プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

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アドラー心理学の「 目的論 」では、原因ではなく、「 人の行動はその目的の実現のためにある。 」と説明しています。つまり、引きこもりの場合は、不安だから外出しないのではなく、外出したくないから、不安を作りだしているということなのです。
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アドラー心理学でみる、彼らが引きこもりを脱出する唯一の方法は、勇気をもって目標を変えることです。
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ということですが、なんだか納得いかないのです。


>「外出したくないから、不安を作りだしている」

その「外出したくない」にも理由があるはずですよね?
先に「外出したくない」が前提としてあるのは不自然だと思います。


>勇気をもって目標を変えることです。

いや、それが出来たら苦労しないと思うんですが・・・(笑)
最終的な結論がコレっていうのはどうなんでしょう。


でもあれだけ支持されてるアドラーなので、私の気付いてない何かがあるんじゃないかと思って質問してみました。

A 回答 (6件)

>「ある課題の達成や目標実現に向かって行動中の者は、原因究明に時間を費やしたり、知力やエネルギーを原因解析などに気を回してはいけない。

ある課題の達成や目標実現に向かっての別の道や方策の検討や助力要請、新たな行動の開始に精一杯取り組むべきだ」
☆ これはあなたの持論でしょうか?
★ "持論=かねて主張している自分の説"ではないです。 前に力説したことはないです。 私が知っている多くの分野で当事者が行っている行為を、抽象化して表現しているだけのつもりです。 
☆ 要約すれば「確実じゃないからやらない」と言ってるようなもので、とても社会で受け入れられるようなものではないです。
★ 要約しても"確実じゃないからやらない"とはならないです。"原因究明それ自体に時間や手間費用を掛けるのは、目的論から言っても妥当な方針や行動ではない"と言っているつもりです。

>実社会で《おきたこと、観測された事象》に関する説明は、ほぼ後付け説明です。
☆ 「後付け」の意味を勘違いしてるように見えますが、 後から検証して「この可能性が高いのではないか」と分析することは「後付け」とは言いません。 一般的に言う後付けの論理というのは、たいした検証や分析をせず「これが原因に決まってる」とすることです。 そうでなければあらゆる科学的理論もすべて「後付け」になってしまいます。
★ "後付け"を"giving a reason"の意味で使いました。言葉の使い方としてはあまり上手くなかったと思ってます。 "こじつけ"とか"牽強付会"、あるいは"犯人捜し"、あるいは"自責から目をそらす無意識思考"とか、いろいろ思ったのですが、"後付け"が一番わかりやすいのではないかと軽く考えて書きました。 "心理"って言葉もやっかいですが、わかりやすいかなという程度の軽い考えで書くなら、"いじめっ子の心理"、"はしゃいで、飲み過ぎて、大失敗した"とかの書き出しで、reasonを色々いう場合、大抵、"たいした検証や分析もせず、これが原因理由"と続いていきます。 なぜそういう行動や思考をするのかというと、個別のことを巡る膨大な状況を詳しく調べ検証するのは、一つには、そうした調査や検証が無理であるだけでなく、調べ始め、いくつかの要素要因を考え出すと、ますますわからなくなるからです。 また、自分の側に起因するいくつもの問題を検討するのは辛いので、単純に1つか2つに限定してしまった方がらくだからです。 自分の日常に問題があると検討し検証するよりは、外来要因当て嵌めて済ますとかの方が楽です。 またその件の具体的なことの調査をするよりは、過去に印刷物のなっている失敗事例集やアドバイザーや専門家の指摘から採用する方が時間も調査の手間や方法の検討もなくて済むからです。 仮に、「あの子がいじめをするのは、相手の心理を想像する力が未熟で、自分の気持ちを表現することも苦手で、自分が認められていない焦りがあって」という怪しげな説明を採用適用して済ませるという安直な方法をとるヒトがいるとします。 「相手の心理を想像する力が未熟で、自分の気持ちを表現することも苦手で、自分が認められていない焦りがあって」というのは"あの子"だけでしょうか。他の子はそうではないとそのヒトは検証したのでしょうか。 "あの子"は誰を相手にもイジメをしていたのでしょうか。イジメをしてなかったときとは、「相手の心理を想像する力が未熟で、自分の気持ちを表現することも苦手で、自分が認められていない焦りがあって」という条件が消えていたのでしょうか。 
どこかの解説書や専門家というヒトの書いたwebや学校などが作成した事例集から探し出して、"その具体的件に関しては、調査も検証もほとんどせずに、屁理屈にさえもならないような理屈を並べて後付けの原因"とするのは、そうすることで何かが落着した、終結に向かったという形を取りたいからです。

