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才能って生まれつきの能力ですよね。
言わば、努力してないけど、出来が良いみたいな。
って考えると、周りの人間が自分が凄いと思う事してるときに簡単に「才能あるね」って言って良いんでしょうか?もしその子が努力してこその能力だったら失礼ですよね。
よって、他人から言われるものじゃないと思うのですが。。世間でそういうのをよく見かけます。偉人さんが
「彼にはなんたらの才能がある」とか。

a:君のなんたらの能力凄いね
b:自分でもビックリですw才能あるんですかねえw
こういう感じなら納得です。


これも言わば時代によって言葉が変化するというやつですか?他人より能力上だったら簡単に才能があるっていう風になってしまったのでしょうか?

A 回答 (10件)

世の才能がある人の頂点に立つ天才と言われる人たちは、恐ろしいほどの努力をしています



よって、努力をしてそうなっても、それも才能です

まず、凡人には努力すらできません

例えば東大に入る人はもともと頭がいいと思われがちですが、彼らは毎日10時間以上勉強し続けるのが普通です

そんなものは努力ではないのです

東大生というのはそういう世界です

一般人からするととんでもない努力をしていても、それが当たり前なんです

それを、才能といってもなにもおかしくありません
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自分がどんなときに真剣にこの言葉を使うか?



