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映画『ハンナとその姉妹』の中で、生と死の問題に悩む主人公ウディ・アレンは、ニーチェの「永劫回帰」の思想を「なんだかテレビの再放送みたいでいただけない・・・」とこぼします。

ニーチェの永劫回帰の思想は、簡単に言えば、人は誰も永遠に同じ生を繰り返す、というものです。もちろんわたしたちにはその自覚はありません。けれどもそれを想像したとき、全く同じ人生を永遠に繰り返すことにあなたは堪えられるでしょうか?

ニーチェは、それに堪え得るのは「超人」である。といいました。

寸分もたがわない人生の永遠の繰り返しに対し、ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』の主人公の最期の言葉のように、「怖ろしい。怖ろしい」ということはあり得ないでしょうか?

もし、「わたしは超人でも何でもないが、それでもこの人生を寸分たがわずに永遠に繰り返すことに怖れは微塵もない。」と言えるとしたら、それは何故でしょう?

また、「あなたのように」答える人は多いと思いますか?

ひょっとして、「ディレクターズ・カット」を入れられるなら、と思ったりはしませんか?

永遠に繰り返される全く同じ人生にあなたは「イエス」と云いますか?



尚、ニーチェの「永劫回帰」の思想について、爾来様々な反論・批判がありますが、この質問の趣旨は、
「それでも人生に「イエス」」と言えるか、といった、甚だ非・哲学的、非・科学的なものです。

久しぶりの質問で、お礼に手間取るかもしれませんが、ご了承ください。

質問者からの補足コメント

  • >日常性のアンニュイについては ボードレールが書いていましたね。
    つまり その程度に《ルーティーン化の憂鬱》は捉えればよいのであって 《永劫回帰・超人》といった切り口をどうして持ち出すのか。ぜひ知りたいところなのです。

    人生には単に「日々の憂鬱」といったレベルに収まりきらない「苦悩」や「悲痛」があると思います。
    言い換えれば「ルーティーン」ではない、「日常の裂け目」に陥ること、そこでもがくこと・・・
    そのような、人生につきもののあれこれを考えた時に、それが「永遠」に繰り返されることに堪えうるか?耐えられるとしたらそれはどのような人であるのか?と考えることは、わたしにはさほど大仰な事とは思えないのです。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/21 13:31
  • ここではニーチェの思想を、自己の人生を吟味するという「装置」として使っていますが、
    本来ニーチェは何故、「超人」のみがこの永劫回帰を受け容れることが出来ると云ったのでしょう?
    その場合のニーチェの立ち位置はどのようなものだったのか?
    つまり、この永劫回帰の思想は、凡人では受け容れることが出来ないといった時のニーチェ自身は「受け容れられる人」=「超人」であったのか?「超人」のみが受け入れることが出来るというのは、逆に言えばそれほど苦しいこと、という前提につながるはずですが、「永劫回帰」が「苦しく怖ろしい」という「前提」を、彼はどのようにして得たのでしょうか?彼が「超人」であれば、そもそも「永劫回帰」が「怖ろしい」ものという意識自体がなかったのではないか?

    今回の質問とはズレますが、そんな疑問を抱きました。

    よろしければ今回の質問と並行して解説をいただけませんか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/22 00:42
  • >☆ その《目的》を遠くには掲げつつ いま悪魔とかかわりのある暴力に――その悪魔と手を結ぶことを辞さないで――取り組む。ということまでを言っているようなのでしょうか どうでしょうか。

    既に悪魔と手を携えている以上、この先為すべきことは、その手を振りほどくことでしかありえないでしょう。

    >《ノー!》と言う超人わざなのでしょうか。
    ということは 共同自治と見る政治における現実との兼ね合いに やはりなるのでしょうか。
    現実との兼ね合いについて説明しないと 人びとは納得しないと思います。

    わたしたちは、「意思の表明」と「判断」をするのみです。わたしは「ノー!」という、その声が大きければ、それに基づいて「現実的な政策」を作るのが政治家の仕事です。現状を変えてゆくことは「わたし」の「ミッション」ではなく「政治家たちのミッション」です。

    デンノッホ、ベルーフが、「独善」に陥らないことを願います。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/23 15:09
  • >(た) その上で沖縄人や拉致被害者の家族らは こうした権力の行使者としての国家について考えざるを得ない立ち場に立っているのだと思います。心情倫理だけでは埒が開かないと嫌と言うほど思
    い知らされて来ている。政治家と同じ視線に立つほどまなんで来ているかも知れません。

    それはそうかもしれません。多分いい加減政治家には任せておけないという気持ちでしょう。ですから政治家は「より良き結果」を出さなければ「無」なのです。

    「超人」の思想も「永劫回帰」と対になっているので、「永劫回帰」の面白みが理解できない以上、超人の意味も分かりづらい。

    ウェーバーのこの政治思想については、「政治は暴力を正当化する」というのは同語反復だし、
    「責任ある政治家」などは撞着語法で、これも「永劫回帰」同様いただけません(苦笑)

    再度のご回答をありがとうございます。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/24 00:40
  • 蛇足ですがわたしは(ハルさんでさえ夢想家と認めた)「9条保持者」ですし「徹底した丸腰主義者」です。しかしそれが「正しいから」そういっているのではない。おそらくこれも一つの「洗脳」の結果ではあるでしょう。しかしそれは自ら求めた「被洗脳」です。ぶらじゅろーぬさんも既にお気づきだろうと思いますが、ここではわたしはニャンポコリンさんやハルさんより遥かに「夢想家」ですよ―但し左翼嫌いの(苦笑)

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/24 15:21
  • ああわかった。
    No.14のルパンさんの「永劫回帰」「運命愛」

    >「運命」は、ただそれに対応しているだけならば、「運命」に対する奴隷です。
    でも、「運命」そのものが、「自由意志」であり、それが「虚無」から「必然」として捉えられれば、それが「力への意志」となり、「生」を肯定して生きていけると言う事を意味します。

    >「必然」であるためには、「根本確信」に基づく「自由意志」=「運命」を形作ると言う事です。

    これは9条の思想ですよ。憲法9条は究極のニヒリズムです。それを「運命」として「イエス」ということができるか?「運命愛」を持てるか?