>簡単に検査できてすぐに結果がわかりその結果によって対策が変わる場合は、そうした方がイイと思います。
☆ じゃあしたほうがいいんじゃないですか(笑) なぜあなたは最初から「困難な場合」という前提で喋っているのでしょうか?
★ "水が漏れている。底に穴が空いている。容器を交換すればイイと決まる"なら、そうすればイイのです。 ただ、そうした"簡単に検査できてすぐに結果がわかりその結果によって対策が変わる(対策を変える/対策が決まる)"例は、多くないです。 人間の行動や人間関係に関わることは、原因もわからないし、対策も容易には決められないです。 パソコンでネットが上手く使えないなどの場合でも、検査は容易ではなく、原因はなかなか絞れないことが多いです。 使い手が操作や手順、設定を誤った、ルーターが不調を起こすという程度のことでも、なかなか原因の絞り込み、対策変更は簡単ではないです。 マスコミで報道されるような事故や事件だと、たぶん、調べれば調べるほど"断定は難しい"ということになるでしょう。 酒を飲んでいた、精神を病んでいたというのは、"それで落着した、終結に向かったという形を取りたい"からです。

☆ そもそも検証してみなければそれが困難なのかどうかもわからない。
★ ご指摘の通りです。 しかし、宝クジがあたるかどうかは抽選が終わらなければわからないのですが、買わなければあたらないことは間違いないです。 しかし、50枚買っても、高額にあたるのは困難、最下等ならあたるのはほぼ間違いないです。 多くのことは、過去に起きたことの原因でも、検証しても困難です。 トランプ氏が勝ったから、予想や推測に問題があった言い出すのですが、クリントン氏が勝っていたら、予想や推測に問題があったとは言わないのなら、そうした原因の説明は後付けでしかないです。

☆ そうでなければあらゆる科学的理論もすべて「後付け」になってしまいます。
★ これは、ウーンです。 科学や工学などは、起きた現象を調べて、法則や理論(仮説)を作り、他の例に当て嵌め、類似例で検証し、その法則や理論(仮説)では説明がおかしくなることはないというところに持っていこうとします。 そこまでちゃんとやろうとしている場合は、"後付け"とはもう言わないと思います。 ある個別の出来事に関して、その原因を調査し、断定に近いことができるような色々の検証はまず、普通はしません。 その案件に関してどうしても深く多様に調査検証するのは時間も人手も専門技術も金も必要です。
 
☆ パッと見で「これはきっと困難だろう」と決めつけてやらないことを選ぶのは賢い人間とは思えません。
★ 研究者なら、困難そうだから、おかしいと思うから、俺の仕事だからなどの気持ちで取り組むでしょう。  ある課題の達成や目標実現に向かって行動中の者は、目標達成、課題完遂は困難そうだからと決めつけてやらないのは、ちょっと問題だと思います。 
企業で品質改善や工程改善、コストカットを専門業務として担当している部門にいるならば、"困難そうだと思うからやらない"のを選んでいてはダメでしょう。 
しかし、ある課題の達成や目標実現に向かって行動中の者は、上手くいかなかったことの過去のことの原因がすぐにわかることならともかく、調べないと上手くいかなかったことについてあれこれ調べるのは、まったく見当違いの行為です。そんなことに時間や手間を掛けるのは愚かしいヒトだと私は思います。 ゴルフでパットを失敗した、野球で打球が捕られてゲッツーになったのを、あれこれプレー中に考えているようでは、ロクでもないと言われると思います。
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★順番がコメント順とは違いますが、私の書きやすさで書きます。



