痔になりやすい生活習慣とは?

こんばんは。

隠しても仕方がないので、種明かしをしますGrass_Rootsです。

さて、最近フェイスブックで、偶然日本のアート・サークルというもののメンバーになりました。
わたしは2007~8年にOkwaveを退いてからずっと海外拠点のSNS-ブログをやってきて、そこでは(広い意味での)アートがお互いのコミニュケーションの手段でした。(わたしと同じ程度の英語力しかないヨーロッパの人も多いので)

今回そのサークルで、「美術館に子供を連れてゆく際のマナー」、あるいは「美術作品についての知識はどこまで必要か?」といったことが議論されていました。

先ず第一に感じたのは、「美」を観る際にはたして「ガイド」は必要か?ということです。
個人的にはひとつの作品に虚心坦懐に対峙すること、そこで自分が何を感じたかを反芻してみること、
それでいいのではないかという気持ちがあります。

更に美術館内での作品鑑賞の際のマナーについても、日本と海外の違いがあるように思います。
以前SNSの友達だった帰国子女の女性は、「外国では生活とアートが地続きになっている」
と言っていました。たしかに日本人のアートに対するスタンスは随分アカデミックな気がしています。

またわたしの乏しい経験から、日本人は作品を分析的に批評することには長けているけれども、
外国の人が絵や写真を観ると、(無論彼らは専門家ではありませんが)表現力が豊かだなと感じることがしばしばです。例えば、港の桟橋のベンチにうなだれているホームレスの男性のモノクロ写真を観て、
「きっとこの人は語ることをたくさん持っているでしょうね」というような言い方をします。
一枚の絵からもうひとつの絵(物語)を作ることに長けているという印象を受けます。

そこで質問としては

(アートを含む広い意味での)美を鑑賞するには、ガイドー予備知識は必要か? 必要であるとすればそれはなぜか?またどういう知識を指すのか?

美術館での作品鑑賞の際のマナーはあるのか?「他の鑑賞者に迷惑をかけない」という際の「迷惑」の線引きは何処にあって誰がするのか?

そのような「美術」、「アート」に関する話をお聞きしたいと思います。今回は多少「形而下的な」(?)おはなしかもしれません。

下の絵は目の不自由な人がゴッホのひまわりの3Dプリンターのレプリカを触っているところですが、
作品との「接触」「接近」についてもご意見をお聞かせください。
https://www.facebook.com/VanGoghMuseum/photos/a. …

「「美」の鑑賞法」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • Cleaning woman in MOMA, 1950's

    掃除婦が壁のアートを見つめている写真です。場所はニューヨークのMOMA (ミュージアム・オブ・モダン・アート)わたしの好きな写真です。アートは特別な人のものではありません。

    「「美」の鑑賞法」の補足画像1
    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/10/22 01:22
  • 野生(オリジナル)イン ミュージアム

    "Please Do Not Touch ( And Do Not Blow )"

    「「美」の鑑賞法」の補足画像2
      補足日時:2016/10/24 03:09
  • yy8さんの「愛」についての質問に投稿しようとしたら既に締め切られていましたので、投稿しようと思っていたことをこちらに書きます。

    光圀の印籠は権威の象徴です。善人でも悪人でもこの権威=パワーの前では等しく平伏しなければならない。それは「圧力」です。
    ところで「愛」がどのように人を圧迫するのでしょう?愛という言葉がどのような「権威」「力」なのでしょう?

    例えば愛ではなくこんな言葉たちはどうでしょう?
    「勇気」「努力」「夢」「希望」「未来」「明日」「進歩」「感動」「勝利」「成功」
    わたしの辞書の中ではあまり価値の高くない言葉たちですが、「愛」や「美」と比べてどうでしょう?

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/10/24 12:36


  • Bruno BozzettoでYou Tubeで検索すると他にもおもしろいアニメがいろいろありますよ。

    No.28の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/10/24 14:10

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A 回答 (42件中1~10件)

さて、一番バッターあほなは出塁出来るか^_^


お久しぶりです。先ほどハルさんに最後の回答をして参りました。こちらも、グラスさんとの最後のやりとりになると思います。

さて、私は、絵を少し描いたりするのですが、絵を描くようになって変わったことの一つに、目が肥える、と言うものがあります。
自分のものを見る眼力のレベルに応じてアレコレとものが言えるようになると言うことです。以前の私は全く絵やものが見えてなかったなあ、とさえ感じることもあります。
ポップアートやサブカル好きの私は、アカデミックな物だけでなく、商業チックなものも大好きで、タンブラーやツイッターでいろんな作家さんをフォローして、その投稿を楽しんでいます。
そんな私には、そのホームレスのモノクロ写真に対する、語ることを多く持っているのね、という感想は、アカデミックな響きに感じました。

回答になりますが、鑑賞の際に、ガイドは必要か?と言うことですが、あればあったで良いと思います。私よりもはるかに上手な友人と、ターナーの絵を見に行った時、その友人の呟く感想は、随分と説得力がありましたよ。ガイドも、自分の眼力だけでは知れないことを教えてくれる事があるのでは?

