鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

アンサープラス

核兵器は通常兵器と比較して威力が極めて大きいため、大量破壊兵器として部分的核実験禁止条約などで規制されているようですね。


下記ページにも詳細が記載されています。参考になるでしょう。
・原子爆弾-Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90 …

A 回答 (4件)

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて


12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。
    • good
    • 205
この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい、申しわけありません。
当時の人口とその被害者の方の数字を照らし合わせると、恐ろしくなります。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/10/05 16:14

こんにちは



広島ではその年の(1945年)12月までに14万人が亡くなったと言われています。壊滅状態にあった都市での記録としての数値にはかなりの誤差があり今でも新事実により爆発の高度などの数値は修正されています。60年経った今でも真実が測り知れないほどの被害があったとも言えるのではないでしょうか。平和記念公園には「慰霊碑」と「供養等」の二箇所に犠牲者のお名前などが記されていますが、「供養等」には名前も分らない多くの方の遺骨が納められています。
今の核兵器は「水爆」がほとんどですが、メガトン級のものがほとんどです。(広島型は15キロトン)これからの核兵器はもっと小型で軽量化されるものが開発される方向にあるようです。
    • good
    • 48
この回答へのお礼

こんにちは。お礼がおそくなってしまい、もうしわけありません。

たしかに、数値はおおよその目安はあっても、計り知れないものなのかもしれません。現在開発されている、水爆などは、いくつか使用すれば、地球全体が滅亡する力があるのですから、もう、開発などは、各国やめて欲しいと願うばかりです。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/10/05 16:12

 原爆が広島・長崎・に投下された由来を知ることが必要でしょう。



原爆・長崎・広島の被害者数は,広島40万長崎20万,(現在まで年々原爆被災で死んでいく原爆被災者を含む。)

(1)当時、日本は戦争終結に向けソ連に仲裁を求めていました。ソ連はそれを無視し連合国側となったわけですが、日本政府の関心はもっぱら終戦に向け「天皇の立場」の保障でした。最初のポツダム宣言に保障は書かれていませんでした。返答の期日も明記してありませんでした。

(もっとも原爆投下命令はポツダム宣言以前に出されていましたが)日本側は原爆という具体的なものではなく特殊な強力兵器の一種を米が開発したとの情報は知っていたようです。

アメリカは返事を待たずに二発目の長崎型(プルトニウム)を投下したのですが、その後に連合軍は天皇の地位を保証する旨を通達してきました。そして終戦です。

広島の被害(原爆の正体)が分る前に二つ目が落とされた事、軍が政治を握っていた事も”動き”が遅くなった要因のようです。日本は壊滅状態にあり市民はそれどころ
ではない状態でした。当時の価値観は今と相当の開きがあります。

(2)戦後ラジオなどを使い「真相はこうだ」といった番組が1年近く流されました。GHQによる統治の始まりです。軍関係の事はほとんど「悪」に塗り替えられたようです。様々な記録も軍やGHQにより破棄されました。公的記録が事実ともいえないところです。

アメリカの良心について
当時アメリカはオサマビンラディンに対するように集団ヒステリー状態でした。最初の原爆を自国で実験したときにその威力に驚きはしても計画中止には至りませんでした。中には開発に反対の人も居ましたが少数でした。「世界警察」として強いアメリカを誇りにする軍人に殺人の命令が来れば人としての心は影を潜めるのでしょう。

現場が彼らを動かしたのです。もちろん宋美齢が涙ながらに教会で巡礼をしたことは、日本を「東洋の極悪国」に位置付ける格好の材料になったのですが・・・
当時の先進諸国がどの様であったかはすりかえられているのでしょうね。

歴史は作られるとは良く言ったものだと思います。

「原爆投下は多くの命を救った」事を信じる事で殺人者の汚名を着ない(着せない)のですから悪夢は見るかもしれませんし、後の支援は行ってもそのこと自体はどうでしょうか・・資料館で涙を流されるアメリカの方は少数派です。これが現実だと思います。

