はじめまして。こんど歴史の授業でディベートをすることになって僕のグループは『打ち壊し・百姓一揆はするべきだった』ということを調べてディベートすることになっているんですが、なかなか資料がありません。先生は『大塩平八郎の乱』が重要だと言ったのですが、これについても資料が見つからず、大変困っています。
打ち壊し・百姓一揆はどんなメリットがあるのか、また相手が反論してきた場合も考えてデメリットとそれに対する答えなども教えていただけると大変嬉しいです。
みなさんの知識を貸してください。おねがいします。

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A 回答 (3件)

ちょっとだけ補足させてください。



そういう前提に立った議論をするなら、加賀、山城、伊賀などの各地で起こった国一揆も重要な位置づけになると思います。あと、秩父事件(明治に起こった百姓一揆と言えるもの)も調べる必要があると思います。

秩父事件
http://homepage2.nifty.com/yasutani/ccbziken/abo …

また、この種の資料では、一揆の首謀者を特定思想と結びつけて、思想反乱と捉える見方が結構多いのですが、そこに結集した人達のほとんどは、行政による重税や圧政による苦しみから逃れるために結集したのであり、かのキリスト教弾圧で有名な江戸時代の島原事件だってそうです。
そういうところを捉えるのは、首謀者と言われる人だけでなく、なんで一般の農民が立ち上がったのかという背景を捉えることだと思います。
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授業の目的は自ら調べる過程と結果、それに基づく第三者との議論を通じて、歴史上の出来事を無味乾燥な史実だけではなく、人間のドラマとして時代背景や今日まで続くその後の歴史との関係を理解させることにあると思います。

参考URLは掲げて置きますが、次のような点に注意しながら不足データは更に図書館などで調べてください。

*何故一揆が起こったか(大飢饉、重税など時代背景)
*徳川幕府及び地元の藩主は領民の困窮に対して救いの手を差し伸べたか
*一揆の成果は
*一揆に対する処罰は
*一揆に代わる手段があったか

ディベート相手はおそらく現代的感覚や政治制度(警察、裁判など)に基づいて
一揆の不当性や効果のなさをついてくると思われるので、よく歴史や時代背景を調べて、現代と比較した論調が成り立たない点を強調し、一揆は幕府や藩主の力を弱め(民衆が権力に対し批判の目を向けるようになった)後の明治維新へとつながることを主張してはどうですか。


kitchom.ed.oita-u.ac.jp/~edmaster/oita/index/text/No.15/ 15-1.htm

www3.ocn.ne.jp/~shojoji/syouzyouzi/hyakusyouikki.htm

www.e3.panasonic.co.jp/communication/neteye/1999/eye991213.html

参考URL:http://ww1.tiki.ne.jp/~i-mitu/oosioheihati.htm
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「大塩平八郎の乱」については、参考URLをご覧ください。



参考URL:http://member.nifty.ne.jp/oshio-revolt-museum/mi …
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Q島原・天草一揆と大塩平八郎の乱が頭の中でまじってしまい、よく区別がつかなくなり、テストなどで間違えて

島原・天草一揆と大塩平八郎の乱が頭の中でまじってしまい、よく区別がつかなくなり、テストなどで間違えて答えてしまうことがあります。
2つの内容を教えてください (❁ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾
また、語呂合わせなどありましたら教えてください