マナーについては、人を押さないとか、ちゃんと並ぶとか、大声を出さないとか、常識的な事を守れば良いと思います。

目の不自由な人がゴッホの絵を触る、これは、ゴッホの鮮烈な色彩が伝わらないので微妙ですが、濃いタッチに触れる事でそこに込められたゴッホの想いの様なものは伝わるのかな?と思いました。
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この回答へのお礼

そうですか、やはり10月でお辞めになるんですね。話し相手が一人減ってしまって正直残念ですが。。。
自分で制作することで見えてくること、見えてくるものって確かにあるでしょうね。それはきっと写真でも楽器演奏でも同じだと思います。

わたしは2008年から3年間、当時世界で一番大きなSNSだったMySpaceというサイトに参加して、そこで海外のアート好きと絵や写真を交換していました。当時はアカデミックな作品ばかりではなく、ファッション写真やサブカル系の絵やイラストレーションなども幅広く投稿していました。今のフェイスブックの友達はそのころのマイスペースの友達がほとんどです。

その後マイスペースが自壊した後に、タンブラーに移ってすでに5年半が経ちました。ここでは逆にいわゆる「美術作品」を投稿することが専らになりました。この間すでに2万点以上の「アート」を投稿したことになります。

ホームレスの人の写真に対する感想を「アカデミック」に聞こえるというのはおもしろいですね。わたしは単純に「アカデミック」って怜悧に分析的というイメージを持っていて、写真なら、光の具合とか、アングルとか、距離とか、そういうことを批評するという感じを持っていて、「この人は語ることをたくさん持っていそうだ」というのは、とてもパーソナルな「感想」「印象」に聞こえたのです。

確かにガイドはあってもいいしなくてもいいという感じです。特に友達と作品について感想を言い合うというのは、厳密には「ガイド」とは呼べないかもしれませんが、別の視点を提供してくれるでしょう。ただあまり「知的」理解に入り込みすぎて、イノセントな状態での作品との一体感が損なわれてしまうのではないか?そんな風にも感じています。

マナーは常識の範囲でいいという意見に賛成です。わたしは海外の例を知りませんが、どうも日本の美術鑑賞は主催者側も、鑑賞する側も、「拝む」そんな印象を受けることがよくあります。些細な咳払いでも睨まれたりね(苦笑)

ゴッホの絵は確かに本物に直に触ることは難しいのでしょうけれど、いくら精巧でも「レプリカ」にヴィンセントの魂が宿っているか?という妙な考えを持ってしまいます。

久しぶり(?)の投稿で、まとまったお返事になりませんでしたね。お時間があればまたしゃべりに来てください。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/21 02:46

ciaopolpo2さんの素敵な投稿を読んで、子供を美術館に連れて行くか否かについて、独り言です。



1.《ゲルニカ》
まず私は子供の頃、《ゲルニカ》を見たことがあります。と言っても、日本でのことで、原寸大のレプリカでした。349 cm × 777 cmということなんですが、大きいですね。子供だと、絵に飲み込まれたような感覚を味わいました。全体を見渡せないのです。首をどこに向けても、絵が広がっていき、その終わりが見えないのです。さらに展示の仕方が、高いところにあるのではなく、壁画のように目の前にありました。断片的な箇所しか見れなかったものです。理性的に絵を見る経験は出来ませんでした。

私は家に帰ってポスト・カードと絵を見比べ、「どうやったらこういう絵だと把握できるんだろう、ポスト・カードはインチキだ」と思いました。だから私は当分の間、美術館が嫌いになりました。

でも大人になって、そういう種類の大きな絵があるって言うんですね。歴史画のことですけれども。そしてこれは見る者に容易に理解されないもので、圧倒するタイプの美を表現しているというのです。私は子供の頃に見た《ゲルニカ》のレプリカこそ、そうだったなあと思ったものです。もちろん大人になってから、様々な美術館をまわって、いろんな巨大な絵を見ました。ただ大人になると、やはり大きさの感覚は変わってしまいましたね。強いて言えば、建築が同じような感覚を味わわせてくれたでしょうか。大宮殿の装飾された部屋は、人を神話の世界に飲み込むような恐ろしい深さがあります。(残念ながら、日本ではあまり経験したことはありません)

子供の頃の私にとって、絵はとても野性的で、見る者を飲み込んでしまう恐ろしいものでした。

2.美術館の中の野性
で、GSさん。私はネットの画像と本物の差について、上に絡めて少し意見を書いてみようと思います。

まずネットの画像。これは観やすいです。拡大も縮小も思いのままです。こんなことは実物を前にしたら出来ません。また光の反射で色が変わることもありません(正直なところ、色の変化は、いいことばかりではないです。見にくいことも多いので)。そしてネットならば超人的な速度で、いくつもの絵を比較検討で来ます。下に書く美術館の労苦を思えば、あたかも神になったかのような全能感を味わえます。これが気持ちよくて、ネット限定の美術ファンの人もいるんじゃないかと思っています。

次に実物。肩が凝ります。首を動かし、回り込んだり、光の角度が変わった頃合いを見てもう一回行ってみたり、とにかく手間隙がかかります。大人じゃないと、時間や資力の関係で、無理でしょう。子供だと「ああ、怖かった」で終わりかもしれません。大人は同じ絵に何回も通います。観ても、観ても分かりません。しかし、ある日ある時、分かることがあります。

では、これは自然と比べてどうなのか。風景画ならば、絵の舞台になった場所が残っています。でも現場に行くと、絵ほどの労力はかかりません。自然は気持ちがよく、夕陽や日の出に感動します。絵はそうじゃないですね。論文にも目を通し、無駄な労力を費やして初めて、何かが分かった気になります。大人になった私は趣味を選ぶ際に野山ではなく美術館を選んだわけですが、それは私にとっては美術館の作品の方がより手間隙がかかり、それだけ一層、野性と向き合っているような気がしたからかもしれません。

ただ野山も、野草図鑑なんかを片手にまわり、採取したものを持ち帰って家で顕微鏡をのぞくと、全然違う複雑な場なのかもしれません。植生の分布図や、地層なんかを考えて歩くと、これも格別かもしれません。子供の頃の時に、そういう経験を味わいました。

あとFB等を見るようにお誘いいただいたのですが、私はQAサイトを匿名の距離感で楽しんでいました。
これはご希望に添えなそうです。ごめんなさい。
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補足コメントにある「勇気・努力・希望」などの言葉は、政治家が演説に好んで使うようなものばかりですね。