☆どこの企業でも過去の成功失敗に基いたデータの蓄積は行っています。それを否定することは理解出来ません。
★多くの企業や大きな事業所、医療機関などでも、エラーの再発防止の取り組みとして、事故や故障、アクシデント、クレームやその対処等の記録は集積し、分析し、多様な用途で使えるように整備していることが多いです。その事実やそうしたことをやることを好ましくないと否定しているつもりは、私にはないです。 私が述べているのは、「ある課題の達成や目標実現に向かって行動中の者は、原因究明に時間を費やしたり、知力やエネルギーを原因解析などに気を回してはいけない。ある課題の達成や目標実現に向かっての別の道や方策の検討や助力要請、新たな行動の開始に精一杯取り組むべきだ」ということです。 仮に、どこかで道に迷った場合を考えた場合、どうして道に迷ったのかの究明や考察をするのではなくて、誰かに道を聞くとかナビで検索するとか、これからに向けての努力をすべきだということです。 何か体調が悪い痛いとか骨折した場合でも、その原因を探るよりは、医者に治療を依頼するとか、しばらく安静に休ませるとかをすべきです。 企業の品質管理部門は、原因や状況の分析やそうした結果に基づいて基準や手順を造り直したり指導をしたりするのが業務ですが、開発部門、技術部門、製造部門、資材部門などは、原因究明よりは、もっと良くする、安くする、丈夫に、確実にするなどが業務です。あまりないことですが、購入した製品がまださほど使ってないのに異音がする故障かなという状態になったら、メーカー・販売店・サービスセンターに持ち込みます。うけた部門がやることは症状の確認とマニュアルに従った部品交換作業などです。どうして異音がするのか、そんな症状が出るのかを調べることは、なかなかしないものです。 ある程度の確率では起きるかもしれないとなれば、品質部門でも件数の統計的傾向を分析するので終わるか、多少傾向がマシな規格の部品に替えることを技術部門に提案する程度です。 
★私の経験の中で、ドイツまで出張し部品の製造工程を詳細検討するように直談判したこともありましたが、かなり特殊なケースですし、そのメーカーもある部品の材料や工程の分析をする実力はあまり十分ではなかったと思ってます。 製品故障の原因が部品にあるように見えても部品にどうして不具合が発生するのかは、科学技術的に言えば、そう簡単にわかるようなものではないです。(部品の素材、素材の加工工程、部品加工、部品を使う個所の設計、設計時の条件設定、製品の組立工程、製品の使用環境や使用方法など 多くの要因が重なっている可能性も高いし、偶然の外来要因など偶然の要素も大きいです。 科学技術的な分析検討でなんとか済みそうなことでも、そんなものです。 それが、開発が遅れる、不良率が高い、売れ行きが期待ほどでないなどになったら、《原因などわかるはずがない》といっても間違いとは言えません。

>後付けの説明をしているのに過ぎないことが多いです。 
☆それもあなたの主観では? ☆それが後付けの説明であるかどうかをどうやって証明するのでしょうか?
★「主観でしょう」というなら否定はしません。 演繹のロジック、数式の変換のようなものならば後付けではないでしょうが、実社会で《おきたこと、観測された事象》に関する説明は、ほぼ後付け説明です。 そして、原因や理由の説明の多くは、説明を受ける人を納得させるという目的や意図のためになされるようです。「そんな説明じゃわからない。わかるように説明して」という言葉は、説明行為の位置づけを表しています。航空機事故、傷害殺傷事件、崩落事故、景気変動、少子高齢化、未婚化、過疎化、企業業績の向上や低落、トランプ氏の次期大統領確定などでも、政治家や官公庁、経営者、○○問題専門家は、社会一般、世間、あるいは被害者、投資家に対して、なにかの理由や原因の説明をしないと収まらないから説明しているだけということが多いです。もちろん、仮にいくつかのことが起きたとしても何とかカバー出来て大事故に到らないような対策を検討したり推進するのにそうした原因理由仮説は大いに役立つこともあります。なお、実際にそうしたことがおきた原因を究明しようとして究明できることはほとんどないです。
★「何かの対策実施をする場合に、原因理由仮説があると納得を得やすい/原因理由仮説がないと納得や賛成を得られない」ということが、「原因は………である。………が根拠である」という説明をしたがる傾向を強めてしまうのでしょう。そのような行為が一般に多く存在していると、そうした行為が多い社会に生活していると、次第に「原因を自分でも求めてしまうシンドローム」「対策を考えるときに、まず原因を解明してからと思ってしまうシンドローム」が生じるのだと思います。

