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1. 《甘え》の歴史をとおして。

2. エワは 光が陰の部分にも入り込んでいるのを見て 光も曲がると思っていたとこ
ろ或る日 夫アダムのつくった料理に対して なぜか遠慮してまづいのにおいしいわと言
ってしまった。

3. その以前では アダムもエワもそれぞれ互いのつくった料理に対して 遠慮なくお
いしいとか・まづいとかと思ったとおりを言っていた。甘えていた。

4. だが まづいものをまづいと言うのを遠慮することも 甘えではないか。勝手に自
分の考えで遠慮する。

5. ふたりは わが自由意志はその自由度がまさに縦横無尽に自由自在だと知った。光
も曲がるのだと。曲がり得るということは まっすぐに行くこともあるということだ。

6. 子どもたちの内 弟のアベルは 兄のカインから見て そのアマエについては遠慮
しないタイプであった。少しは遠慮せよと何かにつけカインは思っていた。

7. カインのつくった畑の野菜は 羊を放牧しその肉を食べるアベルにはまづい食べ物
だった。

8. 或る日カインは ついに頭に来て弟アベルをなぐり殺してしまった。

9. 甘え合戦の結果 ついにここにまで来てしまった。

10. かれらの子孫でアブラハムは まっすぐ行くのも曲がるのも同じ光だと思った。
遠慮のあるのも無いのも 同じ甘えだと。

11. その後さらにモーセは 人びとのあいだでこの《甘え》について共通の取り決め
をするのがよいと考えた。世の中の秩序のためである。

12. 《なんぢ ころすなかれ》と。そして遠慮するにせよ・しないにせよ《いつはる
なかれ》と。

13. 甘え合戦についての交通法規であり交通信号である。

14. 自由意志の自由な想像力の問題であるとも考えられる。《甘え》ということがで
ある。

15. のちにイエスという男は ふたつ言った。アブラハムの《同じひとつの光》はそ
の同じはらから(同胞)の内に閉じ籠るのではなく そうではなく 外に開くのだと。そ
うして モーセの交通信号を 人びとそれぞれの心根の中に植えつけた。

16. 世界の人びとよ。自由に互いにあまえたまえ。自己チューをつらぬきたまえと。

17. もっと自由に! もっともっと自由に! もっともっともっと自由に! と。

思いっきり自由なご見解をどうぞ。

A 回答 (2件)

ブラジュロンヌさんは、今は“甘え”という言葉で“心の根底”を表現しようとしてますが、示唆するところは心の根底に自他はない、あるいは共通のもの(同じである)という感覚を述べようとしているのではないでしょうか。



心のふるさとはみんな同じなのだと。

日本人に限って言えば大和の心であるとか。
もっとも、学がないのでそれが大和の心なのか、日本列島人の心なのか分かりませんが、こういった意味合いに注目されているんだと思います。

生みの親(両親)が一緒なもんだから心も共通。だからその共通性が“甘え”という感覚になるんだと。
そう表現したくなるんだと。
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この回答へのお礼

そうですね。まづはご回答をありがとうございます。

★ 示唆するところは心の根底に自他はない、あるいは共通
のもの(同じである)という感覚を述べようとしているので
はないでしょうか。
☆ そうですね。実際は いまぶっつけ本番なんです。

甘えが発動するというのは 心の根底が誰しもに共通である
からだと考えられますよね。

甘える(甘え合う)ことによって 心の根底を互いに同じく
するという順序ではないでしょうね。

共通感覚(センスス・コムニス)ということも言われます。
そのキッカケは たいてい甘えとして発動するのではないか
と思われます。

挨拶をするといった意識の以前に 甘えるといった感覚が発
動されるのではないかと推測します。

そしてそれは おそらく日本人のあいだで取り分け発達して
いるのではないでしょうか。

日常生活の中で違う言葉をしゃべる異民族と接している場合
には この甘えが発動する機会が少なくなって行ったという
ことも考えられますから。

まづ防衛のために相手を警戒するというようであったかも分
かりませんから。

これからの世界は 交流が頻繁になって来ているので 甘え
の発動も出て来るようになるのかもと。

甘えという言葉を持つことだけでも違って来ると思われます。
そういう将来が考えられるのではないかと。

お礼日時:2016/05/01 00:19

甘えの定義によります。


分業による助け合いを甘えというなら、その自覚化に
よって「社会への最大貢献」が「精神の最大充足」に
つながります。

自己チューな低認識に由来する即物的な欲望や、自己
顕示欲にとらわれた他人への依存としての「甘え」は、
社会にとって有害です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

自己顕示欲によるツッコミを入れてまいります。

★ 分業による助け合いを甘えというなら
☆ 自給自足の生活でないならば すべて社会は《分業=すなわち
総体として協業》として営まれていることは明らかではないか?

★ その自覚化によって「社会への最大貢献」が
☆ 一定の組織におけるそれではなく 社会的な分業=協業のこと
を《自覚していない》場合には 社会に貢献できないという含みが
ありますか?

一人ひとりの生活や人間性に配慮しつつ効率を上げることは 《分
業の自覚化》がなくても社会に貢献できるはずでしょう。

★ 「精神の最大充足」につながります。
☆ 精神の充足について一体どう測れば《最大・最小》などが分
かるのでしょう? つまり 一人のひとの主観における判断を超
えてと言いますか その人の主観の独り善がりなる限界を超えて
みんなが納得しうるかたちにおいての問題です。

充足は 精神的にしろ物質的にしろその人本人の了解によるしか
ないのでは?

★ 自己チューな低認識に由来する即物的な欲望や、
☆ では 《自己チューでない深い認識に由来する非即物的な意
志》にあっては 《おのれの満足からは自由な(これは そう
であってよい)・ただし即物的な=物質的な欲望やその充足》は
無いとでも言うのでしょうか?

おいしい料理を提供するレストランは 社会に貢献していないと
いう意味ですか? 高度な世界認識があるならよいとでも言うの
ですか?

★ 自己顕示欲にとらわれた他人への依存としての「甘え」は、
社会にとって有害です。
☆ (あ) このように相手に向けて自己表現をすることは《自
己顕示欲》ではないという意味ですか?

(い) それともこの質問者であるわたしの存在は 眼中にない
という意味ですか?

(う) 自己顕示欲は誰にもあるとみとめるがそれに《とらわれ
てはいない》場合があり その場合とを分けよという意味ですか?

(え) 《他人への依存》と《社会的分業=協業における相互依
存》とは どう違いますか?

(お) 分業の自覚には それが社会的な助け合いであることや
また《他人への相互依存としての甘え》でもあることについての
自覚がとうぜん含まれているのでは?

製品の品質や安全性は製造者にゆだねており甘えとなっているの
では?

お礼日時:2016/05/01 14:11

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