
No.17ベストアンサー
- 回答日時:
過分なお褒めをありがとうございます。
ニャンポコさん、さては人間ことさら女性を扱い慣れたモテモテの色男ですね。。。用心しなくちゃ。さて、予告通りネオテニーです。生物界で、幼形を保つことによって、環境変動に応じて変化する力がある、という考え方があるのはご存知ですか。この考えに立つと、ヒトはチンパンジーの子供の形態のまま、ヒトになっているとみなします。体格や筋力や生殖力の素早い獲得はあきらめて、そのかわり、好奇心のおもむくままに警戒もせず、経験したり学んだりする機会をたっぷり持った結果、ヒトは高い知能を獲得した、とする仮説です。近年、この古いネオテニー説に、遺伝子の制御過程(エピジェネティクス)を結び付ける考え方も生まれてきました。特定の遺伝子の活性化のタイミングを遅らせて、わざわざ幼形でいることによって、種の多様性や可変性につながるメリットがあるのだろう、と。
ひょっとすると、人の心もずっと一生、幼形を残したまま、世界に適応していこうとするのではないでしょうか。ネオテニー的には黒人より白人、白人より黄色人種のほうがが幼形成熟だと主張する方もいますが、まあ、アメリカのビジネス哲学が心のリミッターをはずすだけの一方で、幼き日本人が向いているのは、目先の即戦力でなく、心の多様な成長だったりするのかもしれません、なーんて言えたらいいんですけど。
感動する心は、死のトリガーに抵抗して、生のトリガーに繋がっているように思います。人は人の群れの中で生きますが、同時に、人は人の心の中でも生きているでしょう。そういう関係性のもやもやした謎は、何か大事なものを蔽うヴェールのようなものに遮られていて、そのヴェールをめくる経験・動作こそ、感動の方向なのではないかなと思うのです。それは心の秘密の動作で、心そのものの自然な成長やヒト世界そのものへの気付きだから、役に立つとか、評価できるといった意味での成長であるはずもなく、伸びしろと言うべきなのかもしれません。創造的な仕事をするためには必要不可欠なものだと思います。
見る-見られる、聞く-聞かれる、触れる-触れられるヒト世界には、誰かの思いであることも自分の思いであることも不可分な曖昧な領域が、たくさんありますが、それらのイメージの肌理(きめ)みたいなところ、非常に手触りをもって心の中で撫で返す感覚ってありますね。これも感動にちがいなく、幼形成熟の心にとってナデナデの大切な過程なのではないかと思います。感動には、こうした肌理の再認と咀嚼と吸収や沈殿があり、いつかはわからないけれど、活性化のタイミングがあるのではないでしょうか。伸びしろ的な成長を恐れなければ、飛躍的に視界が開け、心が洗われるような感動が来ると思うのです。
わたしが深い深い感動をおぼえた経験は、夢の中であることが多かったです。それは夢の中の建物のことも、美術のことも、音楽のことも、風景のことも、エピソードのこともありました。迷いの日々に、そんな関係なさそうな夢を見て、開放的な光景の中で自分の思いが精鋭化できて、進む方向がなんとなく決まって行くときもありました。
最近の自分はナデナデの充電ばかりで、自己開放しません。ヴェールをめくる気力もいまいち。。。心が老化していると感じます。
こんばんは、お待ちしていました。
>女性を扱い慣れたモテモテの色男
私は古典的考え方のつまらない人間で、モテモテになりたいとか思ったことすら
一度もなかったですね。
でも、今はちょっと違っていて、少しの間でいいからモテモテの色男になって、
素敵な貴女を口説いてみたい、そう思っています。
。。。
あ、さて、「ネオテニー」という考え方があるということすら知りませんで、簡単
に予習をしておきましたが、なかなか難しいですね。
要するに、人間が成長幅の大きい未熟な状態で生まれてくるのは、環境変動に適応
するためだということのようですが、そのことは今の私の力では何とも理解できな
いことです。
ただ、人間の一生と言う限られた時間の中でのその意味は、努力して成長してその
喜びを感じるためにそうなっているのではないだろうかということは、以前から考
えておりました。
また、黒人より白人,白人より黄色人種、女性より男性,早熟タイプより晩熟タイプ
の方が「ネオテニー度は高い?」そういえるのでしょうか?だとすれば、日本人の男
で晩熟タイプの私は、最も成長できる幅が大きいのか、などと考えたりします。確か
に私は今だに自身の成長を感じています。
そして、あなたの文章に目を転じてみると、確かに難解です。(しかし、私は駄々をこ
ねたりしませんから大丈夫です)
>感動する心は死のトリガーに抵抗して、生のトリガーに繋がっている
間違いないと思います。
>そういう関係性のもやもやした謎は、何か大事なものを蔽うヴェールのようなもの
人間同士の複雑な関係、縁、因果、カルマ等といった要するにありとあらゆる「実在」
が「神」という名のヴェールに蔽われている、ということを仰っているのでしょうか?