    >それが「必然」であるような未来を生きれば、それは後悔を生まないと言う事です。
    「必然」であるためには、「根本確信」に基づく「自由意志」=「運命」を形作ると言う事です。

    ここで「運命愛」と「9条」が結びつきました。いかがですか?

      補足日時:2016/05/25 01:07
  • マルクスは「労働者は祖国を持たない。持たないものを彼から奪うことはできない」と言っています。
    わたしは日本に生まれた日本人ですが、それを「祖国」と言えるかといえば答は「ノー」のようです。

    仮に家族もろともの海外への移住が可能であるとしたら、そこでの生活がある程度保証されるとして、
    どれだけの日本人が外国へ逃げるでしょうか?また逃げられるのに逃げない人とは何者でしょう?
    正直、自分が外国に住めば、9条はどうでもいい、のかもしれません。

      補足日時:2016/05/27 03:21
  • いろいろなご意見をありがとうございました。
    迷いましたが今回のベストアンサーは、ウェーバーや坂口安吾などを引用して幅広く考える契機を与えてくれたぶらじゅろーぬさんにしたいと思います。

    ぶらじゅろーぬさんは、あまりBA率などに拘っていないように思えます。
    いろいろなところで自由に思うところを語っていらっしゃいます。

    また面白い質問を期待します。

    改めてみなさんにお礼を申し上げます。

      補足日時:2016/05/30 11:38

A 回答 (24件中1~10件)

《政治=共同自治→(または ←)われとしての自治》


・・・この問題についてです。

次の一事項について理解し得ました。:

★(№17お礼欄) 勿論断片的には理想の国、あるいは好ましい
法律などもありますが、基本的な心情として「人間であるというこ
との恥辱」というような感覚が根っこにあって、人間という存在に
何の希望も持っていないので、破壊そのものがゴールといってもい
いかもしれません。

☆ ということは・つまりこう理解できたということは ただちに
次の問いが発生していることを明らかにせねばなりません。

 ○ 《「人間であるということの恥辱」というような感覚》は 
   ご自分については どうであるのか?

これです。ここからは おそらく漠然と広い意味で言えば《実存文
学》が生まれる。その素地を語っておられるようだと。



もし次のように坂口安吾の《堕落論》に通じるものがあるとすれば
期せずしてニーチェの永劫回帰と超人の議論に舞い戻った感じにな
ります。勘違いかも分かりません。

▼ (坂口安吾:堕落論) ~~~~~~~~~~~
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620 …

人間。
戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体
をどう為しうるものでもない。

戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに
新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変り
はしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。

人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできな
いし、防ぐことによって人を救うことはできない。

人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な
近道はない。
 
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであ
り、生きているから堕ちるだけだ。

だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の
心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆
弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくために
は弱すぎる。

人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずには
いられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。

だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士
道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕
ちきることが必要なのだ。

そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を
堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。
政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

▽ (ヰキぺ:堕落論)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%95%E8%90%BD …
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 如何あい成りましょうか。
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この回答へのお礼

こんばんは。

「人間であることの恥辱」を他者、或いは大衆に感じるとき、正にそれは、「そのひとり」である自分をも含めることになります。自分は例外ということはありえません。

『人間であることの恥辱』という言葉は、ホロコーストの生存者である、イタリアの化学者ー思想家、プリーモ・レーヴィの言葉です。
この言葉は後にドゥルーズなどの考察にも影響を与えた言葉のようですが、レーヴィは人はここまで「非・人間的」になれるのかと感じたはずです、言い換えれば、人間、この非・人間的なもの、と。

一方安吾の「堕落論」「続・堕落論」は名古屋章の朗読で聴いたのですが、正直言ってよくわからなかった。
赤穂義士の話も出てきますが、この場合の堕落と、レーヴィの言う「人間であることの恥」の感覚とを、どのように重ねることが出来るのか。

「生きよ、堕ちよ!」と。
「人は生きている限り堕ちるもの」であることは認めますが、アウシュヴィッツの生還者であるプリーモにとって、

○『だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆
弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。』

このような言葉は説得力を持ちえないのではないか?
また同じホロコーストを生き延びた、ヴィクトール・フランクルは「それでも人生にイエスという」原題(Trotzdem Ja zum Leben sagen)
と言っていますが、戦後40年を経て、みずから命を絶ったプリーモ・レーヴィとは同じ境遇を生き延びたものでも、感受性も思想も異なっていたのでしょう。ホロコーストを経た後に、それでも「人生にイエス」を言ったフランクルと、最後に「ノー」といって幕を閉じたレーヴィ。
(レーヴィの場合は、単にホロコーストの追憶だけではなく、イスラエルによるパレスチナへの残虐行為を批判して、同胞であるユダヤ人から疎外され、非難された、という経験が更に大きかったのだと思います)

このようなことが頭にあるので、安吾の言う、「生きるために堕ちる」という言葉がよく理解できないのです。

>堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。

なるほどここだけ見ると確かに実存主義文学の萌芽のようにも思えますが、どのように交わるのか・・・

お礼日時:2016/05/27 01:48

ニーチェが 《超人》なるものを 実際・具体的にどういう発想


として得たかは知りませんが つぎのヘーゲルの《無限 ‐ 有限》
のあい矛盾せる成り立ちを参照すると分かりやすいかと思います。

いつも例に出すくだりですが。:
▲(ヘーゲル:法の哲学の講義録より) ~~~~~~~~

無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 
どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 
この矛盾を持ちこたえることができるのが 
人格(*――もしくは《わが実存ないしわが固有時》――)の高さ
である。

(『法の哲学』 §35追加 藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《無限なもの》とは ヘーゲルの《世界精神》であり カン
トの《物自体》のことであろうと思います。

つまり何のことはない。ふつうの人間イエスが そうであったと
見なされたところの《神の子でありみづからも神であるキリスト》
でもあるというその像 この《イエス ‐ キリスト》なるイメージ
が ニーチェ自身の発想や思わく如何にかかわらず 影を落とし
ているように見られます。

《世界精神 Weltgeist 》とは 宇宙霊のようなものですから・ゴ
ーストなら幽霊のようなものですから 宇宙の主宰神ブラフマン
と呼び得て その霊であるアートマンのことだと言っても 間違
いではないと思います。