「愛」もこの中に入りそうです。
でも、「美」はどうでしょうか。ちょっと異質な感じはします。

今、私の頭は結構混乱してますが、おぼろげながら何か見えて来たようにも感じます。でもなかなか言葉にまとめられません。

ごく最近気付いた事は、Grassさんは日常、「美」の世界にいる人なんだなぁ、と言う事です。
対して私は、こうした処でしか「美」なるものを取り扱うことのない生活だから、Grassさんにとって当たり前の事が、私にはなぜ?となってしまうのでしょう。
でも、それだからこそ興味も持ってしまうのです。

外国の人に“友達”が多いと言ってますが、その人達はGrassさんのファンなのではないでしょうか。

男前でもあるし。
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この回答へのお礼

こんにちは、yy8さん。

いつでもあの(この)アイコンなんですね(笑)

フェイスブックを例にとると、海外のユーザーの多くは、ページを見ればアートや写真が沢山貼られていますので、リクエストを送る際にわざわざ言葉は必要ないんです。外国の人からリクエストが来れば、「ああ、このページにあるアートが気に入ったんだな」と思い、わたしが相手のページを見に行って、同じテイストを持っていればそれで拒否する理由は無くなります。

けれども日本人ユーザーの場合、文字やニュースの占める割合が圧倒的に多いし、写真も食べ物の写真や猫の写真ばかり(苦笑)

わたしはyy8さんを既に知っていますけれど、はじめての人から無言のリクエストが来ると、その人がどういう人で、わたしのどこに関心をもって友達になろうとしたのかがわからないのです。

なにが美かはともかく、自分にとって美しいもの、具体的には絵や写真、音楽、映画などの「作品」、それに
最大の美は自然だと思っていますので、そういうものがないとやはり陸に上がった河童じゃないけど、干上がってしまいます。
哲学はよく「真・善・美」の探求といいますが、わたしにとって「美」は特別な存在です。

確かに政治家は希望とか未来とかよく言いますが「美」とは縁がなさそうですね。愛はカネでは買えないというけれど、では美は金で買うことが出来るのでしょうか?確かに数億出して、名画を買うことはできても、「美は見る者の心にある」のだとすれば、それは単に、色の塗りたくられたキャンバスを買ったに過ぎないでしょう。

フェイスブックに来てくれてありがとう。

メインのブログがあることは知っていますがそれでもうれしく思っています。

お礼日時:2016/10/28 15:09

No.39さんに、ご返答申し上げます。

質問者さん、お許しください。お気に障りませんように。

”子供には、混雑した展覧会は猫に小判”というのは、小学校や教会で、子供の美術指導をしてきた私の実感です。

ヒューストンの小学校では、三年生になると、年に一度、美術館に遠足があります。美術館で解説員のボランティアをしていた私の、腕の見せ所です。五・六人の子供たちにお母さんが一人ついて作品を見て回ります。子供たちの注意力が続くのは、せいぜい、2~3分です。もう、見せる作品は決まっているので、とにかく、子供が飽きないように、三年生のレベルで、こちらから立て続けに質問を続けます。クラスの友達と一緒ですし、先生もいらっしゃるので、問題を起こす子は少ないですが、あまり、楽しそうではないです。

一年生を対象に、”ピクチャー・レディ”をしたこともあります。ひと月に一度、三十分いただいて、古今東西の有名芸術家の作品を紹介します。五枚から八枚、スライドを壁に移して、面白いエピソードを紹介します。子供たちのリアクションは、こちらのほうがよかったです。正直なところ、ヒューストン美術館には、傑作が少ないので、あまり、面白いエピソードがありませんでした。

美術の時間に、アシスタントで、子供たちが作品を作る、お手伝いをしたこともありました。どうすれば、絵がもっと個性的になってゆくか、教えてあげるんですね。色の使い方もありますが、おざなりに済ませている子供を見つけて、作品の完成度をあげるんですね。これは、結構面白かったです。完成度=個性のことです。

そんな経験を積んできて、やはり、高いお金を払って、大人で混雑する展覧会に子供を連れてゆくのは、猫に小判だ、と言わざるを得ません。家庭のゆっくりした環境の中で、画集や詩集に触れるのが、子供にとっては、一番だと、思います。

うちも、ディズニー・ランドに子供を連れてゆくことはしませんでした。高校生になったあたりで、日本に何年か滞在したので、友人たちと一緒にTDKに遊びに行っていました。

自然は美しいものです。けれども、どうして、人間が絵画や彫刻を製作することによって、その、個性を永遠にとどめようとしたか、もう一度、考えていただけたら、幸いです。

最後に、面白い動画をありがとうございました。イタリア人にとって、EUとは、やはり、ドイツに象徴されるのでしょうか。スペインやフランスは、もう少しイタリアに似ているようにも思います。
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この回答へのお礼

こんにちは。

美しいものを感じる心は子供でも持っている。これは確かでしょう。けれども、何が彼や彼女にとって美しいかはそれぞれだと思います。前にも書きましたが、クレヨンしんちゃんは「ウンコの苦悩」という彫刻を作って大事にしていました。子供にとって興味のある美は、必ずしも世界の名画ではない。この辺りは荒俣宏の『悪趣味の復権のために バッドテイスト』という本に興味深く書かれています。

ただ、人ごみという環境を除けば、子供たちに本物を見せることが必ずしも「猫に小判」か?という疑問もあります。
確かに豪華なアートブックであれば、よほどの子供でない限りホンモノとの違いは分からないかもしれません。