ちょっと、尻切れトンボですが、時間の都合で。
No.31
- 回答日時:
なるほど。
。。。初めて腑に落ちた感じでは、ニャンポコさんは倫理の人です。
江戸の町人みたいに、明快で心の中に世間を持った(西洋風に言うとこれが倫理的とか共生社会的ということだと思う)人の匂いがします。
科学とは別次元で、義理や道理や人情が出来事の流れを作る様子を見渡す目は、法の目だと思います。その意味ではニャンポコさんは法の目をお持ちだという気がします。そしてニャンポコさんのもう片方の目は、民俗・風習研究の目です。人に語り継がれて物語の中や文化の中に沈殿している、考えの足場を、露わにする目ではないでしょうか。
これらのどの要素も、霊性に触れる問題だし、現実の人間の共同体の切実な問題です。なおかつ面白いです。共有したい問題だと思いますが、見当違いかな?
感動を巡る質疑応答が、いろんな方向性を含んで拡散したようですが、いずれゆっくりと取り出して焦点をあてていけたらと思います。
壮大な『何という広がり』やミステリアスな『見知らぬ女』の光栄なイメージを贈ってくださり、座布団もお茶もお団子もひとまずもう頂くのは遠慮します。でも人相見でも宗教家でも神秘家でもなくて安心しました。
>人間はどう生きればいいのか?根本的な失敗をしない?善く生きる?それはどういうことだと思いますか?
戦争そのものや人殺しそのものよりもさらに、戦争を引き起こすもの、人殺しを引き起すものを避けるということじゃないでしょうか。失敗をしないとか、善く生きるとかが、ただ体験に由来するように理解する人々があれば(今日の学校はほとんどそう)、そんなところで止まるなと思います。体験を知り、考え、そして討議する、それを知る、再び考え抜く、そして討議する、というループの中で、考えなしに流されて命を損なう行動が消えていく、というのが、根本的な失敗の対極にあるような気がするんですよね。
ではまた。何度も返信が間延びしてすみません。
私の前回の文章を読んで、一つの文句も言わずあのような評価をする人はこれまでもいなかったし、これからもいないでしょう。つまり、運命的な事実だろうと思う、いや、真面目な話が。
仰るようなことの専門的な研究をしてきたわけではありませんが、そういう興味をもって社会を見、考えてきたことは間違いありません。
以前も申し上げましたが、現代的ファシズムが先進国を蔽いはじめ、やがて人類を蔽い尽くす前に、民衆が目ざめ
民衆主導の民主主義社会を作るべきだと思っています。そのためには、自分たちが住む「小さな地域」の中で、事実の上に「文化」を作れるかどうかが最重要なことだと考えます。上から変えることは不可能と思います。下からです、しかも田舎の小さな地域からというのも面白いでしょう。
このことに私は、残りの生涯を費やすつもりです。
>座布団もお茶もお団子もひとまずもう頂くのは遠慮します
かしこまりました。おもてなしではなかったんですけどねえ‥
私は宗教家ではないですが、信仰を持っています。
命なんですね?生命の尊厳という哲学をお持ちなんですね?