問題は 哲学からすれば 
▲ 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾
☆ という《神キリスト ‐ 人間イエス》なる――想定上の――成
り立ちにある。と言わざるを得ません。

神と人とには 絶対の隔たりがある。というところだと思います。

もっとも 《絶対ないし無限》なら――やはり想定じょう――
その無限なる霊は 有限なるたましひを覆い包んでいると見られ
得ます。

無限と有限とは あたかもその互いの指先どうしが触れなんとし
ている状態にあると見られ得ます。

あるいは 神の聖霊は われらが身をも心をも あたかもニュー
トリノのようにやって来てつらぬいているかも分かりません。

ただしそのような成り立ちと有りさまの――もしそうだとしたら
その――《超人》に 人間がその能力と努力とによって成るとい
うふうにはならない。

人間の自由意志どころの話ではない。
つまり 《力への意志》と言っても とうてい及ぶものではない。
(及ぶというのなら 人は初めから神だとなります)。

そこで《恩恵》論が 持たれて来ます。
恩恵 ⇒ 信仰 ⇒ 自由意志。
うんぬん。うんぬん。
信仰は 非思考・非努力です。まして恩恵は 雲をつかむ話です。


この投稿は 筋として№17を承け継いでいます。
ドン引きされる内容でしょうが このスレッドにどうしても書き
込んでおきたいとは思いました。
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ご返答をありがとうございます。




★(№22お礼欄) わたしは「9条死守」の立場ではないと思い
始めています。
☆ これは まったく思想の自由にもとづき 落ち着くところに落
ち着くものでしょう。

《いつも検討中》というひとつの結論さえあり得るかとも思われま
す。




さて 《人でなし( sans coeur )》の発言をします。
★(№22お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
プリーモの「人間としての恥辱」という言葉は、実存そのものから
発せられた血を吐くような言葉であろうと思います。

彼はこれを「思想」として言ってはいない。死を潜り抜けてきた者
の、まさに実存の深奥から生み出された呻きにも似た言葉であろう
と思うのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ わたしなら《われはラッキーだったよ》というひと言で結論づ
けます。これも わが実存からの声です。


★ 繰り返し、安吾の「堕落」は堕落ではない。と。
☆ でも《堕ちぬくためには弱すぎた》場合のその行き着いた先は
社会の中でくすぶっていたというような状態だとすればそれは G
_Rさんの考えでは 決して《堕落》ではないとなります。

それについてそれでよいと思いますが 安吾の意味で《堕ちる道を
堕ち切った》場合というのは 収容所の所長になることであったり
ゲシュタポを率いたりする道であったと思われます。

それなりに《勲章もの》です。これ 堕落ですよね?




赤穂浪士の件については わたしに特に言うべきことがありません。

あの時代にして おそらく必ずしも《君への忠節》の問題ではなく
そのような倫理観が世の中に出回っているということ(クウキ)か
ら来る反応であったと思われます。

《功成り名遂げた》あとのことは 特に考えがありません。助命嘆
願も一法。だと ふつうに 思われます。


★ このように、わたしの中では、一般に「晴れがましいこと」
「人間として頂点を極めるようなこと」「誰からも褒められるよう
になること」こそが堕落であり
☆ 晴れがましいことは すがすがしければ よしと思います。

《人間として頂点を極める》というのは 具体的に一件づつ考える
ことになると思います。

《褒められる》というのは 主観の共同であるなら よろこばしい
ことと思います。




《永劫回帰》は 人生の節々でのちょっとした出来事があたかも繰
り返し起きるということでしたら それとして受け留めます。

それに対処するに 《超人となる》という志向は ちょっとまだ飛
躍があるように感じています。人間のままであってよいと考えます。
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この回答へのお礼

こんばんは。

まあわたしがひねくれものであるせいかもしれませんが、一般に「立派になること」=「堕落」と捉えるところがあります。
ですから特攻隊崩れが闇屋になるなんて別に堕落とは思わないし、娼婦になることも堕落ではない。
一方で、戦時中に収容所の所長になることはその時点においては「立派な事」と見做されるでしょうから「堕落」でしょう。

>さて 《人でなし( sans coeur )》の発言をします。
ぶらじゅろーぬさんとはいみがちがっているかもしれませんが、「人でなし」でいいんじゃないでしょうか?
立派である必要なんてないと思いますよ。日本人て「立派」が好きですね(苦笑)

最初の質問から相当離れて3人でぼそぼそ云ってる感じですが、いろいろ考えるところがあります。
9条についても、今では諦めの心境という感じも無きにしも非ず(苦笑)

継続的なご意見をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/28 00:12

お早うございます。



★(№21お礼欄) ~~~~~~~~~~~
このようなことが頭にあるので、安吾の言う、「生きるために堕ちる」
という言葉がよく理解できないのです。

 >堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなけれ
 ばならない。

なるほどここだけ見ると確かに実存主義文学の萌芽のようにも思えます
が、どのように交わるのか・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ナチス下のドイツ国民のあいだで――日本人が《堕ちる》場合とは
行動の形式がたぶん周りの人たちとのつながりなどをどう捉えていたか
で違ったのでしょうが―― 《堕ち切った》人もいれば《堕ち抜くため
には弱すぎた》人もいた。

《被害者》のことを棚上げにすれば こういうことになると考えます。




なお 実存思想にとっては 《9条ないし憲法》つまり規範は 人間・
人間性・生命・実存・生活に先行しません。

立憲主義の範をやぶっても 生存・生活を優先させます。つまり 堕ち
ます。
その上で 9条をその堕ち切った人間が利活用します。




《非・人間的なこと》をも合わせ飲むという立ち場です。


想像を絶する体験に遭った人たちに失礼を承知で言っていますが:
《「それでも人生にイエスという」》というふうに 《なお人間を肯定
し 人生をまじめに捉え 範となる人間とその生き方をつらぬくのだ》
という志向性は――議論としてはいつでもおこないますが―― わが実
存に先行しない。という立ち場です。



『人間であることの恥辱』という言葉は 動態ではないように感じます。

実存に対するに《本質》の議論であるように思われます。

あるいは 《われは堕ちない》と言っているように感じます。
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この回答へのお礼