>「次々と別の手」を繰り出すのが、一般的な方法です。
☆その「別の手」を考えるために過去の失敗から学習して次の案を出すんだと思いますが。 ☆例えば、「売り上げが出なかった。その一つの要因として他社と比べての広告の消極的姿勢が考えられる。だから次は広告を多めに出す。」という構図は普通にあるはずです。
★「売上が伸びないのは、他社よりも広告が少ないし小さいからなので、広告を大きくし、人気アイドルを使い、頻度も上げたい」という発想をする人もいると思います。しかし、{[広告の他社との比較]と[売上伸びの他社との比較]を直結させる思考}に妥当な根拠があるのかという視点で質問すれば、多くの人は「たぶん根拠は薄弱だろう。他に要因が重なっているのが普通の見方だろう」と返事するでしょう。「《その一つの要因》と言っているだろう」というのはごまかしです。 広告は要因の一つであって、他の要因が多数あるなら、広告を増やせば売上が伸びるというロジックにはならないからです。 
「次々と別の手」の中に、広告増加、広告スタイル変更、おまけ添付、販売品目から外す、用途開発、卸価格見直し、タイアップ戦略などもあるし、営業員の再教育もあるかもしれません。別の手は、過去の失敗よりも、世間で行われている最近の戦術からのよさそうで自社でも出来そうなのを選ぶことが多いでしょう。二匹目のドジョウねらいも多いでしょう。過去の失敗から学習して次の案を出すということはかなり少ないと思います。

>ある手術や施術、荘着具、注射薬剤、服用薬剤が効かなかったか悪化させたかという疑いがあったとしてもその事実関係やメカニズム、作用機序などを調べていたら、その患者に対する医療行為としては話になりません。
☆これも詭弁に見えます。 ☆調べきれないことは割り切って捨てる必要がありますが、分析出来る部分は分析したほうが良いのは明白でしょう。
★簡単に検査できてすぐに結果がわかりその結果によって対策が変わる場合は、そうした方がイイと思います。でも、ある術策で手術して効かなかった、薬剤投与でも効果が現れない場合には、その原因を調べることそのものが困難です。研究が目的ではないのだから、次なる対策を選ぶか、しばらく様子を見るかなどは、医師が経験などからえたヒューリスティックな判断です。詭弁ではなくて、それしか現実的に取り得る方法がないということが多いです。

>その課題(タスク)の達成に向かうパスの選択(例:対戦相手を考えた戦術や策の検討と訓練)が何より重要です。
☆重要度の問題なのであれば、過去の失敗“も”分析したほうが良いということになるでしょう。 ☆「AよりもBとCとDが大事だからAはやらなくて良い」とはならないはずです。
★過去事例、インシデント事例集、戦略作戦集、対応事例集、ヒント集などを作成、配布、閲覧に積極的な事例は多いです。 これらは、原因の調査や分析を進める方法の参考として使うことを期待されているというよりも、問題がおきたときの問題の対処進め方や方法に過去どんなものがあったのかをみて、事例集をみた人や指導者の“学び”で、今後の指針の参考にするものです。
http://www.env.go.jp/air/teishuha/jirei/h20/teis …
https://www.itarda.or.jp/service/zirei.php#resid
★{その課題(タスク)の達成に向かうパスの選択(例:対戦相手を考えた戦術や策の検討と訓練)が何より重要です}の文意は{タスク達成に向かうパスの選択が、失敗した状況の詳細調査、起きたことと関連する要因との関連性分析、原因究明や類似事例の調査、反省や再発防止策の検討や推進などよりも、より重要です}の意味です。交通事故が起きたら事故原因の解明に時間を掛けているよりも、救命処置や交通再開に向けての処置をすることを急ぐべきです。 大地震が発生したら地震の原因調査よりも防災のためにいますべきことを優先するのが重要だと言っているのです。 原因やメカニズムは、通常、単純な要素であることはないです。多くのことが複雑に絡み合っているし、似たような事例に見えても、個々にみればそうした絡み合った要因のほぼ全部が様々に違っているのが普通です。ある個別ケースで何が決定的要因だったか、何が大きく関連しているのかは、かなり難しい問題ですし、そうした究明は、学術研究目的や裁判等で責任度を問題にするようなごく特殊なケースを除いて、重要ではないです。
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この回答へのお礼

私は「アドラー心理学」について質問しているんですが、

>「ある課題の達成や目標実現に向かって行動中の者は、原因究明に時間を費やしたり、知力やエネルギーを原因解析などに気を回してはいけない。ある課題の達成や目標実現に向かっての別の道や方策の検討や助力要請、新たな行動の開始に精一杯取り組むべきだ」

