あなたの映画力を試せる!POPLETA映画検定(無料) >>

馬鹿ですいません。お叱りを覚悟で質問します。今流行の「新撰組」などを見ていて、ふと思ったのですが、江戸が中心になるまでは、何故、京都が都だったのでしょうか?盆地に囲まれて、冬は寒く、雪は深くと聞きます。決して、日本の中で気候や場所的に最適だとは思わないのですが・・・。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (5件)

こんにちは。

京都人です。

桓武帝が、京都に遷都したのは、奈良の坊主の政治への干渉を嫌ったため、というのが定説のよう(比叡山に高級坊主学校をつくったのもそのため)ですが、要は時の権力者が畿内で勢力を固め、諸理由により変遷した果てに京都に居着いただけでしょう。
確かに、気候は厳しいし、軍事的防衛拠点にはなり得ない地形ですが、当時の防衛は対人というより対妖怪だったのでしょうね。

まぁ皆さんが書いておられるように、江戸も風水は意識していると考えられてます。

上野の寛永寺=比叡山の延暦寺、隅田川=鴨川なんて言われてますよ。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございました!京都が風水のモデルになっているだなんて・・・。甚だ自分の無知さ加減に腹立たしさすら感じてきました。今、東京と京都の地図照らし合わせてま~す。

お礼日時:2004/08/02 12:31

首都というのはわが国では天皇が住んでる町となります。


邪馬台国などがどこにあったのかは不明ですが、歴史的には「大和の国(奈良県)」を中心に中央集権国家が成立します。
当初は天皇1代に1都市と、代替わりの度に近畿地方を転々としてましたが、非効率なので常設の首都として710年奈良に「平城京」が開かれ、これが奈良時代と呼ばれます。
その後、皇統が天武系から天智系に移ったのを機に、長岡京に遷都、その後794年山城の国に平安京が開かれ、これが京都となります。
奈良から都が移ったのは教科書的には「桓武天皇が旧勢力の仏教寺院からの影響を脱するため」とされてますが、質問者の本題からは外れますから、事情に関しての解説は省略します。
さて、肝心な理由ですが一言で言えば「風水」などの地相のよい土地だからです。
古代天皇の代替わりで首都を転々とさせたのも、死者の祟りを恐れたと言う説もあるように、長岡京から平安京へ移ったのも、この時代早良親王が亡くなったり洪水が2度も起こったりで、縁起の悪い土地から地相のよい土地へ移りたくなったのではないかと考えます。
京都は風水で言う四神に相応した土地で、1177年以前(この年内裏が消失して移転)の京都の地図を見ると、船岡山を基点にした都市であり、心得のあるものなら一目瞭然に分かると思います。

この回答への補足

詳細にわたり、ありがとうございました。すごく参考になりました。

補足日時:2004/08/02 12:26
    • good
    • 0

補足です。


以前日本の「首都」について調べたのですが、日本の首都は東京と言われていますが、「東京が首都」であると定めている法律等はないようですね。天皇がいらっしゃるところを「都」としているのが慣例のようです。明治時代に明治天皇が「行幸の詔」(簡潔にいえば江戸を見てくるといった内容だったように思います。)により江戸城に入城して以来、東京が「都」機能しているようであるため、本当の「都」は今でも京都なのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

深いです。

お礼日時:2004/08/02 12:26

ご存知かもしれませんが。

京都に都が移ったのは794年桓武天皇の時代です。それまでは、藤原京、平城京、難波宮、長岡京など都が数年から数十年の間に転々としていました。科学の発達していない時代のことですから、タタリとかノロイとかを根拠に飢饉や災害に怯えながら生活していたのです。京都に都を据えたのは方位学(風水)の観点から非常に立地が良いと判断されたからです。
ちなみに、この方位学は京都に限らず江戸のまちづくりにも活かされているそうです。(江戸城を中心として神社仏閣を北西(?)の方向等忌みされる方向に配置しているそうです。)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

全然ご存知でなかったです!(^-^;)今、いろんな所が再開発されていますが、方位学の歴史は残っているんですかね?よく、ショッピングモールで繁盛しているお店と寂れたゾーンがあるのも、コレだったりして・・・!!

お礼日時:2004/08/02 12:25

初めまして。

スコンチョといいます。(^_^)

京都(平安京)の前は、京都府長岡京市(長岡京)で、
さらにその前は奈良(平城京)でした。これらは、当時
流行していた中国(唐)の陰陽道(風水)を元にどこが
よいか探されたみたいですね。

おそらくは、近畿エリア内で探され、北に山・南に水・
東に川・西に道という陰陽道にもとづく「四神相応の地」
が平安京であったり平城京だったのですね。

ちなみに、江戸も天台宗の僧「天海」により、陰陽道を
元に設計されたと言われています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

へえ~、なるほど。すごい勉強になりました!ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/02 12:20

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qなぜ京都?

素朴な疑問です。
なぜ山に囲まれた狭い京都が長らく日本の首都だったのでしょうか。
地形的に何か有利な点があったのでしょうか?
歴史には疎いので常識的な事なのかもしれませんが教えてください。
宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

京都・地形で必ず出てくる説明に「四神相応の地」であることが挙げられます。URLをご覧下さい。

更に日本全体においての京都の位置、ということに関しての私見です。
・それ以前の都が奈良にあり、ある程度近い場所への移転が自然
・大雑把に言って奈良時代や平安初期の朝廷の範囲は現在の関東くらいまで、関東以北はしっかりした支配が及ぼせない範囲であるので、全体のなかの中心としては近畿地方が適当だろうと思う。
・当時は文明の進んだ大陸からの文物・人材の受け入れに積極的であったので瀬戸内海・敦賀湾などの海路で大陸との交流がしやすい場所が良かった。
(しかし日本海に面していると来襲も心配なので、ある程度内陸部に引っ込むことも大事)
というような理由で京都だったのではないでしょうか。
狭いことは狭いですけれど、奈良の都はもっと狭いですし、遷都当時は十分な広さに見えたのでしょう。

「長らく」を江戸の終わりまでだとするとその間に政治の中心は福原にちょっとだけ移ったり、鎌倉に移ったり江戸に移ったりしていますが、政治を担うことになった武士階級は、朝廷と物理的な距離を置きたかったのではないですか。だからこそ都は京都から動かなかった。
また、全ての機能が京都に集中していたら、人口が増えすぎて収容しきれなくなっていたでしょうが、
政治の中心を別に構えたことと、経済の中心としての大阪が発展していったこと(これはひょっとしたら京都が手狭だからこそ大阪が発展した、という側面もあるかもしれません。まあ港があったということが大きいのでしょうが)でうまく分散されたので、あえて都を移す必要性がなかったのだと思います。

いろいろ書きましたが、ご質問はひょっとして「四神相応」だけで解決できましたか?そうであれば、残りの部分はおまけだと思ってお読み捨て下さい。私見ですし。
では失礼します。

参考URL:http://www.unki-up.com/i/shishin.html

京都・地形で必ず出てくる説明に「四神相応の地」であることが挙げられます。URLをご覧下さい。

更に日本全体においての京都の位置、ということに関しての私見です。
・それ以前の都が奈良にあり、ある程度近い場所への移転が自然
・大雑把に言って奈良時代や平安初期の朝廷の範囲は現在の関東くらいまで、関東以北はしっかりした支配が及ぼせない範囲であるので、全体のなかの中心としては近畿地方が適当だろうと思う。
・当時は文明の進んだ大陸からの文物・人材の受け入れに積極的であったので瀬戸内海・...続きを読む


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング

価格.com 格安SIM 料金比較