以前頻繁に展覧会に通っていた頃、売店でポスターや展示作品の絵葉書などが売っていましたが、その色遣いの違いにガッカリしたものです。また特に油彩では、あのボテッとしたテクスチャーがものをいうのかなとも思います。

「自然」と「アート」の違いはわたしが考えることかもしれません。
ただ、自然は移ろうもでしかないとは思わないのです。
『流れに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためし無し』-方丈記
ですが、河は、人間が破壊しない限りそこにあるのだと思います。

あのアニメーションでは、イタリアも日本も同じだなぁと感じました。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/28 14:45

こんばんは。

blueさん、他みなさま。
今回は間奏ですのでBGMとして聞き流してください。雑音や不協和音にうんざりするかもしれませんが

先に誤字を訂正させてください。11番。

間違い→音はエクセレント!というわけでものだけど、
正しくは→音はエクセレント!というわけでもないのだけど、


まあ大した影響はないか。苦笑。
僕はね、自分が喇叭吹きだし娘は角笛吹きだし、音にはわりと拘っているのですが、僕が【美しい】と思ったのは【ゴミ楽器の音】に対してではないのです。パラグアイの彼ら彼女らの生活態度・制作態度・追及態度こそを【美しい】と思ったのですよ。ええ【人の生きる姿】をそのまんま【美しい】と感じたので11番の短い投稿をしました。彼らがどれだけゴミの中で【美】を探し求め、精一杯の【表現方法】をしているのです。【子どもに美術館は猫に小判】という、人を尊重しない発言は、哲学の徒として受け入れることができません。同様に【このやうな人たちには遊園地でも与えておけばよかろう】という【子どもという人間】を見下すやうな発言も受け入れることができません。ちなみに僕は【東京ディズニーランド】が大嫌いです。美しくないからです。小学生だって遊園地なんかより、カエルが虫を喰らう姿や、ザリガニがドジョウを喰らう姿を何時間も観察しているほうがずっと【感動】しますよ。まあ僕の経験談ですけどね。



以下、【間奏】です。



◇1.手のひら【を】太陽【に】

◇2.あんぱんまんのまーち
https://www.youtube.com/watch?v=yvlds_RCDUY
(以上、やなせたかしさん。)


◇3.手のひら【に】太陽【を】
https://www.youtube.com/watch?v=7wAIu-rw6z4

___________


ねこりんさん。僕も修行の徒だから、たとえば身体を思い通りに動かすことが出来た瞬間だとか、その動きが仲間と揃ったときだとか、たとえばトランペットの音を思い通りに出たときだときだとか、その音がホルンやユーフォやトロンボーンやチューバの仲間とぴったりハモったときは、ニコニコ笑ったり涙を流す程度ではなく、卒倒・気絶・失神するぐらい……とは言いませんが、その場で自分が岩になるぐらい感動します。

僕の、美しい…とは言いませんが、愛しの友達を紹介します。

梅や桜や桃や木蓮や蓮華草やタンポポや藤や葵や梔子や紫陽花や朝顔や向日葵や百合や彼岸花や金木犀や水仙や沈丁花などは、毎年確実に枯れますが、毎年毎年それらを眺める僕にとっては毎年毎年じゅうぶん【生の肯定】につながっています。
「「美」の鑑賞法」の回答画像39
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この回答へのお礼

こんにちは、瀬里香さん。

こちらは天気、気温が目まぐるしく変わり、半袖のTシャツで間に合うかと思えば急に10度近く気温が下がったりで、あたまもぼうっとしています。みおなさんにも、お礼が遅れて申し訳ありません。

上のビデオに関しては、あれが必ずしもパラグアイの子供たちの一般的な姿、現実ではないだろうということです。パラグアイであろうと、ヨーロッパの都市であろうと、日常に美を必要とする人たちが一定数いて、そういう人たちにとっては、食べ物が不可欠なように美は不可欠です。ですからどのような環境に置かれても美を見出し、音楽を生み出すのでしょう。

勝手な創造ですけれど、彼ら彼女らのほとんどは、かつて日本の東北地方の農村がそうであったように、毎日毎日働くことで精いっぱいではないかと思います。貧しくて=働き手として、小学校にさえいけなかった貧農の子供たちはそれでも、一日の終わりに夕陽が山間に沈んでゆくのを息をのみながら見つめて「きれいだなあ」と嘆じたのではないか。自分で楽器を作ることも、バッハやヴィヴァルディを演奏することが出来なくとも。

「ネコに小判」という表現がちょっと的確ではなかったかなとは思います。ただ、チャオポルポさんは「美術館は猫に小判と言われたので、美術作品自体が子供に分かりっこないとは仰ってはいない。子供たちの興味を引き出すのは、確かに本物でなくても構わないとは思います。ただその辺になると、作品の持つ「アウラ」というものがどう関わってくるのかな?という疑問も生じてきます。

移ろいゆくものに関しては、わたしは人間が破壊しない限り、自然は一定であると思います。
それにもまして移ろうものは

『色みえで 移ろうものは 世の中の 
 人のこころの 花にぞありける』 -小野小町

「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」

花よりも移ろい易きものはひとのこころ。昔からそう感じています。

ビデオと写真をありがとう。ビデオのいわき市のよさこい?あれよりは最初のビデオがよかった。
最初の場面が「宮城=(皇居)に向かって。礼!(当時は「遥拝」と言いました)」というのを思い出させました(苦笑)

お礼日時:2016/10/28 14:23

>美に外的・客観的・普遍的規範があるという意見が多いとは。



いやー。GSさんの思いにも寄らないことがあるかもしれませんよ。古典主義だと、美を突き詰めていった果ては神でした。もし相手が海外在住だと、キリスト教圏にいて、そう考えることはありうるのじゃないでしょうか。海外の人が多い可能性はあります。

