A 回答 (237件中211~220件)

自分なりに考えてみると2つの答えが思い浮かびます。


1つめは「人が死ぬとそれを悲しむ人が必ずいる。だから、人を殺してはいけません。」ということです。
もう1つは「自分が殺されないために。だから、人を殺してはいけません。」ということです。
いかがでしょうか。この問題はかなり難しいと思います。答えがわかれば殺人なんて起こらないでしょうし。ただ人を殺すにはそれなりの理由があるんですよね。だから大坂教育大付属池田小学校の事件なんかは腹立たしく思います。
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この回答へのお礼

>人が死ぬとそれを悲しむ人が必ずいる。だから、人を殺してはいけません。

それもあるかと思いました。しかし、実際にそういう状況になった時にそこまで
考えた上で自分を抑えるのかと思うとやはりそうではない気がしました。
反射神経のように殺人を回避していると思います。
そして、その反射はルールによって統括されているのではないのでしょうか。

>自分が殺されないために。だから、人を殺してはいけません。

これは後づけで考えた理論であるという結論に達しました。
前にも書いたのですが、人を殺してはいけないと初めて思うのは子供のころです。
その時にはこのような考えを思いつくほど僕は頭よく無かったです(笑)

お礼日時:2001/06/24 00:33

 お子さんには、是非



・人に迷惑をかけない
・周りの人を思いやる
・人に親切にしたら自分も親切にしてもらえる

という事を教えてあげて下さい。
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この回答へのお礼

そうですね。この3つのことは僕も大切だと思いますし、実践しているつもりです。子供にも是非伝えていきたいです。(といっても実際伝えられるのは15年後ぐらいでしょうが、、、)

お礼日時:2001/06/24 00:22

この質問への回答を見ただけでいえることがあります。


基準を何に置くかでものの善し悪しがこれほどみごとに違う・…

>自分の周りの環境がそのルールを作り享受させているのだと考えられます。
>倫理的環境が崩れてしまっていることを表しているからではないでしょうか。

道徳や倫理を基準に考えて善悪二元論的に認識し語るのは、大人の都合よさからこどもにマインドコントロ-ルを施しているようにも思える。個人が自分の意見として語ってもさほど力をもたないことでも、道徳・倫理を頭に掲げこれがル-ルだと言えば、マインドコントロ-ルされてきた子供ならおそらく疑いもなくきくことであろう。なにやら、道徳・倫理ってのは水戸黄門の印籠のようにも思えてくる。ちょっと、へそまがりな私?(へそまがってないよ~ん。)のちょっとした経験でふと思ったんだが…ル-ルですと言う人、あなたはル-ルを守らないのか?と言う人そのあとに必ず道徳や倫理と言う言葉を持ち出す。このサイトとの中で何度かその言葉をもらったことか…個人的に「こいつのこと面白くない、気にくわない」とおもっていてもあからさまにいえないときなんか道徳や倫理と言う言葉を上手く持ち出して善悪で判断しようとする。個人的主観だと自分の言葉の信頼性にかけるが道徳規範は、一応社会的規範に共有されているから自己の正当性をこれに裏付けを求める。倫理環境が崩れてきているとするなら、おそらく道徳や倫理を説く者の勝手さがそうさしているのではなかろうか?言い換えれば、道徳や倫理を二元論的認識でしか考えないところそういった判断基準に固守しているあたりから考え直す余地有りなのではないかしら~?先の回答者sokuraさんがおっしゃるように事実を伝えることが第一だと、そのことを認識したうえで個々がみずから答えをみつける。大人の考えをただ押し付けのように子供の意識に刷り込むことはかえって、道徳や倫理の崩壊につながるように思います。こどもに教えながら大人も考えるいいチャンス。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
 「ルール」「倫理的環境」ですが僕はどちらも誰かが意図的につくった物ではなくて、無意識的に、自然に出来上がったものという認識をもっています。ゆえに僕は、現在の道徳・倫理の崩壊は、単なる意識の乱れではなく、もっと人間の本質的な部分での崩壊が起こっているのではないか、という風に思っています。
 他人に何か教える時に、それを伝えることができるのは、強制力と論理性です。社会全体として父性が弱くなり、強制力も弱くなってしまっている今、他人を納得させうるものは論理性しかありません。その意味でも新しい倫理観を論理的に創らなければならない時期なのかもしれませんね。