Aベストアンサー

こういうのは、物語風にしたり、他の事件と
関連させると覚えやすいです。

島原の乱は、美少年天草四郎を中心として
キリスト教徒の反乱です。

キリスト教弾圧が理由と言われることもありますが、
実際は領主の過酷な政治が原因だと言われています。

天草四郎が美少年だった、と言われていますので
こういうことを覚えていると
記憶しやすいのではないですか。

この乱を契機として、三代将軍徳川家光が、
鎖国に踏みきった、と言われています。

このとき、柳生心陰流の柳生宗矩が、宗教の
恐ろしさを説き、もっと大軍で攻めるべし、と
忠告したのですが、たかが百姓、ということで
舐めた幕府が、大苦戦。

これにより柳生家の株が上がった、という
逸話があります。



大塩平八郎の乱は、大阪町奉行の元幹部であった
平八郎が、庶民のために起こした乱です。

島原の乱から、200年後の話で、幕末に
近いです。

旗本である彼がどうして、こんなことをしたのか
といえば、陽明学に感化された、と言われています。

陽明学というのは、中国の王陽明の思想で、
行動第一主義を主張しています。
行動しなければ、どんな思想も意味がない。

この陽明学に感化された人物として有名なのが
ノーベル賞候補にもなった小説家、三島由紀夫です。

三島は、仲間と共に、自衛隊に殴りこみ、
日本刀で割腹自殺をして有名になりました。

また、氏は、皇后美智子さんとの見合いの
話がありました。

こういうのは、物語風にしたり、他の事件と
関連させると覚えやすいです。

島原の乱は、美少年天草四郎を中心として
キリスト教徒の反乱です。

キリスト教弾圧が理由と言われることもありますが、
実際は領主の過酷な政治が原因だと言われています。

天草四郎が美少年だった、と言われていますので
こういうことを覚えていると
記憶しやすいのではないですか。

この乱を契機として、三代将軍徳川家光が、
鎖国に踏みきった、と言われています。

このとき、柳生心陰流の柳生宗矩が、宗教の
恐ろしさを説き、も...続きを読む

Q農民一揆と百姓一揆について

農民一揆と百姓一揆の違いを教えてください。後、テストで回答が農民一揆だった場合に百姓一揆と書いてしまった場合は、やはりアウトですかね?教えて頂きたいです。

Aベストアンサー

一揆は民衆の抵抗運動ですが、時代により呼び名が違います。江戸時代の一揆を「百姓一揆」、明治時代のそれを「農民一揆」として、呼び分けることが多いようです。
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60011740.html
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60000470.html

ただこれは教科書的な用語の使い方で、国語辞典などでは百姓一揆をはじめ、農民を中心とした一揆の総称が「農民一揆」とされています。
http://www.weblio.jp/content/%E8%BE%B2%E6%B0%91%E4%B8%80%E6%8F%86
この場合は、「農民一揆のうち、江戸時代に起こったものを特に百姓一揆と呼ぶ」ということになります。

> テストで回答が農民一揆だった場合に百姓一揆と書いてしまった場合は、やはりアウトですかね?
正解が「農民一揆」なら、明治時代に関する問題でしょう。「百姓」という身分は明治政府により、一応廃止されていますから、不正解にされると思います。
なお、「正解が百姓一揆なのに、農民一揆と書いた」場合には、厳密には間違いとは言えません(国語辞典的な意味では、百姓一揆は農民一揆の一種なので)。ただし学校のテストで問われるのは、やはり教科書の知識です。これも不正解とする採点者の方が多いでしょう。

一揆は民衆の抵抗運動ですが、時代により呼び名が違います。江戸時代の一揆を「百姓一揆」、明治時代のそれを「農民一揆」として、呼び分けることが多いようです。
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60011740.html
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60000470.html

ただこれは教科書的な用語の使い方で、国語辞典などでは百姓一揆をはじめ、農民を中心とした一揆の総称が「農民一揆」とされています。
http://www.weblio.jp/content/%E8%BE%B2%E6%B0%91%E4%B8%80%E6%8F%86
この場合は、「農民一揆のうち、江戸時...続きを読む

Q大塩平八郎は、身長217cm?

