アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

1. 人間のあたまが どうして生命存在よりえらいのか?

2. 存在主義は 存在が すくい や さとりの議論に先立つと言いたい
ためである。

3. すくい や さとりは 存在の――存在じたいの――潜在可能性を言
っているに過ぎない。

4. 共生は 存在そのものにすでに内在するチカラによるのであって 人
が勝手に考えてそうするのではない。

5. 存在意義が どうして存在に先立つのか?

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    ★ 先立つことって何を指しているんですか?
    ☆ (す) 何でしょう?

    (せ) われわれ人間のあたま――思考・認識・意志――が 《われ
    なる存在》に先立つとするのなら その人間たるわれがわが存在を生
    んだといった見解も 出て来るのでしょう。

    (そ) 果たして そうなのですか?

    (た) もし同時一体だとしても あたまが存在よりも大きいとは言
    えないぢゃないですか。

    (ち) あたまは存在にふくまれます。

    (と) なのに何で《あたま》を存在より先にとうとぶのか? わざ
    わざ二つに分けるのか?

    (ち) というような存在論や世界観が 人間に得られるひとつの《さ
    とり》ではないのですか?

    (と) では その世界観にも先立つものは 何なのでしょう? 

    (な) あるかも知れないし ないかも知れない。・・・ナゾです。

    (に) だから 何で人びとは このナゾをないがしろにするのか?

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/10/30 09:13
  • すくいと悟りの一つのイメージです。

    ▲ (イザヤ書65:17~25)~~~~~~~~~
      見よ、わたし(=神)は新しい天と新しい地を創造する。
      ・・・

      わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。
      泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
      そこには、もはや若死にする者も 
      年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
      ・・・

      彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。
      ・・・

      ・・・
      
      狼と小羊は共に草をはみ
      獅子は牛のようにわらを食べ、
      蛇は塵を食べ物とし
      わたしの聖なる山のどこにおいても
      害することも滅ぼすこともない、
    ~~~~~~~~~~
    ☆ さとりを得るのは 人間ですが すくいは あらゆる生物におとづれる。
    のでは?
    石ころだって その人間には別様に見えるかも知れない。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/10/30 20:11

A 回答 (7件)

莫大な回答、ありがとうございます。



★ 生存を目的とした場合、人としてではなく生き物としてでも延命
するというイメージになると私は思います。
☆ (あ) ですから 《生存を目的とした場合》に それは 《あ
たま》をとうとぶことから離れる・・・というお考えですか? とい
う問い返しです。

⇒僕がいっている生存とは、生きている状態を様々な活動によって維持することを指しています。
 このような活動は、生き物すべてが行っているわけですから、頭を尊ぶことから離れるという考えです。
 

(い) 《生き物としてでも》という内容に 《あたま》の問題は入
らないという意味ですか? と。

⇒思考や意志ははいりません。

(う) ぎゃくに言えば 《あたま――存在の意義や目的を考えるそ
の思考やそれを実践する意志――》の問題は 《存在・生存・生き物
であること》に入っていない・・・のですか?

⇒上記でも書いていますが、存在と生存は僕の中では分けて考えています。
 生存:生き物が生きている状態を様々な活動によって維持すること。
 存在:「○○があるんだな」と認識することです。

(え) つまり なぜ 生存とあたまとを二つに分けるのか?

⇒意思や決定がないものであっても生存をしている生物がいるということです。
 よって、意志や思考と生存は関係ないということです。

★ すくいや悟りは思考がなくてもできるということですか?
☆ (お) では伺いますが 《すくいやさとり》は 生存していな
くても出来るということですか?

⇒すくいや悟りは、人間の思考から生まれるものです。
 よって、生存した人間から生まれると僕は考えています。

★ 例えば、石ころでもできるということですか?
☆ (か) あなたは どうお考えですか?

⇒先ほどと同じで、すくいや悟りは人間の思考から生まれるものなので、
 できないとの考えです。

★ それは、生物に限らず、意識や思考がない物質であっても認識と
対になれば、存在できるとの考えです。
☆ (き) 《認識》は 《存在》よりも先に《認識のみとしての存
在?》としてあった・・・ということですか?
 