広島原爆資料館,説明指導員の話をまとめました。
日本はアメリカの原爆投下で終戦を余儀なくされましたが,一方日本は中国で特に《南京虐殺事件」は三光作戦。のひとつ,日本軍部の行為を,併せ知るべきです。
南京屠殺博物館の個人のレポートがあります。作者の許可を得て,参考URLに記します

参考URL:http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/ta48.htm
    • good
    • 27
この回答へのお礼

お礼がおそくなり申し訳ありません。
当時の各国々の、行動と、自国の利益ばかりを追求した結果、このような悲惨な事態になってしまったのでしょうか。米国も、第二次世界大戦では世界警察の役割をもって動いたと思いますが、その時の世界情勢との欧米の状況からすると、日本の扱われ方に疑問を覚えることも、しばしばあります。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/10/05 16:08

こんばんは。

広島県民です。夏が来ればいつも学校でこのネタで平和学習というものをやってました。

「広島県しかこの学習はしない」 という話をまことしやかに聞きましたが他県の方ホント?

長崎は聞き覚えで9万の方が亡くなられたと聞きました。修学旅行で長崎に行ったのに忘れてしまった。
情けない。スマンです。

参考URL:http://www.pcf.city.hiroshima.jp/peacesite/Japan …
    • good
    • 27
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

原爆の恐ろしさというものを改めて知り直しました。本当に、言葉では言い表せないですね。

ところで、私は関東地区ですが、小・中・高と、歴史の授業で、第二次世界大戦、世界で始めて・唯一の被爆国と必ず、習います。そのと時に、原爆とその被害の様子を一時間~二時間位かけてならいましたが、毎年、平和学習として夏やることは無かったです。

お礼日時:2004/08/03 01:05

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q太平洋戦争!核兵器VS化学生物兵器は!

太平洋戦争では一方的に核兵器の攻撃で
日本が負けましたがこのときすでにかなりの数の
化学兵器<毒ガス>や生物兵器<細菌>があったと知りました
当時の日本が化学生物兵器で反撃とかは連合軍は考えなかったのでしょうか?
それとこれらで核に対して反撃した場合の国際世論はどうなんでしょうか?
それから<伊400型>潜水艦で米本国への化学兵器での反撃の
さいの講和やその後の核兵器の攻撃中止などの話し合いなどが
持てるのでしょうか?
歴史に詳しい皆様想像でもええので教えてください

Aベストアンサー

当時はまだしも今では十分最終兵器たる実力がありますね。化学・生物兵器は貧者の核爆弾と呼ばれてますから。

朝鮮戦争やベトナム戦争で使われたレベルでは、まだ「バント」クラスでしたが今では抑止力の一つとなっているでしょう。
ですが例えばアメリカがイラクに核を使わなかったのは、それよりも国際世論というのが圧力としては大きかったと思います。

Q戦争の死者について

人類誕生からいろんな戦争がありましたが、ほんとうにおおまかでいいので、いくらくらいの人々が亡くなったかわかりませんか??現在の地球の人口の何倍、などのようなわかりやすい表現で教えていただきたいのです。はっきりとした数字じゃなくていいのでどなたか教えてクダサイ。

Aベストアンサー

 
  どこかに地質時代の人類発祥以降、または歴史時代、過去8千年とか1万年とかでの戦争の犠牲者・死者の推計があるはずです。簡単に検索で調べて見ましたが、出てきません。そこで、考え方というか、推計する基本的な方法というか、方針のようなものを述べてみます。
 
  あくまで私見ですので、間違っているかも知れません。
 
  とまれ、最初にこの質問を見た時、人類発祥後で、2億人程度だろうかと考え、いや3億人ぐらいだ、とか勝手な数字を空想したのですが、参考URLの文章を読んでいると、20億人か30億人か、それ以上ではないかという風に、十倍以上に増えました。どうして増えたのかという理由などを以下に記します。
 
