昨今のニュースなどを見ていると、ごく少数の反対によってイベントや商品の販売などが中止になったり、クレームに対応した結果新たなクレームが生まれるという事態に陥ったり、遊具や展示物などが撤去されたりしています。また、保育園のような多数に必要とされているものも作れない現状もあるようです。
すべからく少数派は蔑ろにされるべきとも、個人の利益は公益に潰されるべきとも思いませんが、この風潮が続くと誰もが我慢しないが故に誰もが幸せになれないような社会が来るのではないかと心配です。
「嫌なことは嫌という」ことにはおおむね賛成ですが、「嫌なことからは逃げずに目を背けずに潰しに行く」には賛成できないことも多いです。
皆さんはこのような現状・風潮に関してどのような考えを持っていますか?

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A 回答 (6件)

合意も妥協も説得も試みず最初から潰しに行く風潮は数の多い少ないを問わず怖い

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私も個人利益と全体利益の問題は質問者さんと同じ危機感を持っています。

特に日本はその傾向が強いと感じます。

商業的なことでは、ごく些細な店員態度や広告表記などにクレームが入り企業側も必死で対応すると、注意書きだらけになったりつけあがる消費者が出てきたり。。萎縮した空気になるのが気になりますが、些細なクレームを真摯に受け無視しなかったからこそレベルアップしてきたとも言えますよね。

一方で保育園騒音や米軍基地など公共的なことは個人利益と全体利益のバランスが難しいです。
中国のように立退かない住宅の周りを全部掘ってしまうくらい強引に全体利益を追求するのも問題ですし、日本のように個人利益に配慮しすぎて進みが遅かったり何も解決進展しないのも問題です。あとは少数反対意見に対して「我々は内輪揉めしている場合ではない!」と首相が言い切って全体利益を乱す意見を許さず急速に発展したシンガポールなどは、凄いなと感心してしまいます。

ということで、商業的なことは少数派も無視しないことで一応全体利益につながるのかなと。公共的なことはバランスが重要でどっちに傾きすぎても問題で、今の日本は少数派の意見を重視しすぎかなと感じます。
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権利を考える際には、基本、「義務や責任」,「平等と公平」をセットで考える様にしています。



我が国は民主主義、すなわち多数決的な意思決定を尊重しますが、一方では資本主義でもあって、平等社会ではありません。

すなわち、基本的人権の様な、義務を必要としない権利においては「平等」で。
平等の範疇では、いかなる権利主張も有効だし、その採否を多数決に委ねるのは正しいです。
あるいは、同程度の義務や責任を負っている人達の中では、多数決と言う手段は有効です。

一方で「公平」と言う概念においては、義務やを果たさない者や、責任を負わぬ者の権利主張は、さほど重要ではなかったり、耳を貸す必要もなかったり。
あるいは、権利主張と言うよりは、単なる不平,不満が多分に含まれる場合も多く、そもそも耳を貸すべきでは無い様な主張も多いです。

この「公平」を司るのは、社会や組織を牽引する立場のリーダーやエリート層であって。
そう言う立場の人間が、舵取りを誤らなければ、少数派,多数派に関わらず、多数決的に決定されるべきではないの主張や意見が採択されることは無く、むしろ排除されることになります。

そう言うリーダーを選出してしまう、社会にも問題があるとは言えますが。
しかし本質的には、何でも安易に多数決で決めたり、本人が偏った考え方であったり、確固たる信念などが欠落したリーダーが、社会を悪化させる根源の一つかと思います。

日本も高度経済成長以前は貧しく、親と同居が当たり前の時代でしたが。
現在は豊かになって、OLさんでも独居とか、シングルマザーなども増加し、「個」でも生きて行くくらいは不自由しませんが、それと引き換えに、ライフスタイルも多様化し、個人の権利主張などが増えるのも、当たり前と言えば当たり前。
逆にリーダーシップを発揮する世代は、いまだに「日本的」であったりしますが。
間もなく「個」の時代の始まりとも言える、バブル世代あたりが、社会を牽引する世代の中核を担うので、社会の様子とか、リーダー学なども変わってくるのでは?とは思いますよ。
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いろんな考え方があるという前提で。


ひとつには国家という共同運命体の存在意味が希薄になってるのではないでしょうか。少なからぬ税金を勝手に徴収される割には目に見える見返りが少なく、一部の政治屋が好き勝手に私服を肥やしてる。つまり国民はユルい縛り付けの中で使役に供される奴隷化された状態になってる。とすれば、いつの時代も為政者は生活次元の重複する人間同士の水平な衝突で終始させるほうが、国民の不平不満を管理しやすくて望ましいわけです。仮に文句があってもストレートに国や自治体に声を上げたところで、相手は強大な権力組織ですから解決の糸口すら見えてこないので諦念を育てるしかない。つまり、国家に関してはあれこれ求めるよりは無関心を装って諦めたほうがストレスを軽減できる、そういう国民の怒りを飼いならすシステムを積極的に構築してきたわけです。もちろん、ほとんどのメディアは国や大企業の手先ですから、先頭に立って旗を振ってきました。たとえ、ユルい形であっても奴隷化されるということを大衆に気づかれてはいけないので、世論を操作する必要があります。
つまり国家という曖昧模糊な集団社会は一部の特別な人間のために維持されるべきものであって、一個人の生活や理想とは乖離した無意味なものになってしまって、そこには共同運命体としての意味も共有すべき仲間も存在しないわけです。それは共有するべき道徳や行動原理の崩壊でもあると思います。
ただ、人間は生きてるだけでも不公平感や不平等感を持ちやすいですし、生活の場が重複すれば自我が衝突するのは必然です。人はみんな顔も形も考え方も生き方も全然違うので、所属する社会ではできるだけ衝突を回避する知恵が求められます。言うべきことはちゃんと主張して我慢するところは我慢する、そういう知恵があってこそ参加する意味がある社会であって、権利だけ主張して義務は怠るのはよくないことを学習する機会がかつてはたくさんありました。
ところが、国も自治体も上から下まで無責任、不祥事があっても誰も責任を取らない。権利は主張するけれど義務や責任は負わなくていいことを、大人たちが日々実証して見せてくれるわけです。過去50年以上、そういう時代が続いてきてその中で育った大人たちですから、道徳的要素や形而上学的な行動美を問われてもその意味すらわからなくなってるのではないかと私は思います。
象徴的に言えば、かつて日本人には「恥」の文化がありました。日々の振り返りで自分自身の「内面の恥」を厭う人間がもっと多かった気がします。
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それだけ、日本は平和ってことなんじゃないかな~

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成田闘争とか思い出しますね


結局攻める側も守る側も利権でガチガチなんですよ
そこに社会転覆を狙う暴力団体が介在するので派手に闘争が繰り広げられます
社会不安にならない程度で要求する分にはまっとうな社会だと思いますよ
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