そして凄まじい会話をし合っている人同士の中には、案外、リアルで知り合いの人同士もいるかもしれません。傍からは分からない深い関係がある人同士かもしれません。それくらいに空想して、突き放してみておいてもいいと私は思っています。

>ハルさんの打たれ強さ

あほなさんに教えてもらったブログを読みました。一つには、仕事をしながら、自分の思想を書いていたという著述家としての強さかと思います。ただ、うーん。私なりにいろいろ考えて、私は相手の望むように関われないという残念な結論に至りました。誰でも限界はあります。それは自分が決めていいのです。

元気出してください。
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この回答へのお礼

わたしはハルさんとはほとんど行き来がないのです。
ハルさんの文章はわたしにはよく理解できません。そもそも「存在をせめぎあう」という日本語がわからない。
「せめぎ合い」って本来はAとBの力が拮抗して土俵上で四つに組んでいるような状態でしょう?
それに政治的な立場でもわたしとは距離がありますし。

しかし少なくとも存在性理論という「信念」がある分、相対主義者のわたしよりは強いのでしょう。

関係ありませんが時間があったらわたしのフェイスブックを覗いてみてください。

それこそ海外のアート好きばかりで、どうしても日本人の友達を作ることができません。
タンブラーではわたしのブログのフォロワーは13,500人ほどいますがわたしの知っている限り日本人は10人いるかいないかです。

是非どうすれば日本人と友達になれるかアドバイスをお願いします。

フェイスブックのアカウントを持っていなくても閲覧できます。

Aboutのところをクリックしていただければわたしに関する情報が見られますよ。「興味のあること」など

https://www.facebook.com/nico.jess.5 (ニコ=わたしです)

元気づけの言葉をありがとうございます。

上でまだ数人の方へのお礼を書いていないのですが・・・

お礼日時:2016/10/26 04:30

ニャンポコさんといろいろあるかあ。

いやー。

>No14のGSさん、理解力の不足を愧じています。

GSさんが不安になっているみたいなので、私からみた流れを書いてみます。

まず美の話ですが、GSさんからみて、ニャンポコさんの話は、要するに排他的だ、ってことでしょう。それをお伝えした。しかしニャンポコさんが、自分は突き詰めていく人間だとおっしゃる。GSさんの意見を尊重せず、突っぱねてしまった(と私は読みました)。

普通はここで話は一端、終わりです。仲が良いまま終われば次があるでしょう。仲が決裂すれば、次はないでしょう。一般にはここで、仲が決裂しない範囲で話を切り上げます。

ニャンポコさんは、そういう意味合いで、GSさんのところを気風よく終えたおつもりなんだと思っています。ロゴが侍だから、歌舞伎もののような感じで、敢えてザクッと単刀直入に書いたのだと思います。

ただニャンポコさんは格好良くやったつもりかもしれないが、GSさんは傷ついたかもしれません。あなたの精神障害に限界があるとよくないからとおっしゃる。これは一般に、腹が立つ。あるいは、「自分のどこが悪かったのかな。困ったな」と思ってしまう。

ニャンポコさんのお気持ちも察せられます。前回、GSさんが大崩れしてしまった。自分のような単刀直入な人は、どこかで加減をしないとならないのじゃないかと遠慮なさったのでしょう。確かに手短に書いたら、そういう表現にもなるかもしれません。

で、GSさん。これは相性の問題です。GSさんに気を遣い過ぎると、ニャンポコさんはニャンポコさんの道が歩めなくなってしまう。彼には彼の道を行かせてあげるのが、友情というものではないでしょうか。

誰も悪いことはないから、間合いが少し遠いのだと思って、長い目でみてはどうでしょうか。もしご縁が長く続くなら(QAサイトではしばしばあること)、ある日、距離が縮まることもあるかもしれませんよ。

ま、以上は私の把握なので、見当違いかもしれません。予めお詫びしておきます。

PS: ニャンポコさんの問いに書くと、別の方を刺激する可能性がありますから、こちらに書きました。
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この回答へのお礼

こんばんは、サイコロさん。

いや、今回はわたしの読みが完全に甘かったですね。人の数だけ美がある、うつくしいという気持ちはひとそれぞれ、何に心を動かされるか=なにを美と思うかはまったく個々の主観によるという前提を全く疑うことがありませんでした。それは「知」の上位に「情」を置くというわたしの美学から見ると疑いの余地のないものだったのですが、これほど、美に外的・客観的・普遍的規範があるという意見が多いとは。

ニャンポコさんとの関係はおっしゃる通り、相性でしょう。チャオポルポ2さんも、「美」が客観的・普遍的なものであるというご意見ですが、それはそれで、「異なる意見」として聞くことが出来ました。

ニャンポコさんはニャンポコさんであって、わたしではないという当然の大前提をもとにいうと、今回のニャンポコさんの「感動」のご質問で、初っ端の猪突さんのビデオに対してのニャンポコさんのお礼を見てびっくりしました。わたしならあんな風に言われたら数日間口もきけないなと。

もちろん猪突さんだけでなく、サイコロさんでもあほなさんでも、普通の人はなんとも思わないでしょう。
そしてこれは彼の普段の口調なんだとわかっていても、やはり「セルフ・エスティーム」(Self-esteem) =自己肯定感の極端な低さによる極端な傷つきやすさは主治医も困っているくらいなので、これは自分ではどうすることもできないのです。

今あほなさんの『最後の質問』で、ちょっと話しています。わたしの関心事は、ハルさんの打たれ強さとわたしの「打たれ弱さ」についてハルさんと親しかったあほなさんに意見を聞いています。

もちろんニャンポコさんはニャンポコさんです。「わたしに少しは気を遣え」等という気持ちは微塵もありません。わたしが、彼の猪突さんや他の回答者に対する、ある意味ざっくばらんな口調に驚いているのは彼の知ったことではありません。

