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「あらゆるものは「デザイン」である」といえるでしょう。

工場で大量に生産されるものから、手造りの品、自然界の動植物・鉱物・虫たちの姿かたち、海辺で見つけた貝殻・・・様々な建築もデザインだし、「バリアフリー」というものも、都市デザインといえるでしょう。

例えば「グッド・デザイン」とはどのようなものでしょう?

以前の質問にもありましたが、「シンプル・イズ・ベスト」は、デザインの方向性としてはどうでしょうか?

また「デザイン」とは主に「視覚」のみに依拠する概念なのか?
「音楽」とは違う「音のデザイン」というものはないのか?

デザインの目的とはなにか?

多様なデザインを考えることを通じて、みなさんの「美学」をお聞きしたいと思います。

狭義の「デザイン」に囚われずに、「デザイン」という言葉をキーワードに、思いついたことを聞かせてください。

質問者からの補足コメント

  • あほなさんの言われる

    >無機的だから意味があるのであって、無機的なものを重ねて有機的にしていくことに、(いわば調理にも似た)デザインの世界があるのではないか?

    という問いと、

    something2013さんの、ライトの「有機的建築」のお話し、興味深く感じています。

    個人的には、ライトはコルビジェ、ローエ、あるいはロース、グロピウス等とは異質の建築家(非・モダン)だと思います。

      補足日時:2016/05/29 03:30
  • スマートフォンはいかなる「デザイン」か?

    様々な用途に使えるプラスティック板。電話でもありカメラでもあり財布でもありコンピューターでもあり時計でもあり定期でもある。あれは究極の「デザイン」か?

    であるなら、デザインとは最終的に面白くもおかしくもない味も素っ気もないミニマリスムに帰着するのでしょうか?

      補足日時:2016/05/30 02:50
  • 例えば、そもそも東京でのオリンピック開催に反対の者にとって、それでも「素晴らしデザインの競技場」或いは「上出来のエンブレム」なるものが存在し得るでしょうか?

    例えばザハ・ハディド氏のデザインが、どこかほかの星の砂漠の真ん中に出現したような場合はそれは純粋にデザインとして見ることが出来るでしょうけれど、隈研吾氏やハディド氏のデザインはあくまで2020年のトウキョウオリンピックのためにデザインされたものである以上、(デザインの)「目的」に反対するものにとって、いかなるデザインも無意味でしょうか?

      補足日時:2016/06/01 13:44
  • >その人がデザインした新デザインはこれです(http://pop-a-gogo.com/wp/wp-content/uploads/2015 …)

    あたらしいデザイン。これはほぼ、赤いくまもんですよね。失礼ながら単に時流に迎合しただけではないかと疑りたくなります。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/01 14:22

A 回答 (35件中1~10件)

たとえそれがミニマルで抽象的であっても、表現され具現化されたもの自体は老いて劣化します。

コルビュジェの建築も時と共に薄汚くなるでしょう。しかしコルビュジェの建築の持つ意味は褪せないのです。それは確かに抽象建築と言えるものであり、ミニマルなデザインがもたらしたのは人間の営む生活の自由度の再発見であったのです。石庭もまた、其処に大きな余白がある故に、人がその庭の表すもの、枯山水に溶け込むことを得るのではないでしょうか。
柱や窓と言った最小限のパーツで構成されただけの建物は、何処か茶室にも似ています。
私はコルビュジェよりもライト、ライトよりもカーンの方が好きで、絵画もオランダの黄金時代における静物画が好きですが、上述のような意味でコルビュジェの建築を評価している訳です。

次に意味についてですが、
抽象とは意味の発見であり、意味の棄却では無いと私は考えます。
具象物は基本的に雑多なものであり混じり合った複合物です。美しいグラデーションを持ち合わせていることもあるが、不協和な瓦礫の様でもあります。
微妙な言葉使いの違いなのかもしれませんが、事象には見出されるべき意味が存在しておるのだと私は見ます。意味付けるのでは無く意味を汲み取るのであります。
意味こそ無色透明であり、事象にこそ色が付いておるのでは無いか、この様に私は見ております。その無色透明な意味を見出し得るのは人間の意によるのだと思うわけです。

