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日本の歴史を見ると、軍事、社会体制、産業経済など多くの面で、西欧の進歩に大きく遅れずにずっと来ているように思えるのですが、それは何故だと考えられるでしょうか。

(前提)
16世紀まで:東洋と西洋に差はなく、それまでの最先進国は中国だという説もある。

(江戸時代以降)
軍事技術:鉄砲や大砲は19世紀半ばまで大きな進歩がなく、それまでは西洋の兵器も火縄銃や和製大砲と大差がなかった。大きく発展を遂げるのは19世紀半ば以降だが、その頃に明治維新を迎えた日本は富国強兵策により急速に追いつくことになる。
蒸気船:西洋で普及したのは19世紀半ばであるが、1853年の黒船来航直後に日本でも蒸気船の製造が始まる。
社会体制:イギリスやフランスには遅れを取るが、小国(藩)に分かれていたのを統一して軍事強化など強力な統治体制を敷いたのはドイツやイタリアと軌を一にする。
産業経済:産業革命が18世紀後半に始まったイギリスは例外的に早いとしても、アメリカやフランスで始まったのは19世紀前半、ドイツやロシアでも19世紀後半であり、19世紀終盤から産業革命が始まった日本はそれほど遅れていない。また、世界最初に先物取引が始まったのは江戸期の大阪堂島であり、工業についても江戸時代後期には産業革命の一歩手前である工場制手工業(マニュファクチュア)の段階まで独力で達していた。
(おまけ)文化:文化の優劣というのはつけられるものではないが、19世紀半ばの西欧ではジャポニズムの風潮が生まれ、西欧の芸術家が日本の美術品から大いに影響を受けた。

質問者からの補足コメント

  • 自分中心史観って何のことですか?私は事実を書いているだけで、史観(歴史をどのように観るか)の段階までいっていないのですが。
    私の質問に対して回答いただいたらそれが史観につながるかと思いますが、私は質問している側ですから。。。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/27 18:34
  • >日本が西欧に伍して成長してきたことはない。
    もし遅れていなければ、第二次世界大戦での惨めな敗北はなかった。
    → 第二次世界大戦では、日本より西欧諸国であるドイツの方が惨めな敗北をした、の一言で反論できてしまいますね。そしてソ連も勝ったものの日本よりはるかに戦死者が多かったようですし、フランスもドイツにずっと占領されて惨めなものでした。イタリアに関しては言わずもがな。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/28 06:32
  • >ちなみに、中国の文化文明の最盛期は春秋戦国時代で、秦の始皇帝以降、清朝末期まで、その発展は止まったままだった。
    中国史に関しては私も詳しいのですが、唐や宋の時代が中国の最盛期だったように思いますよ。唐は当時の名実ともに世界帝国だった頃、宋の時代は産業経済が世界で最も進んでいた頃ですから。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/28 06:49
  • >1868年の日本は世界に大きく遅れていました。これが今につながる原点です。
    出た!あなたのいう「世界」とはどこですか?まさかイギリス、フランスのことだけを指して言っているのではありませんよね?世界最先端の国・地域をさして「世界」と言われるのは困ったものです。
    私が丁寧に書いてあげているのですが、西洋において武器の発達は19世紀半ばから進んだ。そして黒船来航は1853年。その後から日本も近代武器の製造に乗り出しています。確かに西洋には遅れているものの大きな遅れにはなっていません。ペリー来訪時の船団も半分は帆船だったのです。

    そしてドイツの統一は1871年、イタリアの統一は1871年、日本の廃藩置県も1871年に起きました。全く同じ年ですね。これを軌を一にしていないとどうして言えるのでしょうか。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/30 08:40

A 回答 (10件)

近世以降の西欧の優位な点は、(1) 軍事技術や科学工学技術 (機械工学、電気工学、船舶工学、建築学、土木技術)、(2) (ローマに由来する)法律・国際法の整備、大学制度の充実、等でしょう。



