが、ただ我々がそれについて習っていないため知らないだけです。

私も想像で書いている部分が多く、あまり明確なお答えにならずすみません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。 まず、揚子江の水を黄河に回そうというのは、数年前に当時の朱鎔基首相がこの構想をもっているとの記事を見た事がありますので、質問に入れさせて頂きました。

http://www.tibethouse.jp/news_release/2000/flood …

それと、私見を述べて恐縮なのですが、河の水量は結構、流域地域の発展に影響が大きいように感じています。 水量が多いと比較的大型の船舶による交通機能が発達しますので、人・物の往来が盛んになって街が栄える、という結論に導かれるような感じがしています。 古代より世界中の大河川周辺に文明が発祥したのは、灌漑設備による農業の発達以外にも、船舶による交通の発達、というのも大きな要素になるのではないかな、と思っております。

ただ、中国史に詳しくありませんので、たしかにお説のように、揚子江流域都市は新興工業都市として日本でも知名度が上がっただけかも知れません。 南京や上海が数千年前から発達していた都市かどうか、疑問に感じますものね。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/14 10:37

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Q揚子江から長江というようになったのはいつからですか

昔は中国一の大河は揚子江と習ったものでしたが、今は長江と習いますよね。中国では昔から長江と呼んでいたのでしょうか?
しかし揚子江は日本がつけた名称とは考えにくいのですが、なぜそう呼ばれていたか(支流の名称?方言?)そしていつ頃から長江に統一されたのか教えてください。
また、気象では今も揚子江気団といいますよね。近い将来は長江気団と呼ばれるようになるのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちわ(/は)。

>中国では昔から長江と呼んでいたのでしょうか?
日本人の言うところの「揚子江」は、中国では古代から「長江」chang2 jiang1:チャンジャンと呼称されています。
中国で「揚子江」と呼称する場合は、「長江」の下流域を指します。大雑把に言うとこの下流域とは上海のあたりのことです。
正確に言うと江蘇省の西部から、上海の東寄り(ず~っと内陸部)あたりまでの範囲。現在でも「長江」と「揚子江」は区分けして呼びます。

100年200年前に中国にも、キリスト教関係の伝道師が入ってきました。中国の澳の内陸部ではなくて沿海地区だけでした。そのときに土地の人から耳にしたのが「揚子江」です。yang2 zi3 jiang1:ヤンズージャンという音です。その後各外国にも「揚子江」という呼称が伝播していきました。日本にも伝わりました。最初に入ってきた名前が「揚子江」だったので、「長江」全流を「揚子江」と言うようになってしまいました。つまり誤用です。日本で、この河の全流を「長江」と呼称する様になったのは正しい方向ですね。

正確に言うと、「長江」と「揚子江」は全く違い意味です。「揚子江」は下流の一部分のみ。「長江」は全流を指します。

>気象では今も揚子江気団といいますよね。近い将来は長江気団と呼ばれるようになるのでしょうか?
気象学で言う、揚子江気団は上述の地域の上空の気象環境を指すので将来的にも変動はしないはずです。「長江」全域の気象環境をいう言語が仮に存在したとすれば長江気団と言うかもしれませんね。

いずれにしても、「長江」は6000KM全流を指し、「揚子江」は「長江」の下流の一部を指し、別の呼称です。中国でもはっきりと分けています。

以上です(^^♪。

こんにちわ(/は)。

>中国では昔から長江と呼んでいたのでしょうか?
日本人の言うところの「揚子江」は、中国では古代から「長江」chang2 jiang1:チャンジャンと呼称されています。
中国で「揚子江」と呼称する場合は、「長江」の下流域を指します。大雑把に言うとこの下流域とは上海のあたりのことです。
正確に言うと江蘇省の西部から、上海の東寄り(ず~っと内陸部)あたりまでの範囲。現在でも「長江」と「揚子江」は区分けして呼びます。

100年200年前に中国にも、キリスト教関係の伝道師が入...続きを読む


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