  基本的には、戦争の犠牲者・死者の推計の前に、人類の歴史的個体数の推計が必要になります。古代ローマ帝国は、数々の戦争を行いましたし、有名な戦闘や戦争の名が残っています。紀元一世紀にローマはエルサレムを破壊し、多数のユダヤ人を奴隷にし、ユダヤ人の多くは、ここでディアスポラ(離散)の民として、パレスティナから世界に散って行ったとされます。これは有名なエピソードですが、この時の「虐殺」でどれぐらいの人が犠牲になったのかというと、案外少なかった可能性が高いのです。
 
  ローマはフェニキアを征服し、フェニキアの植民地で分国であるカルタゴは、ローマに反抗し、ローマとカルタゴの戦争は、カルタゴ軍が、ローマ市間近に迫るというような、ローマ共和国自身の存続の危機もありつつ、ローマの勝利に終わり、カルタゴ人を虐殺し、生き残りはすべて奴隷とし、カルタゴの存在そのものをローマは消し去ります。この事件で何人が犠牲になったのか、これもかなりな数に思えるのですが、実数が分かりません。
 
  また、もっと有名な古代の戦争は、エジプト神王ラムセス2世が、ヒッタイト帝国と互いの存続をかけて戦った「カデシュの戦い」があります。しかし、この戦いに至るまでに、パレスティナ地方は、何度も何度も虐殺や戦争を経験しており、この小競り合いの頂点に「カデシュの戦い」が来ます。この戦いは、世界の戦史のなかで有名なのですが、カデシュの砦をめぐる攻防戦では、エジプト軍は多くて5万人、ヒッタイトの寄せ集めの連合軍が、それよりも多く、10万人から6万人ぐらいだったはずです(ヒッタイトの精鋭は、エジプト軍より少なかったでしょう)。
 
  この後、中近東に擡頭したのはアッスリヤですが、アッスリヤは、ともかく至るところで人を殺し残虐行為を働き、何千人殺したとか、何万人焼き殺したとか皮を剥いだとか、そんな自慢を一杯しています。……こういうことを考えていると、段々、戦死者の数が増えて来たのです。(また、減ってきたとも云えます。変な表現ですが)。
 
  戦争の被害者・戦死者というのは、その内実は何なのかということも問題になります。直接の戦闘員の戦死者及び負傷後の死者の数か、非戦闘員の一般民衆で巻き込まれた人も数えるのか、また、戦争の後は、死体の処理などが円滑に進まず、疫病が流行ることが一般にあったのです。飢饉も起こります。逆に、飢饉や疫病によって民族移動したりして、それが戦争となることもあり、飢饉・疫病・戦争などは、どれが原因でどれが結果か分からないほど相互に込み入っている場合もあります。
 
  また、戦争で滅びたとか、多数が死んだと記録されているものの、どうも自然環境の変化で、居住できなくなり、民族移動したことを、戦争での敗北に結びつけているのではないかと思える歴史上の事件もあります。
 
  結局、人類は、全体で、何人ぐらいいたのかが、問題になります。正確な数字は忘れたのですが、紀元1世紀だと、地球上の全人口は、1億か2億であるという数字があったと思います。中国やインドは、この時代にも大人口をかかえていましたし、中近東やアフリカにもたくさん人がいました。すると、ローマ帝国の領域には、どれぐらいの住民がいたのかというと、数千万人もいたかどうか疑わしくなります。ラムセス2世のエジプトの人口が幾らであったか、百万人もいたかどうか、疑問にもなってきます。20世紀には、人口は、30億人とかいう規模になっています。この規模だから、スターリンの大虐殺で何千万人も殺されたらしいとか、毛沢東もそれぐらい殺したというのも、可能だとなります。紀元前15世紀だと、何千万人とは、存在する全人類の数にもなって、その半数が殺される超大事件が起こっても、スターリンの虐殺規模になります。
 
  正確な数は分かりませんが、1万年以上前の人類は、人口総数が百万人いなかったはずです。10万人以下ではないと思えるので、多めに見て50万人とします(本当は、20万人かそれ以下だと思います)。一世代を25年とすると、1万年は、400世代です。1万年のあいだに人類は、2千万人いたことになります。100万年で、ようやく20億人です。500万年で、100億人です。本当はもっと少なかったはずなのです。またこの数は、「或る程度の成人人口」です。幼児死亡率が極端に高いので、次世代を残さないで死ぬ少年少女は、余りの数と考えねばなりません。これらの少年少女の数も入れて、50万人ということなのですが。
 