社会と関わり合うには事象に対する意味の共有が必要ですが、それはしばしば集団の意図や情の動きによって余計に色付けられたものである場合があります。事象の純粋な理解というものがあるならば、事象からの意味の抽出という過程がどうしても必要であり、それはその人の意図に関わらず、彼の抽象能力によって為されるのではないか、そう思うわけです。社会と関係を持つことと、社会に呑まれる事は異なります。健全な関係のためにはその事象の純粋な理解に近づく必要があると考えるわけです。
そして、この抽象能力は、人は本来自然に行使しているものではないでしょうか。

余談
僻地に旅行した事があります。大気中のチリが少ないせいか、流れる雲の細部の動きまでハッキリと見えたのを覚えています。そして、草むらに落ちている鳥の残骸を見つけて、何か言葉にならぬものを感じました。翼は自由の象徴ですが、高く青い空の下にそれが落ちている。空を飛んでいるのは何者だろう?と、思ったのかもしれません。

長いやりとりありがとうございます。回答者の立場ではありますが、色々と見つける事ができて嬉しく思っています。
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この回答へのお礼

こんばんは。

建造物自体がミニマルであればあるだけ、そこに居る人間の自由度が広がるということ。であれば、建築なり、庭なりを「外側から見ている」だけでは、その真意はわからないということでしょうか。つまり住むなり、そこに身を置いてみるなりして初めてみえてくるものがある。そういう意味では、これまでコルビジェにせよライトにせよ、わたしの視点は常に「外部の者」の視点であり、「住人」の視点ではなかったようです。でもやはり街に氾濫するコルビジェ風(?)、ローエ風(?)の箱を見ると「住んでみたい」という気持ちになりません(苦笑)

オランダの風景画など見ると、ああ、ここに行ってみたい、この時代に住んでみたいと思います。
例えばフェルメールの絵に見られるような17世紀のオランダの室内装飾は、華美ではないけれども、惹かれます。とてもうつくしいデザインだと思ってみています。

「茶室」もあまりにシンプルゆえ、却ってそこに作為のようなものを感じてしまいます。その「思想性」のようなものが鬱陶しいというか(苦笑)

>微妙な言葉使いの違いなのかもしれませんが、事象には見出されるべき意味が存在しておるのだと私は見ます。意味付けるのでは無く意味を汲み取るのであります。

このあたりは「表現」の違いでしかないようにも思えますけれど。
例えばここに1枚のレンブラントの絵があるとして、「それ」を陰鬱とみるか、うつくしいとみるか、それはその絵に「見出される意味が存在している」とも言えるし、同時に「わたしがこの絵を美しいと(あるいは陰鬱だと)感じた」=意味づけた。ともいえるのではないでしょうか?

社会的な事象に対して、

>事象の純粋な理解というものがあるならば、事象からの意味の抽出という過程がどうしても必要であり、それはその人の意図に関わらず、彼の抽象能力によって為されるのではないか、そう思うわけです。

ある事象に対して、「価値判断」を行うこと、これは社会に飲み込まれることではなく、逆に社会を批判するうえで欠かせないプロセスだと考えます。価値判断があるからこそ、そこに依って立つ自己の「スタンス」が生まれるのでしょう。

あふぉなさんとは様々な相違があるようですが、そこから反照されて、自分の考えを再確認することが出来ているようです。

こちらこそ、ありがとうございます。

お礼日時:2016/05/31 03:14

さすがの突っ込みですね。


ちょっとチャレンジしてみます。

デザインの目的として機能性の高さの追求に成功したものが
日常生活におけるグッドデザインということになるかもしれません。
そこに込められた人為としての意図は
自然の摂理と言ってもいいひずみのなさにしっくり落ち込み
作為の無さに溶け込む形の‘美しさ‘になる。
自然の摂理からの作為とでも言うべき
人為的な意図を通じた芸術性の表れ。
この境地は一つの梵我一如的なニュアンスを持つのではないかと思います。
こうした一連の流れを無意識に実践できるのが
職人芸というものなんでしょうね。

