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人間共通の目的は 存在して永遠の存在を目指すことです 是か非か?

異論反論オブジェクション!

人間の目的はなんでしょう?

A 回答 (22件中11~20件)

人類は大気中の酸素濃度のが20%じゃないと生存できません。

オパーリンの言う通りなのです。たまさか、この星、地球がそうなったから発生し生存しつづけているわけです。目的でも意志でもない。現象に過ぎない。こういうと人生が虚しく感じるかも知れませんが、宇宙は法則とエネルギーの現象です。貴方の存在も法則とエネルギーの産物です。生滅生滅をくりかえしているのです。原始仏教は既にここをとらえています。
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この回答へのお礼

ありがとう

貴方は存在しようとしていませんか?しなかったら死んでしまうと思いませんか?

車に轢かれて、階段から落ちて、病気になって死んでしまいませんか

生命は現象でも 精神は意志して生きてると思いませんか

そうでなければこの存在をせめぎ合う世界で 生存し続けることは難しいと思いますが?

弱い人間が何十年も生きるなんて よほど頑張ってるんじゃないでしょうか?

お礼日時:2016/06/25 20:05

宇宙=自我=認識であれば、認識を深める事が第一だ。



      「新ルネッサンス宣言」
───人間中心性の回復・人間的感性の復権───

1. 我等は、認識する個体である。

2. 我等の生存は、意志の結果であり、幸福の追求としての本質を持つ。

3. 幸福とは、認識に於ける意志と、その達成の認識により成る。

4. その個体的追求は、生存と認識に於いて為される。

5. その環境的対応は、生存は生産として、認識は学習として現れる。

6. より大なる学習は、より大なる社会的生産を可能にする。

7. また、より大なる生存に於いて、より大なる認識は可能になる。

8. これらの過程の認識とその意志化は、最大の生存と最大の認識に於ける、完全な充足を実現する。

9. それらの統一的計量は、認識の深まり及び有効エネルギーの不可分な指向として、反エントロピーとして求められる。

10. 反エントロピーとは、宇宙の起源としての、絶対無=無限不確定性の潜在(有限)たる認識の自我仮説性(時間性~進化)の定性化である。

11. 潜在的認識可能性に対する相補的環境は、その認識の有限性による相補性の非自覚化により、他律的対象(=時空仮説)化する。

12. その他律的環境への反エントロピーの敷延は、自己矛盾として生じる環境を、その先入たる仮説的時空性に於ける個体的有限性を、超越する意志化により補償するものである。

13. 換言すれば、真理の限界は、愛により補完され得る。

14. 先述の要素との対応に於いて、真理とは認識の深化であり、愛とは社会的生産への意志に他ならない。

15. 宇宙の原理的本質は、自我成立の為の相補であり、そこに於ける完全な自覚に基づく完全な意志は、真の環境としての無限性=完全な自由を保証される。

16. この、利己と利他、あるいは唯物と唯心を包含した、完全な“自己”完結的過程には、金や地位といった外的価値、また主義・宗教他いかなる権威も介在し得ない。

17. 我等は、愛によって真理を成し、真理に於いて愛を為し、而して幸福なるべくのみ存在するものである。
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まず世界の構造。



http://blogs.yahoo.co.jp/sk2012sk/63048355.html

人間は世界の脳みそ的部分の夢想がこの世界の物質を使って形になったもの。

人間の精神の善悪と神悪魔は本質的に同じ存在。人間の精神の善悪が一定でないのと同様、神悪魔の勢力も一定ではないと思われる。では、その勢力関係はどうやって変化するのか?

悪魔は人間に悪いことをさせて魂を落とし、死後、それを回収することで勢力拡大を図ってると思われる。善悪の転換は他に起こり様がなく、結局、現状、人間は悪の心を育てる入れ物、世界は謂わば牡蠣の養殖場みたいになってる感じ。
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この回答へのお礼

神と悪魔 善と悪がこの世にもあると言う訳ですね

何か変な思想ですが 結局目的は何なんでしょうか?

>結局、現状、人間は悪の心を育てる入れ物、世界は謂わば牡蠣の養殖場みたいになってる感じ。

人間は悪の心だけ育てるのでしょうか?善はどこに行ったのでしょうか?

お礼日時:2016/06/25 17:44

人のしあわせには一定の形があると認められる。

自分と他人とで極端に違うということはないだろう。たとえお金持ちでも仕事に忙殺されていて、ふと空しさを覚えるならそれではしあわせとはいえない。たとえイキイキと日々を送っていても、事あるごとに他人と軋轢を生じるならそれはしあわせとは言えない。
自分がしあわせであることに嘘がないならば、その人はしあわせであるだろう。ここで、ある人は価値観というものでそのしあわせのスケールやクオリティをはかりたくなるかもしれない。しかし人のしあわせというものは人を満足させるものであって、種々様々な欲望を満足させることではない。
自己欺瞞に陥ることがなければ、何がしあわせか、自分はしあわせか、そういうことを知るのはそう難しいことではないだろう。
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この回答へのお礼

ありがとう

自分がどんな事に満足しているのか よく分析してみるといいですよ

それを突き詰めていかなければ哲学とは言えません。

美味しいものを食べた時?仕事が上手く行った時?世界が平和になた時?