これはあなたの持論でしょうか?
要約すれば「確実じゃないからやらない」と言ってるようなもので、とても社会で受け入れられるようなものではないです。

>実社会で《おきたこと、観測された事象》に関する説明は、ほぼ後付け説明です。

「後付け」の意味を勘違いしてるように見えますが、
後から検証して「この可能性が高いのではないか」と分析することは「後付け」とは言いません。

一般的に言う後付けの論理というのは、たいした検証や分析をせず「これが原因に決まってる」とすることです。
そうでなければあらゆる科学的理論もすべて「後付け」になってしまいます。

>簡単に検査できてすぐに結果がわかりその結果によって対策が変わる場合は、そうした方がイイと思います。

じゃあしたほうがいいんじゃないですか(笑)
なぜあなたは最初から「困難な場合」という前提で喋っているのでしょうか?

そもそも検証してみなければそれが困難なのかどうかもわからない。
パッと見で「これはきっと困難だろう」と決めつけてやらないことを選ぶのは賢い人間とは思えません。

お礼日時:2016/12/08 01:45

> それらのサイトでも「分析」が必要だと書かれていますし、分析=原因究明であることは明らかでしょう。

 打つ手を考える=売れてない原因を考える ということですから。
☆ 打つ手を考える、分析するというのは、原因究明と同じとは限りません。 数学の試験問題でも、機械加工の課題でも、野球やフィギャアスケートで成績を上げるのでも、商売で販売実績を増やすのでも、これまでやったことのマズイところ、失敗、不良個所、ミスの個所を探すようなことは二の次か、まったく顧みないことが多いです。 いつも同じような間違いを犯していると実感していたり、他人からそうした指摘を受けるなどの、原因そのものと対策すべきポイントがセットで即わかるような例外的な状況ならば、原因の分析は役立ちますが、通常は、何かをしたい・達成したい課題がある場合に、過去の失敗の原因を究明するような行為は、有効無効の前に、やっていてはならない行為になることが多いです。
原因究明そのものが悪いとか、無駄だと述べているのではないのです。なにかの課題の達成(例:次の試合で成績を上げる)に向かっている主体にとっては、その課題(タスク)の達成に向かうパスの選択(例:対戦相手を考えた戦術や策の検討と訓練)が何より重要です。 そのタスクの達成そもののを自分の課題にしているのではなく、行動分析やある行為にかかわる調査や研究を自分の課題にしている場合には、その当人の課題選択あるいは分担責任業務によってが、過去に行われた試合の全体の解析究明に力を注ぐということがあって当然です。そうした過去にあったことの解析究明に時間と知力などを注いでいれば、来週の試合は放棄したようなことになりかねません。
医療でも、医学研究や病理研究、薬理研究を突っ込んでいたら、特定患者の医療は上手くいきません。ある手術や施術、荘着具、注射薬剤、服用薬剤が効かなかったか悪化させたかという疑いがあったとしてもその事実関係やメカニズム、作用機序などを調べていたら、その患者に対する医療行為としては話になりません。

> そもそも1回目に商品を売り出した時点で「打つ手を出して」売り出したわけですよ。 それが通用しなかったんだから、じゃあどこが悪くてどこが良かったのかを探らなきゃ先には進めません。 
☆ 1回目に商品を売り出した時点で「打つ手Aを出して」売り出したにもかかわらず売れなかったら、商品を変えて売るか、広告方法を変えるか、販売員を変えるか、ターゲット顧客層を変えるか、「次々と別の手」を繰り出すのが、一般的な方法です。 「打つ手Aでは、どこが悪かったのか」そのものをあれこれ検討していては、先に進めません。 商品/広告/販売場所/ターゲット客層/セールストーク/販売スタイル/価格/タイミングその他諸々、なにがマッチ/何がアンマッチかは、多数の実績や試行で、後付けの説明をしているのに過ぎないことが多いです。 
コンサルタントやベテランなどならば、そうした説明や自分で思い込んでいる一種の信念のようなもの、ヒューリスティックな判断で、「こうするのがイイ」「ああしたからうまくいった/だめになった」ということもあるでしょう。 しかし、それは原因究明ではないです。