⇒認識されないもとを存在しているとどうやって言うことができるのか
 僕には理解できません。
 僕が認識したというのは、目視とかいうことではなく存在を意識するということです。
 つまりは、存在は「○○がある」という認識ですね。
 


★ よって、存在じたいの潜在可能性とした場合、物質であっても悟
りやすくいを得るということですかね。
☆ (く) 《よって》という接続の仕方を別としてこの命題を考え
てみましょう。

⇒考えてくださって、ありがとうございます。


(け) そうすると――先ほどの《石ころ》の問題になるわけですが
―― 人間以外の存在については 人間が おのれの救いを得 さと
りに達したというときには その石ころや何やかやも それに応じた
状態にあると その人間には見えているでしょうね。・・・これは
憶測です。

⇒(け)その石ころや何やかやも それに応じた状態にあると
    その人間には見えているそうですよね。
    ⇒人間がおのれのすくいや悟りを開くのであって、石ころ自体が悟りを開いたわけではないですよね。
     人間がそう見えるだけであって、悟りを開くのは人間です。
     人間以外で悟りをひらくことができるものはあるんですかね。
     動物や植物のことはよくわからないので、否定はしませんが・・・


★ 悟りは人が作り出すものではないのですか?
☆ (こ) それでは 人がこの世界を作り出したことになりません
か?

⇒悟りを人が作りだしたということとが、この世の中を人間が作り出したことに
 なることが理解できません。
  ※人が認識できる世界は、人の認識によって作られた世界であり、
   このことから、人が世界を作り出したとも取れなくはないですが。

⇒悟りは思考から生まれてくるものであり、人が認知している世界は、人間の思考の枠を出ません。
 地球上の約75億人のうち、一人が悟った場合でも、その人は人間であり、人間の思考の枠をでません。
 悟りとは、新しい気づき、つまり《あたまの問題》の一部です。

(さ) 人の悟りや《あたま》よりも先に存在が位置するという世界
の見方に立てば その世界についてさとるのは 存在の可能性が開花
したのだと捉えられます。

⇒例えば、角の向こうに女性がいて、自分が曲がった瞬間にぶつかりそうになった場合など、
 自分が認識する前に既に存在していた女性という存在が、僕の認識へ影響を与えて、
 新たな世界観を与えたということでしょうかね。
 イメージはできますが、僕自身が認識できないものは認識する瞬間まで存在を理解できないわけですので、
 この見方は仮説の域を脱しないという理解です。

 (さ)という考え方があってもいいと思いますよ。

⇒もちろん、否定はしません。
 ”そう考えると”という《仮説》を使ってしまうと、
 なんでもありではないかと感じるんですが。 

(し) 人が作り出した悟りなら 人の数だけ悟りがあり同じ一人の
人でも 時によって違って来る。《二重人格》ではなく 《多様性》
ゆえにゆるされますか?

⇒悟りとは、新たな気付き、認識の一つではないでしょうか。
 子供が成長する過程は、見方によっては全てが悟りではないのでしょうか。
 成人になっても、例えば、一つの石ころを100人が見た場合、その100人は同じことを感じるでしょうか。
 100人いれば、100通りの感じ方ではないのでしょうか。
 

★ 先立つことって何を指しているんですか?
☆ (す) 何でしょう?

⇒言葉の意味や使い方のことをもう少し詳しく知りたかっただけです。
 なので、適当な解釈をしておきます。


(せ) われわれ人間のあたま――思考・認識・意志――が 《われ
なる存在》に先立つとするのなら その人間たるわれがわが存在を生
んだといった見解も 出て来るのでしょう。

(そ) 果たして そうなのですか?

⇒存在は認識です。認識したことで存在します。


(た) もし同時一体だとしても あたまが存在よりも大きいとは言
えないぢゃないですか。

⇒大きい?
 ごめんなさい。理解ができません。どういう意味ですか?

