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第一次世界大戦の西部戦線では、塹壕戦のため戦線が膠着しており連合国軍、ドイツ軍ともに大きな損害を被っていましたが、ソンムの戦いでは戦車が投入されたと聞き及んでいます。それでも、連合国側は4か月にも及ぶ戦いで、イギリス軍498,000 フランス軍195,000 ドイツ軍 420,000という膨大な犠牲を出したとウィキペディアにはありました。

ここで質問なのですが、連合国軍は戦車などを投入するもほとんど前進できなかったのは、大規模な長期の準備砲撃や歩兵の大群による徒歩突撃の規模を大きくしただけで大きな前進を図っていたために連合国側に大きな損害が発生したという考えは正しいのでしょうか?

それとも、連合国側の攻撃に対し、ドイツ側は無理に陣地を固守せず柔軟に対応していたため連合国側の被害が大きくなってしまったのでしょうか?

詳しい方教えて下さい。

「第一次世界大戦中のソンムの戦いに関してで」の質問画像

A 回答 (4件)

戦車も大砲で撃てば撃破できるわけで、別に無敵なわけではありません。

歩兵に対しては有効な兵器ということです。

第一次大戦でなぜ攻勢がうまくいかなかったかは、第二次大戦でドイツの電撃戦がなぜうまくいったのか、を考えることの裏返しなんで、
電撃戦について調べるのがいいのではないでしょうか。
電撃戦の本質は、機械化部隊+航空機、なんでしょうかね。

攻勢がうまくいくかは、つまり、
攻める側が戦線(塹壕など)を突破して後方に侵入して戦果を拡大するのが早いか、
守る側が予備部隊を大量に投入するのが早いか
という競争なわけです。

第一次大戦時は、まさに戦いが行われている地点では、鉄道も道路も破壊されつくされていて徒歩以外の移動手段がありません。
一方、後方には、鉄道網もあって、かなり遠くにいた予備部隊でも高速に移動してくることができます。
とくに第一次大戦当時のすでにヨーロッパの鉄道網は相当に発達していたので
敵が攻勢してきたという報告を聞いてから、鉄道を用いて本国の奥深くの安全な場所にいる戦略予備部隊を向かわせれば、十分に間に合うという状態でした。
単純に言えば、攻勢側は、攻勢時点でまさにその地点にいる部隊だけしか戦闘に参加できないのに対して、
守勢側は、国の全ての軍隊が戦闘に参加できたわけです。
電撃戦では、機械化された部隊のみで攻撃することで、攻勢側のスピードをあげています。

あとは、電撃戦のもう一方の主役、攻勢側に航空機という、必要なときに必要な場所をすぐさま攻撃可能な「空飛ぶ大砲」がなかった、というのは大きいですね。
これについては、第一次大戦時にも(とくにソンムなど後期は)爆撃機も相当に発達していましたし、技術的には不可能ではなかったとは思うのですが、
実際に実現するには、
・爆撃機(≒戦略レベルの大砲)を要請する権限を、司令部から前線の部隊に移す
という軍全体の制度的な大改革が必要で、実現しませんでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2016/07/06 23:12

早朝EURU2016のベルギー・ウエールズ戦のすぐ後で海外ニュースが始まりました。



昨日はソンム戦開始100周年という事で、英仏による追悼式典が行われ、仏2とBBCで
報道されていました。式典は盛大で厳かで、印象は「無益→反省と警告」と変化した
感じがありました。仏2の通訳が120万人に上る戦死者と言っていました。明らかな誤訳
で、正しくは120万人の死傷者です。
その犠牲を乗り越えて一体化を目指したEUを英国が離脱しようとしているのを仏2も
BBCも意地悪にコメントしていました。
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ソンムの戦いについての質問と言うことだが、何を質問しているのかよく分からない。


接触戦だから人的損害は拡大するのは当たり前。連合国がドイツが等々余り意味がない。
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<連合国軍は戦車などを投入するもほとんど前進できなかったのは、


大規模な長期の準備砲撃や歩兵の大群による徒歩突撃の規模を大きく
しただけで大きな前進を図っていたために連合国側に大きな損害が
発生したという>、<連合国側の攻撃に対し、ドイツ側は無理に陣地
を固守せず柔軟に対応していた>
両方ともおおむね正しいでしょう。

日本語Wikiから、英語とドイツ語のWikiに跳んで見ると<大きな損害>
の原因がわかります。英仏軍側指揮官の状況判断の誤りも有りますが、
双方とも兵員の未熟さと不足を挙げています。

英仏側は、殆ど訓練もしていないボランティアの様な新兵で構成された
軍団でした。これに対するドイツ側は、長引く消耗戦で経験のある
下士官を失って、定数を充足するのも困難な守備に特化せざるを得ない
様な軍団でした。
英仏側は、十分な砲撃をして、歩兵と新兵器(タンク、ガス弾等)を
大量投入すれば弱体化したドイツ軍陣地は破れると見て攻撃を掛け
ました。
対するドイツ側は、兵員不足から、前を薄めにし後方に厚く布陣し、
英仏軍の侵入をある程度許し、その後機関銃MGで掃討する作戦を採りました。

英仏軍の砲撃は凄まじいものでしたが、ドイツ軍のMG陣は健在で
した。「誰も居ない」はずの土地への突撃でしたから、短時間で軍団の
半数を失うと云う失態でした。状況判断を誤った英仏軍は2次3次攻撃
を仕掛け損害は大きくなりました。しかし、それでも数的に優れた英仏
軍はある程度の前進はできました。26kmの戦線に渡り、9.7km深くまで進攻し、再び膠着状態になりました。
後退したドイツ軍を追撃する為の兵員と物資の輸送が機能せず、ドイツ軍に回復の時間を与えたためとされています。英仏側Wiki。

戦車が初めて投入された戦いとして有名です。しかし、投入された49台
の戦車の内19台は前線への移動中に故障し、多くがその日の戦闘中に
故障し、残りも砲撃により破壊されました。ドイツ兵の多くがパニック
状態に陥ったとドイツWikiには書かれています。戦力的には零でした。

有名な小説「西部戦線異状無し」には、停戦間近の情景として
「子供の様な不慣れな新兵がカノン砲の餌に消えて逝く」と高校から
志願して長引く戦いを生き延び、いつの間にか古参兵になった主人公が
つぶやいています。

この戦いの評価は時代で変わってきています。
英国側:勇敢で経験の有る優れた指揮下の敵に対する厳しい勝利の戦い
(1930年頃まで)。1930年代以降:泥と血そして無益な戦い。
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