今回の質問では私のにしては多くの回答をいただきました。特にあまがっぱさんからたくさんのコメントを頂きました。満足できる思索ができました。皆さんに感謝します。
No.30
- 回答日時:
うん。
きついというよりひどいかもしれません。ごめんね。死後のこと、分かりたいとおっしゃって、わたしもぬるいことは言えなくなりました。「偶然はない、つまり、人の運不運の差には原因がある、ということは、カルマがあり、前世がある、ということは死によって消尽しない何者かがある」
、、、という言葉、口だけで言うとすれば軽いけれども、経験で言うなら重く暗く救いのない話であり、直視しようというのはニャンポコさんは途方もない覚悟なのかもしれません。
カルマが分かり、その糸を引く糸車が先に分かっていたら、未来を生きることや子供を儲け育てるのはむなしいことになってしまうでしょう。
しかし、そうもいかないので、自分のカルマが、次の世代の命にどう糸を引くのか、また、自分の「死」によって「消尽しない」ような力や場が一体何のわざを行うのか、子供によって知るというのが東西の世の真実のようです。
百鬼丸の父は、ギリシャ悲劇に似て、息子に殺される運命ですが、百鬼丸は因から逃れようとして闘うほど、因による結果を引き寄せてしまいます。オイディプス王みたいです。オイディプス王の物語の神託は結果を告げることで原因を作っているという不気味な作用を働いていました。
こんなことから、「偶然は絶対にない」と「分かるためには、何らかの足場を残しておかなくては」というニャンポコさんの言葉に触れ、子の代においてそれが明証的だという思いはすぐにわたしの心に浮かびました。
と同時に、悟りにも執着なく平凡な日常に気付く、という禅宗の見解をわたしは好んでいますから、興味は興味として、生きる姿勢では、潜在世界などに無頓着であることをおすすめしたいと思っているのですが。
「俺の本音」は。。。。どうでもいいかな。このサイトには誰でも見られる過去ログがあって、書いてある文字がすべてなのだから、あとは、読み違える人間と、読み取れる人間がいるってことについて、わたしにはどうにもなりませんから。そもそも読み取れているからこうしてわたしとお話ししてくださっているんでしょ。
>わたしもぬるいことは言えなくなりました
。。。分かりました。
>読み取れているからこうしてわたしとお話して下さっているんでしょ
「俺の本音」をもう一つ披露いたしましょう。
№13で私の好きな絵のことを語っていますが、あれは私のあまがっぱさんのイメージそのものです。付け加えると日本人的な情の深さ、純情さ‥どうです、いい線いっているでしょ?
でも、私はひどい裏切りにあっているし、商売なんかしているから人間のエゴを見すぎていて、人を信ずるということに慎重に臆病になっているのだと思います。信じたいんですけどね。
私は、宇宙も生命も人間も何もかも知りたいです。特に人間のこと。
人間はどう生きればいいのか?根本的な失敗をしない?善く生きる?それはどういうことだと思いますか?
カルマっていうと世間では、人間がどうあがこうがどうにもならない運命、へたをすると「呪いがかかっている」
なんていう風にとらえられがちですが、もっと単純に明快に考えるべきだと思うんです。なにせ切実な問題だからです。
悪いことをすればそれが因となり、悪い業が積まれる。良いことをすれば、良い業が積まれ、バランスシートのように借金が多ければ苦しい人生になり、資産が多ければ余裕のある人生が送れ、その差引残高は常に変動的である、と。
悲劇というものは日常生活の中に常にあります。例えば自殺です。日本では年間3万人と言われていますが、「変死」「行方不明」を入れると推計が10万とか20万という説もあるそうです。東日本大震災では2万人近い人が亡くなっています。私はたまたま助かりましたが、閖上という津波で消滅した街へ仕事でよく行っていましたから、その時間にそこにいたらどうなっていたか分かりません。
その他、いじめ、交通事故、難病などなど。
その原因となる「悪い行為」というものは、どこにあるのでもなく日常生活の中にあるはずです。これを皆が知恵を寄せ集めて研究をしてゆけば次第に見えてくるのではないかと思うわけです。
また、カルマは個人個人の所有だと思います。行為の結果であるからです。例えば、子供の病気で親が苦しみますが、それを見て親子ともども宿命に縛られているという印象を持つのでしょうが、そうではなく子供は子供のカルマで親は親のカルマで苦しんでいる、と考えるべきだと思います。お互いに縛られてしまうと思うからです。
No.29
- 回答日時:
百鬼丸だから。
毒舌は嫌いじゃないけど、ちょっとこれ、きつすぎないかい?