お礼日時:2001/06/22 10:10

ただの社会の洗脳と人の損得勘定だと思います。



学校に行かなくてはいけないと思い込まされてるのと同じ
社会というもので生きていくなら学校に行かなければ仕事が少ない
行かなくても絶対ないわけでない
どっちが楽に生きられるか
殺人をとめたほうが良いか とめないほうが良いか
そんなものだと思います。

日本などの裕福な国の食料の独占により
貧しい国では飢餓で死ぬ人がいます(総穀物量は十二分に人を養えるのに)
それは,殺人 社会のなんとなくのつくった
気付かなければ何をしてもいい社会

自分が気付かなくても知らなければ気持ち良い社会
自分の損得勘定レベルのもの
気持ちいか悪いか 

自分がどう思うかどうかが大事
私は、
殺していいかだったらどうでもいい事だと思ってます。
人生の死の理由がつくだけ
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何に対しても疑問を持つことは大事な事だと思います。


私はget-miyakoさんの回答が当を得ていると思います。
私は難しいことはわかりませんが此の世に生きている全ての生物には種の保存の本能があります。だから同じ種の間で殺し合うことはしませんが、しかし同じ種の中で優秀な種のみが子孫を残す仕掛けがありますが人間には感情と言うものがあつて、その仕掛けがありません。
見当違いかも知れませんが、その変わりに人を殺す行為が生まれてくるものと思います。そのような行為を見逃しておくと克己努力して財貨を蓄えた人を何の努力もしない人が殺して財貨を自分の物にしてしまうと誰も努力はしません。しかし人間が生きていく為には衣食住が必要なので健康な間は奴隷として使い、もし人間の肉が美味しいとなると程よいところで殺して食べる社会になります。savarenさんも元気な内は奴隷として働かされて程よいところ殺されてsavarenさんの肉も肉屋さんの店頭で売られることになりますよ。
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この回答へのお礼

皆さん、回答どうもありがとうございました。自分の意見を整理するのにとても参考になりました。以下に僕の意見を述べさせていただきます。暇があったら読んでください。(意見していただけるとうれしいです。手厳しい意見も歓迎です。)
 貴重な時間を割いての書き込みありがとうございました。

 
 「人を殺してはいけません」この問いに対する答えを探すにあたって僕は「なぜ人を殺さないのだろうか」と考えました。
 
 誰にでもカッとする瞬間はあるでしょうし、殺意のようなものを抱いたことがある人もいるかと思います。けれども、そのような気持ちになっても人を殺したことは無いわけです。ならば、そこには、殺人をしない(させない)何かストッパーのようなものがあるはずです。皆さんの意見も参考にして考えたのですが、結論としては「自分の中に”人を殺してはいけない”というルールが存在するから」となりました。
 
 子供に「人を殺してはいけません」と説明することはとても難しいことだろうと思います。それは多分、無意識のうちに自分の中で出来上がってしまったルールだからではないでしょうか?意識しなくても出来たことを他人に説明するのは難しいことです。また、子供は論理的に物事を考えることができません。論理性が使えないとなると、それはさらに困難を極めます。皆さんの回答でも最初の質問では様々なバリエーションの答えがあったのですが、子供に説明するとなるとそうではなくなってしまうのが、そのことをよく表していると思います。
 
 しかし、「人を殺してはいけない」とルールができるのは子供のころです。ですから、やはり理論で理解したわけではなくて、自分の周りの環境がそのルールを作り享受させているのだと考えられます。
 
 僕の子供のころ(といっても10年ほど前ですが)のことを考えてみると、「人を殺してはいけません」ということに関して、疑う余地がないほどにあたりまえだと思っていました。しかし、最近はそうでもないようです。これは倫理的環境が崩れてしまっていることを表しているからではないでしょうか。

 