(ち) あたまは存在にふくまれます。

⇒あたまを認識したのであれば、あまたは存在に含まれます。
  ※自分の思考を思考するという言葉が妥当であればですが・・・
 僕の中では存在は認識ですから、逆に、存在はあたまに含まれるともいえます。

 例えば、自分が自分を認識できない状態の存在をどうやって認識にかえるのでしょうか。

 一人で考えると「あったはず、いきなり形作られないのだからあったはず」
 ということですよね。つまり仮定の域を脱しないですよね。

 では、この仮定をどう認識にもっていくか。
 それは、第3者からの情報です。
 人が集団で活動し、コミュニケーションを取ることが役に立っていますね。
 自分が認識する前に、自分の存在を認識してくれていた他人の認識情報をもらいます。
 そして、第3者からの情報を元に存在を仮定から認識に変えたのです。
 もし、その他人の情報が間違っていたら、自分が認識する前の存在は、
 その間違った認識(つまり間違った存在)になるのです。
 存在は認識の影響を受けるんです。
 もし、存在と認識が別のものと定義できるのであれば影響しない方法があると思うのですが、
 僕は影響しない方法を説明することができない。
 よって、『存在は「●●がある」という認識』であるという立場です。


(と) なのに何で《あたま》を存在より先にとうとぶのか? わざ
わざ二つに分けるのか?

⇒尊ぶということがぼくにはちょっとよくわからないです。
 存在は「○○がある」という認識です。
 あたまの問題です。
 

(ち) というような存在論や世界観が 人間に得られるひとつの《さ
とり》ではないのですか?

⇒頭で考えて、思考の結果うまれたものですよね。
 さとりって。

(と) では その世界観にも先立つものは 何なのでしょう? 

⇒ここでの世界観って、何を指していますか??


(な) あるかも知れないし ないかも知れない。・・・ナゾです。

(に) だから 何で人びとは このナゾをないがしろにするのか?

⇒僕は結構楽しいですけどね。こういう議論。
 気付きもありますしね。
 目の前にあることに取り組むことが一番になりますよ。
 この問題を考えるなくても、生活することはできます。
 生活するための具体的なことを考えることも重要ですしね。
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 僕がいっている生存とは、生きている状態を様々な活動によって
維持することを指しています。
このような活動は、生き物すべてが行っているわけですから、頭を尊
ぶことから離れるという考えです。
☆ ですから 《生きている状態》は 《あたまの活動》とは別なの
ですか? どうしてですか?

また あたまを活動させているとき 存在が生きています。どうして
この単純な事態を 別なふうに見るのですか?

いまのこの問題は ほかの論点においても 続くようです。そしてこ
れについては 基本として人間の場合を取り上げるべきだと考えます。

★ すくいや悟りは、人間の思考から生まれるものです。 / よって、
生存した人間から生まれると僕は考えています。
☆ この命題が この質問の問うところです。《存在意義は 存在に
先立つことはない》と。

★ 認識されないもとを存在しているとどうやって言うことができる
のか
☆ 生存しないで 認識が出来るのですか?

★ 存在は認識です。認識したことで存在します。
☆ その認識の能力は 存在する前にあったとするなら どこにあっ
たのですか?

★ 自分が認識する前に、自分の存在を認識してくれていた他人の認
識情報をもらいます。 / そして、第3者からの情報を元に存在を仮定
から認識に変えたのです。
☆ もしこの《第三者》を 《すべてに先立つナゾ》のこととして捉
えたとすれば どうなるか? 

そのナゾのもとに われわれの存在がある(生まれる)。そこに 認
識能力もそなわっている。ものごころが着いたときから その能力を
用いて われ及び世界を認識するようになる。

認識が何ものにも先立つのだとすれば それは お化けです。どうで
しょう。

お礼日時:2016/10/30 20:24

回答ありがとうございます。


いただいた内容に回答します。

☆ ぢゃあ 延命をのみ願いそういった処置を受けることは 《あたま》
の問題とは別だと見るという意味ですか?
なぜ そこで二つの別のことだとして分けるのかが分かりません。

⇒あたまの問題とは何を指していますか?
 もう少し具体的にお願いできますか。

 肉体的な延命というのは、人で言う延命治療を指します。
 たとえ意識がなかろうと肉体的な治療を行い、医学的に生きている状態を維持することです。
 細胞であれば、培養して生きている状態を維持することです。
 生存を目的とした場合、人としてではなく生き物としてでも延命するというイメージになると私は思います。
 よって、生存を目的とした存在理論は、納得性がなく、パラダイムシフトを起こす理論になりえないと
 私は考えています。


☆すくい や さとり は 存在じたいの潜在可能性であり 
 それゆえに《あたま》だけの問題ではない。という見方を採ります。
 あたまで すくわれ さとりを得ることが出来るのなら すでに世界は
 聖人や偉人だらけでしょう。

⇒存在自体の潜在可能性とはいったい何のことでしょうか?
 すくいや悟りは思考がなくてもできるということですか?
 例えば、石ころでもできるということですか?