デザインで問われるのは「目的への適合度」
芸術で問われるのは「‘作為の無い発露‘の普遍性」
それが‘一段上からの作為によって矛盾なく併合したかに見える‘地点に
日常生活における職人芸というものがあると言えそうな気がします。
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この回答へのお礼

こんにちは。

ひとが、これはとても「自然である」という時、そこには、「見え透いた作為が存在しない」という意味で使われているように感じます。
デザインでも、アートでも、「見え透いた作為」には反発を覚えます。けれどもそれが「自然な作為」であれば受け容れることが出来る。
つまり作為を作為に見せない「技巧」ということでしょう。

デザインは「機能」との関係で「デザイン」であるわけですが、機能を補完・補強するという通常の意味から離れて、
機能を限定するデザインというものは成り立ちえないか?と考えます。つまり「目的への適合度」ということであれば、
昔、松本人志が携帯電話のCMで、「話せりゃいいやん。電話やし」というようなことを言っていたのが印象に残っています。

>機能性の高さの追求

から機能の縮小・限定へ。壮年のデザインから老境のデザインへ、等ということをとりとめもなく考えていました。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/09 13:49

まだ締まっていなかったのでもう一言参加します。



「人為の表出」のデザイン性ということで
目的を持ったいわゆる作為の割合が多いほどデザイン性が高く
何かに追い詰められた極限から
作為なく内側から何かが自然発生的に発露したものほど芸術性が高い
その中間の表出として素朴な日常の言動が位置付けられる。

デザインを「意図の表出」と解釈したこんな考え方はどうでしょう。
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この回答へのお礼

>まだ締まっていなかったのでもう一言参加します。

(笑)

いえ、なんだかベストアンサーを選ぶのが大変そうで、放置してあります(笑)
いろいろと参考になる、考えさせられる回答ばかりですので、難しいです。

>目的を持ったいわゆる作為の割合が多いほどデザイン性が高く、極限から作為なく、内側から何かが自然発生的に発露したものほど芸術性が高い
その中間の表出として素朴な日常の言動が位置付けられる。

なるほど、意図性の度合いということですね。「考え出した」か、「生み出された」かの違いとも言えそうです。
確かに「作為的な芸術」にあまり感動は伴いませんね。こころ(魂)から発したものだけがこころに届くのだろうと考えています。
デザインで「感動」という表現はあまり用いない。「巧い」という表現が一般的のようです。この「巧い」は、その「上手な作為」に向けられているようです。「匠」(たくみ)と呼ばれる人は、芸術家というよりも、「職人」といわれる人に多いように思います。つまり「技巧にひいでた人」

スズメさんのお答えはとても納得できるものですが、もう一歩踏み込んで、
日常生活の中に溶け込んでいるデザインはどのように捉えられるかと考えます。
例えば「器」や「調度品」のようなもの。

勿論庶民は有名な陶芸家の作品や著名な作家の机などは使えませんが、それでもその質素な日常生活に潤いを与えるためには、日常の中にさりげない「美」を取り込むことも必要だと思います。

もう少し開けておきます。
「日常生活の中の美(とデザイン)」ということで何かお考えがあればお聞かせください。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/09 01:16

かなり深い本音を語っていただいたようです。


よく分かる気がします。

私も、日本人が大嫌いです。海外の人のことはよく知らないので
「人間が嫌い」とは言いません。よく知れば、そうなるのでしょうが‥

「もう知らねえよ」とか「滅びてしまえ」なんて乱暴な気持ちになることは
あります。
また、そう思う人は、多い?いや、ほとんど全員かも知れない。

だから尚更、死守しなければいけない線だと思うわけです。だって、その先
には何があるんだろうと思うからです。暗黒しか思い浮かばないのです。

スーパー・へヴィーなオチがついたようで。
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この回答へのお礼

わたしとニャンポコさんとは正反対の位置に立っているのかもしれませんけれど、それでもニャンポコさんの意気には共感しています。
実際海外ではドラスティックに政治が変わっている。わたしはボストン市での「オリンピック反対!」署名に一票いれました。(海外のサイトです)
陰ながら応援しています。(投稿された質問には、また独自の立場で意見を述べますが)