こんにちは。

やはり安吾の言う「堕ちる」という状態がよくわからない。例えば堕落論では赤穂浪士の助命嘆願を拒んだのは、彼ら「義士」が生きながらえて「生き恥をさらすこと」を良しとしなかったと。これはわかります。

個人的な考えでは、例えば、「功成り名遂げて最後には受勲」というような形を、いちばんの「堕落」だと感じています。「貧窮のうちに孤独に死んだ」というような場合は、寧ろ「詩」であり、そこには「美」があります。わたしにとって「堕落」とは一見その表現とは正反対に、双六で言う「あがり」にまでたどり着いた状態。誰からも愛され、誰からも肯定せられ、誰からも言祝がれ・・・それこそが「堕落」です。永井荷風は、自分は一介の戯作者に過ぎないと自己韜晦していながら、最終的には目出度く「文化勲章」を受章して、昭和天皇、或いは「政治家」に深々と最敬礼をして勲章を押し頂だいた。これが「堕落」の姿です。であれば、乞食は堕落の形とは言えません。
女狂いも堕落ではない。酒浸りも堕落ではない。「功なり名遂げること」は、必ずしも本人の望んだことではないかもしれない。けれど、「国から褒章をいただくこと」は、「堕落」であると考えます。赤穂義士が生き延びて酒色に溺れたって、それはそれこそ「生きるために堕ちた」本来の姿です。

このように、わたしの中では、一般に「晴れがましいこと」「人間として頂点を極めるようなこと」「誰からも褒められるようになること」こそが堕落であり、安吾の言う「堕落」はわたしの中では堕落でもなんでもない。

補足にも書きましたが、わたしは「9条死守」の立場ではないと思い始めています。
第一に、9条は日本人には「過分の理想」であること。(おそらく人類にとっても)
「日本人」及び「人類」は、滅亡こそが最終的な形として望ましいと考えていること。
わたしは「たまたま日本に生まれただけ」という意識。つまり国の在り方で、命より大事とか、存在に先立つもの、は何一つ存在しないということ。いざとなれば逃げるだけ。

プリーモの「人間としての恥辱」という言葉は、実存そのものから発せられた血を吐くような言葉であろうと思います。
彼はこれを「思想」として言ってはいない。死を潜り抜けてきた者の、まさに実存の深奥から生み出された呻きにも似た言葉であろうと思うのです。

繰り返し、安吾の「堕落」は堕落ではない。と。

お礼日時:2016/05/27 12:40

お礼及び、補足ありがとうございます。


「自由意思」に関しては、きわめて哲学的な課題なので、あくまで、行動に先行する「自由意志」と言うものが存在するか、存在しないかと言う範囲に限って考えて、ニーチェ及びプロテスタントは、それらが存在しないと考えていると言うだけで良いと思います。(これ自体を思考しても、質問とは無関係でしょう)
なお、基本的には、「自由意志」の存在と、個人の意識や思想が存在するかは無関係と考えて良いでしょう。(突き詰めると、そこにも疑問点は生じますが、ニーチェはそこまで言及してないはずです)
「永劫回帰」に関しては、一種のシミュレーションと捉えて構わないでしょう。(ニーチェは何らかの思想の完成を考えていたようですが、完成にはいたっていなかったようです)
「運命」=「自由意思」→「運命愛」に関しては、ニーチェが17才の頃から温めていた思想と言えるので、それなりの「根本確信」に到達はしていたと思います。
少なくとも、ニーチェにとっては、これは「必然」でしょう。
日本国憲法9条を「根本確信」として、これを与えられた物ではなく、自分で獲得したものと捉えれば、それは「運命愛」と呼んでかまわないと思います。
ニーチェ的には、人間や「力への意志」が可塑的(柔軟性を持つ)な事から、その事による「行動」は、その状況に応じた行動=「運命」となると思います。
個人的な考えとしては、日本国憲法9条の精神は、不戦不敗だと思います。(何故ならば、日本国憲法は、日本国民の継続をその精神にもっているはずだからです)
どのようにして、「不戦不敗」を継続するかが、その課題になるでしょう。
大日本帝国は、開戦敗北してしまいました。
戦争なくして、その戦争による敗北はありえませんが、それが日本国の不敗を約束するものではありません。
不敗は、戦争の敗北だけでは無く、日本国が継続する事を条件付けるからです。
その為には、何が必要かを模索するのが大切だと思います。
中立も一つの方法ですが、これは一種、ニーチェの想定した「超人」を国家に展開した「超国家」と言う立場を取る必要があります。
「超国家」が持たなければならない条件を考えなければなりません。
国家が、その存続の為の個別自衛権を保持すべきなのは確かですが、集団的自衛権はそれを放棄する必要があります。(スイスはそれを実現しています)
スイスは、集団的自衛権に代わる、スイス銀行と言う自衛装置を持っているわけですが、日本がそれを持ちうるか、又はそれに代わるものがあるのかを模索する必要があるとは思います。
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この回答へのお礼

こんばんは。

日本国憲法である以上は、日本国民の安全を保障するものでなければいけない。今では既に9条では国は守れないという考えが圧倒的のように見えます。わたしはハルさんのところで、「9条死守」といいましたが、今ではそれにも自信がありません。それは9条の精神で国が守れるのか?というようなものではなく、9条の精神は日本人が、或いは人類が持つにはあまりに崇高に過ぎる理念だったのではないか?という疑問です。

ぶらじゅろーぬさんのお礼にも書きましたが、わたしは人間が嫌いですから、日本が(わたしもわたしの家族も含め)滅びようが、人類が滅亡しようが一向に構わないと考えています。
ただ、一つの「思想」「理念」として、それを高々と掲げ続けるには、9条というのは、特に日本人のように、「哲学」に馴染まないエモーショナルな民族には難しいのかもしれません。ここに於いて日本人は「運命愛」を9条に対して持ちえなかった=「超人」足り得なかったのでしょう。9条に対し「イエス」ということはできなかった。
しかし仮初にも軍隊を持てば、シビリアンコントロールが利かなくなることは火を見るよりも明らかなことのように思えます。

再度のご意見をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/27 02:35

ちょっと最後のところで飲み込み難い(中身がはっきりしない)


思想として おこたえをいただきました。

★(№18お礼欄) わたしはかなり過激派的思考の持ち主で
あろうと自覚しています(苦笑)
★ 極論を言えばわたしの思想は革命の思想です。つあり一義
的な仮想敵或いは実質的な敵は「我が国」です。 / 自国に対し
て暴力行為を辞せず。
☆ 分かりましたが・字面では分かりましたが 果てさてそう
すると どうなるのか? どういう思想になるのか? 