日本が西欧を追いかけるのに役立ったのは、いろいろ言われていますが、(1) 技術重視の気風が各藩に根付いていたこと、(2) 各藩の教育程度の高さ、武士・農家・商家の協力体制、(3) 中国が西欧に負けた理由にいち早く気付き鎖国の無意味に気付いたこと、(4) 国際法の重要性に気付いたこと、(5) 300年の平和によって経済基板である商業が栄えていた(世直しに向かえた)こと、(6) 殆どの武士が賄賂に走らなかったこと、(7) 国をまとめるのに天皇制をうまく活用したこと、(8) 国が各藩に別れて各々独自に統治され、硬直的な科挙の制(文系儒学中心の官僚登用試験)を取らなかったこと、など。
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質問者の主旨が不明だが、17世紀は中国の世界だとか、12世紀はモンゴルの世紀だ、とか言うのは歴史的事実ですが、それが現在にどうつながっているかが我々現代に生きている者も考えねばいけないことです。


1868年の日本は世界に大きく遅れていました。これが今につながる原点です。
この回答への補足あり
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質問者fumidera2さんの期待にそった回答ではないと思うのですが、、、



世界の歴史を私が知っている範囲では、大きな発展をした地域というのは、何かしらの専制というか強力な支配者がいて他の被支配者を上手く組織化し活用出来たので、大きな工事や建造物、工芸品、他地域から多くの産物等を集めることが出来たみたいです。
ここで重要なのは、①社会の組織化・多数の人間の活用 ②現状に満足せず豊かさをさらに求める行動、現在の域内で権力の強化を求めるだけでなく、権力の及ぶ範囲をさらに広げようとする行動 ③他地域も視野に入れ影響下に組み入れようとする行動 ④階層化させた人々をそれまでの生業から切り離して社会組織の役割分担を担う専門職業に振り分けていく動きが明らかである などだと思います。
逆にいうと、《その地域でそこそこに満足して生活を続けている、特に強い支配者を持たない、人々が親の業を継いで生業とする傾向が強い》などの特徴があると、成長発展は難しくなるようです。

日本でも、大和政権が列島内で勢力拡張政策を続けた時期、唐などから制度を見習い列島内での組織化を強めた時期、西洋から銃を武器として学び火器を扱う常備軍を編成するようになった時期、戦国勢力を平定傘下に組み入れた時期、城下町や港町のような食糧生産から切り離した地域を作れるようにした時期、幕藩体制のような体制から明治政府による施策で軍制教育産業政策金融政策を実行できるようにした時期、GHQの指揮下で過去の農業農地体制を根底から崩し住民移動と工業社会への転換を行えた時期、所得倍増や列島改造で中央指導で社会経済に対する指導支配を強化実行した時期は、それなりに発展が著しいです。
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> 日本の歴史を見ると、軍事、社会体制、産業経済など多くの面で、西欧の進歩に大きく遅れずにずっと来ているように思えるのですが、それは何故だと考えられるでしょうか。
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長い期間には社会でいろんなことが起きます。 停滞したり、発展したりもあるでしょう。 グローバルで考えた場合には、《他の地域での停滞と発展》と《自地域での停滞と発展》のタイミングと相互の影響が大きく関係すると考えてイイと思います。 自地域の周辺に強く発展する他地域がタマタマあればそれに影響されて他地域の影響圏に一体化する可能性もあります。 地続きだとそうした可能性が高まります。 自地域の周辺の他地域がタマタマあれば混乱や停滞期あれば、自地域は独自の変化を温存してもいられます。 中東、地中海、西欧、中国朝鮮、ロシアなどは地続きだから地域の壁が比較的い曖昧で政権や軍事力、商業活動が互いに影響し合い、地域の独自のリズムで続けるのには難しさもあります。
日本列島はそうした陸続きで世界に繋がるという地域ではなかったし、西欧やアメリカとはかなり離れていて、17,18世紀には西欧やアメリカからは物品の貿易上もさほど重視されていなかったので、一種の経済鎖国状態を続けられました。朝鮮や中国は隣国ですが、その中国は清での最盛期を迎えますが、折しも18世紀は西欧が発展期であり、中国の関心は中国大陸、南シナ、インド、ロシア、中東、西欧に向いていて、朝鮮半島は服属させてしまえばそれ以上の関心はなく、日本は関心の外です。そのような時期だったので、日本は徳川幕藩体制のまま停滞が可能でした。その結果、文明や制度、産業、軍事面では、日本は西欧に遅れをとりましたが、中国ほどの規模が日本にはないので、西欧からの関心は中国に向かい、日本は中継点や《ついで》《副》のサブターゲット地域でした。そのようなポジションだったことは、その後の日本が国力強化策をとっいく上で有利で、西欧諸国から学習や産業化のための支援は得られるが、メインターゲットとしてねらわれることからハズされる状態につながります。 日本国内はタマタマ明治政府が経済困難を抱えていたので軍事力増強・産業復興と面子のための西洋文明導入に熱心になり、強烈な施策をスゴイ勢いで実行しました。(政府に経済的ゆとりがアリ、軍事力にそこそこの誇大自尊心があれば、こうした施策はとらなかったでしょう。しかし、火の車の事情、軍事力が西欧にはとても追いつかないなどは、明らかで、渡欧、渡米した高官は焦って危機感を募らせたのもポイントでしょう) こうした(世襲王侯や貴族中心ではなく、勃興した新政府高官が辣腕で、中央集権で、過去や伝統、生業、家系を無視して、政策を日本全国で一斉に実行できた)ことが、世界の国を相手に戦闘を仕掛けるまでに力を付けた、世界史的なバックグラウンドではないかと思います。