心理学という中には、実践というか、クライアントなどの支援などを業務にするための心理学もありますが、人間を対象にした知識の探求や法則の探求などをするための心理学もあります。 クライアントなどの支援などを業務にするための心理学に近いものとして、実際に役立つ援助をしたいという場合には、実用性、有効性、経済性、容易さ、効用期待度などが重視されるでしょう。
もしも、アドバイスやヒントをもらうこと、後から押してもらうこと、あるいは理解してもらえたという孤立感からの解放を期待していること、などが、クライアント・顧客・患者・相談者・来訪者のなかにあるのであれば、《通常は》【過去の失敗や手落ち、過去の環境、他人の腕前や実力の優れたことなど、あるいは、単なる偶然】が原因に関係しているということを延々と調べ回っても、期待の効果や効用を得られることはないです。 《通常は》【こうすれば良いんだ!】という選択を当人が安心して行えれば、それだけで、目的の半分は達成されたようなものです。 道・進路・方向・取るべき手が「正解」であるかどうかは、道や方向、手を選んでしばらくしても、わかるものではないです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
あなたの質問に直接の関係はないですが、私は、「ただ調べる」という研究者を好きです。実用や効用をねらった開発や実行者よりは、役に立つか立たないかにはあまり関心がなくて、「疑問が残るから、どうも釈然としないことが気になるから、興味が湧いてしまうので」とにかく研究してるんだという研究者が好きです。開発でも、おもしろいから色々と工夫し新しい開発を続けているという開発者が好きです。 ただ、そうした研究者や開発者が、ある達成課題・解決課題を抱えている人や組織ともろに対すると、すれ違いが起きる可能性はあると思ってます。 
医学研究者は、医療関係者であってはイケナイと、私は思っています。
臨床医家は臨床医療者であるが、臨床医学研究とは違う目的を持っているし、行動に違いがあると思ってます。
教育と教育学、行政と行政学、法務関係者と法研究者、アスリートと体育研究者は違ってしかるべきだと、思っているのです。
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この回答へのお礼

>数学の試験問題でも、機械加工の課題でも、野球やフィギャアスケートで成績を上げるのでも、商売で販売実績を増やすのでも、これまでやったことのマズイところ、失敗、不良個所、ミスの個所を探すようなことは二の次か、まったく顧みないことが多いです。

そこまで言い切るからにはデータの提示をお願いします。
試験問題でも「間違えたところ」を復習して「なぜ間違ったか」を理解して次間違えないようにすることはごく一般的に行われていると思いますが。


>その課題(タスク)の達成に向かうパスの選択(例:対戦相手を考えた戦術や策の検討と訓練)が何より重要です。

重要度の問題なのであれば、過去の失敗”も”分析したほうが良いということになるでしょう。
「AよりもBとCとDが大事だからAはやらなくて良い」とはならないはずです。


>ある手術や施術、荘着具、注射薬剤、服用薬剤が効かなかったか悪化させたかという疑いがあったとしてもその事実関係やメカニズム、作用機序などを調べていたら、その患者に対する医療行為としては話になりません。

これも詭弁に見えます。
調べきれないことは割り切って捨てる必要がありますが、分析出来る部分は分析したほうが良いのは明白でしょう。


>「次々と別の手」を繰り出すのが、一般的な方法です。

その「別の手」を考えるために過去の失敗から学習して次の案を出すんだと思いますが。
例えば、「売り上げが出なかった。その一つの要因として他社と比べての広告の消極的姿勢が考えられる。だから次は広告を多めに出す。」という構図は普通にあるはずです。


>後付けの説明をしているのに過ぎないことが多いです。 

それもあなたの主観では?
それが後付けの説明であるかどうかをどうやって証明するのでしょうか?

どこの企業でも過去の成功失敗に基いたデータの蓄積は行っています。それを否定することは理解出来ません。

お礼日時:2016/12/04 22:55

> ビジネスでこの考え方は問題ある気がするんですが・・・


> 例えばゲーム開発をしてる人が居て、「自分の作ったゲームの売り上げが出ない」という悩みを持っていたとします。 そうすると普通は「なぜ売り上げが出ないのか」という原因究明をしていくでしょう。 いくら「売り上げを出したい」と思っても、過去の事象を考えずにただ売り上げを出す方法を考えているようでは成功は難しいですから。

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webで《売上 伸ばす 検討》で検索したら、次のようなサイトが出て来ました。
https://innova-jp.com/ec-7-strategy/
http://www.ccore.co.jp/plus/uriage/
http://socs.sint.co.jp/ec-salesup/