ですが たとえばその《自国を暴力で倒したあと どうするか》
が分からないのが いちばんの問題ですね。

フランス革命のように 恐怖政治を敷くのか。
ポル・ポトのような地獄を現出させるのか。

まづ 《紛争を軍事力によって解決することはしない》という
9条の精神とは 別だとはっきりしましたね。

アナーキズムのようにも感じますが 何とも分かりません。




★ 「正当化」されていることが「正当」であることにはなら
ないと思います。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 >☆ 《死刑》の制度について廃止なら廃止・存続なら存続
 できちんと理論立て根拠立てて自己表現しないなら 外野席
 からの野次に《矮小化される》と思います。

ではその既存の「理論」、或いは「反論」の正当性は何に因っ
て裏付けられるのでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~
☆ これも ひとつには 現状がともかく秩序のある社会の状
態であるなら 正当であると見なされているのだと思われます。

もうひとつに そのような現状肯定としての正当さに反対する
場合には あらたなよき判定基準を示して欲しい。ということ
になるかと思います。 


★ 暴力の正当性を言った思想が嘗てあったかどうかはしりま
せんし、復讐の連鎖ということも考えると、なかなか筋の通っ
た理論・体系にはなりえませんけれど、人間なんてそもそも理
論でも体系でもないし矛盾を孕んだものですから、と居直って
見せます。(苦笑)
☆ ですから ここまでを理解しましたが その先が分からな
い。

アナーキズム?
あるいは チェ・ゲバラが 似たような思想だったような?
(あまり詳しく知りません)。



正直言って これは ふたたび極北の思想であるように見えま
す。だから それに接したふつうの人は そういう究極の果て
までは行かずに済む。つまり そこで引き返すかと思うのです
が そういう社会的な役割りをになっているかに見える。

と同時に けっきょくそのような受け留め方が大半であって
―― いちど人びとはついて行くと言いましたが――この場合は
ついて行く人が きわめて限られる。のではないかとは思われ
ます。

さて どうあい成りますやら。
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この回答へのお礼

こんばんは。

質問からだいぶ離れてしまいましたが、これはこれでおもしろい話題だと感じています。

>字面では分かりましたが 果てさてそうすると どうなるのか? どういう思想になるのか? 
ですが たとえばその《自国を暴力で倒したあと どうするか》が分からないのが いちばんの問題ですね。
フランス革命のように 恐怖政治を敷くのか。ポル・ポトのような地獄を現出させるのか。

わたしは自分の思想を「革命の思想」といいましたが、これはどうやら誤りです。
「革命」というからには、「暴力」で「既存の政治体制」を転覆させた後に、新たな政治体制を形作らなければなりません。
言ってみれば「より良き国をつくる」ための「革命」であるはずです。

わたしはどうも「人間」というものが苦手で、まして大衆(マス)というのが嫌いです。ですから
>自国を暴力で倒したあと どうするか、
ということは考えもしません(苦笑)これでは革命の思想などではなく、単なるテロリストですね(苦笑)

勿論断片的には理想の国、あるいは好ましい法律などもありますが、基本的な心情として「人間であるということの恥辱」というような感覚が根っこにあって、人間という存在に何の希望も持っていないので、破壊そのものがゴールといってもいいかもしれません。

9条に拘るのもよく考えてみると、その思想が極めて「非・日本的」なもので、現在ほとんどの日本人から厄介者扱いされているところから、なんだか肩入れしたくなるのかも知れません。また9条はそのあまりに理想主義的なたたずまい故に、なにか「滅びの美学」のような趣を感じることもあります。つまり殉教の思想でしょうか。「滅びるものは滅びよ」というのがわたしの姿勢です。「日本人」「人類」なんて無理して残しておく価値などないということでしょうか。

極北もなにもテロリストの妄言に共感する人間なんているわけがありません。(苦笑)

仮に「よりよきこっか」を作るための暴力革命を認めるにやぶさかではない人でも、「その先」を放棄しているような思想(?)に共鳴する人はいないでしょう。

そもそも「テロルの思想」なるものがそんざいしうるのかどうか?

お礼日時:2016/05/25 23:50

ヱーバーの職業としての政治をめぐってです。



★(№13補足欄) ウェーバーのこの政治思想については、
「政治は暴力を正当化する」というのは同語反復だし、
「責任ある政治家」などは撞着語法で、これも「永劫回帰」
同様いただけません(苦笑)
☆ 《人殺し》は 市民政府としての政治(法律)によって
死刑にされますし あるいはこれまでにおいて戦争において
も――戦闘員に対する場合については――《正当化》されて
います。
そういう制度です。

法務省の長官は いやいやながらでも死刑を執行させて《責
任ある政治家》であろうとしています。

この《国家》という制度が よいか悪いかは また別の問題
です。あとで少し触れることになりました。


★(№14お礼欄) 情緒的な反応は全て「外野席からのヤ
ジ」に矮小化されるのであれば
☆ 《死刑》の制度について廃止なら廃止・存続なら存続で
きちんと理論立て根拠立てて自己表現しないなら 外野席か
らの野次に《矮小化される》と思います。

もっとも 国民情緒法のような法律があって前・元の大統領
を不正な蓄財などで弾劾したり 情報開示の問題で表現の自
由をもないがしろにするよう政府にはたらきかけたりして
これが通る国柄のところがあります。

また ルセフ大統領の弾劾裁判にまで《情緒的な反応》が持
ち込んだと言えるかも分かりません。

そういう事例から見ると
☆★ 政治はデファクト・スタンダードで、「早い者勝ち」
「言ったもの勝ち」
☆ である一面が見られるかと思います。






★ ~~~~~~~~~~~~~~
 >校内暴力は 自衛のためのやむを得ない行動であるか。
 >政治革命やテロリズムは 正当防衛に当たるか。

「それでも彼らは動かない」というゴヤの絵があって、大き
な石の壁が倒れ掛かっているのを数名の男が必死に支えてい
るという絵です。それらを反対側に転覆させる力がテロであ
り革命だろうと思います。
つまり「やむを得ないもの」という立場です。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは 哲学が深く問い求めなければならない主題であ
ると考えます。

