ギリギリ行けるお一人様のライン

お金を貰うという事は、俗悪さを、考えない事に、ならないか、

質問者からの補足コメント

  • 人間が幸福に、なる事を全く、悪いと、思わない事が、恐ろしくも、思える。

      補足日時:2016/09/13 19:44
  • 人間は、生きたら、善いという訳じゃないだろう。人に迷惑をかけない人生に、意味が有るのでは無いだろうか。経済活動しか価値だと、考えず、人を差別して暮らすなら、どうだろう。

      補足日時:2016/09/15 16:55

A 回答 (16件中1~10件)

魂を聖なるものと崇め、金をもらうことを俗悪だと


さげすむ、その矮小な心こそ俗悪なり。
聖にあらざるはなく、俗にあらざるもなし
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この回答へのお礼

じゃあ、貴方は、俗悪だと、いわれて金を払いますか。

お礼日時:2016/09/13 12:12

そもそも、金というものは、物々交換や労働対価の報酬としての食料や物に代わる、便利な物。


保存も効くし、持ち運ぶのに楽、好きなモノと交換できる。
であったので、そうとは言い切れないと思います。物事の本質を考えたほうが良いかもしれません。
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この回答へのお礼

しかし、人格って物は、お金に、ならないのです。貴方は、それを、考えて、居られないでしょう。私は、其れを、俗悪だと、考えます。

お礼日時:2016/09/14 12:55

アルフレート・ゾーン=レーテルを読まれたことはありますか?


わたしはアドルノを読んでいたころ、ゾーン=レーテルを「積ん読」したきりで開いていないのです。
お金は交換価値の均質化のうえに成り立つシステムですが、病根はお金の方ではなく交換価値の均質化のほうであるとわたしは考えます。
交換価値の均質化は、すべての人間の思考様式にまで喰い込んでおり、この力強い交換性に拠って立つことなしに、曖昧模糊と自我の湯船に浸かる人間はいないと思います。言語活動でさえ、ここに依拠するからです。
牝牛と豆を交換したジャックという馬鹿者の昔話がありますが、やがて豆の木を登った彼は天上の巨人から財を盗み取り、裕福に暮らします。
交換価値の均質性を鵜呑みにすることは、目隠しではないのか。
目隠し帯を外すと、何が見えるのでしょうか?

交換価値の均質性の亡霊は、社会とも倫理とも分かちがたく結びついており、諧謔の精神や、スラップスティック、ルイス・ブニュエル的な自由といった無秩序によって破砕されるものの、メタ(上位)表象において手を結び丸く収まります。つまり、『ジャックと豆の木』は語る者と聞く者のあいだで交換され、小さな貨幣1枚が語り手の掌に渡った時に、一番可笑しみがあるでしょう。倫理的ないし社会的な答えの出ない与太話が、社会的な振舞いをするのですからね。

しかし、ナラティヴ(発話)のほかに、もうひとつのメタ表象があります。それは記憶と経験です。知性の外にあるそれらを、物象化することはできないでしょう。期待もそれらに加えようと思います。
わたしたちが目隠しをして、交換価値の均質性を了解している一方で、目隠し帯を外すと、記憶や経験や期待だけが価値を持つ世界があることでしょう。認知以前、言語以前、ではありますが、これは奥の深い世界です。他者との連関を免れるわけではない、繋がらないようで繋がる次元、とでもしておきましょうか。
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この回答へのお礼

私なんか、アルバイトするだけで、魂に、善くないと、思いますよ。アルバイトは、お金で、人格を買われる事ですからね、

お礼日時:2016/09/15 07:49

> アルバイトするだけで、魂に、善くない



何故、賃金報酬を呉れるというところに、のこのこ顔を出しているのですか?
労働を差し向ける方向が間違っているのではなかろうか?

大切なのは、恵みを得た、と感動する心で、
さらに大切なのは、
労働のあとに訪れる恵みとは、あなたにとって何かを、
知ることではないのですか。
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この回答へのお礼

私は、労働って、人格を深める事だと、思ってたんですよ。だから、面接では、本音で、対話する人格的な交わりが有ると、思ってたんですよ、本当に、

お礼日時:2016/09/15 18:58

>しかし、人格って物は、お金に、ならないのです


なりますよ、お金に。一般的にそういう商法を人脈商法(悪徳・マルチ商法が良く使うもの)勧誘者(プレーヤー)の人格を形成?する人脈を食いつぶして金を稼げます。
人脈を食いつぶされたプレーヤーは、社会的人格が破綻し、誰も見向きもしてもらえなくなりますが。

金が俗悪なのではなく、適正利潤としての対価以上を要求することが俗悪なだけです。
物々交換の中で、りんご一個と鯖一匹が対価であるか?そういった物をクリアにするにあたり、ツールとしての金であると思います。
金はツールであり物品です。物品である以上それの価値は変わります。別の物品である日本円とアメリカドルは別々の価値によって評価されるので為替相場というものが有ります。
金は物であって、物が俗悪なのではなく、物を使い所有する人格が俗悪だから、俗悪であると考えてしまうのではないですか?