経験があれば分かると思いますが、

後輩を育てようとして励まそうとするとき、ふと自然に出てきますよ。


「自分が同じ年齢であったとき、迷ってしまったことがあった。

 もしそのとき継続を断念していたら、今に到達しなかった。

 続けていて良かった。」

そんな気持ちでいることが前提でしょう。


そんなことを思っているとき、

同じように迷って辞めてしまいそうな人に対して、

「君には才能がある。(だから継続しなさい)」

と言いますよ。

「ここで辞めてどうするんだ。勿体無いだろう。」

そんなシーンを良く想像して、その積りになってください。

自然にわかるでしょう。



勿論、誰に対しても言うわけではなく、

「この程度できていれば、この後(自分が経験した競争や努力)を想定しても、

 大体において大丈夫だ」

と思える人に対してだけです。


どうやって自分がここまで来たのか知っていますから、

これは当たるはずです。


ですので、

偉人さんに限らず、指導的な立場にある人は、自然に使うでしょう。

これは師弟の間でのプライベートな会話であり、第三者は聞いてはいけません。

勿論、相手が子供の場合は、指導者が親に話しておかないといけません。

親が阻害してしまうかもしれないですし、

親のほうもそうした情報を得て、教育の方針を変えたいからです。


私たちは、子供の頃にこうした会話を聞いて、

自分のことでないと知ってがっかりすることがあります。

そのためトラウマとなり、強い印象として覚えてしまうんでしょう。

ヤッカミとして使用する人は、そうした経験があるんじゃないでしょうか。




しかし、相手に能力が及ばなくても自然に使えるときがあります。

自分が憧れている人、同じように成りたいと思っている人。

そんな友人や先輩がいたとしましょう。

この人が(自分にとっては瑣末時に思えることで)悩み、

継続を断念しようとしていたとします。

一過性のものですから、このあと自然に回復するはずですが、

迷って決断をしてしまうと、取り返しがつきませんよね。

これは、勿体無くて切ないと思います。


こんなとき、

「大丈夫だよ。貴方には才能があるから。勿体無いよ。」

と本気で言いますよね。

これは、友人や後輩でさえ、師の代わりに励ますことがあるという例です。


こうして考えますと、才能と言うのは社会的な役割であり分担を指します。


本当にあるギフトではなく、

ギフトがあると信じて騙されてくれてもいい、

とにかく継続して欲しいと言う、発言者の嘘です。

「やれば出来る子」

とあんまり変わりが無いですね。



これを言われる人は、

経過時間に対しての到達点で測られます。

努力できる時間を寿命として沢山残している人を励まします。

ですので若い人に対して使います。

もっとも進展している人。

この人を支援すれば、人類としての記録を伸ばせるかもしれない。

そのために、継続的な努力を皆が求めるというだけです。



どちらかと言うと、

「なんだかわからんが、今お前が上位だ。辞めるんじゃないぞ。」

と言う気持ちであり、応援ですね。

この後に、努力をしないでも大丈夫なんだと誤解した人がいれば、

「なんだかわからんが、今お前は凡庸だ。昔は違った。

 才能が勿体無かったな。」

と言います。

到達点、進展度合いに対して、継続を誘う励ましの言葉であって、実体はありません。

本人の努力次第です。


整理しますと、

「努力によって最も進展し、何時でも結果を残せる力を持つ人がいて、

 周囲の人は知っているが、世間が知らない状態であるとき。

 本人にとっては世間が自分を認知していない状態であるので、

 体感として自分に自信が持てず、継続に関して迷いが生じている。

 こんなとき、周囲の人が驚いて、

 まだ世間が知らないだけで、

 有名になっている人と同じステージにいるから、辞めちゃダメだよ!」

と伝えて励ますための言葉でしょう。



「努力をしないで結果を残せるという能力」

と言う解釈は間違っています。



しかし、多くの大人がトラウマに成っていると思いますよ。

幼少から競争を誘われるからです。


それでも真実は、

努力が足りず、誰にも励まされなかっただけなんでしょう。

そうした子供の頃の記憶は必ず本人にあるはずです。

「俺の子供の頃の怠惰さは、親しか知らないし。

 ここは内緒にしておこう。

 今の自分がかわいそうなのは確かだから、これで押しきろう」

としますから、

「才能のあるやつには勝てない。」

などと確信犯的な嘘を言ってしまいます。

このため、多くの子供が誤解をし、更にやる気を無くすんです。


そして、

才能と言うギフトが本当にあるとして、創作物を作ると、沢山売れます。

自重するのが立派な大人だと思いますが、

売れるのだから仕方ないとして、そうしたお話を沢山作ってしまうんですね。


私もそういうものを書いて売れたいですよ。


ですので、

努力をして力を身につけた場合、指導者が自分を励ますときに使う言葉。

と覚えておけば、迷わないで済むと思います。


偉人が言うのは自然でしょう。

第三者が使うときは、相手のファンでなければいけません。


それ以外で使うため、嫌な響きを帯びるんでしょうね。

「何の才能も無い私は、努力をしても無駄なんだから。

 一体なにを楽しみにして生きていればいいんですか?

 それでも努力しろって言うんですか?」

こんな事を言えば、意味が全く逆ですから、とても恥ずかしいという事になります。

子供の頃に努力をしていれば、必ず先生が才能があると言っているでしょう。


しかし、この嘘も本人が既に自覚しています。

「やっぱり努力しないで過ごした子供時代で差が出てるなあ。

 だけど、いまさらと思って出来ないよ。

 それでも努力しろって言うなら、大逆転できるネタを募集。

 俺が君らに圧勝できるネタを、君らが提供してくれるなら、

 努力してやってもいいぜ。

 そういうネタが無いのに、

 自分らが有利だとか思って人にとやかくいうなよ。

 俺はチャンと今、人生として冷遇されるという罰を受けてるんだぜ?

 勝ったお前らにとっては、俺を見て上からモノを言うのがご褒美なんだろう。

 メシウマのネタに俺を使う積りなんだろう。

 そうはさせるか、俺はお前らが愉悦に浸れないように、抵抗してやる。

 人に説教するやつをいい気分にさせるもんか。」

となります。

勿論、本当は誰もが同じですから、

同病愛憐れむ状態で、本気で親切に接しているのが大半でしょう。

そのため、いきなり失礼な事を言われて驚く人が大半でしょう。


才能と言う言葉、努力と言う言葉、

そしてこれらから生じる人の振る舞い。

すべては繋がってセットになっています。


迂闊に継続を断念し、師が言う言葉に反抗する。

これが本当の原因ですが、人も動物であるので、そうした本能を持ちます。


他人のメシウマに抵抗するよりも、

そうした本能に抵抗できるかで自分を試し、力を伸ばすことは晩年も出来ます。


こうした努力は、

才能と言う言葉が似合わないくらいの(年配の)年になっても、

誰もが独りでやらないといけません。

ここにおいては公平なのですから、諦めずに自分と戦い続けたいものですよね。


以上、雑駁としましたが、ご参考と成れば。
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それは「国語力」です「社会性」でもある。

同じ事を、おだてる、褒める、貶める、無視する幾らでも表現は有り、両者の関係、TPOによりその時々で多様に変化する、それが出来ないと物事が思った様に進まない。
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才能って生まれつきの能力ですよね。