  これに加えるに、急に飛躍しますが、農業を開発してからの約6千年ほどを別途計算します。農業生産・遊牧生産で人口は増大し、一世代に5千万人ほどいたとすると、6千年は、240世代で、これに5千万をかけると、120億人になります。次に、紀元後の2000年間、平均5億人だったとすると、世代数80世代で、人口400億人です。以上をトータルすると、620億人です。500万年のあいだに、これぐらいしか人類はいないので、しかも、400億人は、紀元後の人口です(これは、以上に数字根拠を述べているように、元にする推計数が違うと、簡単に一桁程度の狂いが出てきます。ただし、紀元後の人口が莫大だったのは事実で、減る場合、100億人少ないというような話で、増える場合、総人類人口は、6000億人だったとかいうような規模の推計が出る可能性があります。紀元後の人口が400億人ぐらいはあることは分かっているので、これよりも減ることはないということです……ただし、人口が5億人になったのは、10世紀頃からだという考えもあるはずで、最初の千年は平均2億で、40世代、80億人、次の千年が、平均6億人で40世代240億人とすると、推計が320億人となり、先の400億人より100億人ほど少なくなります。これは人口カーヴが、近世へと近づくと急速に上を向くからです)。
 
  いま生きている人は、500万年の人類の歴史のなかの10人に一人だというのは、何か凄いことかも知れません。
 
  以上の人口600億人の90%以上が、飢餓か疫病か事故か、野獣に殺されるか、ともかく、人間の寿命を全うせずに、十代、二十代で若死にしているはずです。三十代というと、長老・老人だというぐらいの時代が、何百万年も続いたというより、平均年齢が、30歳を越えたのは、農業生産が始まって、定住生活をするようになってからか、または、紀元後のことだとも思えます。農業生産以前の時代は、95%が25歳ぐらいで子を複数人産んだ後ぐらいで死んでいたとも云えます。15歳ぐらいから女性が子どもを産み始め(多分、12歳頃からだとも思えますが)、25歳ぐらいまでのあいだに、5人から十人子どもを生んで、そのなかの二人が生き延びて次世代を再生産すれば、人口は維持できたのです。多産多死です。
 
  地質時代の500万年のあいだにも、個人間の闘争や、集団のあいだの闘争(これが、その時代の戦争でしょう)で死んだ者が、かなりいたはずです。死者の半分は多すぎるとして、五分の一ぐらいとしますと、最初の500万年で100億人ですから、その五分の一は、20億人です。
 
  次に農業生産になると、定住生活が加わり、集団の規模が大きくなります。古代都市国家、あるいは農業集落連合の原始国家のようなものが成立します。こういう古代国家同士の争いは、戦争でしょう。飢饉や疫病などの効果も相乗し、生活が安定したとはいえ、互いのあいだの戦争による死者も増大した可能性があります。人口の五分の一は、前の500万年と同じに見えますが、5千万人の五分の一とは、1千万人です。こんなに戦争で死んだのかという疑問が起こります。農業生産時代6000年間で、120億人ですから、その五分の一は、24億人です。500万年かけて、20億人、戦闘の死者が出たのに較べ、今度は、約千分の一の時間で、24億人、戦争で死んだことになります。人口の母数が大きくなったのです。
 
  五分の一は多すぎるような気もしますが、直接の戦闘員だけでなく、戦争関係で死んだ者も数えると、少なすぎるかも知れません。そこで、紀元の最初の千年は、80億人で、その五分の一は、16億人です。もっと大勢死んでいる気がしますが、この程度にします。次の千年は、240億人で、この五分の一とは、48億人です。結局、総人類人口の20%が戦争での死者だという計算で、人類総数を、620億人ないし、それより80億人少ない540億人としたので、後の数字を使うと、その五分の一は、108億人になります。
 