再度のご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/08 01:43

>悪の要素を多分にもったただのヒト



なるほど、これが多くの人の率直な人間に対する評価なのでしょう。
偉そうなことを言うようですが、私はこれがいかんと思うんです。
「小悪党やら山賊みたいなのばっかり」だと思えば、人を尊重できな
い。ならば、自分の欲望を満たすことしか価値がないではないか、と
なりましょう。
その考えの果てには、社会の衰退以外にはないと思います。

過去の偉大な、文学作品、絵画、彫刻などに人間の高い精神性を、そ
のデザインを見ることが出来ます。
つまり、人間はそれを持っているのです。それは、精神的努力の結果
得られるものでしょう。
一人一人がそれを発現させる以外に、人間が人間を尊重できる方法が
もはやないと思います。

それから、神様仏様については、世の中多くのものが存在しますので
簡単には申し上げられませんが、例えば昔住んでいた家の近くに「タ
コ不動」というのがありました。タコが神様です。キツネや蛇の場合
もあるし、新興宗教の神様もあり、仏教でも様々です。

結論として、精神的努力(信仰も含まれます)をすべきだということで
す。信仰がなくても成果はあるが、信仰を持ったほうが成果が高い。
詳細は別の機会ということになりますが、こういうことです。
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この回答へのお礼

こんにちは。

ニャンポコさんの意見には同意します。その通りだとは思うのですが、残念ながらわたしは人を信用できない。勿論個々に素晴らしい人はいるはずです。主に無名の人に。かつてであった人であり、またどこか遠くの国にいる人かもしれない。
そのうえで、尚、人類というものに希望を持てません。日本人はあまりにも多くを経済成長という偽りの名目のもとに、破壊しつくしてきた。ある建築家が、「2016年のオリンピックが東京でなくてよかった、そうなればまた街が変わる」と言っていましたが、結局2020年のオリンピックに決まり、東京はまた醜く変貌し始めています。そいういうものを目の当たりにして、「もういい・・・」と思うのです。「滅びればいい」と思うのです。無論わたしももろともに。

人間は(少なくとも日本人は)、過去を重んじなかった。愛すべき山河と伝統を、経済的な発展のために犠牲にして恥じることはなかった。
正直、もう付き合いきれんのです・・・

>例えば昔住んでいた家の近くに「タコ不動」というのがありました。タコが神様です。キツネや蛇の場合
もあるし、新興宗教の神様もあり、仏教でも様々です。

へえ、蛸の神様ですか。おもしろいですね。狐はお稲荷さんですね。蛇もあるんですか。

・・・わたしはニャンポコさんの主張をきれいごととは思いません。またこれまでのニャンポコさんの人生が、平和で平板であったとも言いません。けれども結局は個人の感性の問題で、わたしは人間の醜い面を見過ぎた気がします。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/07 00:43

№29の≪空想≫のお話しですが。



★(№29お礼欄) 〔* 人間は 神の似像(にすがた)で
ある〕。では人間の内面のデザインは誰が為したのでしょうか?

★ (同) ~~~~~~~~~~~~
  >≪記憶 ‐ 知解 ‐ 意志≫

はいってみれば、OSのようなもの。その上にアプリケーショ
ンがなければ単なるオペレーティング・システムでしかありま
せん。

それは誰がどのような方法で作り出すのでしょう。

また、神に個性はあるのでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~
☆ それは 次の項目を見てみてください。

☆☆(回答№29)~~~~~~~~~
17. ≪因果応報説≫が 現実につねに当てはまるとは言えな
い。それは 時間的な行為には ズレがあり かなしいかな
神の普遍的・不可変的な一体性は 破られ得る。〔相対性が
絶対に対して勝つ〕。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち ≪アプリ≫は 人間の思惟かつ行動の領域に属し
ます。≪OS≫の利活用としてです。その中軸は ≪意志つまり自
由意志≫です。

