A 回答 (237件中191~200件)

人を殺せば殺人罪で犯罪の中では非常に重いですね。


でも、罪が問われない場合もあります。正当防衛と緊急避難です。
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「人を殺してはいけません」というのは実は現実のルールではありません。

本当の定義は「人を殺そうとしない人を殺してはいけません」です。
なぜこのようなルールが成立したかといえば、もちろん自分自身が生存を続けるためです。
人を殺すか殺さないかという問題の戦略としては、三通りあります。「人を殺す」「人を殺さない」「人を殺す人だけ殺す」です。一つめの戦略をタカ派戦略、二つめの戦略をハト派戦略といいます。ゲーム理論によれば、ハト派とタカ派の両方を取り入れた、三つめの戦略が最も生存に有効であることがあきらかになっています。
ですから、これまで遺伝子競争で勝ち抜いてきた我々自身も多くが三つめの戦略を取っています。そして、社会構造がこのような構造になっているのです。
正当防衛や死刑、戦争など、殺人が正当化されうるのは、すべてこの戦略があるからです。
子供には「人を殺す者は世界の敵になる。そしていつか誰かに殺される」ということを教えてあげましょう。
それが現実社会のルールです。
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っていうか、人を殺していい理由が私にはわかりません。


誰にも他人の死ぬ原因と時を決める権利ないと思います。
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人気だね。

43の回答を持ってる。だから、僕も回答しようと決意しました。

難しい問題だ。実際に人を殺してみるわけにいかないしねぇ。
でも、想像してみることはできる。悪い夢にでてきそうだけどさ。

(こっからは想像。)なんかの間違いで人を殺してしまった。
酔っ払って口論したとか、別れ話がもつれて慰謝料を請求されて、カーッとなってとかさ。色々ある。でも、きっとあっけなく人は死んでしまうんだろうね。あっという間にさ。

まぁ、現行の法律が、なかったとしてよ。人殺しはやむをえないという法律があったとして。そしたら、一通りの検死が行われて、理由を警察に言って、警察もまぁ、そういう理由なら、そうなったのも仕方がないかってことになって。いざ、お葬式だよ。まぁ、一応、関係があるから、自分も出なきゃぁいけない。殺された方の親類に白い目で見られながら。一応お焼香を済ませて。

式次第によっちゃぁ、父親が、親戚を代表してって一言言うでしょう。日本のしきたりじゃぁ、ありうることだ。

『死因は、事故でした。』言う。父親がよ。まさか、あいつの手で殺された。なんて言えないからさぁ。そのとき、殺しちゃった自分はどう考えるかだ。
殺しちゃった人間は、最悪な人間だったのは、今でも知ってる。殺人に後悔してない。でもよ。。。

その親類たちが、出棺の前にくぎ打つときに殺された人の名前を叫んで、泣き叫んだ姿見たら居たたまれないと思うよ。もしかして、自分が殺されても、泣いてくれる人がいると思うもん。親とか兄弟とか、ね。いるでしょう普通。
その辺の人たちのためにも、人は、やっぱり殺しちゃぁいけないし、殺されちゃあいけないんだよ。生まれたとき、まったく全員に憎まれて生まれてくる人なんていないだろうしね。少なくとも、両親や、じいちゃんばぁちゃんは、喜んでくれただろうしね。それを信じて、生きていこうよ。
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誰もが生きているからだと思います。


自分を殺せるだけの勇気がないと人を殺してはいけないのでしょう。
法律や規則を全部捨てても駄目だと思います。
相手にも自分と同じだけ悲しむ人がいると思えば殺すことなんて出来ません。

そう、常に私は考えるようにしています。弱い考えなのかもしれませんが。
…殺してやりたい人は世の中に沢山いますけどね。
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命が大切だからです。



ただし、生命の価値は絶対ではありません。
 (日本は死刑という合法的殺人を認めています)
  蛇足ながら、いま「殺してもいい理由」という原稿を書いています。 

神のような超越的存在を前提しないかぎり、あらゆる主張は絶対性をもつことができません。

そして、命が一番大事って、つまらない人生ですね。それは敗北を運命づけられた人生です。最後には必ず失うのですから。

でも、生命が特別であることも否定できません。絶対でも最高でもなくても特別なんです。それは、他のあらゆる価値を享受する前提になるからです。命よりも大事なもののために、ただ一度だけ使うことのできる切り札だからです。

絶対の正しさがない中で、それでもなお正しさを追求する。そういうのがわたしの研究テーマです。
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小学生の知性を馬鹿にしてないか?