  人類500万年の歴史のなかで、戦争に関係して死んだ者の数は、約100億人という数字になります。最初の2億、3億どころか、20億、30億どころでもありません。しかし、まだこれでも控えめに思えます。
 
  こんなに戦争が起こっていないはずだと思うなら、中国の歴史とか、インドの歴史、中近東の歴史、アフリカの歴史、西欧や東欧の歴史、南アメリカのマヤやインカやアズテクの歴史を調べると、流血と戦闘の虐殺事件が、次々に起こっています。中国は、大規模虐殺が多く、一度に何千万人とか、虐殺で、殺されるというような事件が反復起こっています。モンゴルの征服は、最初は皆殺し戦争で、帝国が大きくなると、あまり人を殺さなくなりますが、それまでに何千万人殺したのか、一億人なのか、見当も付きません。
 
  以下の参考URLは、「ものみの塔協会」の主張を反駁する文章ですが、戦争の名前が一杯挙がっていて、これを読んでいると、何らかの意味の争いで、人が死ぬのが珍しいと感じる日本のいまの感じ方が、歴史的には非常に特異なのだという思いです。日本は奈良朝の初期以前を除くと、あまり戦争で人が死んだ国ではありません。日本の戦国時代と、中国の戦争時代は比較にならないぐらい日本の方が平和で、殺し方にしても、中国では、軍隊が各地で敵を破ると、千人オーダーで首を切って行くとか、何万人を埋め殺したとか、戦闘、飢餓、疫病、拷問などで、一州から人口が半分消えたとか、そういう事件がずっと続いて起こっている国です。
 
  農民暴動がしょっちゅう起こっていた国で、そのたびに鎮圧で、何十万人虐殺とかが日常茶飯事ですから、ともかく大勢戦争で死んだことは事実です。人口の五分の一で、少ないように思えるというのは、こういうことを考えていると、そうなってくるのです。いまの日本や西欧やアメリカでの「人が死ぬ」というのを、サンプルに考えていては、出てこないことです。
 
  以上、推測や空想を積み重ねて出した数字で、どこまで根拠があるのか、責任は持てません。数字の積算法を説明していますから、どこかでトリックしている場合は、それも分かると思います(わたしは、トリックは行っていませんが、知らずに、そうなっている可能性があります)。
 
  >「終わりの日のしるし」-戦争の歴史
  >http://www.jwic.com/war.htm
  

参考URL:http://www.jwic.com/war.htm

 
  どこかに地質時代の人類発祥以降、または歴史時代、過去8千年とか1万年とかでの戦争の犠牲者・死者の推計があるはずです。簡単に検索で調べて見ましたが、出てきません。そこで、考え方というか、推計する基本的な方法というか、方針のようなものを述べてみます。
 
  あくまで私見ですので、間違っているかも知れません。
 
  とまれ、最初にこの質問を見た時、人類発祥後で、2億人程度だろうかと考え、いや3億人ぐらいだ、とか勝手な数字を空想したのですが、参考URLの文章を読んでい...続きを読む

Qフィリピンのマニラ市街戦で市民の死者が10万人も出たとはどうしてですか?

第二次世界大戦中、フィリピンのマニラ市街戦での死者は日本軍1万6555人、米軍1010人、マニラ市民10万人だそうです。
どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?
普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。
この場合、アメリカ側に逃げればよいわけで、逃げ遅れたにしても10万人は多すぎます。(東京大空襲と同じ)
逃げることのできない理由があったのでしょうか?
スターリングラードの戦いの場合は、ソ連軍が市民が逃げることを禁じていたと記憶しています。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>フィリピンのマニラ市街戦で~どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?
 