   ↑
ハイ、先天的なモノと言われています。



周りの人間が自分が凄いと思う事してるときに簡単に
「才能あるね」って言って良いんでしょうか?
もしその子が努力してこその能力だったら失礼ですよね。
  ↑
ハイ、失礼だと思います。
ワタシ、学生時代に空手部にいたのですが、
理系だったので練習にはあまり参加できません
でした。
それで、家に帰ってからも練習したり、歩き方まで
考えたり、どうしたら強くなるかを懸命に勉強
しました。
それで、クラブ最強になれたのですが、
「お前は才能がある」
といわれて、少しむかつきました。
才能じゃない。
頑張った結果だ。



偉人さんが「彼にはなんたらの才能がある」とか。
   ↑
偉人レベルになると、死に物狂いの努力は
したし、才能もあった、ということに
なると思います。
そういう意味ではないか、と考えます。



これも言わば時代によって言葉が変化するというやつですか?
他人より能力上だったら簡単に才能があるっていう風に
なってしまったのでしょうか?
  ↑
頑張った結果だ、ということになると、
結果を出せないやつは頑張らなかったやつ、
つまりダメなヤツ、という評価になります。

しかし、才能なら先天的だから本人に責任は
ありません。

そうやって、頑張らなかったダメな自分に
言い訳しているのです。
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才能を「物事をなしとげることのできる力。

」とすると、生まれ持った素質や性質等だけではなく、スキル(技能)が必要だと思います。

そうだとすると、スキルは、生まれた後の教育や訓練等で習得しないとなりませんから努力が必要ですね。

例えば、スポーツや芸術の分野でも、生まれ持った素質や天性だけでは、才能を発揮出来ないのではないでしょうか。

「玉磨かざれば光らず。」という言葉のごとしではないかと思うのですが。。。
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生まれつきでも努力してでも


「結果」を褒めているのだから、いいのでは
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生まれつきの能力だからといって、努力していないという意味にはなりませんよ。


それに結果が出てる人なら環境や運、その他の要素にもなりますしね。

熊川哲也さんは成功の理由を聞かれたら才能、と。
マスコミは努力というのを期待するけど
トップクラスで競い合ってる人たちは皆努力してる、と。
自分より努力してる人もいるのに
自分が努力と言ったらその人の努力を否定してしまう、と。

交配に交配で改良して、名馬を掛け合わせて産まれた
サラブレッドだって、そりゃ能力差は大きいですが
そのレースに出たり、勝つには
調教や日々のトレーニングをしなきゃです。

才能があっても、持っている才能を活かすには
努力が必要なんですよね。

それに、努力って、時間や回数で図る人がいるけど
できる人は一回の集中力や、処理している情報や
改善する意識が桁外れで
漫然と繰り返してる人よりよほど重い一回、という場合もあります。

しかし将棋の渡辺明さんはあまり天才と言われるのは
好きじゃないみたいですね。
勉強して、努力してるから、と。
あなたみたいに、天才は努力しなくても、というイメージがあるのでしょう。

でも努力したぶん伸びたり、努力の仕方や内容が優れていたりはやはり天才だと思います


別に努力と才能は逆方向じゃないと思いますがね。

偉人が彼には才能があると言ったら
相応の努力したら、成功できるという意味でしょう。
才能ある人にはさらなる上の段階での競争や努力が待ってますからね
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普通は、努力すればできる事は、才能とは呼ばないんじゃないですか?


当然、才能がある人の中で努力した人が抜きんでた成績を上げるのは確かですけどね。
生まれつきの能力だけで、抜きんでた成績を上げる人は、天才とは言うでしょう。
この場合は、努力して成績が上位の人を秀才と呼びます。
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経験的なものですが、私は、才能=生まれつきの能力、ではないと思います。


才能=生まれつきの能力+努力+運+α のようなものだと考えます。

それぞれの配分は人それぞれなのだと感じますが、生まれつきの能力は開発して訓練する部分がないと幼少時の成長過程で伸びないと思います。
そこで伸ばす部分は良い師に恵まれた才能にあったものに巡り会えた等、運の要素が入ってくると思います。
子供の頃の若い頃の訓練や努力、もっと言うと目的に合致した努力や優れた師の教えが有って才能は開花するのだと私は考えます。
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>もしその子が努力してこその能力だったら失礼ですよね



努力も才能のうち、とか言いませんか?

努力も含めて「才能あるね」と言う解釈も出来そうです。

言葉の変化とは関係ないです。
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