けっきょく OSに当たる≪身と心 つまり自然本性≫のうちの
≪自由意志≫は 相対的な世界にあるゆえかえってその自由度が
よく効きます。

おおまかに言えば ≪心にしたがう(良心にしたがう)意志≫と
そして≪心にさからって・それゆえヤマシサ反応が起きているに
もかかわらずこれを振り切って起こす意志≫との両種の自由度で
す。

この自由度がそなわっているのは 生まれつきでありその自然
本性が OSです。

アプリは ≪良心にしたがう意志≫にもとづく具体的な行為の数
々とそして≪ヤマシサ反応に逆らって進める意志≫の具体的な内
容として その人間本人によって作られ実行に移されます。

すなわち 上の項目(17)は ≪良心を振り切る自由度≫を人
間の自然本性(なかんづく意志)が持ち しかもこの意志内容
を実行することができるし これまでの人類史にあって十分以
上に出来て来ている。ということを意味しています。

良心を≪記憶≫なる行為能力の働きだとすれば それに逆らう思
惟や行動は ≪意志自由≫の問題です。

そして 意志と記憶とは 同じ自然本性に属していますが 互
いの間に 時間的な隔たりがあってズレが生じる。このズレを
いいことにして意志自由は 出しゃばることをよしとする。

そういったアプリの世界での出来事が起きるのだと見ます。

空想として言えば 神はこの人間意志のプラスとマイナスの自
由度をよしとしたのだと思います。

ヤマシサ反応をものともせず善と悪とを知る木から採って食べ
たあと そのアダムやエワをエデンの園からは追い出しました
が あとは 相対性の世界にあって生きて行きなさいと さと
しその船出を見送った。ということだと考えます。


つまり 神のデザインとしては こうです。:
(あ) 身と心とから成る自然本性を 特に≪記憶 - 知解 - 意
志≫なる構成の心(精神)としてつくった。

(い) 精神の中軸としての意志について 意志自由とした。

(う) その≪自由≫には いわゆる命綱はない。無条件で自由
である。相対世界が 絶対に対して勝つというほどである。

(え) わづかに ≪良心・信教≫の自由もそなわっていて そ
こでは ヒラメキ(インスピレーション・直観)をとおして≪造
り主≫――これは 霊である。つまり雲をつかむ話である――と
つながっているかに思われるという仕掛けに成っている。

(お) ヒラメキないし良心の有効性は 人と人とのマジハリ
(対話・交通)における意志疎通つまりそこにおける合意ないし
同感( sympathy )に求め得るかに見えている。かも知れない。

(か) 神を想定すること・またたとえば≪創造主≫として物語
の中に描くこと これらはあくまで仮りの手段であり人間の勝
手な作り話だと言われても仕方がない――というふうに 神の
デザインは成っている。



★ 神に個性はあるのでしょうか?
☆ おのおのの主観に応じて・その主観にとって ≪個性がある≫
と見えるように顔や姿を変えているかも分かりません。

≪神に個性などない≫という人(主観)には それなりにです。

すべての人にそれぞれすべてに成りましょう。
目いっぱい甘えなさい。と。
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お礼ありがとうございます。



「人間は悪魔」ですか‥
ご自分も悪魔ということで、納得できるか?と問うたなら何と返答されますか?

半分賛成です。人間は「神と悪魔」「善と悪」が同居、というより、一体化した
もので、例えばプリズムのようなもので当たる光によってさまざまな色に変化す
るものと考えます。

一つの「実体」が、条件により常に変化をするーーこれが「生命」であり、究極
の神の‥‥いや仏のデザインということになると思います。(仏教徒につき)

人間生命の中には、「エゴ」も存在するが、仏(いわゆる神)も存在するというのが
仏法哲学の肝要だと理解しています。

このことを、科学の精密な監視のもと、さまざまな思想とぶつけあい、自身の理解
と確信を深めたいということが、このカテでの一つの希望であり、そのデザインを
考え中という感じです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

再度のご回答をありがとうございます。

>「人間は悪魔」ですか‥
ご自分も悪魔ということで、納得できるか?と問うたなら何と返答されますか?