それとさ、ちょっと俺の本音を聞いてよ。
以前サイコロさんがA氏、B氏のことを言ったけど、俺はA氏のことは興味があるけど、
B氏のことは、あれほど腹黒い人はないと思っていて「全く」信用がないんです。で、
A氏とB氏は仲がいいという話しがある(俺はそうでもないと思うのだが)。だから、B氏
が絡んでくると「腹黒つながり」がひょっとしてあるんじゃないかという疑心暗鬼にな
るのです。
まだ付き合いも浅いし、文字だけのやり取りは判断材料が限られてるから、悩ましいで
すよね。特に俺は「人間ウォッチャー」だから人の表情による判断により頼っているか
ら尚更。
でも、「どろろ」の動画見てくれたんですね 。。。
No.28
- 回答日時:
にゃんぽこさん、世界を分かりたいんですね。
人間をかな。
偶然はないと分かるために死んでも消尽しない足場を残すつもりなのですか?
子作りでいいんじゃないかな、
ひっどいカルマが残るという算段で。
あはは、、、なんちゃって。
霊的な足場か足枷かわからないけれど、
それを忘れて今生の現世という贈り物がある、と思えば、
根本的な失敗をしないように
善く生きる
それだけではないでしょうか。
アンネ・ラウは、贈り物を受け取り損ねる子なのでしょうか。
たぶん生まれつき手掛かりも足場もなく、
子供時代が終わると保護者による梯子も命綱もなくなってしまうので、文字どおり宙ぶらりんになったことでしょう。
アンネ・ラウの、痛い、という言葉が印象に残っています。
地〈じ〉の世界だけでは、殺伐としたものなのでしょうね。
No.26
- 回答日時:
お久しぶりです。
すっかり冬ですね。ナマズに食べられる鳩の話、面白いです。
> 鳩に鯰に襲われるという経験の記憶がない
襲われた経験があったうえで生き延びる鳩が増えれば、変わっていくのかな。
本能だけで皆が適応できるわけではないので、たくさんの失敗が費やされること、運不運も避けられないですね。見渡せば死屍累々の歴史で。そして危機一髪の勝者の歴史でもあって。
そういう死者と生者からの膨大な歴史遺産が(DNA的には呼び声なんだと思うけれども)、たった今・此処というリアリティを保全しているのではないかと思うんです。肉体が生を受けているのは偶然ではあるけれども、意志は己が生に必然を見ているという、流れと能動的知覚との、双方向の力がかかっていると思うんですね、意識には。。。 それが、今・此処のリアリティだと言ってみたいわけですね。。。現前性というか。
普段、生きる経験には惰性があって、経験の持続や対象の同一性をわれわれは楽に直観していますから、一種の受け身で世界が流れるように入ってきます。しかし、能動的に知覚や注意力の高まりがあると、現前に強烈な特性がもたらされるのではないでしょうか。そうしたとき、慣れていることとまったく違う、新しさに曝されるともいえるし、それで人が満足を得るか不安になるか一概には言えないのですけれど、どこかで能動性を刺激して自ら変わろうとするスイッチを押しているのかもしれませんね。
空とおっしゃったのは、イメージ論として鋭いと思います。地と図の関係において図を構成することは、空即是色の核心だと思います。ただ、クラウドのような情報空間であるというよりは、形相や概念がほどけて霧散し消尽するのが空の状態だと思います。そう思うと、現前、て何なんでしょうね。
謎ですよね、人間は。
世界への能動性、成長する心を肯定できなくなったら、きっと人は感動しなくなるでしょう。
東北の長い冬が始まりました。先日、例年よりずいぶん早い初雪が県内に降りました。
寒いのは苦手です。
すべての生命体の行為(=死者と生者からの膨大な歴史遺産)が、宇宙空間という巨大サー
バーに記憶される、しかも「空」の状態で。そしてそれを個々の生命体が共有する。
こうなっているのならば、昆虫の不思議な生態も、人間のカルマも説明できる気がします。
そして、この「ビックデータ」が「たった今・此処というリアリティー」を保全している。
保全といいますか半ば支配されているのではないかとも思います。
人間ならば無意識の領域から、下等生物なら完全に。
現在の一瞬の「意識」に流れと能動的知覚との、双方向の力がかかっている‥なるほど。
流れーつまり惰性に流されるか、能動的に生きるか?