小学生は知識が少なくて世界が狭いだけで考察力はあるのだぞ?

これは私のことだが、いじめらっれっこだった私は小学校3年生にして、自殺をしようかと思った人間だ。
その時ストッパーになったのが「親が悲しむから」だったな。
同時に相手を「殺してやりたい」とも思った。
その時のストッパーが「自分が不利になる」という考察だ。
倫理とかそれ以前の損得勘定の問題だな。

他の回答者が言っているのは「なぜ不利になるのか」「人間はなぜ人殺しを非難するようになったのか」である。

私がそれを考察したのは……やっぱり、同時期だったように思う。
進化論から来る考察はもっと後になってからだが、「人を殺すのを承認したら恨みが恨みを呼んで収拾つかないな」くらいには考えていたな。

まあ、小学生でもこれくらい考えれると言うことだ。
私が特殊だとは思わないがどうだろうか?

今なら進化論の立場から延々と語れるが最近この手の質問に回答しまくったからなぁ……。
ま、一言で言うと本能だ。

以上!
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それは反則やん!レッドカードって感じなこと、あなたが些細な日常を費やすなら、それをやるとそのステージにいることはできません。


そのセリフを言ったあなたは、先のステージにいます。

 見れば分かりますが、漫画の世界もホントはアップアップの日常です。楽しむのも楽じゃないです。
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「現在私達は、社会に対して、閉塞感・時には絶望感まで感じることがあると思いますし、何とかして、今の状況から脱却しなければならない。



↑はい、異論はありません。

「自分たちのこと、日本人の民族性、アイデンティティのようなものをもっとよく知らなければいけません。」
↑そうおもいます。
しかしながら、「自分たち」だけでは不十分だと思います。
お話の中で出てくる「比較」とても大切だと思います。
「自分たち」でものを考えると棚に上げてしまいがちです。
「自分たちと」「自分」を比較して「自分たち」の考えをする「自分」は
なぜ、そう結論付けるかを「自分に問い直す」ことをしなくてはならないようにおもいます。ある意味、自己批判です。
自己批判、とてもつらい作業です。事実を事実と見つめ認めなければなりません。
得てして、倫理や道徳規範へ理由付けて逃げたくなります。
しかし、そうしてしまうと単なる理想、まやかしで自分を納得させて思考停止です。今以上の改善は望めないように思います。
自己批判したうえで、出た答えが、自己批判するまえの答えと同じなら
それはそれでよいようにおもいます。
なぜ、そうするのかという自覚的な意識があるからです。
逆に無自覚的になされる行為は、ときに誤った選択に走りやすい。
自己と他者を比較しても大きな違いはないとわたしは考えています。
ひとつ違いをあげるとすれぱ、事実を事実として認められるか認められないかだと考えます。
繰り返しになりますが、自己と他者にくぎりをもたすことよりも
まず、個である自分はどうするかを考えることが第一かと思います。
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えっと、再度登場です。


言わなくてはならないことがあったもので。

殺してはいけない、というのが基本姿勢で、それをどう論拠付けるかが問題なわけですよね。

人を殺すということに、罪の意識というものがあるならば、殺人はやめた方がいい。つまり、いついつまでも罪の意識に苛まれるから。それが人間として生きていく上で重荷になるから。
人を殺すということに、罪の意識というものがないならば、その人は感情をコントロールできなくなる。そうすると人間として生きていくことが危うくなるから。

これでも結構考えたつもりなんですが、小学生には難しいかなあ。
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