お礼日時:2016/06/25 16:10

宇宙には意志も目的もありません。

あるのは法則とエネルギーです。スティーブンホ〜キング博士の本を読んでみて下さい。
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この回答へのお礼

ありがとう

ホーキング氏はブラックホールまで蒸発させてしまうような人だから

希望はありませんよ。神が居るとは言いませんが 宇宙には意志や目的があると思います。

人間にも目的があると思うのですが・・・

お礼日時:2016/06/25 13:20

以下は、自分の人間観・人生観に基づく話であり、それが真実であるのかどうか、何の保証もない話です。



私は、この人生というものを絶え間なき修行の一里塚とする価値観をもっています。そして、その一里塚の一瞬一瞬を、一期一会の心をもって生きるというのが理想的な生き方なのだろうとする思いがあります。

私は、少年の頃のいつ頃からからだったか定かな記憶はないのですが、自分は眠りの中にいるのではないか、未だ目覚めていない世界に居るのではないかという思いを持ち続けていたように思います。ですから、なにはともかく、この眠りから脱しないと、すべては始まらないのじゃないか、そんな思いを今も持ち続けているところがあります。

その眠りから脱することを、悟り、または解脱という風に呼んだりするのかなと思っています。

人生が冒頭に書いたような絶え間なき修行の一里塚だとした場合、この人生で到達できることは、ひょっとしたら前世において到達したレベルにほんのわずかが加わったものだけになるのかもしれない。それなら、それでもよい。確実な一歩一歩を積み上げて、前進していけばよい、そのようにも考えておる昨今です。

何かの縁に触れ、時に目が開きそうになることもあるけれど、私の微睡(まどろみ)は深く、長らくこのままでいるのかもしれない。そんなことも考えております。
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この回答へのお礼

ありがとう

早く目が覚めるといいですねえ。目が覚めると、この世には非常に明快な目的がある事がわかります。

永遠と言っても何が永遠なのか分からないでしょうねえ

仏教もキリスト教も眠っています。真理に目覚めていないのです

そりゃ昔は心理に近かったかもしれませんが 今では不十分です

貴方が目覚めたいと思うのなら 自分が何の為に生きているか、よく観察することをお勧めします

無意識でそれに向かってますから。

お礼日時:2016/06/25 12:31

かつて、神が幅をきかせていた時代は、人間


存在の目的は神様が決めていました。

具体的には、聖書や牧師、神父の言う通りに
に生きていれば良いのだ。
目的など、聖書に書いてある。

ところが、神の存在が懐疑され、信用力
が無くなり、人間は自分で自分の目的を
模索するしかなくなりました。

ニーチェの言う通り、神は死んだのです。

だから、人間の目的は人間が自分で決めれば
良いのです。

人間などただの動物です。
遺伝子を残すために生きている生物です。
しかし、
そういう客観的目的は、ここでは問題では
ありません。

人間、どう生きるべきか、という一環の
問題があり、その中で、人間の目的は
何か、を自分で決めることになります。



人間の目的はなんでしょう?
   ↑
個々人が勝手に決めることです。
目的など無い、持たない、としても
構いません。
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この回答へのお礼

Thank you

そうですね 生物としての目的と人間としての目的は違ってくるでしょうね

目的は自分で決めればいい 持たなくてもいい つまり自由だということです

これは確かにそうです。

では人間は共通の目的を何も持たないのか?という事ですね。

お礼日時:2016/06/25 10:00

人間の目的はしあわせになる事。


故にここでしあわせとは何かと言う問いが生じる。
久遠の未来には個人は辿り着くことができない。それが永遠であるなら、たとえ未来の人々であろうと辿り着く事は出来ない。
人のしあわせは実現できるものであって、実現不可能なもの、終わりのないものを求めるべきでは無く、確かに終わり、即ちゴールのあるものを求めるのが良い。そうであって初めて存命中に、人を生きた事の満足が得られうる。
だから、永遠の存在を目指す事は人のしあわせとは言えない。未来は今の有り様から導かれる。過去は今の有り様において帰結する。
人間が生きる事が出来るのは今現在だけである。故に今を確かなものにする事が、充実する事が、未来を想うよりも大事なことなのです。
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この回答へのお礼

今を確かにすること と言っても 今 はすぐ過去になってしまいます。過去に業績を積みたければ

今を確かにしてゆけばいいでしょうけど。未来の目的がわかっていれば その目的のために何処までやれたか

で満足できるのではないでしょうか。人幸せって決まったものではなく 幸せだと思えてそれが嘘でなければ

幸せと思えるのではないでしょうか?

お礼日時:2016/06/25 09:54

メロンエプロンカーネーション!


人間の目的は、やり続けることでしょう。そうすると、異議ありません。
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この回答へのお礼

? やり続ける 何をやり続けるんですかねえ。メロンエプロンカーネーション?

やり続けることに異議はないということですね。

お礼日時:2016/06/25 09:44

食べて寝て出してやって子を増やす事です。

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この回答へのお礼

ありがとう

大変分かり易いお答えをどうもありがとうございます。そう言えばそうかもしれませんね。

お礼日時:2016/06/25 09:39

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