この能動性ですが、自己中心的能動性であれば「感動」の方向性ではないはずです。です
から、生命の能動性の根源となるものは、というか、能動性の方向性は「慈悲」というこ
とになるのではないか、と私は見当をつけています。
頭の中は様々なものが渦巻いているのに、これしか書けなかった。
いけね、4時過ぎちゃった。では、おやすみなさい。
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G.Rさんだとわかっていたら、文字を惜しまずお礼の文を書いたのに。
例えば、私はスポーツ観戦をしていて感動することは余程でない限りないですが、ロサンゼルスオリンピックの女子マラソンでフラフラになってゴールした人を覚えてますか?私はあの時感動して涙が止まらなかったです。
プロスポーツは商売であることを知ってしまってからは感動はなくなったのです。興奮はありますが。
つまり、人は人の「真心」とか「強い思い」に感動を覚えるんだと思うのです。私はそうだから、皆もそうなのではないかということです。
競馬を見て感動するのも、ゲームをやって感動するのも、結局そこを見ているんだと思います。ただ、興奮するとか恍惚とするとかいうことと混ざっていることはあるでしょう。
昨夜は、久しぶりで考え込んでしまい、時間切れになりました。
何故あなたの文章がよくわからないのか?、あるいは分かった気にならないのか?
私の興味のある分野で、思索の経験があることで、それほど難解な言葉が使われているわけでもないのに。
単に私が未熟だからという理由だけではない気がして。
何らかの「リミッター」もあるに違いないと思う、私の中で。「疑う」とか「気が変わる」なども含めたもの、それを私は「カルマ」と呼びます。
それから、人が自分の考えたことを忠実に表現しようとした言葉は、ナデナデのものを排しているので
(こういう理解でいいのかな?)所詮完全な理解など無理なものなのか。
あなたにはあなたの「癖」があるはず。極めて創造的だということがその一つですね。
あなたの知性に興味を感じるので、分かりたいですね。
日本人は「感傷」が多すぎないか?
(注1) 竜騎士、槍の名手。若い女性なのに爺さんのようなしゃべり方をする。
行方不明になった恋人を想い続ける一途な女。
(注2) 世界に名を轟かせる無双の女剣士。主君に忠誠を誓い働き続けるも、主君の黒い野望を知り
「私はこんなことのために腕を磨いてきたのではない!」と叫び、後に反旗を翻す。
女性の真心に触れたときは時に腰砕けになってしまいますが、男性の強い思いに
触れたとき、やはり感動するのですが、厳かな、身の引き締まる思いになります。
男としてこの感動を大切にしてきました。そして、これからも男として生きてゆ
くことになるのです。
あまがっぱさんの回答を読んだ私の感想を、絵画で表現しました。
今の私の頭の中もこんな感じです。
№26の補足欄を使ってしまったので、こちらに書きます。
>現前って何なんでしょうね。謎ですよね、人間は。
今、この瞬間の心身統合体としてのわれわれ人間は、死とともに形相や概念がほどけて霧散し消尽してしまいます。肉体は元素まで分解され、精神も消えるのでしょうね。
そうすると、もう人間の死後のことは分からなくなってしまう。しかし、私は一庶民として分かりたいのです。分かるためには、何らかの足場を残しておかなくてはならない。それは「偶然は絶対にない」ということです。これは、私にとっては哲学とか信仰といっていいものですね。
偶然はない、つまり、人の運不運の差には原因がある、ということは、カルマがあり、前世がある、ということは死によって消尽しない何者かがある。
それは、死の状態であった地球に生命をもたらした何者かである‥ちょっと無理がありますか?(笑)
「自明性の喪失」のお薦めのところだけ読みました。
これは、やばいくらい面白いかも。
「自分というものをしっかり保つというもう一方の面が私にはないのです」とありました。
人間の精神は二つのものの均衡によって成り立っているーという漠然とした思いがありましたが、やはりそういうことなのかなと。
守護霊、倶生神、幽体離脱、自分を見た人の体験、分裂症等々、頭を駆け巡ります。
忘れないように此処に書いておきます。
続きです。
科学ではカルマの問題など全くお手上げなわけですよね。でも、実は人間にとって実に切実な問題で
科学でわからないから何も考えないということが、私には納得できないのです。
だったら庶民が考えて「文化」にしたらいいじゃんか、と思うのです。例えば「偶然は絶対ない」って科学では言えないんですよね?でも庶民の間では結構同意できることだと思います。こういうことを思考の「足場」と言ったのです。
そういう足場をいくつか使って思考を重ねていけば、何らかのものは生まれてくるだろうということです。
私が「現実的理想主義者」であることをお忘れのようです。理想家である前に私は現実家です。ですから、独力で死後の世界の解明に飛び込むなどということはないです。でも、優しいあなたは心配してくれたんですよね?