アレキサンダーでも、ローマ帝国、イスラム帝国、ナポレオン仏蘭西、ヒットラードイツなどでもそうした傾向はあります。
イギリスは、囲い込みで労働者を作りだしたことが産業革命を成功させていますし、アメリカは、南北戦争で工業化可能地域を拡大し移民と市場統合で産業を一変しています。
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ミニマムなとこでは皆さんの回答で合っています。


江戸期の算術ブームによる計算力の高さとか、世界一の鉄砲保有国となった優れた鍛造技術、米と貨幣による二重経済で、西と東でまったく違う経済構造とすることによる為替、先物取引など西洋化に必要な制度はすでにあったために、スムーズに移行できました。

それはなぜ?と言うのが質問ですよね

それは日本が滅亡したことがないからです。他国にはあった王朝の滅亡がなかったから成功した。と言えます。

日本が西洋に互した発展をしたことがない。と言うのは微妙です。

発展をGDPで表したり、経済成長率で、あらわせばやはり遅れていました。
しかし、成り立ちが違う文化を正確に比較できるのでしょうか?

日本が国家としてまともに機能していたのは奈良~平安時代までです。
共産主義的な律令制度が破綻して以来、地方分権に突入して400年以上朝廷は機能停止。
この間は、出来る人が勝手になんとかしてたけど、王権を奪おうとする奴は居なかった。ここが日本の不思議なのです。
しかも、実権を失った朝廷から国主に任命されて喜んだり、将軍に任命してもらったり異常事態なわけです。
そういう国民性があって始めてなし得たことであると思います。

ちなみに、たんなる技術の面ではまったく遅れていません。

サンフランシスコ条約以降の
【条約型】
という艦種はドレットノート級やドイッチュラント級のように世界の海軍軍備に大きな影響を与えました。
空母主体の機動部隊設立も一番早いです
真珠湾攻撃によって世界の海軍から戦艦という艦種を消してしまいました。

今や世界標準の迫撃砲は旅順要塞戦での現地部隊の発明です。
歩兵の戦術を変えました。
89式戦車は武装、装甲ともに同時代の世界標準より飛び抜けた戦車です。
体格的に劣っていた投擲能力を補完する目的の擲彈筒も今や米軍の標準装備となっています。
だからって凄いこともありません。
他国だってこの程度の影響はあるものです。
模倣ばかりじゃない創作もある
それができて、有色人種なのに激しい差別と迫害を受けなかったことも遠因でしょうかね。

だらだらしていて纏まっていない内容ですが参考まで。
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基本的に歴史認識が誤っている。