前にも言ったと思いますが、主治医にはわたし(G.R)と話が合うのは「千人にひとり」とさえ言われています、ましてわたしの苦手な顔の見えないネット上でのやり取りです。わたしと話が出来ない人が少なからずいるのは当然だと思います。

親切なお気遣いをありがとうございました。

お礼日時:2016/10/26 00:49

「美」の多様化 イコール メタボ化。



「美術」とは《明鏡》に、色彩や形によって美を表現する芸術。と、有ります。
という事は、美ではないものを表現した作品は美術品とは言えません。
美術館という命名はふさわしかったのでしょうか。

芸術はイコール美、美術なのでしょうか。
落語は芸術だと言う人がいます。
落語は、美、美術作品ですか。

広辞苑で【美】を引くと、〔哲〕知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの。と有りますが、その後に「快」が生理的・個人的・偶然的・主観的であるのに対して、「美」は個人的利害関心から一応開放され、より普遍的・必然的・客観的・社会的である。と有ります。

「ゴミ溜めから、朽ちた一輪の花の残骸を見て〈うつくしい〉と感じる」のは「快」に当たるのではないでしょうか。

多くの日本人は、カレーライスを食べておいしいと言われれば、その美味しさを想像できます。
でも、料理自慢の人が特別おいしいカレーを作ってきて、其れを食べた人が「おいしい」と言っても、どのようにおいしいのか知りたくなります。

聞かれれば、味にコクがあってしかもまろやかだ、なんて答えられればなんとなくでも分かったような気分にはなります。

「美」と言う言葉に魔力有り。引力有り。

印籠は使用方法次第で、権威も圧力も生じます
「美」と言う言葉が、そのような使われ方を、いやそうした効力を生じさせてはいませんか。
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この回答へのお礼

「美術作品」と「芸術作品」を峻別する必要ってなんでしょう?

>「美」は個人的利害関心から一応開放され、より普遍的・必然的・客観的・社会的である。と有ります。

これはある任意の「古典派的」美学でしかありません。このような美学を全く否定している(ロマン主義美学)もあるのです。

『(・・・)ヘーゲルは、「真理」は絶対的なものではなく、主観的なものであると考えた。彼にとっては、人間の理性を超えたところに「真理」があるのではない。認識はあくまで人間の中にある認識で、その中にしか「真理」は存在しないと考えた。
また、ヘーゲルは時代の流れにより、人間の認識が変わると共に、「真理」も変化する、時の流れを越えた、永遠の「真理」は有り得ないと述べた。哲学は、時の流れ、歴史の中の一点において作られた基準であり、それがどの時代にも通用するものでないというのである。』

『ヘーゲルにとって、歴史とは、谷を流れる川のようなものであった。流れている水は常に変わる。しかし、人々はその流れについて語ることはできる。しかし、どの流れが「本当の」流れであるかということは言うことができない。ヘーゲルによると、理性は動的、ダイナミックなもの、つまり時代と共に発展するものであり、その基準は歴史の背景なしには語れないということになる。そして、その時代時代の哲学が「正しい」とも「誤り」とも言うことはできない。』

ヘーゲルの「真理」を「美」に置き換えてもなんの不都合もありません。

http://www.poyoko.co.uk/philosophy11.htm

バロックでも、マニエリスムでも古典派でも、ロマン派、写実主義、超現実主義、それぞれのアート・ムーヴメントの背後にはそれを支える異なる「美学」が存在しています。美の認識は一様ではないのです。

ピカソやブラックの創始した「キュビズム」にも美学はあります。「キュビズムは美じゃない」という「意見」を表明することは自由です。しかしあくまでもそれは個人的な「意見」です。

>美ではないものを表現した作品は美術品とは言えません。

前時代に「美でなかったモノ」が「美」になるのがアートの流れです。

美は、審美観はそして価値観は多様であればあるほどいいのです。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/25 14:02

お礼ありがとうございます。



文章自体の意味はもちろん分かりますが、何を言いたいのかが分からないことが
これまでもありましたし、同じ話も多い。
おそらく、合わせているだけなんだろうと思うに至りました。

精神的負担をかけてはいけませんので、私はこれで失礼することにします。
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No33あほなさん、いや、ありがとうございます。

私も書き方がよくなかったかもしれません。
うーむ。それにしてもいろんな美の捉え方がありますねえ。

ニャンポコさんや、ciaopolpo2さんのご意見は、美を善に一致させていく、というキリスト教圏で古典的な議論に繋がっていきそうですね。日本だとあまり馴染みがない人が多いかもしれませんが、西欧だとスタンダードですね。

GSさんはウィットですね。それも相手を冷笑するのではないのです。細心の注意を払って、誰もが不快にならないように、笑ってみせる。こういうものって、美の序列の第一位についたことはないのですが、でも私はとてもいいなと思うのです。(序列なんてどうでもいいじゃん、なんて思ってもいます。そして興味はあるのですが、追求するとっかかりがつかめないでもいます)

あほなさんのアニメは予告編だけ見ました。というか今、公開されているもののようです。絵それ自体に世界観がありそうだと感じました。主人公たちは主人公たちで苦労しているのでしょう。しかしそれを取り囲む世界が、何と綺麗であること。あたかも世界が彼らを見守り、祝福しているかのような印象を受けました。ただ私の趣味にはちょっとヴァーチャルすぎる感じはありました。

ニュートラルさんのサイクリングは、素直にその体力が羨ましい。やれるものなら、私もやりたいが、それほど身体が強くない(笑)。疲労し切った時、見える光景は、より素直なものではないかと想像します。

ちょっと投稿し過ぎた感じがしますので、しばし見守らせてください。GSさん、楽しかったですよ。ありがとう。
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Q文章の美について、或いは人は文章を裁けるか?