国家の――権力の――正統性の問題だと思います。



その前に:
★ 丸腰は文字通りの丸腰です。
☆ という内容とは矛盾すると思いますが それは 計画的
な確信犯ではなく突発的な反対行動が《転覆》行為につなが
ったというような場合を想定していましょうか。

フランス革命が きっかけとしてそうであったかと捉えられ
る場合があるように。

(丸腰で校舎の窓ガラスを割るのは やむを得ないといった
ことが 細かく分析されましょうか)。







さて:
国王が そもそもその発端の歴史において権力を物理的なチ
カラで奪ったと見るのなら その権力をあらたに奪い また
過去の権力者の筋が奪い返すのも それらは《やむを得ない》
だけではなく 人間と社会のあり方からして不法ではないと
見なされ得るかも知れません。

人間はその社会形成についての個人の意志ないし権利を他者
にゆづることが出来るか? 

と問うてそれは―― 一件ごとの個人の意志を取り決めた上
でそれに限定して他の者に代理させることはあっても―― 
人の意志そのものないし権利そのものをゆだねる《代表》と
いう存在も制度もそれは そもそも不法行為である。という
答えがあり得ます。


問題は今度は やや技術的なことになります。
《不法行為》を阻み・また止めさせるに不法行為を用いても
よいか?

手段をえらばないという意志行為は 不法行為ではないのか?

たぶん不法行為になるのだと思います。緊急避難などの例外的
な事態を除いて。

人間の人間性そのものにかんがみてそういう判断がくだされる
のではないか。

なぜなら 《自由》ということが 論証抜きにみとめられてい
る公理であり これをないがしろにすることは出来ないと考え
られます。

自由を得るために 自由に悖る手段を採ってよいのか? にな
ると思われるからです。



そしてただ今は 国家という装置にその《例外》の場合をゆだ
ねている。負託された権力として《やむを得ず》みとめられた
暴力行為。


では その国家に対して反逆するのは 不法行為であり どん
な場合でもみとめられ得ないか?

となると 堂々巡りに落ち入ります。



フェイビアン主義というのがありました。マルクス関係から離
れて中立的な政治思想として捉えるなら どこまでも・いつま
でも民主的・平和的な手段ですすもうという行き方です。

つまり 特殊な例外をのぞいて 権力なるチカラに対するに同
じチカラの行使を《やむを得ない》とする考えをしりぞけてい
ます。

わたしは G_Rさんと違ってどちらかと言えば この中立フ
ェイビアン主義のほうに分があると思っています。

なぜなら やむを得ないと考えることによってだけでも 暴力
の《継承》が けっきょくその後にも止まらないと考えるから
です。

復讐論に似て来ます。仕返しを《やむを得ず》としてでも胸を
張ってみとめるなら 究極に煮詰めたかたちとしては 《9条
の精神》に反するのだと思っています。

どうでしょう。
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この回答へのお礼

こんにちは。

>☆ 《人殺し》は 市民政府としての政治(法律)によって死刑にされますし あるいはこれまでにおいて戦争において
も――戦闘員に対する場合については――《正当化》されています。

「正当化」されていることが「正当」であることにはならないと思います。

>☆ 《死刑》の制度について廃止なら廃止・存続なら存続できちんと理論立て根拠立てて自己表現しないなら 外野席か
らの野次に《矮小化される》と思います。

ではその既存の「理論」、或いは「反論」の正当性は何に因って裏付けられるのでしょうか?

丸腰であることは、絶対的非抵抗(非暴力)と同じではありません。憲法9条は外国からの攻撃に対しての軍隊を持たないと云っていますし、紛争の解決として武力を行使しないといっています。けれども、わたしの想定する「敵」は、まさにフランス革命がそうであったように、自国です。極論を言えばわたしの思想は革命の思想です。つあり一義的な仮想敵或いは実質的な敵は「我が国」です。
自国に対して暴力行為を辞せず。これが所謂リベラリスト=左派との決定的な違いです。

>《不法行為》を阻み・また止めさせるに不法行為を用いてもよいか?
手段をえらばないという意志行為は 不法行為ではないのか?

これは一般論としては答えることはできません。あくまで「ケースごとの判断」に依るということです。

>ではその国家に対して反逆するのは不法行為でありどんな場合でもみとめられ得ないか?

そんなことはないという立場です。下から上への、小さきものから大いなるものへの、低きから高みへの、弱者から強者への「暴力」に「イエス」といいます。

上記の抵抗の姿が、仮に9条の精神に反するのならそれもやむを得ません。

これはなかなかおもしろい問題提起だと思います。わたしはかなり過激派的思考の持ち主であろうと自覚しています(苦笑)
暴力の正当性を言った思想が嘗てあったかどうかはしりませんし、復讐の連鎖ということも考えると、なかなか筋の通った理論・体系にはなりえませんけれど、人間なんてそもそも理論でも体系でもないし矛盾を孕んだものですから、と居直って見せます。(苦笑)

お礼日時:2016/05/25 15:12

ニーチェの方面についてです。



1. 自由意志は ウソ・イツハリ・さらにはアザムキをも成し得る
自由度を持つ選択・判断・そして実行のチカラだと思います。

2. 食べるなと言われた(つまりは 自由にそうするとヤマシサ反
応が出る・良心が痛むところの)木から採って食べた。《善と悪とを
知る木》だと書かれている。

3. このエワとアダムとの経験が:
★(№14お礼欄) 永遠に繰り返される「再放送」の第一回目
☆ だと思います。生全体の一面であるとしても。

4. ただこの自由意志も 特に神学では《恩恵》のチカラに押され
て――りゅぱん344さんも論じておられるように―― 二の次に位
置づけられていたらしい。

5. 恩恵⇒信仰⇒自由意志 の順序でとうとばれる。もっとも・た
だし アウグスティヌスによれば 《恩恵はかえって自由意志を建て
る》とも言います。神は人間のためにあり人間に席をゆづる(?)。