日本が西欧に伍して成長してきたことはない。
もし遅れていなければ、第二次世界大戦での惨めな敗北はなかった。
敢えて言うと、中国が英国を筆頭とする列強に領土を侵食されたようなことは日本では起こらなかった。
江戸時代からオランダのみ日本と通商できていた。世界最強であった、英仏と蘭では日本に対する認識は違っていた。
英国ではなく米国が先鞭をつけた。
ロシアも出没を続けた。
フランスが幕府に肩入れし、英国が薩長に肩入れした。
要するに、列強の三すくみ、四すくみ状態だったことが、日本に幸いしました。
地政学上も大陸にへばりついた日本弧島の重要性はそれほど高くはなかった。
時代は下がるが、義和団騒乱時に、列強側の一員として参加した日本軍が西欧列強よりもはるかに規律的に優れた対応をしたことから、日本侮るべからずとの風潮が英米仏に起こったとも言われています。
もっとも、太平洋戦争にてそんなものは日本にはなかった、との認識をされたようですが。
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日本が単一的民族であったことが


一番重要です。

かつて、国家は王侯貴族だけのものでした。
それを、国民、皆の国家としたのが国民国家です。

国民国家は、国民の力を総動員できるので強い
のです。
欧米が世界を席巻出来たのは、国民国家樹立に
真っ先に成功したからです。

アジアで一番最初に成功したのが日本です。
日本は単一的民族国家であるため、国民国家化が
容易だったのです。

外国から良いとこ取りをして、我が物とする
という長い歴史もあり、これが寄与しました。
外国えを中国から欧米に変えるだけで良かったからです。

それに加えて江戸時代の文化の成熟がありました。

日本の集団主義という特質は、民主制をすんなりと受け入れる
ことが出来ました。

そういう色々な条件が揃って、今日がある
訳です。
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放送大学の夏期講習で「日本近世史」「日本の近現代」が再放送されます。


radikoで視聴出来ます。
「日本近世史」8月24日~9月7日
「日本の近現代」9月16日~9月30日
1講義・45分間・・45X15=675分(11.25時間)

「日本近世史」は江戸時代の経済活動と暮らし振りが主な内容。
「日本の近現代」は幕末から高度成長期の経済活動が主な内容。

1学期の講習で録音に失敗した講義があるので、再録音を兼ねて、
聴講しようと思ってます。
教科書もアマゾンで中古本が手に入ります。

御参考に、なれば・・・
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自分中心史観しかできないようでは、とても先進とは言えません。

この回答への補足あり
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やはり、江戸時代における、経済と教育の発展が重要だわ。


経済については、偉大なる公共事業「参勤交代」のおかげで道路網が発達し流通貨幣経済が隆盛を極めた(教科書どおり)。
特に江戸は地方の武士が集まるため、大消費地帯になり、地方の産物が江戸に集中した。
「江戸っ子は宵越しの金は持たない」と言いますが、背景を考えれば、そこそこ腕のある職人ならば食いはぐれることはなかったということですな。
特に、江戸、大坂では米相場が立ったりして投資経済のセンスも成長したわけですな。
(同時代の朝鮮半島では、金を貯めると下級官吏に奪われるので、流通はぶつぶつ交換が主流だったと言われている、商業に適した流通網もなく、川には丸木橋しかなく、日本の奈良時代ぐらいの文化水準だった)
発展した経済によるおかげで、町民の教育水準も向上し、すでに江戸時代にて識字率は世界のトップクラスだった。
また、この時代には優秀な子供たちは、地域をあげて応援するという風潮があり、優秀な人材の輩出に拍車をかけた。
(今の大人や政治家どもよ、江戸時代の人々を見習え)
長州の吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文、薩摩の西郷隆盛、大久保利通もそういう風潮の中から出てきた。
ちなみに、中国の文化文明の最盛期は春秋戦国時代で、秦の始皇帝以降、清朝末期まで、その発展は止まったままだった。
この中国的停頓は、歴史学者や歴史小説家の研究材料になっている。
司馬遼太郎の説によれば、国家を統一したのが早すぎたということらしい。
国家のエネルギーが帝国を維持することにのみ費やされ、教育や経済発展を促すまでは及ばなかったというのが定説だ。
またヨーロッパのような国家間の競争が皆無だったということも一因だ。
中華思想は国家にとって諸悪の根源だったわけだ。
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徳川幕府の安定した治世が継続した結果


それまで、生き延びるだけで精一杯で無学文盲が当たり前だった庶民階層にも、
生活に余裕が生まれ、教育や文化に接する機会が格段に増えた

出版文化も根付き、思想や統一した教育も可能になった
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