目標管理とかPDCAとかでも、多くの場合、「なぜ売り上げが出ないのか」という"原因究明にエネルギーを注ぐことを勧める"ようなことはないです。

http://eigyou.jyouhoukan.net/column/340_uriagefu …
このようなことをwebにしている方でも、「ライバルが強力だ」「こっちの方が高価格だ」「ロケーションの差が」と不振の原因を洗い出していくことで何か打開策が出ているとは思ってはいないのです。 ビジネスの世界では、どうなりたい、そのために打つ手を考えるということが基本です。
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この回答へのお礼

それらのサイトでも「分析」が必要だと書かれていますし、分析=原因究明であることは明らかでしょう。
打つ手を考える=売れてない原因を考える ということですから。

そもそも1回目に商品を売り出した時点で「打つ手を出して」売り出したわけですよ。
それが通用しなかったんだから、じゃあどこが悪くてどこが良かったのかを探らなきゃ先には進めません。

最後のサイトも「他社との比較」を推奨しないと言ってるだけで、同じです。

お礼日時:2016/12/03 16:43

> 要するに、「元の原因は存在するけど、そこはあえて考えないようにする」っていうことでしょうか?



そう考えたければ、それでもかまわないでしょうが、そう言っているのではないのでしょう。 原因が存在しているのかどうかも問うていない、原因があったとしても、原因らしいものがなかったとしても、と考えてもかまわないと思います。 このスマホやパソコンは通電している電気エネルギーがあるから機能しているとはいえますが、そのような理解がスマホやパソコンの利用にとってあまり重要ではないことが多いです。 知ってもわかっても意味のないことは多いです。 人間の行動で、トランプ次期米国大統領がどういう育ちでどんな知識や思想を持っているのかを知りたいという人も多いでしょうし、安倍首相はトランプ氏に会う前に何かを調べたのか、トランプ氏は安倍氏や日本について何かを調べたのかもしれませんが、自分で言うことや相手が言ったことに対する返事は、今後どういう状態にしたいかを考えながらしたでしょう。 相手の言葉でも、その言葉を紡ぎ出した相手のネライのようなものを考えていたでしょう。自分の言葉でも、相手がどのようにとらえてくれるだろうかを考えながら、言い回しや用語を話題そのものを選んでいたでしょう。
何かを起こしていたであろう原因を考えるよりは、どうしたいか、どういう状態に持って行きたいのかを考えるのは、政治やビジネスだぁでなく、医療行為でも、カウンセリングでも、家族内の日常会話でも、友人のとつきあいでも、スポーツや娯楽、勉学でもごくごく一般的な行為や思考法です。 原因や理由を突き止めよう、解明しようとすることの方が、とても珍しい行為です。 《あえて原因は考えない》のではなく、飲みたいものを飲み、歌いたい曲を歌うのです。 外出したくないのかも見方言い方を変えると、家にいたい、家で洗濯掃除をしたい、じっとして瞑想したいのかもしれません。 普通はそうしたときには外出したくないなどの表現はしません。 やりたいことがないのが引きこもりに見えていて、それをなんとかしたいのなら、やりたいことを作り出す、やりたい/なし遂げたい/こうなりたいという願望を明確にしていくような方向に踏み出したら良いのです。 外出したくないのが着ていく服に気になってとか、他人の視線が気になってという自分の意識が明確ならばそれに対処するのも方法ですが、特に明確なものが具体的でない気分的なものなら、それを詮索しているよりも、意欲が湧く方を重点に考えた方が効率的です。 《あえて考えない》というような回りくどいことをしないで、効率と時間、資源、意欲を重視した方が良いという現実路線だと思います。

> 事実はどうあれ「外出したくないから、不安を作りだしている」っていうことにして、”外出したくないという気持ちを何とかすれば解決する”という方向に持っていくということ?