あの大塩平八郎の乱で有名な大塩平八郎が、身長217cmだったというのを知り、衝撃を受けました。
その他にも、戦国時代の武将や昔の有名人で高身長の人を調べて一覧にしてみました。
西郷隆盛 180
浅井長政 181
前田利家 182
徳川吉宗 183
大久保利通 183
武市半平太 183
長宗我部元親 184
山岡鉄舟 188
豊臣秀頼 197
斉藤義龍 197
前田慶次 200
石川五右衛門 207
大塩平八郎 217
生月鯨太左エ門 227
この中で気になったのは、豊臣秀頼です。父親の秀吉が身長150cm位だったみたいですが、息子の秀頼が197cmとなっており、本当に秀吉の息子か?と疑問視する見方もあるらしいのですが、母方の祖父浅井長政は、身長181cmくらいあったので、ありえないとも言えないらしいです。
そして、最も背が高かったとされる生月鯨太左エ門は、江戸時代の力士で日本一の巨漢力士であったと書かれています。
この一覧にある身長は、諸説あるらしいのですが、今から身長測定もできず、昔の時代にシークレットブーツがあったとも考えられません。
この一覧を見て、皆さんはどう思いますか?回答お願いします!

あの大塩平八郎の乱で有名な大塩平八郎が、身長217cmだったというのを知り、衝撃を受けました。
その他にも、戦国時代の武将や昔の有名人で高身長の人を調べて一覧にしてみました。
西郷隆盛 180
浅井長政 181
前田利家 182
徳川吉宗 183
大久保利通 183
武市半平太 183
長宗我部元親 184
山岡鉄舟 188
豊臣秀頼 197
斉藤義龍 197
前田慶次 200
石川五右衛門 207
大塩平八郎 217
生月鯨太左エ門 227
この中で気になったのは、豊臣秀頼です。父親の秀吉が身長150cm位だったみたいですが、息子の秀頼が197cmとなって...続きを読む

Aベストアンサー

   1.種々の情報
戦国武将の身長は、墓地の改修などで遺骨が掘り
出され、確かめられた他、確かではありませんが、
ほぼ判っているものも、少なくありません。
着用が確かな、衣類、鎧がの残っているのが推定
の根拠です。

有名なのは、前田利家で、着用していた帷子、鎧
より六尺を越える威丈夫であることが判りました。

武将の身長は測ったことは、あるかもしれませんが
極秘情報なので残りません。
ただ敵を威圧するため、何某は七尺五寸の大男とか
宣伝することはあったのでしょう。
その数字が残っていても信用できないのは当然です。

宣教師が馬揃えを見て185 cm以上の武士が多い
ので驚いたとあります。   185 cmの数字は
眼の子であてにはなりませんが平均身長五尺三寸
(161cm)位の時代でも、六尺(182cm)位の武士は
結構いたのでしょう。

幕末、明治期はデータがあってもおかしくはないのですが
測るのが嫌いな人も多いので、やはり残された衣料からの
推定でしょう。

問題は江戸時代特に力士です。
   三代豊国、二代国明などの書いた 相撲浮世絵には
      生月 鯨太左衛門  七尺五寸  (228cm)
      大空 武左衛門      々
 横綱  谷風 梶之助     七尺三寸  (221cm)
 関脇  武蔵潟 伊之助    六尺九寸  (209cm)
 大関  九紋龍 清太夫    六尺八寸五分(208cm)

このほか大関 雷電為右衛門 六尺五寸など数多。

2m以上の巨漢5人が気になります。
「浮世絵に書かれている数字は信用出来ないものもある」
という所です。
理由は豊国にとっては伝説上の力士の絵もあり、身長
体重は伝聞のものもあるからです。   検証が必要です。
例えば上記の谷風は、六尺三寸でありまちがっています。
宣伝のために誇大に書いたのかも。

ただ生月と、武蔵潟は豊国と国明と同時代で、数字は
一応根拠がありそうです。
看板力士の生月は病的に成長した者で、相撲は取れず
見世物扱いなので判りますが、209cmの武蔵潟は
この身長で相撲がよく取れたと感心します。

         2. 数字の読み方
源表記では
六尺(182cm)、六尺五寸(197cm)、七尺(212cm)
七尺五寸(227cm)のものが多い。
五寸きざみでしょう。
とすると六尺五寸とは六尺~六尺五寸のことではないか。
(威圧のため大きくいう)。
秀頼の197cmは六尺五寸のこと、実際は六尺豊な大男
位のものでしょう。
大塩平八郎の詳細は知りませんが、同様と思います。