こんばんは。

今回は比較的個人的な質問になります。
「文章の評価について」、なんだかカテゴリー違いのようですが、一応「古巣」ということで大目に見ていただきお付き合いください。

昨年Grass_Rootsの名でいくつか質問をしましたが、とりわけ「美」についての投稿が多かったように思います。今回は同じ「美」の範疇でも「文章の美」に関してです。


以前から「いい文章が書きたい」と思いつづけてきました。自分の文章に対して劣等感があるというのもひとつですが、同時に、下手の横好き、文章を書くことが好きなのです。書く以上はいいものを書きたい。

けれどもわたしの文章を読み「正当に」評価してくれる人は存在しません。
この春で6年目に入ったアート系のブログには、1万数千人のフォロワーがいますが、それ以上長く続けているメインのブログには一日に3名くらいの訪問者しかいません。こちらが乞うてもコメントを残してくれる読者もいません。

先に「わたしの文章を正当に評価してくれる人がいない」と言いましたが、
嘗て「美」について立て続けに質問を発していたとき、わたしのスタンスは、「美」とは、何を美しいと感じるかは、全く個々人の主観による、という立場でした。

ダリやピカソ、ポロックやフランツ・クラインの「どこがいいのかわからない」「無茶苦茶だ!」「グロテスク」という評価も全く的外れとは言えないはずです。

では文章に関してはどうでしょうか?

例を挙げます

1)「鰊が地下鉄道を通って食卓に運ばれてくる」 

これは安西冬衛(1898-1965)というモダニスト詩人の「春」という詩です。
残念ながらこの詩の良さはわたしにはわかりません。

例文2)これはお気に入りの文章です。

「ある晩 ココアを飲もうとすると あついココア色の中から ゲラゲラと笑い声がした びっくりして窓の外に放り投げた
しばらくたって ソーと窓から首を出してみると 闇の中で茶碗らしきものが白く見えていた
なんであったろうかと庭へ下りて いじろうとしたら ホイ! という懸声もろとも屋根の上まで放り上げられた」

こういう文章は素敵です。稲垣足穂の『一千一秒物語』から「ココアのいたずら」という作品です。

わたしは、繰り返しますが、いい文章が書きたい。では自分にとってのいい文章とはどういうものかというと、強いて言うなら「非・天声人語的」文章です。ウィリアム・バトラー・イエイツの言葉を借りるならいい文章とは「1にワンダー、2にワンダー、3にワンダー」です。

最近読んだ本で強く印象に残っているのは二階堂奥歯という人の書いた『八本脚の蝶』という本です。
2016年の「本屋大賞」で「超発掘本」大賞に選ばれた2006年の本です。

アマゾンのレヴューでは、例えば評論家(?)の小谷野敦氏などは、この本について「ただただ気持ち悪いだけ」という評価を下しています。

つまりわたしがいくら「いい文章を書きたい」と願っても、ある文章が「いい文章」であるかないかという基準は存在しないし、それ故何人もある文章に対して「正当な評価」はできないということになるのではないか?

なんだか要領を得ない質問になってしまったようです。なにか感じられた方だけ、お答えください。

そういえば昔Okwaveにlittlekissさんのという方がいて、彼女の文章のうまさにはいつも舌を巻いていました。 

ではみなさん、よい週末を。

追記ー

二階堂奥歯の『八本脚の蝶』は2003年に彼女が自死するまで書き続けていたウェブ日記を基に書籍化されたもので、今でもブログ部分は読むことはできます。

http://oquba.world.coocan.jp/note5_p10.html

この2002年4月6日(土)のストーリーなど素晴らしい!

こんばんは。

今回は比較的個人的な質問になります。
「文章の評価について」、なんだかカテゴリー違いのようですが、一応「古巣」ということで大目に見ていただきお付き合いください。

昨年Grass_Rootsの名でいくつか質問をしましたが、とりわけ「美」についての投稿が多かったように思います。今回は同じ「美」の範疇でも「文章の美」に関してです。


以前から「いい文章が書きたい」と思いつづけてきました。自分の文章に対して劣等感があるというのもひとつですが、同時に、下手の横好き、文章を書...続きを読む

Aベストアンサー

Ooops!がタイトルだとは。してやられました。汲み取れず、失礼いたしました。
2008年も読みつつありますが、わからない。何が悪いのかが。
最初のテーマは愛ですねえ。孤独を守りつつ、どうあるか。うーむ。どこが悪いのだ?
2015年ですと、教訓を垂れることを巡って、山田氏と見解の相違があるのかないのか、とにかくテーマ化されています。

まあこれ以上の詮索はやめましょう。私には何が問題かが、わからないようです。非常に細かいところが問題で、それは文体のような問題ではないと思うのです。生きかたの問題、ものを書くということをめぐる考え方の問題とでも言いますか。それは十人十色でいいのでしょう。一つの色を決め、その人としか付き合わないというなら、距離を取る他ありません。
山田氏はそんなに器の小さい人物なのでしょうか。私はちょっとわからないです。距離の置き方が決裂でなければよかったでしょうが、GRさんの場合、いろいろと読んでいくと、些事でも決裂になることがあるのだとお察ししました。山田氏はこの頃合いがわからず、不用意に変なことを言ってしまったということはないでしょうか。