”外出したくないという気持ちを何とかする”というのはかなり難しいと感じる人はいると思います。
"なんとかできる"なら、最初から、"外出したくないけど、寒くないように少し厚着をして、外出して1時間散歩してくる、買い物に行ってくる"となると思います。 そうはならないのは、適当な防寒用の服がないというよりは、散歩する気持ち、買い物をしてくる気持ちがそこまでは高くないからでしょう。 そういう選択もあるし、とても好きなアイドルが来るということならば、他の用事をそっちのけにして、小遣いをかき集めて、とにかく出かけるかもしれません。 外出したくないのは不安があるからだと決めつけるのがいつも正解とは限らないです。 習慣で家からでない、自室からも出てこないのは、たんなる生活習慣の一部ということも多いです。 "あなたはなぜゴルフに行かない"、ゴルフに不安や恐怖を持っているのではないことの方が普通です。 "あなたは何で働いてないの(勤めて給料をもらうことをしてないの)"だって、勤めることに不安や恐怖があるとは言い切れないです。 外出しないのだって、"外出することに不安を作り出して、それで外出しない状態を作り出している"と理解するのは、やり過ぎです。そのような理解の仕方を引きこもりの一般に適用するのはほとんど間違いです。 中には、外出することに対して、自分で自励して不安を掻き立てている人も相当数いるでしょうが、そうなのかどうかを究明し確定することに熱心になり、その検討結果を当人に納得させるのは、かなりというか、非常に、難しいことです。 「外出したくないから、不安を作りだしている」っていうことにするメリットはほとんどないです。 ”外出したくないという気持ちを何とかすれば解決する”という言葉の意味するところに共通理解ができているか、かなり疑問ですが、"外出したくないという気持ちを何とかする"よりも"外出してでもやりたい気持ちを高める"ことの方が楽です。
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この回答へのお礼

>何かを起こしていたであろう原因を考えるよりは、どうしたいか、どういう状態に持って行きたいのかを考えるのは、政治やビジネスだぁでなく、医療行為でも、カウンセリングでも、家族内の日常会話でも、友人のとつきあいでも、スポーツや娯楽、勉学でもごくごく一般的な行為や思考法です。

ビジネスでこの考え方は問題ある気がするんですが・・・

例えばゲーム開発をしてる人が居て、「自分の作ったゲームの売り上げが出ない」という悩みを持っていたとします。
そうすると普通は「なぜ売り上げが出ないのか」という原因究明をしていくでしょう。
いくら「売り上げを出したい」と思っても、過去の事象を考えずにただ売り上げを出す方法を考えているようでは成功は難しいですから。

なので、アドラーのはあくまでもカウンセリングとしての思考法では?

お礼日時:2016/11/28 11:48

> その「外出したくない」にも理由があるはずですよね?


理由は過去にあるとすると、過去は過去であって今になっては修正が効かないとすると、「外出したくない」は過去に原因/理由があり今後も「外出したくない」の気持ちを修正することはできないと考えることにつながってしまわないですか。
過去はどうあれ、今何かをすること、何かを思うことで、今後が変えられる可能性が出てくると考えることはできないですか。
そう考えることで、現状を変えることができる可能性が出てくるのであれば、何かが起こるのを待つよりは、何かをすること、何かの目標を持つこと、何かの期待を思い描くことからはじめると言うのは、結構いい手だとは思いませんか。

「外出したくない」という気分や思いに過去の出来事が関係していても、その出来事を分析し要因を解明したらスッキリしていくつかの条件に分けて考えることができるようになり、その条件をクリアして積極的に外出することが可能になったり、むしろ外出したくなったりということもあるのだとは思います。そういう展開を自力でできるのならば、そうすれば良いのでしょう。他の介助者や分析家に支援を受けて過去についてや自分について別の視点で考えとらえ直せる人は、そうした方法も有効なのでしょう。

ただ、目標があると頑張れる、やる気が起こる、意欲が湧いているという事実は多くの人が経験的に知ってます。目標ではなくて、規定する成果や状態というものでもそうです。 上達したいと思えば練習する気ややる気が起きる、あれが買いたいと思えば働くことにも精が出る。楽しい思いをしたいと思えば観戦、観劇、イベント参加、旅行に出かける、飲みに行く、ダンスを習うということもあるでしょう。 その経験を起点に考えれば、「これから何したい.何を得たい.どんなふうになりたい」という願望を持つこと、願望を起点に思考する習慣を身につけることで、「外出したくない」という壁を押し下げ、「外出してでも○○しよう」となれる可能性が出てくるでしょう。
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この回答へのお礼

要するに、「元の原因は存在するけど、そこはあえて考えないようにする」っていうことでしょうか?

事実はどうあれ「外出したくないから、不安を作りだしている」っていうことにして、”外出したくないという気持ちを何とかすれば解決する”という方向に持っていくということ?

お礼日時:2016/11/26 19:56

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