適正な労働対価によって得た物は、人格を変えないか?正の価値向上に役立ちますが、

不適正な労働対価を得て物品を蓄財する者の人格は負の評価を受け、社会的に孤立していきます。それが怖いので、適正かつ巧妙に蓄財を使い、人脈を広げ自己の人格を浮上させるよう努力する。
↑のような人間が俗悪なだけだと思いますよ。

あなたは金と言うものに対して、色眼鏡で見ているのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

申し訳ありませんが、それは私が、思う人格では、ありません。

お礼日時:2016/09/16 13:34

人が生きるのにお金が有るんだと思いますが??



人が居るからお金が有るだけ!

それ以外でも無いしそれ以上でもないでしょ・・・
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この回答へのお礼

要するに、反省しないって事です。

お礼日時:2016/09/16 22:33

反省???

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この回答へのお礼

そう、お金に、するって事は、人間性を反省しないって、事です。

お礼日時:2016/09/16 22:48

貨幣経済というのも


現代までの人類の進歩の流れの必然の中で生まれてきた
一つのひずみのないシステムと考えていいように思います。

まず人間というものを群れを成す動物から進化してきた
社会に貢献する必要がある生き物としてとらえたうえで
人間も永久機関ではないのだから
価値を為して社会に貢献することで対価を受けて
収支を調整しなければ自己の存在すら維持できない
ということにも気がつくべきです。

その際の収支の調整を円滑に機能させるものとして獲得された貨幣経済の中で
‘お金‘という存在に対して俗悪と身構えるのは行き過ぎだと思います。

‘お金‘は手段でありその使い方でその意味が決まる
それ自体では全くニュートラルな存在としてとらえるのが
妥当だと思います。
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この回答へのお礼

お金は、霊的な生活の手段には、成り得ません。その事を、反省出来ません。

お礼日時:2016/09/18 19:58

> 労働って、人格を深める事だと、思ってた



恵みというのは、外在的なものの訪れであり、
贈り物や賜物のように、
他なる力によって、あなたの経験と交わるわけです。
作物であれ、獲物であれ、製造物であれ、アイディアであれ、変容であれ、
労働に多くの必然や偶然をかさねて、外部に形を顕すという場合に、そこに動的なデミウルゴスがあるのです。

人格を形成することや人格が変容することは、
自己の、生得的で、内在的な本質であり、
けっして労働の本質ではないはずです。

ここがあなたの履き違えているところかと思われます。
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この回答へのお礼

社会に、道徳を感じられないなら、本当に、生まれる理由が無いですよ。生活出来たら善いという人は、甘えてるとしか、思えない。お金儲けばかりしないで、立派な事を考えろと、思う。お金儲けしかしない俗人より、俗人が勝手に、引きこもりだと、思ってる、社会不適合者の方が偉いよ。

お礼日時:2016/09/18 21:36

> 俗人が勝手に、引きこもりだと思ってる、社会不適合者の方が偉いよ



引きこもりは、もちろん、乞食や浮浪者や出家ではない。
国家と経済の構成単位である家庭に帰属しているということが、引きこもり者のアトリビュートなのだが、そのことによって、拝金主義的な消費者性格にまったく背を向けていないどころか、引きこもり者は、親世帯の経済活動を通して、循環経済社会のもっとも末端で、与えることなく与えられすぎている、つまり、物質的に肥える者の立ち位置にある。

あなたは、精神的に肥える者を讃えるのではなかったのか。

道徳は社会に深く根差し、この社会構造ゆえの倫理と法が、家庭で養育される子供の獲得すべき社会性をも示しています。
けれども、現実の倫理と法が、金儲け人間を形成するためにあるというような見方ほど、表層的で浅薄なものはないでしょう。倫理と法は精神の均衡を知る手掛かりとして、これほど、重要なことはありません。

精神の均衡はコンプレックスと闘っています。コンプレックスとは、心理の力動的な結合です。均衡の力をたくわえて幼児が脱却する性質を、引きこもり者は断ち切っていないでしょう。自己が何を他者に与え、他者に自己が何を与えられているか、をめぐる高い思考力のさまたげとなるもの、すなわち、自己愛、自己中心的な価値観、不均衡な依存、乏しい想像力、乏しい注意力、乏しい対話力、乏しい企画力、乏しい実行力など。

わたしたちは、ガラス玉演戯ほどの霊格の世界に生きるというわけではないのです。しかし、与えることを恐れ与えられることに鈍感であるというわけにはいきません。感受性のすぐれている者は、交換価値を金銭だけでは測りません。さらにそこに均衡を知る心があるかどうかは、労働と賃金報酬の表層関係だけからは見えてこないものです。あなたは目に見えないものをどれくらい見通していますか。
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この回答へのお礼

私は、現実の倫理と法は、お金儲けしか為ていないのに、いかにも、精神性をも、追求している様な、見せかけの精神文化を作ると、思います。

お礼日時:2016/09/19 05:14

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