 僕は、存在とは、認識と対になるものであり、
 それは、生物に限らず、意識や思考がない物質であっても認識と対になれば、存在できるとの考えです。
 よって、存在じたいの潜在可能性とした場合、物質であっても悟りやすくいを得るということですかね。
 正直、全くイメージができません。
 僕は、さとりやすくいは、人が作り出すもの以外イメージが全くわきません。
 悟りは人が作り出すものではないのですか?
 もちろん、その思考にたどり着くのは、非常に困難であり、もしかしたら偶然が重ならないと
 できないかもしれない。ですが、どう転んでも所詮は人間の思考の領域を脱しない。
 思考を脱しないから言葉として他人に伝えられるんですよ。
 他人がわかるということは、他人の脳でも理解できるものなんですから。

 
☆つまり 《共生》は 人間の意志やあたまの問題だけで実現しうるとは
 見ない。こういう立ち場のことです。
 だから 《目的 ないし 存在意義》は――あたまの問題でもあります
 から―― 存在に先立つことはない。と問うています。
 
 ⇒bragelloneの言いたいことは、だいたいわかりました。
  共生は人間の意志だけで実現するものではない。
  意志のあるないにかかわらず、存在した段階で共生できる可能性があるということですよね。
  存在じたいも人間の意志ではない。
  では、目的や存在意義は人間の意志であるので、
  存在よりも先立つことはないということですかね。

  先立つことって何を指しているんですか?
  あたまの問題が具体的にわかりませんが具体的に教えてもらえますか?
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

率直に反応してまいります。

★ 生存を目的とした場合、人としてではなく生き物としてでも延命
するというイメージになると私は思います。
☆ (あ) ですから 《生存を目的とした場合》に それは 《あ
たま》をとうとぶことから離れる・・・というお考えですか? とい
う問い返しです。

(い) 《生き物としてでも》という内容に 《あたま》の問題は入
らないという意味ですか? と。

(う) ぎゃくに言えば 《あたま――存在の意義や目的を考えるそ
の思考やそれを実践する意志――》の問題は 《存在・生存・生き物
であること》に入っていない・・・のですか?

(え) つまり なぜ 生存とあたまとを二つに分けるのか?

★ すくいや悟りは思考がなくてもできるということですか?
☆ (お) では伺いますが 《すくいやさとり》は 生存していな
くても出来るということですか?

★ 例えば、石ころでもできるということですか?
☆ (か) あなたは どうお考えですか?

★ それは、生物に限らず、意識や思考がない物質であっても認識と
対になれば、存在できるとの考えです。
☆ (き) 《認識》は 《存在》よりも先に《認識のみとしての存
在?》としてあった・・・ということですか?
 
★ よって、存在じたいの潜在可能性とした場合、物質であっても悟
りやすくいを得るということですかね。
☆ (く) 《よって》という接続の仕方を別としてこの命題を考え
てみましょう。

(け) そうすると――先ほどの《石ころ》の問題になるわけですが
―― 人間以外の存在については 人間が おのれの救いを得 さと
りに達したというときには その石ころや何やかやも それに応じた
状態にあると その人間には見えているでしょうね。・・・これは
憶測です。

★ 悟りは人が作り出すものではないのですか?
☆ (こ) それでは 人がこの世界を作り出したことになりません
か?

(さ) 人の悟りや《あたま》よりも先に存在が位置するという世界
の見方に立てば その世界についてさとるのは 存在の可能性が開花
したのだと捉えられます。

(し) 人が作り出した悟りなら 人の数だけ悟りがあり同じ一人の
人でも 時によって違って来る。《二重人格》ではなく 《多様性》
ゆえにゆるされますか?