6. マキャヴェッリが次のように述べたとき・つまり:
▼(ヰキぺ:ニッコロ・マキャヴェッリ:ヴィルトゥ) ~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83 …
§ 1 生涯
マキャヴェッリの理論は 「フォルトゥーナ」(Fortuna, 運命)と
「ヴィルトゥ」(Virtù, 技量)という概念を用い、 君主にはフォル
トゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要であると述べた。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ とき 《ヴィルトゥ》は徳であったり力であったりしますから
運命にさからいこれを切り返す自由意志であると見られたのだと聞い
ています。

7. その以前に――1500年前後になりますが――ルネサンス人
のピコによっては 次のような新しい見方が提出されたとも。
▲(ピコ・デッラ・ミランドラ:arbitrium(判断・自由意志(?))) 
《汝(=アダム)はいかなる制約によっても抑制されないで わたし
(=神)が汝をその手中においた自由意志にしたがって自己を決定す
るのだ。

わたしは世界の真中に汝をおいた。それは世界の中にあるすべてのも
のをそこからいっそう容易に考察するためである。

わたしは汝を天のものとも地のものとも 死すべきものとも 不死な
るものとも造らなかった。それは汝が自由で名誉ある造り主また形成
者のように 自分が選んだどのような形にでも汝自身を造りだすため
である。汝は堕ちて獣の世界である低次のものとなることも 神的な
ものである高次のものに自分の心の判断により再生されることもでき
る》。
(『人間の尊厳についての演説』――金子晴勇よりの孫引き)
△ Oration on the Dignity of Man
https://ebooks.adelaide.edu.au/p/pico_della_mira …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8. 《必然》は 各人の自由意志による行為が社会的に寄り集まり
影響し合って出来ているものと思われますが 意志自由とは別だと考
えます。

9. 《偶然と呼ばれ得る場合を含む広義の必然》をわれわれ人間が
ただ後追いするしかないような状態は 《運命》と呼ばれる。けれど
も その運命じたいには従うことを余儀なくされるとしても 別のも
のごとについて自由意志を発揮することができる。

10. 主権者である市民ないしその市民社会ないしその共同自治の
単位体であるムラ(市町村)が 互いに武装し戦争を起こすとは こ
れからの世界にあって考えづらい。有り難いことにそうであるとすれ
ば 《運命愛》から離れて《9条の精神》を活かすことが出来るかも
知れない。
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おこたえをありがとうございます。



★(№15お礼欄) 監督の仕事は大体の方向性を示すだけで、
実際に演技するのは俳優たちです。
☆ もちろんその場合は すでに脚本が出来上がっています。

だとすれば 代案を出さないかぎり 既成の法律あるいはその
いま提出されている法案でよいと G_Rさんご自身が言った
ことになります。

★ 医者が技術の未熟さや判断ミスによって患者を死なせた場
合、患者の遺族は彼らに知識や技術がないので、医師には抗議
できないということなのでしょうか。
☆ その場合にはしかるべき第三者の判定があります。

★ 国民或いは市民は、政治家の創りだした法案や決定に対し、
「代替案を提示しなければ」反対は許されないということなら、
☆ 《許されない》というのではなく そういう場合は《受け
身の抵抗になる》と言っています。

言いかえると 法案や決定じたいには賛成しており あとはそ
の執行の仕方についてうまくやれと言っていることになります。

★ それは政治家にとってとても都合のいい理屈ですね。
☆ いえ。民主制の約束事ですよ。

★ 何故って、政治家は法案を作り上げるためにあるシステム
の中にいて、そのために全ての時間を使い、給料をもらい、ブ
レーンがいて、各省庁の官僚がいる。
☆ 条文づくりの細かいことは 専門家(議員や官僚)に任せ
るべく 方向性を示した具体案を提出すればよいはずです。


★ また「心情」を何故そこまで排除したがるのかも理解でき
ません。
☆ いえ。心情倫理だけでは 外野席からの野次に成りがちで
あると言っています。
(あるいは 心情倫理だけを自己表現しているという思想家の
場合などであるなら それとしてあります)。

★ 理性は常に直感に勝るという考えであるなら、それは単に
見解の相違です。
☆ 責任倫理をともなう考えや行動を採る場合にも 《直感と
理性》が両方とも必要であり有益だと思います。

★ わたしは現在の自公政権を全く認めていませんし、ひとり
ひとりの国民が「反対の度に対案を示す」必要も感じていませ
ん。
☆ そういった外野席からの野次でも その声が大きくなれば
政権の動向を動かす力を持つかも知れません。
心情倫理が そこまでの影響力を帯びることがあるかも分かり
ません。

★ 尚、暴力の行使を認められるのは「政治家」ではなく寧ろ
「被支配者」の側=国民という立場です。
☆ 死刑〔という・法律にもとづき相手の意志を踏みにじる強
制行為〕の執行を決めるのは 行政府の者です。政治家です。

国民は 犯罪による被害をこうむってもそれに対して私的な報
復(それは一般に暴力にあたります)をすることはゆるされて
いません。

相手のであれ自分のであれ 人の意志を勝手に踏みにじること
は――つまり 暴力行為は―― 認められません。

例外は ちょうど人肉食の設問があったように緊急避難の場合
などだけです。よ。

校内暴力は 自衛のためのやむを得ない行動であるか。
政治革命やテロリズムは 正当防衛に当たるか。
どうなんでしょう。



★ 蛇足ですがわたしは(ハルさんでさえ夢想家と認めた)
「9条保持者」ですし「徹底した丸腰主義者」です。
☆ それはまったく良心や思想の自由の問題だと思います。

《夢想家》が 首相をつとめても何ら問題はありません。
ただしその場合には 心情倫理を内に秘めつつおもに責任倫理
で考え――法律にもとづく――行動をとるものと思っています。

首相の立ち場だと こちらを立てればあっちが立たずといった
利害関係などの対立に遭遇します。
全体を見渡さねばなりません。そういうふうに振る舞うことに
なるものと思っています。

《丸腰》というのが スイスなどの国民皆兵の制度をも敷かな
いものだとちょっと――現状では――まづいでしょうが 国民
がそれでよしと思ったなら そういう政策を敷くことになるで
しょうし みながついて行きますよ。