「悪魔」なんて大それたものじゃないですね。所詮ただのヒト。ただ、正義と悪という分け方であれば、
悪の要素をより多く持っていると思います。

>一つの「実体」が、条件により常に変化をするーーこれが「生命」であり、究極の神の‥‥いや仏のデザインということになると思います。(仏教徒につき)

ええっと、不勉強で申し訳ないのですが、仏さまは神様ではないのですか?よく「神仏に祈る」とか「神様仏様」という場合は神様と仏さまはなにが違うのでしょう?(恥)

>人間生命の中には、「エゴ」も存在するが、仏(いわゆる神)も存在するというのが仏法哲学の肝要だと理解しています。

つまり人間の中にある「神」=善?の領域をいかに広めてゆくか?ということでしょうか?

お礼日時:2016/06/05 01:49

1. 場が生まれる。

(あるいは 元からある)。時空間として
動く。

2. 場が揺らぎ コトとしてある。

3. コトなる場が揺らぎ過ぎて 別の部分的な場が生じた。

4. コトを起こしている場が 元の場とそこから分かれたモノ
とから成るようになった。

5. 場も言ってみれば存在であるが のちに人間は そこから
分かれているモノのほうに≪有るか無いか≫の存在を見ようとする。

6. 人間は ≪場≫にも その知性を当てはめてそのモノとコト
から成る世界を捉える。

7. 場がゆらぐ。場が場する。世界が世界する。というとき 
初めの場や世界を ≪記憶≫と呼ぶ。

8. 記憶なる精神が精神するとき そこに≪知解≫が生じている
と見る。納められた情報が 倉庫から出て顕在化する。

9. 記憶と知解との突き合わせをつうじて 意志が発出する。
知解は 自分が部分観でないかとおそれて記憶に相談する。その
結果である。

10. モノがモノするとき 熱を帯びユラギのほかにさらにエ
ネルギーを生じさせる。このエネルギーを意志が帯びる。

11. 光源が 記憶である。記憶が記憶するとき 発耀として
の知解が生まれる。記憶と知解とのすり合わせをつうじて 明る
さや温かさとしての意志が現われ出る。

12. 記憶は 社会形態としては 司法に当たる。知解は 立
法である。意志が 行政にあたる。

13. この三つの事項の一体性が 三位一体論という・神のデ
ザインであるとわたしはアウグスティヌスに拠って解釈する。

14. 神としての三位一体は 時間を超えているので 父なる
神と子なる神とその両者から発する聖霊なる神とは 絶対の同一
である。個はほかの個と・そして全体とも それぞれひとしい。
時間的な変化はない。

15. 人間の精神における≪記憶 ‐ 知解 ‐ 意志≫なる一体は・
そして国家としての≪司法 ‐ 立法 ‐ 行政≫の分立=協働も それ
ぞれ時間差をともなった一体性である。

16. 〔人の一生のあいだには 意志ないし行政の行為が
記憶ないし司法の判断と合致しないままに終わるということさ
え あり得る。――これは 好き嫌いで言えば嫌いだけれど
≪ビターでダーク、シニカルな言葉≫になるかと思われる〕。

17. ≪因果応報説≫が 現実につねに当てはまるとは言えな
い。それは 時間的な行為には ズレがあり かなしいかな
神の普遍的・不可変的な一体性は 破られ得る。〔相対性が
絶対に対して勝つ〕。

18. ≪プラン→ドゥー→ シー≫のサイクルは ≪知解→意志
行為→記憶(秩序作用)≫または≪立法→行政→司法≫のそれと
して捉えられる。

19. このことをいにしえの聖書記者は 次のように記した。
▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造さ
れた。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

20. 神のデザインについての空想でした。
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この回答へのお礼

>19.このことをいにしえの聖書記者は 次のように記した。
▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

>20.神のデザインについての空想でした。

人間は(わたしやぶらじゅろーぬさんや、ハルさんやニャンポコさんも神の鏡のような姿である。と。
では人間の内面のデザインは誰が為したのでしょうか?