 まず、マニラ市民の死者は、1945年2月の市街戦だけで発生したのではありません。それ以前の44年9月21日から始まったアメリカ軍の空襲からすでに生じていました。

>普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。

 つぎに、さかのぼって42年の日本軍進攻の時にマッカーサーがオープンシティ宣言をしたため、日本軍は平和進駐を行いました。そのマッカーサーが今度はマニラを徹底的に破壊するなどとよもや市民たちは思いもよらなかったので、疎開しなかったのでした。
 
 さらに、マニラ防衛の日本軍は、陸海軍とも寄せ集めの兵と歩兵火器中心の武装でしたから、よもや頑強に抵抗するようにもみえなかったでしょう。当初日本軍も、一定の抵抗をしたのちに東部の山中へ退却する予定でしたから、一方から歯磨きのチューブのように押し出せばどちらの側にも多くの犠牲者が出なかった可能性があります。しかし、実際には米軍は包囲作戦を採ったため、日本軍の退路は限られてしまい、また、日本軍自ら橋梁を破壊してしまったため孤立化したので多くの市民を巻き込んでしまった、というのが実情でした。

 大岡昇平は『レイテ戦記・下』(中公文庫版)にこう記しています。

 彼(註・マッカーサー)はフィリピン解放を十分に果たした。~軍事的拠点の徹底的砲爆撃という戦闘方式の結果、フィリピン人は家を焼かれ、多くの非戦闘員が死傷した。~マニラは徹底的に破壊された。~ニミッツによれば、彼は自分の赴くところ、常に激戦地にならなければ気がすまなかった男だ。この処置には、日本軍に強要された形式的なものであるとはいえ、対米戦争状態宣言をしたラウレル政権に対する懲戒の意味が含まれていよう。~そのためにマッカーサーは破壊的攻撃をしなければならなかった。破壊と放火はこれらの日本の部隊が行なったものだ、ということになっている。そのため実際には責任がなかった山下大将が、不法な手続きによって絞首刑になったのだが、これは実際は米軍の行なったマニラ破壊を日本軍に転嫁するするためであった。(同書308・309頁

 昨年8月、NHKBSで『ハイビジョン特集 証言記録 マニラ市街戦』という長編ドキュメンタリーが放映されましたが、この中で赤十字のマークを掲げた病院を米軍が爆撃して多くの市民が殺されたとか、米軍がガソリンを流し込んだため地下に潜んだ市民が焼き殺されたという生存者の証言でも明らかです。

 日本軍によるマニラ市民殺害について。基本的に軍事基地の所在をシビリアンが敵軍に通報するのはスパイ行為に当たり、これは処刑の対象となります。米軍のフィリピン攻略は、殆どのフィリピン人の協力があったので、マッカーサーは「これほど楽な戦いはない」といったそうですが、マニラにおいても、住民が日本兵の潜むのを見付けるとすぐに米軍に知らせ、すぐに猛烈な砲撃が始まり、日本兵は逃げ場もなく物陰に隠れるだけだった、と当時の日本陸戦隊将校が回想しています。(峰尾静彦「マニラ海軍防衛部隊の悲劇」による)

 さきに回答のなかに「日本軍がマニラ市民を攻撃した」という表現がありますが、陸戦隊将校の回想を見る限り、市街戦で圧倒されるなか、個別の例はあっても組織的な余裕はなかったようです。こういう追い詰められた状況にあって、日本兵は市民の誰もが通敵者に見えたというのも無理がない部分があります。しかし、それで市民殺害が正当化されるわけではありませんが。

 日本兵の戦死が約1万6千に対して米兵はわずかに千名。市民が10万名。その数字を見ると米軍に協力して日本兵に殺され、米軍の無差別攻撃に殺され、また何の関係もない無辜のマニラ市民がさまざまな理不尽な理由で殺された、というのが事実に近い、と思います。
 


 

>フィリピンのマニラ市街戦で~どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?
 