私の意見は戦国~江戸初期、標準より大きい六尺豊な
大兵の武将、武士は少しはいた。   六尺五寸留まり。
七尺を超す者は稀でしょう。
江戸時代相撲取りが誕生して大男が売り物になり、
見世物として200cm超、220cm位までの者が現れた。

三浦半島で後北条氏と戦った三浦道寸荒次郎は身長
七尺五寸、85人力、弓は5人懸りで張ろうとしても、
ビクともしなかったと、一書に書かれているそうですが、
誇張でしょう。   ひょっとして七尺位あったかも。

   1.種々の情報
戦国武将の身長は、墓地の改修などで遺骨が掘り
出され、確かめられた他、確かではありませんが、
ほぼ判っているものも、少なくありません。
着用が確かな、衣類、鎧がの残っているのが推定
の根拠です。

有名なのは、前田利家で、着用していた帷子、鎧
より六尺を越える威丈夫であることが判りました。

武将の身長は測ったことは、あるかもしれませんが
極秘情報なので残りません。
ただ敵を威圧するため、何某は七尺五寸の大男とか
宣伝することはあったのでしょう。
その数字が残って...続きを読む

Q百姓一揆について。

素朴な疑問なのですが…。 
「百姓一揆」と「打ちこわし」の違いは何ですか?
それと、江戸時代になぜ百姓一揆は多発しているのですか?
歴史を取っていなかったので、もしかしたら変な質問をしているかもしれませんが…。
よろしくお願いします。
 

Aベストアンサー

No.#2のdeadlineです。No.#3の方のお礼欄に

>でも関西や九州から東北地方などに食糧援助のようなものはなかったのですか?
>そんな余裕はどこにもなかったんですかね?

とありましたので。

下記参考URL(『(東京都)中央区郷土史同好会』第61回講演会要旨)に、

逆に自衛のために他藩への米・麦の流出を禁止する『穀留め』を発令して、厳しく罰したとあります。

当時の日本は1つの国ではなく、300余藩による『独立国家の集合体』のようなものだったことを考えれば、ある意味当然起きるべくして起きたことかもしれません。

ついでに、『天明の大飢饉』の2年目にあたる1783年には、日本の『浅間山』とアイスランドの『ヘクラ火山』が相次いで大噴火し、微小な火山灰により、その後数年間に渡り、全地球規模でいわゆる『核の冬』状態だったようです。
http://www.shinchosha.co.jp/tachibana/seminar/first/07minj/vocab.html#daikikin

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~FV3A-MKBC/61kai.html

No.#2のdeadlineです。No.#3の方のお礼欄に

>でも関西や九州から東北地方などに食糧援助のようなものはなかったのですか?
>そんな余裕はどこにもなかったんですかね?

とありましたので。

下記参考URL(『(東京都)中央区郷土史同好会』第61回講演会要旨)に、

逆に自衛のために他藩への米・麦の流出を禁止する『穀留め』を発令して、厳しく罰したとあります。

当時の日本は1つの国ではなく、300余藩による『独立国家の集合体』のようなものだったことを考えれば、ある意味当然起きるべくして起...続きを読む

Q江戸時代、百姓の持っている鉄砲は、一揆などで、“武器”として使われたことがありましたか?

江戸時代、百姓にも鉄砲を所有することは認められていたようですね。農作物を荒らす鳥や獣を退治するための“道具”なのですね。
ところで、このような鉄砲は、一揆などで、“武器”として使われたことがありましたか?

Aベストアンサー

百姓一揆なんて滅多にあることではありません。あるとしてもデモのようなものです。
武士が百姓を捕まえて処分することもありますが、同時に監督していた武士の方も処分されます。
 百姓が鉄砲も持っていたのは熊とかイノシシとかを捕まえるためです。鍬とか鎌を持って言った方がアピールになります。
 どの百姓もどこかの庄屋とか武士とかの配下にあるわけですから、百姓同士が命をかけて争うようなことはなかったと思います。


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