お礼日時:2001/06/21 20:54

 子どもは、「殺しちゃいけないのに、どうして人は人を殺すの?」と聞いてくるでしょう。


 子どもにあっても「殺されるのはイヤだ」という自己保守の心を育てています。
 しかし、人間は、「神」のような完成された存在ではありませんから、「考える前に<道徳=モラル、倫理、徳目>を持つべし」という要請に答えることが出来ません。
 50年、60年前には、疎開先の田舎で、小学生や中学生が「鬼畜米英、アメリカ人をぶち殺せ」と言っていた事実もあります。

 「人を殺してはいけない」という要請、人間の最低限のモラルの遵守は、いつでも「守りたい人間の切なる願望」に過ぎないのです。決して理由を持った「真理」ではありません。
 しかし、「子ども」にそのような事実を伝えることは、自分の老後の安全を含めて得策ではありません(私は冗談で言っているのではありません)。「殺すものを止めるものは何もない」という事実をある意味では「隠蔽」しておく必要がありました。
 この「隠蔽」は所詮、「おまわりさんに叱られる」式の法律遵守にしか過ぎません。「法治国家」は今後「放置国家」になって、「法律」を「放棄」していくと思われますので、これは、「国家」というシステムによる、教育=学習によっても、超えられない課題になってくる、というのが、私の認識です。

 したがって、私は、あえて事実を伝えるべきだと思います。子どもがハエや虫を殺せるように誰もが人を殺そうと思えば殺せるのだ、と。
 それで、次に犬や猫を殺すことを想像してみよう、簡単には殺せない、そして殺してみると、もう、ゲームのように「リセット」は出来ないのだよ、と。

 後から反省しないこと、想像力を働かせて、自分を「ゲーム」ではない、現実の場に立たせて見よ、犬も猫もどこにでも居る、それでも99.9%の人が、それすら殺せない、「それは、殺せることを知っているから、あえて殺さないのだ」と。
 そのために、人は「おもしろい、楽しい、うれしい」ことばかりじゃない、学校というところに行き、疑問を感じ、出来事がおこる前に「考えよう」とする存在なのだ、と。
 有効なのは、やはり、行動の前に反省する、反省してから行動する、という極めて難しい思考操作が必要なのだ、と伝えるべきでしょう。こうした「RPGゲーム」を作る作家を育てることも、社会的には、有効な手段です。
 
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http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/shohyoOYN

何かの参考になるかと思いURLを記載しておきます。
捉え方の観点の違いで、ここに寄せられる回答もいろいろだと思います。
まずは、あなたはどのようにお考えなのかをお時間があれば少しお聞かせください。

お邪魔でしたらごめんなさい。

参考URL:http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/shohyoOYN
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出刃包丁と同じ凶器が時速60km/hで毎日飛んでくる...


事故に遭遇するまで、加害者も被害者も善良な一市民ですから
そんな簡単なことが見えないんですね。
殺すなんてことは普通誰も考えてもいません。
"人間は簡単に壊れる。キズつきやすい、死ぬのはみんなイヤだし"
だから優しい助け合うほうが気持ちがいいし僕らも助かる
と教えたらいいんじゃないですかね。
イカツイスポーツカーで走り抜けるよりも、人に優や環境に優しい
そんに車を造ったり、乗ってるほうがとってもカッコイイと...
人が人をというだけでなく、社会や組織が人をという概念まで
教育していただけたら、なんかとっても安心で感謝しますけど??
改まって殺すという言葉で否定形を力説されると、逆にとても怖いです。
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補足、拝見しました。



小学生に説明したい為の御質問であったのなら、最初にそう書いて頂けたらよかったのに、と思うのは私だけでしょうか。

ice001さん同様、皆の回答で自分なりの解釈が出来たのなら、咀嚼して子供に説明するのは savarendさんが担当するべき仕事だと私も思います。

殴ることも虐める事もダメだと言われているのですから、その根拠を説明できているのであればその延長線上で殺人についても説明できると思います。
人に危害を加える事がなぜダメなのか、ということまで問題にまで遡るのであれば、最初の御質問は飛躍し過ぎていると思うのですが・・。
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なんで疑問に思うんですか?


自分は、それについて疑問に思うほうが
疑問です。

どーして?って思うようになったら、危ないぜ。
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