わたしは つとめて民主制の基礎を――与党派も野党派もその
ほか派も――みなが守ろうと言おうとしているだけです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>★ 国民或いは市民は、政治家の創りだした法案や決定に対し、「代替案を提示しなければ」反対は許されないということなら、
☆ 《許されない》というのではなく そういう場合は《受け身の抵抗になる》と言っています。

>言いかえると 法案や決定じたいには賛成しており あとはその執行の仕方についてうまくやれと言っていることになります。

それでは結局「代案を出さない限りは」反対は不可能ということではないでしょうか?わたしは方法云々ではなく、法案自体に「ノー」を言っています。さらに言えば個々の政策以前に政権自体にノーを言っています。それを受け身の抵抗と呼ぶのは自由ですが、
以前ぶらじゅろーぬさん自身が言われたように、政治はデファクト・スタンダードで、「早い者勝ち」「言ったもの勝ち」で、先に出した法案に対し反対をすると「代案を出せ」とネットで嘯いている連中だって、結局は既存の権威の尻馬に乗っかっているだけ。つまりそれでは本当の民主主義とは言えないということです。

またわたしは件のウェーバーの「感情」と「理性」を無理やり対立構図に仕立て上げるやり方を採りません。
引用された部分だけを取ると、情緒的な反応は全て「外野席からのヤジ」に矮小化されるのであれば、それこそ、「勝ったもの勝ち」そのもので、「勝ったもの勝ち」をそのままにしないのが民主主義、言い換えれば非・独裁政治ではないでしょうか。

>校内暴力は 自衛のためのやむを得ない行動であるか。
政治革命やテロリズムは 正当防衛に当たるか。

「それでも彼らは動かない」というゴヤの絵があって、大きな石の壁が倒れ掛かっているのを数名の男が必死に支えているという絵です。それらを反対側に転覆させる力がテロであり革命だろうと思います。
つまり「やむを得ないもの」という立場です。

丸腰は文字通りの丸腰です。わたしは9条に洗脳されていますし、それでいいと思っています。

お礼日時:2016/05/25 01:20

おこたえをありがとうございます。



★(№13補足欄) 「超人」の思想も「永劫回帰」と対になって
いるので、「永劫回帰」の面白みが理解できない以上、超人の意味
も分かりづらい。
☆ №14にりゅぱん344さんが再再度説明されていますが わ
たしにはよく飲み込めません。つまり 上のようにおっしゃったこ
とが わたしにもいまの結論です。

ということは 沖縄の暴行殺人事件が 永劫回帰の問題にぴったり
当てはまるということでない限りで このいまの問い求めは どう
も別の問題になるようです。

それでもコメントをつづけてよいとすれば かんたんに次のように
考えます。

★(№13お礼欄) ~~~~~~~~~~
 ☆(せ) 〔悪魔と結託したかのように犠牲の死を出さざるを得
 ないことが多い暴力装置を内在させた国家という社会形態につい
 てその為政者がその悪魔と結んだ手を振りほどくことは〕 時期
 尚早と言うよりは その手立て・それの実現のための思想とプロ
 セスを必要としているのではないでしょうか。全世界が。

これはその通りだろうと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ぢゃあ おおむねいま現在の政策で当面すすむということにな
ると思います。

現行政権に対する《ノー!》の声は まだ小さいと見られるからで
す。

あと言わずもがなですが:
★ 沖縄の問題に関していえば、「ノー」という。これは「受け身
での抵抗」ではなく「主体的な(抵抗という)選択」です。
☆ 政策の対案のない《心情倫理》でのノー!は 受け身の――つ
まり受動的であってもその反応をおこなうこと自体は《主体的》な
ものでありかつ自由ですが 総じて言って受け身の――抵抗だと思
います。
★ 多分いい加減政治家には任せておけないという気持ちでしょう。
☆ という心情倫理からの受け身の抵抗であると思われます。

非暴力・有抵抗の方針は 英国からの独立という目的をかかげてい
ましたので 《主体的な行動》です。

なぜならさらに飛躍して 国連本部の広場に《イザヤの壁》として
つくられているように《戦争という選択肢からの自由》を目的とす
るのは 人類に共通でありいまの自公政権にしても同じであると思
われるからです。

▲ (イザヤ書 2:4) ~~~~
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
~~~~~~~~~~~~~~~~

ですからいまの政権は 《さらになお考え続けるが このいまの段
階では このように考えこのように政策を施行しています》と答え
るしかないと考えられます。

小笠原諸島は 島民より数の多いよその漁船員が島に上がって襲っ
て来たらという恐怖に遭っています。それに答えない《ノー!》の
声は 心情倫理だけの受け身の抵抗だと思います。

もちろん心情倫理から イザヤ書の一節の思想も生まれたのです。

ヱーバーは 責任倫理と両方合わせたものが必要だと言っていまし
た。
「永遠に続く人生の再放送・・・」の回答画像15
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんにちは。

よく聞く話ですが、政策に反対する場合には「じゃあ対案を出せ!」ということになっているようですが、政策を立案するのは政治家の務めであって、わたしの務めではありません。監督が役者に駄目だしをする。監督の仕事は大体の方向性を示すだけで、実際に演技するのは俳優たちです。

医者が技術の未熟さや判断ミスによって患者を死なせた場合、患者の遺族は彼らに知識や技術がないので、医師には抗議できないということなのでしょうか。

国民或いは市民は、政治家の創りだした法案や決定に対し、「代替案を提示しなければ」反対は許されないということなら、それは政治家にとってとても都合のいい理屈ですね。何故って、政治家は法案を作り上げるためにあるシステムの中にいて、そのために全ての時間を使い、給料をもらい、ブレーンがいて、各省庁の官僚がいる。

また「心情」を何故そこまで排除したがるのかも理解できません。理性は常に直感に勝るという考えであるなら、それは単に見解の相違です。

わたしは現在の自公政権を全く認めていませんし、ひとりひとりの国民が「反対の度に対案を示す」必要も感じていません。

尚、暴力の行使を認められるのは「政治家」ではなく寧ろ「被支配者」の側=国民という立場です。

お礼日時:2016/05/24 15:04

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