>≪記憶 ‐ 知解 ‐ 意志≫はいってみれば、OSのようなもの。その上にアプリケーションがなければ単なるオペレーティング・システムでしかありません。

それは誰がどのような方法で作り出すのでしょう。

また、神に個性はあるのでしょうか?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/04 14:44

人間にとっての「プラスアルファ」ということについてですが。



人間の最大の特徴は「宇宙の摂理を超えうる」ことだと思います。それは、高い知能と
精神性を持っているからにほかなりません。イルカやボノボが人間に近いといっても
比較にならないですよね。
その力により、「悪魔のデザイン」作りだすことが出来うる。

人の住む街に原爆を落とすというデザイン。1000万人の同胞を虐殺するというデザイ
ン!

自然界で、ある種が絶滅したとか、させられたとかの「失敗」はあるようですが、人間
だけが、胸先三寸、舌先三寸で、つまり自分の「意志」でそれができてしまうことです。
これが私には不思議でならないのです。

「神のデザイン」も出来るはずだと思うのですが、どうも、悪いほうばかりに向いてい
るということも、不思議です。何故そっちが開発されにくいのか?
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この回答へのお礼

こんにちは、ニャンポコリンさん。

なるほど、「悪魔のデザイン」と「神のデザイン」ですか。

そもそも人間が悪魔である、という考えは受けいれがたいでしょうか?

また人間は「神」ではありませんから、「神のデザイン」は永遠に不可能でしょう。

おそらくいちばん有効であろう方法は「戦争」とはどういうものか?「国を守るとはどういうことか?」「何故平和がいいのか?」などを学ぶことではないでしょうか?
つまり「学校教育」で戦争と平和の「歴史」と「意味」を考える機会を与える。教えるのではなく、個々が考える力を育てる。

憲法9条というデザインについて、何がもんだいなのか?何故変える必要があるのか?どのように変えるのか?
そのようなことをもっともっと時間をかけ学び、考えるべきではないでしょうか?

などと切れ切れに思ったことでした。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/03 13:13

>デザインの目的とはなにか?



博報堂の東ハトのキャラメルコーンの新デザインを考えた人曰く、「デザインの目的とはなにか?」と言う回答は、「モノの価値を変える事」だそうです。



その人が実際に手がけた、東ハトのキャラメルコーンの話をします。

旧デザインはこのようなものです。(http://blog-imgs-62-origin.fc2.com/c/a/k/cakerev …

その人がデザインした新デザインはこれです(http://pop-a-gogo.com/wp/wp-content/uploads/2015 …


この結果、それまでキャラメルコーンは古臭いお菓子というイメージだったのですが、それを払拭する事に成功しました(モノの価値を変える事に成功した)。

これが「モノの価値が変わった」という一例です。




そして、「価値」とは何か?ですが、これは二種類あります。
「興行的価値」と「芸術的価値」です。

東ハトの例は、「興行的価値」に該当しますが、大半のデザインは「興行的価値」を要求されます。グッドデザイン賞は、「芸術的価値」も評価対象となっていると推測します。(審査の基準が不透明なので憶測しか出来ません。)





ただ、この答えも回答であって解答ではありません。
回答はたくさんあります。参考にしてみて下さい。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんにちは。

おもしろい問題提起をありがとうございます。

>ただ、この答えも回答であって解答ではありません。
回答はたくさんあります。参考にしてみて下さい。

ええ、ひとつの正解をもとめているのではなく、「デザイン」についてどのように多様な視点からみることが出来るか?の試みです。

「ものの価値を変える」ということは、それが必ずしも「よりよきもの」になったということではなく、
たんに購買層を変えたということであると思います。

デザインから離れますがマイルス・デイヴィスは生涯次々に彼の演奏スタイルを変えていった、ボブ・ディランも同様に、フォークからフォーク・ロックと言われるスタイルの変化に、それまでの多くのファンが失望し離れていった、と、同時に新しいファンを獲得した。
最近ではシナトラのカバーをやっているそうですが、そこまで行くともはやディランではないような気もしています。

個人的な意見では、価値を変えるということは上記のようなことで、古いスタイルを好む層を排除することと同義であろうと思うのです。

キャラメルコーンはどこまでキャラメルコーンたるアイデンティティーを保ちうるのか?
シナトラを唄うディランはディランなのか?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/01 14:05
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