 まず、マニラ市民の死者は、1945年2月の市街戦だけで発生したのではありません。それ以前の44年9月21日から始まったアメリカ軍の空襲からすでに生じていました。

>普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。

 つぎに、さかのぼって42年の日本軍進攻の時にマッカーサーがオープンシティ宣言をしたため、日本軍は平和進駐を行いました。そのマッカーサーが今度はマニラを徹底的に破...続きを読む

Qスマトラの津波の死者

東南アジアの各国での津波の被害に驚いています。
11万とか12万とか14万とか(いまだ情報が錯綜しているようですが)の方が亡くなったそうですが、今までにこんなに多くの人が津波、または他の災害で亡くなった例は他に歴史上あるのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
現時点で、関東大震災級という事になりますね。

歴史的には、中国だったかな、唐山大震災の24万というのがあります。

参考URL:http://www.cv.its.hiroshima-cu.ac.jp/~kazutaka/recollection/jisin.html

Q真言宗系の寺院の多さについて

平安仏教である真言宗の寺院が9000以上もある理由について考えています。

以下の点についてアドバイスいただければうれしいです。

1.平安仏教は山奥での厳しい修行により、密教を体得する宗派で、病気平癒や五穀豊穣などの加持祈祷を行い、主に貴族や皇族を商売対象としていた。一方、鎌倉新仏教は新興の勢力たる武士や民衆への布教を目指した。

2.天台宗系仏教寺院は、約4000ほどに対して、真言宗派は9000もある(臨済宗派、浄土真宗派は1万超だが、浄土宗、日蓮宗、曹洞宗より真言宗派寺院が多い)。

3.いわゆる新義真言宗は、室町時代以降のため、どちらかというと鎌倉新仏教の布教方針に近く、民衆布教のため、各地に末寺を多く抱えた。(豊山派などの寺院は5000強ある)

新義真言宗は、平安仏教の特色をもちあわせてない?と考えるか、何か真言宗寺院が増える要因があったと考えるか・・・・。

Aベストアンサー

煎じ詰めると真言宗は金を持っていた。
ということかと。

政治と宗教との関係
安藤正純 大正12年著作 190ページによれば
江戸時代に朱印地は寛文年間(家綱)で 3678箇所 181730石
宗派別では
天台 360
真言 110
浄土  91
禅宗 146
日蓮 45
一向 41

高野山 21000石 ← 真言宗
輪王寺 13000石 ← 日光
寛永寺 10740石 ← 上野

最大の寺領を持っていたのが、高野山であり、輪王寺と寛永寺が徳川家の菩提寺としての機能がある分を考えると、高野山は突出しています。

さて、ここで、江戸時代の寺院を考える上で、寺単位では宗派替えも行われていたこと、浄土真宗以外では、妻帯出来なかったコを考えることが必要です。さらに、江戸時代は、宗教は脱臭されて、村単位で考えれば、どんな宗派でも良かった。

高野山は、2万石という大名並みの寺領を持つことで、宗教者の育成に成功し、宗教者の供給源になります。
ある村のお寺の僧侶が死亡した時、宗派に拘らないならば、もっとも宗教者を供給している宗派から僧侶がやってきます。
その供給源が高野山=真言宗 ということになります。

1番の仮定は、現代から宗教史を整理すると
という話であって、室町中期くらいまでは、兼学が当たり前
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%81%B5
栄西禅師が尊敬した明恵上人は、華厳・真言をおもに学んだ人で、北条泰時に強い影響を与えています。
また、蓮如が生まれるまでは、浄土真宗も「自称親鸞の子孫がいる寺」くらいのレベルで、親鸞なんかしらん。というのが実情でした。
いろんな戦国時代の有名人が高野山に行ったり、葬られていますが、真言宗を信じていたというのではなく、日本最大の霊場の一つだからというくらいのものです。

煎じ詰めると真言宗は金を持っていた。
ということかと。

政治と宗教との関係
安藤正純 大正12年著作 190ページによれば
江戸時代に朱印地は寛文年間(家綱)で 3678箇所 181730石
宗派別では
天台 360
真言 110
浄土  91
禅宗 146
日蓮 45
一向 41

高野山 21000石 ← 真言宗
輪王寺 13000石 ← 日光
寛永寺 10740石 ← 上野

最大の寺領を持っていたのが、高野山であり、輪王寺と寛永寺が徳川家の菩提寺としての機能がある分を考えると、高野山は突出しています。

さて、ここで、江戸時代の...続きを読む


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング

おすすめ情報