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戦国時代、代官として所領を預かる身となった時、当然その所領には領主の邸宅があるかと思われます。
ここの煮炊きなどは、いったい誰が行ったのでしょうか?
代官として派遣された領地で、そういった人足を募ったのでしょうか?
それとも、代官が親族や一族といった者たちを一緒に連れて、館に引っ越したのでしょうか?

インターネットで少々調べてみたのですが、いまいち分からなかったので思い切って質問させていただきました。
どうかお教えいただければ幸いです。

A 回答 (2件)

家族を引き連れて赴任した人もいれば、単身赴任もある。


こういうことを知ってどういう役に立つのかよくわからん。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
どちらのパターンもあるんですね、家族連れが基本でも、伴侶のいない人もいるかもしれないですもんね。

どういう役に立つかと問われますと、私の知識欲を満たす役に立つ、という回答が最も適してますかね。
戦国時代に生きていたと言っても、そこには人間が暮らしていたはずですので、武将をはじめとする当時の人々の生活を知ることで、その人々を少しでも身近に感じたい、という思いがあります。
貴方の回答もその一助となりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2016/07/01 23:31

加藤清正が突然熊本の藩主になりました。


まず必要なモノは金です。歴史的な事実は分かりませんが、秀吉から相当の金を貰ったのか堺の商人などから貸して貰ったのでしょう。とりあえずは佐々成政の家屋敷を全て没収して家臣を募集して多くの家臣団を作ったのだろうと思います。
 それから河川の工事です。白川の流れを変えて熊本城周辺に水害が来ないように手を打ってから熊本城の建設に掛かります。当時ですから、コメのおにぎりを食わせると成ればそれだけで人は集まります。そこにいくらかの日当を出せばいくらでも人は集まります。
 そうやって熊本城が出来ると同時に、熊本の街も自然に作られていったと、地元の歴史家は言っております。それまでは農民が労働すると言う事は、強制命令でした。それがわずかでも金をばらまいて熊本の街をどんどん発展させて、治水工事、開墾などをしたのですから、今でも清正公はえらいと伝説のように熊本では語り継がれています。
 家康とかは突然江戸に移ることになりましたので、家臣団まるががえで、佃の漁村の人たちも連れて行っています。京都の老舗も家康について行って今でも京都と東京に店を持っている店もあるそうです。
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この回答へのお礼

お金をばら撒く、というのは豊臣配下によく見られる傾向ですよね。秀吉自身も賃金の多寡で功を競わせたと言う話もありますし。
当時の文化についてお詳しく説明していただき、ありがとうございました。勉強になりました。

お礼日時:2016/07/01 23:35

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