あと文体論ということで、一つだけご助言を。「・・・(苦笑)」というのが、伝わりにくいです。「(苦笑)」という言い回しを避けた方がいいとは言いませんが、ここの心理は一文くらい足して補った方がいいと思うのです。
なんというかな、書いてもお前ら読者にはわかんないだろう、分かる人だけわかればいいや、という書き手の傲慢さを、私は感じてしまうのです。精神障害者の独特な見方を示すと銘打っているだけに、一旦、読者が小馬鹿にされていると思うと、もう取り返しがつきません。精神障害者と言っているが本当は健常者で、内心で小馬鹿にしているのではないか、という疑いを持つ可能性があります。
私自身が書くときはあまり気にしていませんが、もしさらなる向上を目指すなら、ここは丁寧にやった方がいいと思うのです。

そして雑談。「ワンダー」についてですが、ホッケの『文学におけるマニエリスム』はお手に取ったことがありますか。まさにワンダーの宝庫と言って良いようなものですし、まあはっきり言えば「ワンダー」にあたる概念が説明されており、さらに類型が列挙されています。ここを手掛かりにいろいろ探していけるとも思うんですよね。すでにご承知ならお許しを。

ニュートラルさんもいらっしゃったし、私がここで長居しても、あまり良くないでしょう。
この問いはこれくらいで失礼いたします。

Ooops!がタイトルだとは。してやられました。汲み取れず、失礼いたしました。
2008年も読みつつありますが、わからない。何が悪いのかが。
最初のテーマは愛ですねえ。孤独を守りつつ、どうあるか。うーむ。どこが悪いのだ?
2015年ですと、教訓を垂れることを巡って、山田氏と見解の相違があるのかないのか、とにかくテーマ化されています。

まあこれ以上の詮索はやめましょう。私には何が問題かが、わからないようです。非常に細かいところが問題で、それは文体のような問題ではないと思うのです。生きかたの問...続きを読む

Q「よい文章」とはなにか?

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、「推敲」という言葉があります。
昔中国の詩人が詩句の一節を「僧は推(お)す月下の門」にするか「僧は敲(たた)く月下の門」にするかで悩んだという故事から来た言葉ですが、詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、全体の音の流れの中で「推す」と「敲く」とでは随分感触が異なると詩人は感じたのでしょう。

しかし現にわたしたちはこの「推敲」という言葉も含めて、中国の詩を(当時の)中国の言葉(音/オン)で読んでいるわけではないし、大抵は外国文学イコール翻訳文学です。
同じ詩、同じ小説でも、訳者によってこうも違った言葉の選択になるのかという、ある種の驚きとも違和感ともいえる感覚は誰しも覚えがあると思います。

繰り返しますが、単に意味が通じればいいというのであれば、「推」(おす)であっても「敲」(たたく)であってもさほどの違いはないように思えます。ここで語の選択の基準となるのは、あくまでも耳に心地好い音の流れということなのでしょう。

以上のようなことをつらつら考えながら、いったいいい文章とはどのようなものを指すのだろう、と考えてしまうのです。

例えばこの質問文中に

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、」という個所があります。

これを

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提(と)されているのでしょうし、」

或いは

「詩はもちろん声に出して詠むこと(が)前提(と)されているのでしょうし、」
という風に書き換えることも可能です。

「推す」か「敲く」かの次元にこだわっていると、下手をするとなにも書けなくなるような気もします、一方で、このレベルから言葉の選択に対してこころを砕かなければ、もとよりよい文章を書くことなど覚束ないとも思うのです。

人は文章に対して何を(あるいはどこまで)求めているのか?そのようなことも含めて、お考えがあればお聞かせください。

尚お礼が遅れることがあるかもしれませんが、予めご了承ください。

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、...続きを読む

Aベストアンサー

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合、
 自分の中の概念を、可能な限り正確に表現しようとします。

 詰まり、その表現が正確であるのか、妥当であるのか、の
 判定基準は、筆者にあります。



例えば店で品物を買う。

「これ幾らですか?」

「300円だよ」
「それは300円です」
「ん?300」
「おい、これいくらだっけ?え?300?300円ですって」
「そちらは300円になります」

品物の正確な値段300円ということを伝える文で、正確なものは上の中にありますか。
 ↑
その品物が、300円である設定は、筆者がするものです。
当然、その金額が妥当であるか否か、の判定も、筆者がします。

この一連の表現の、「どれが正確なのか?」は、筆者が判定し、
表現すべきことで、他者は関係ありません。

文章と言うのは、「伝達手段」ですので、基本的に、読者の存在を
前提にしていると思います。

そして書かれた文章が、読者にとって価値のあるものであれば、
それは「良い文章」だと思います。

例えば、日記のようなものは、筆者自身が、読者でもあります。
このような場合、筆者と読者が同一であるので、「良い文章」か否かは、
客観性を欠いて、解りにくい、とは思います。
そのような質問のつもりでした。

ご回答をどうもありがとうございました。

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合...続きを読む

Qこころのきずがなほらないことがあるか

▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~
 かの全能者は 
 最初の人(アダムとエワ)からであれ 
 その後に加えられたわたしたちの意志からであれ
 わたしたちに起こっている悪を
 その満ちあふれる恩恵によって
 滅ぼしている。
    (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ のではないか? 

信仰の有る無しにかかわらず。

それでこそ普遍神である。

Aベストアンサー

生まれつき備わっているもの。それは、神が無条件で与えた必要最小限の、<命>としての資質と意力。資質とは理性と感性。意力とは文字通り生きようというエネルギー。これらの能力が芽を出すのは、置かれた環境次第による。

人の場合、親がその環境を整えなければ<命>は生命、とは成り得ない。
心の傷が生まれつきのものなら、神でさえ直せない。言い換えればその傷は神が与えたのだ。

生きることで生じる傷は他者から受けたものであるはず。ただ、自身に因がある場合もあるか、とは思う。

☆ ブラジュロンヌさんの云わんとすることは、何となく分かっているつもりですが、それがいまだにうまく言葉にできないでいます。


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