お礼日時:2016/10/30 09:02

1.について


偉い偉くないは、比較できるものなのかよくわからないです。
ただ、生命存在➡生存は、人だけではなく、思考能力のない単細胞生物を始め、植物等の他の生物も生存していることから、意志ではなく、自然現象と考えられます。

よって、人がどうこう関われる部分ではないと僕は思います。
単なる生存を追求するという意味は、どちらかというと、肉体的な単なる延命を指すと考えられます。

また、存在という言葉になると、生き物以外も含まれますから、更に人の意志に関わらないものと捉えられます。

『存在する』という言葉が、僕には認識するものがあって初めて存在すると考えているので、更なる違和感があります。
姿が見えなくても、例え仮想であっても、想像であっても認識されることで存在すると考えています。

2.3.について
すくいや、悟りは人の思考によって産み出されるものです。人は様々な自然現象に、意味を求めます。例えば、昔からの風習である『干ばつでの雨乞い』も、その一つですよね。
つまり、生存するという自然現象に意味を紡ぎだすことで生まれた考え方が、存在理論だと思います。
よって、後先の問題ではないと僕は思います。

4.について
全ての生物や物質の存在を脅かさないとすると、全ての生物や植物が生きていけないでしょう。
であるならば、人の共存共栄を最優先価値に置くという理論にならざるを得ない。そうであれば、個々人の欲求に対応しなければならない。
対応するための1つの手段として、人としての目的を共通にする。その共通の目的を存在にしましよう。ということですよね。
この目的が、人の意志に関係のない『存在?生存?』としているところに矛盾があると、僕は思います。

また、生存を共存させる上で何をもって共存かを定義しないとよくわからんですね。

そもそも理論で使われている言葉の定義の癖が強くて、深く議論しようとすると成立しないのが、一番の問題ではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

おもに違いをのみ述べます。

★ 単なる生存を追求するという意味は、どちらかというと、肉体的な
単なる延命を指すと考えられます。
☆ ぢゃあ 延命をのみ願いそういった処置を受けることは 《あたま》
の問題とは別だと見るという意味ですか?

なぜ そこで二つの別のことだとして分けるのかが分かりません。



★ すくいや、悟りは人の思考によって産み出されるものです。
☆ ここが 違うと思います。

その見方は それこそが 《あたま》の問題であり あたまのことに収
れんさせているように思われます。

そうではなく すくい や さとり は 存在じたいの潜在可能性であ
り それゆえに《あたま》だけの問題ではない。という見方を採ります。

あたまで すくわれ さとりを得ることが出来るのなら すでに世界は
聖人や偉人だらけでしょう。



★ 人としての目的を共通にする。その共通の目的を存在にしましよう。
という・・・この目的が、人の意志に関係のない『存在?生存?』とし
ているところに矛盾があると、僕は思います。
☆ 意味するところは やや分かりにくいですが これにも同じように
応答します。

つまり 《共生》は 人間の意志やあたまの問題だけで実現しうるとは
見ない。こういう立ち場のことです。

だから 《目的 ないし 存在意義》は――あたまの問題でもあります
から―― 存在に先立つことはない。と問うています。

《共生》とは 共生しえていないと思ったところについては 共生では
ないという自同律で 推論をすすめるというお約束事です。

★ そもそも理論で使われている言葉の定義の癖が強くて、深く議論し
ようとすると成立しないのが、一番の問題ではないでしょうか。
☆ ゆるキャラの定義で みなさんは議論をしている。というだけのこ
とです。

お礼日時:2016/10/29 20:03

最新のハルさんの質問文を見る限りに於いて、また回答への応答を見てみると「存在性思想」に光が見えてきたように思います。



ブラジュロンヌさんの質問はハルさんのこの質問への感想を問い、としたのでしょうか。

ハルさんの「存在性思想」は先だとか後だとかは、どうでもいいことだと思いますが。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

存在についてその目的を掲げその目的を実現するために努力をしなければ
存在は 何にもならない。と言っているからです。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/28 21:50

違うなぁ。

    • good
    • 2
この回答へのお礼

違わないなぁ。






ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/28 11:14

頭も生命だけどね。

矛盾だらけだな。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

★ 頭も生命だけどね。
☆ あたまだけで そこの街の通りを歩いているとすればね。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/28 11:09

物事をあまり小難しく考え過ぎると堂々巡りし


そのうちスパイラルダウンしてドツボに嵌りかねません
どうしても正解をと言うなら、哲学者になるか
仏門に出家をお勧めします。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

そのまま 人のよい人間でいつづけて 大過なく人生を
過ごし切る道をお勧めします。

まかり間違っても 哲学の世界には首を突っ込まないこ
とです。

ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/28 09:34

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!